第十三話
真夏の太陽の下を散々、飛び回った俺たちに、きさらと玖音が冷たい麦茶を用意してくれた。
冷んやりとした喉越しが心地よい。
結局、羅刹女との勝敗は一勝三敗。
俺は後頭部に大きな瘤を作り、でこぱちは両膝を盛大にすりむいて終わった。
「次は負けないもんね」
「まだまだ、アンタたちじゃ勝てないよ」
縁側で休憩。
賽ノ地では命を賭けて争った羅刹たちとこうしているのは非常に不思議な事だ。が、世の中、成行きに任せればそんなものなのかもしれない。
そんな中、篝は軽くため息をついた。
「どうしたの、篝」
「駄目なの。江戸に来てから、ずっと灯の事ばっかり考えてるの」
灯。
江戸城の研究所に捕えられているという、篝の妹。
隣のでこぱちが表情を曇らせた。
「だって今、とっても不思議じゃない。無族と夜叉族と一緒にいたって、何も気にならない。こうやって遊ぶだけでも楽しいのよね」
篝は笑った。
「でも無族の政府が何を考えてるのか、私にはよく分かんない。ねえ、貴方たちはどう思う? 私はあんまり頭良くないし考えたことなかったから、『和平』って言われてもよく分かんない。けど、それってどういう事なんだと思う? 今こうやって私たちがここにいるのは、『和平』だと思う?」
難しい質問だった。
俺も同じように思う。
こうして一人一人、話してみれば無族も羅刹族も夜叉族も――俺が夜叉族だと仮定して、だ――何一つ変わらないように感じる。きさらの言うように、みんなが一緒に争わずに暮らせる日は必ず来るのだろう。
それなのに何故、政府同士の和平なる言葉に置き換えると、どうにも不安をそそるのか。
個人と集団の間に横たわる深い隔たりの正体はいったい何だろう。
きさらの願う未来を阻むものの正体はいったい何だろう。
篝は、其処まで言って、一息ついた。
「だからこそ、どうして灯は捕まっちゃったりしたんだろうって思っちゃう。何で無族は私たちを捕まえたんだろうって。もし、『和平』があったら今、一緒にいられたのかなあなんて思ったら、悲しくて」
「馬鹿だな、篝。和平なんかなくても無族を叩きのめせばそれで終了じゃん」
天音が言うほど単純でない世の中。
羅刹と無族が、気の遠くなるような長い間、闘争を続けてきたのにだって、きっと俺の知らない理由があるのだろう。何がどう絡まって拗れて、今の状態になったのか理解しようとしても出来ない気もするが。
全員がこうやって単純に考えれば、簡単に答えは出そうな気もするというのに。
でこぱちはむーん、と眉間に皺を寄せた。
こいつも同じく、難しい事を考えるのには向いていない。
しばらく腕を組んで、うんうん唸っていたようだが、突然ぱっと顔をあげた。
「あっ、分かった!」
何が分かったんだ。
「篝の妹を助けに行こう!」
「えっ?」
篝が驚いた声を上げた。
「今さ、問題がいっぱいあるじゃん。篝の妹が捕まってるのもそうだし。じゃあ、江戸城に捕まってる羅刹たちを逃がせばいいんじゃない? そうしたら、問題が一つ減るんじゃないかと思うよ!」
でこぱちは自信満々に断言した。
「本当だ、そうだね、灯の事ばっかり考えてるなら、その間に迎えに行けばいいんだ!」
「なんだ、アンタもたまにはいい事言うじゃん」
羅刹女二人が肯定する。
冗談じゃない、江戸城に捕えられた羅刹を逃がす? そんな事をすれば、問題が減るどころか倍加するだけだ。
でこぱちの目が期待を込めて俺の方に向けられる。
そんな目で見ても、俺は手を貸したりしねぇよ。
「ねえ、青ちゃん」
強請るような声で呼んでも駄目だ。
俺が頑として動かなそうな気配を感じ取ったからだろうか。
でこぱちは俺の上着の裾を引っ張ってゆすり始めた。
「あーおーちゃーん」
駄目なもんは駄目。
上着の裾を無理やり引っ張って取り返すと、でこぱちはそう言う遊びだと勘違いしたのか、再び俺の上着の裾を掴んだ。もう一度引っぺがすと、さらに引っ張ってきた。
どうやら退きそうにないので、代わりにでこぱちの上着の裾を掴み返してやる。
お互いの上着を掴んで牽制と引っ張り合い。
