1 ランver.
とても温かい春の日。桜が散っていく樹木を教室で眺めながら、私は少しだけ夢を見る。
それは遠い遠い昔。私が『私』ではなかったころの記憶。
きっと夢から醒めれば忘れてしまう。
天の上の女神様と、私の中にいる『私』だけが知っている、遠い遠いキオク。
ずーっと昔のそのまた昔。「毛利蘭」の前世のもっともっと前の時代。
「私」は一人の小さな天使だった。
名前はラン。
偉大な女神さまの許に仕える数多い天使の中の一人。
いつこの世に生を受け、女神さまの許に仕えていたのかわからない。
けれども誰よりも綺麗で賢明な女神様のお傍にいるだけで、私はとても幸せだった。
自分の体が消えてなくなるその日まで女神様に仕えよう、そう決め続けていたはずなのに。
あるとき私は犯してはならないことをしてしまった。
人間に恋をしてしまったのだ。
その日もいつもと変わらない日常の一つになる筈だった。
女神さまから離れ、一人空中散歩を楽しんでいる時、私は彼に出会った。
名前は知らない。それは一人の羊飼い。
白い肌に、蒼い瞳。
繊細な眉に、すらりと伸びた高い鼻、薄い赤みを帯びたその唇。
黒くて細いそのサラサラな髪の毛は、日光に照らされて透き通る色を見せる。
何百もの羊をオーケストラの指揮者のように木の棒一本で操るその姿は、まるで壮大なミュージカルを見ているようで。
こんなに綺麗な人間がいるとは思わなくて、しばらく彼に心を奪われていた。
そう、私は彼に一目で恋に落ちた。
「・・・誰?」
華麗なステップをやめ、彼は空を見上げた。
びくっとして私は体を強張らせる。
彼から私の姿は見えていないはずなのに、何故、判るのだろう。
「そこに、いるんだろ?」
低くて心地よい彼の声に酔い痴れつつも、私はなるべく気配を消すように心掛けた。
人間と天使が交流を持つことは決して持ってはならない掟。話せば話すほど彼に惹かれていくことは容易に感じ取れた。
「僕はクドー。・・・君は誰だい?」
天に向かって手を翳すその少年。そしてその動作でようやく気づく。
自然すぎて気づかなかったこと。
彼は目が見えなかった。
だからこそ、別の神経が研ぎ澄まされていくのだろうか。
彼は私を『いる』ものとして捕らえていた。
『私はラン。・・・天使のランよ』
彼に自らをアピールしたい。ここにいるよと伝えたい。
だけど、伝えたら私が天界を追放されるだけではなく、大好きな女神さまにもきっと重い処罰を下されるだろう。だから私は名乗らずその場所から去るしかなかった。
「恋をしてますね」
ある夜、女神さまの髪を洗って差し上げていたときに、その方は私に問われた。
「・・・はい」
けれども決して恋に向かうことはいたしません。
大好きな女神さまのために。女神さまが大好きな自分のために。
決して実ることのない恋に自ら足を踏み入れることはいたしません。
せめて彼が素敵な女性に巡り合えますように、心よりお祈りしましょう。
切なくて、胸が痛くなるほど苦しくて、涙が止まらなくて。
女神さまはそんな私の体をぎゅっと抱きしめてくださった。
「祈りましょう。あなたの来世を。あなたが来世は人間に生まれ変われますように。そして彼とこの先永久に結ばれますように。願えばきっと叶います」
女神さまの笑顔はとても優しくて、美しくて。私の心は一瞬のうちに救われた。
私は彼が長い生涯を終えるまで再び彼の許に下りることはなかった。
けれども、私は風の噂で彼が生涯一度も妻を娶ることが無かったことを知った。
「次の世までのお預けだよ」
彼が回りの人に生前こう語っていたそうだ。負け惜しみではなく、本心からの言葉に見えたという。
はたして私が人間であるならば『運命の人』になり得たのだろうか。
次の世ではなり得るのだろうか。
どれだけ悩んだかわからない。
どれだけ祈ったかわからない。
人間になれますように。彼と出会えますように。彼に一緒になれますように。
次の世こそ、願いを込めて。
「おい、蘭。・・・にやってるんだよ!」
コツンと何かで頭を突付かれて、私はようやく目が覚めた。無糖の缶コーヒーを手に抱え、今では学校公認の幼馴染で『恋人』である新一が呆れ顔で自分の顔を見つめていた。
「・・・れ、新一」
「珍しいな、授業中居眠りかよ。・・・部活や家事やなんたらで疲れてるんじゃねーの?」
「そんなことないよ」
ふわぁっと大きく欠伸が出て、慌てて手で口を押さえながら、彼を見上げる。
ナンだろう、この気持ち。
とても懐かしく、温かい。
夢の中で出会った一人の天使と一人の羊飼い。
初めに天使が恋をして、気づくこともはできても声をかけることはできなかった。
二人の名前が思い出すことはどうしてもできなかったが、そんな二人を見てとても温かい気持ちになったのを覚えている。そして、目覚めて最初に彼の顔を見て、とても安心したのも。
なぜこの夢を見たのかわからなかった。前日ファンタジー小説を園子から借りて読んだせいなのか。その登場人物に羊飼いも天使も出てきたことはなかったが。
「ねぇ、新一」
「ん?」
コーヒーをぐびぐびと喉に流し込みながら、彼は目線だけ私に向けた。
恋人でもあまり言葉にはできない。
だけど、あの天使に勇気を貰って、私は彼に尋ねた。
「私は新一の運命の人になれたのかな?」
瞬間、彼は驚いて口の中に含んでいたコーヒーを全部噴出した。
彼の答えはイエスかノーか。
その答えはきっと誰でも、わかるはず。 |