先程まで羅刹女と組み手をしていたせいで、二人とも手加減がきかない。
気が付けば縁側で取っ組み合いの喧嘩になっていた。
「何で手伝ってくんないんだよ!」
でこぱちの拳が右頬に的中する。
「めんどくせぇからに決まってんだ、ろっ」
お返しとばかりに思い切り殴り返す。
武器を持っていなくてよかった。刀同士なら、二人とも深刻な怪我を負うところだ。
「青ちゃんのめんどくさがりー!」
いつも通りじゃねえか。
今さら繰り返す言葉でもない。
頭突きしようと勢いづけたでこぱちを、額で迎え撃ってやる。
両方からの速度で衝撃は数倍、俺もでこぱちもそっくり返って吹っ飛んだ。
ちくしょう、痛ぇ。こんの石頭、目から火花が出そうだ。
衝撃で眩暈を覚えた一瞬の隙をついて、でこぱちが俺の肩を床に縫い付ける。先ほど瘤を作った後頭部をしこたま縁側に打ち付け、意識が飛びかける。
そのまま俺の上に乗り上げてきたでこぱちが、再び拳を振りかざした時だった。
「何してるの!」
きさらの怒鳴り声ではっと気づく。
妙な既視感は、賽ノ地で何度も同じことがあったからだろう。
最初は他愛ない意地の張り合いから、気が付けば殴り合い、取っ組み合いの喧嘩になっている。今日も、でこぱちは右側の頬を腫らし、俺は右側の頬をでこぱちに殴られていた。
そして、縁側には転がった湯呑が二つ。中に入っていた麦茶は縁側に零れ、そこから庭に滴っていた。
天音と篝はちゃっかり自分の分の湯呑を持って避難している。
ああ、これは怒られるな。
と、思った瞬間。でこぱちがぱっと俺の上から飛び上がり、脱走した。
「青ちゃんの分からず屋ー!」
分かりやすい捨て台詞を残して。
きさらは一瞬呆然となったが、腰に手を当て、俺に向かってきっぱりと言い切った。
「ちゃんとお掃除しなさい」
庭の塀を飛び越えて脱走してしまったでこぱちには後でたっぷりきさらの説教をくらわすとして、俺はとりあえず大人しく縁側の拭き掃除をしているた。
すると、通りかかった繻子が俺の姿を見て悲鳴を上げた。
「青様、何て事をっ……! お掃除くらい私がやりますっ」
器用に着物を襷掛けにし、俺から雑巾を奪うと、手際よく雑巾を絞って掃除を始めた。
その姿は堂に入っていて、とても遊女が本職とは思えなかった。
「上手いもんだな」
素直にそう言うと、繻子は手を止めずに返答した。
「当たり前です。このくらい、下積み時代にいくらでもこなしてたんですから」
あっという間に片付け終わってしまった繻子に拍手。
蘭の名を持つ遊女は、まんざらでもなさそうな様子だ。
「ありがとう、助かった」
礼を言うと、繻子は両手で頬を覆ってくねくねと体をくねらせた。
「そんな、お礼なんて……一緒に、お祭りに行っていただければ」
だから、祭りは面倒だから行きたくねぇんだよ。
また一人で妄想の世界に入り、勝手に一人芝居を始めた繻子はさておき、とりあえずきさらへ報告に行くことにした。
飛び出していったでこぱちは、夕刻ごろになっても帰って来なかった。
そろそろ八月半ば、夕立の季節だ。本日も雲行き妖しく、すでに遠くで雷のような音がする。空には入道雲がみるみる盛り上がって紺碧を隠していった。蝉の声が小さくなったのは、雨を予感しての事か。
振りそうだな、と思った時にはぽつぽつと落ちてきた雨粒が庭の飛び石に小さな穴を穿っていた。
本格的に降り始め、気づいた時にはもう土砂降り。
玖音が何やら言い訳をしながら、傘を持って出て行った。きっとでこぱちを探しに行ったんだろう。
縁側でぼんやりと雨粒を見ていると、きさらがやってきて隣に座った。
「ハチと喧嘩してたね。あんなに本気になってるの久しぶりに見ちゃった」
「でこぱちの奴、手加減なしで殴ってくるから」
「顔、腫れてるよ」
細い指がそっと右頬に触れた。
痛みに顔を顰めると、きさらはくすくすと笑った。
「ちゃんと仲直りできる?」
「仲直りも何も、あいつ、帰ってくる頃には何もかも忘れてるだろ」
「ふふ、そうかもね」
喧嘩っ早いが喧嘩の理由を忘れるのも早い相棒の事だ。どうせここへ帰ってくる頃には喧嘩したこと自体を忘れているに違いない。これまで幾度も喧嘩した俺たちが何事もなかったように共に居るのは、相棒の性格に由るところが大きかった。
久しぶりのため息。
雨音が耳につく。梅雨時期に降り続く雨とは異なるにわか雨は、落雷も共に連れてくる。
突如、稲妻が閃いて次の瞬間、雷鳴が轟いた。
きさらがきゃっ、と耳を塞ぐ。
「玖音、大丈夫かな?」
「あいつも忍なんだから大丈夫だろ」
そろそろでこぱちと合流して、迎えに来たんじゃないんだからね、などと謎の言い訳をしながら傘を渡している頃に違いない。
きさらの悲鳴が何度か上がったあたりで、漸く雨が小降りになってきた。
夏の夕方の雨は短い。日が沈むころには止んでいるだろう。
「ねえ、青ちゃん。明日さ……お祭り、行かない?」
面倒だから行かねえよ、と言おうとして、きさらが少し俯き加減になっている事に気付いた。彼女にしては珍しく、隣で話しているというのに視線が合わない。
「あっ、面倒ならいいの! 無理言わないから」
行かないと言われるのが分かっていて、それでも言いたかったのか。
「でも、折角江戸まで来たし、お祭り行きたいなあって思ったの……青ちゃんと、一緒に」
やっと霞色の瞳がこちらを向いた。
慌てたせいか頬が少し火照り、眉が下がっている。不機嫌なわけではないだろうが、少し唇を尖らせていた。
仕方ないな。
「行くよ」
そんな顔して言われたら、断れる訳ねえだろ。
俺はどうにも相棒とこの少女にだけは甘いから、最終的にはでこぱちと一緒に祭りへ出かけていただろうからな。
しかし、玖音の機嫌が悪くなるだろう事は目に見えている。
それでも、嬉しそうに笑ったきさらを見ていると、面倒な事も何もかもすべてどうでもよくなるのだった。
日が沈むころに雨は止み、再び黒船屋の提灯が点された。母屋からは芸妓の奏でる華やかな音楽が流れてくる。
此糸も繻子も、今日は母屋の方にいるようだ。
と、そこへ軽やかな音楽を分断するようにやかましい足音が帰ってきた。
「ただいまー!」
がらりと襖を開け放ったでこぱちは、案の定、喧嘩の事などすっかり忘れてしまっていた。
「あのね、あのね青ちゃん、聞いて聞いて!」
ずい、と寄ってきたでこぱち。
その着物の胸元が不自然に膨らんでいる。聞く前から分かった。
相棒の得意技。
要らぬ喧嘩を売るのと売られるの。落ちている物を拾うこと。厄介ごとを持ち込んでくること。
膨らんだ胸元がごそごそと蠢いた。
「何拾ってきたんだ」
念のため聞くと、でこぱちは胸元を両側から押し出した。
ぽん、と出たのは子犬の顔。
俺の顔を見て、わん、と啼いた。
ああ、よかった。普通の犬で。
前回が鬼の子だったので警戒してしまったが、普通の犬なら安心だ。
顔を出した子犬は、短い手足をじたばたとされながら懐から転がり出た。手触りのよさそうな灰青の毛並みをぶるる、と振った。目の端にぽちりと隈取があるのが印象的だ。
「わあ、可愛い」
きさらが手を伸ばすと、子犬はさっとでこぱちの膝の上に戻った。警戒している様子はないが、動揺している様子を悟られないようにしているように見えた。
これ、可愛いか?
むしろ可愛げのない偉そうな表情をしているようにしか見えないが。
「おなかすいてるのかな? 何か食べる?」
「あ、玖音、さっきのお饅頭残ってる?」
でこぱちが言うと、玖音が懐から饅頭を取り出した。
「食べる?」
膝の上に乗せた子犬の鼻先に近づけてやる。
警戒して匂いを嗅いでいた子犬だったが、大丈夫そうだと思ったのかぱくっと食いついた。
本当に腹が減っていたのか、あっという間に平らげてしまった。
と、次の瞬間。
ぼん、と大きな音がして子犬の姿が消えた。
正確には大きな犬が現れた。
つい今まで子犬だったはずが、饅頭を食べただけででこぱちと同じくらいの大きさの犬に変化してしまった。
前言撤回。
相棒が拾ってくるものが普通なはずがない。
こいつもただの犬ではないらしい。
俺は再び大きくため息をついた。