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Crystal Abyss

作者: 甲姫

 喘鳴ぜんめいの音で少女は目が覚めた。

 それが自分の声だったのだと何度か重苦しい呼吸を繰り返してから気が付く。瞬き、まだはっきりとしない意識を精一杯呼び覚ました。

 眼前には何もない。


 ――ここは一体どこなの?


 本当に目の前には何も無いのだろうか。何も見えない暗闇なだけなのだろうか。

 もう一度瞬いてみると、瞼に目やにが絡まるような嫌な感触を覚えた。

 拭いたい。けれども手が動かない。この倦怠感はどうにかならないものか……。


 ――がちん。


 やっと指先がちょっと動いたかと思えば、爪先が何か硬いものに当たった。掌を返し、触れた先は僅かに湿っていて滑らかだ。

 自分が横たわっている面も同様に平らで硬い。


 ――なんだか、箱に入ってるみたい。


 そういえば先程から鼻や口が吐く息の熱を近くに感じていた。まるで、吐いたものが壁に当たってそのまま顔に返って来ているようだ。肩に触れる髪以外、服などの肌に覆いかぶさる物の感触は無い。

 ひどく窮屈な場所に居るのは確かだ。

 起き上がろうとして、ごちんと額が何かに衝突した。音の波動は空間の中を幾度となく反響した。


 ――なんなの? わたし、どうしてこんなところに。これって、棺おけじゃ――


 怖い。しかし土の臭いはしない。むしろ、何の臭いもしなくて変だ。


 ――出して!


 拳を握って眼前の壁を叩いてみた。しばらくそうしていても手が痛くなるだけで、何の効果も得られなかった。頭突きを何度か繰り出してみるも、無駄に終わる。

 仕方なく、頭痛が治まるのを待った。

 幾度目かの瞬きを経て、ふいに目の前の闇が闇でなくなっていた。

 小さな青い光の点が連なって短い列を作っている。

 列が動いた。その隣には白い光の点の列、更にその隣には光り輝く小柄な輪郭が幾つかある。その輪郭には見覚えがあった。身体に比較してやたら大きい黒目が、じっと少女を見下ろしてきた。


「え……。さ、かな……ランタン・フィッシュ?」


 彼女が苦労をして発した声に、魚の群れは一斉に驚いて退いた。彼らが離れて出来た溝に、強面な魚が一匹進み出た。おどろおどろしい歯と頭から伸びる長い棒が目に付く。アンコウ、である。少女は笑みを作って緊張を隠そうとした。

 小魚たちはこわごわと「箱」を突いている。彼らの姿はあくまで外側にある。まるでこれは、ガラス箱だ。身を守る殻だ。


「な、なに? やめて……」


 声を出すと皆は驚いてしゅっと身を引く。

 その様子をずっと観察していたアンコウはくるりと身を翻した。


「長老様! ヒトが起きたよ!」


 と、そのようにアンコウが言葉を発したように感じられた。本当にそれが声であったのかは疑わしい。言葉は屈折して空間の壁を伝い、肌を通して脳に届いたように聴こえたのだ。魚は特別な動きとして口を開いたわけでもなく、普通にエラ呼吸を続けていたように見える。


「やあ、まさか君の意識が覚醒する日が来るとはね」


 数分としない内に呼ばれた相手が姿を現した。やはり発光する生物であり、小柄だった。

 柔らかそうな丸い身体を中心に据えて、糸のような触手が無数に伸びる。


「ここは深海だよ」


 それは緩やかに水流に乗って来た。触手を彼女の透明な「箱」に巻きつけている。


「しんかい」


 少女は言葉を反芻した。


「君は、自分のことを憶えているかい? ヒトの個体は、名前が与えられるはず」

「なまえ?」

「憶えてないのかい?」


 少女は窮屈な空間の中で頭を横に振った。

 名前も歳も、育った場所や知り合いの顔さえ、きれいさっぱり思い出せない。


「でもね、憶えていることもあるの」


 彼女はたどたどしく説明した。知識は持っているのに、己が何者であるのかのエピソード記憶が欠片も残っていないのだ。長老と呼ばれた彼が、クラゲという種の生き物であることは知っていた。魚やランタンフィッシュやアンコウなどの、物の識別名は引き出せるのだ。自分が人間で、まだ幼い雌であることもなんとなくわかる。


「そうか。ぼくはこの海では普遍の存在なんだ。色々なツテを通して、遠い地上でのヒトの世界のことも知っている」

「そうなの」


 クラゲは、内から淡いピンク色の光を発していた。花のようで、どこか安心する光だ。少女は浅くなっていた呼吸を落ち着かせた。


「それで、ほとんど憶測に過ぎないけど、君は何者かの魔法によってその水晶の中に封印されたのだと思う。地上で起きた災難から守る為、頑強な守りを与えて海に逃した」

「魔法……水晶……」


 言葉を唱えると、舌に抵抗なく馴染んだ。元々の生活では縁がある物だったはずだ。どういう存在であるのかも、数秒後には思い出せた。


「相手はいつかは迎えに来るつもりだったのだろう。ぼくらは長い間、水晶を見守ってきた。君たちの世界で言えば、おおよそ五十年以上とね」

「五十年!?」


 少女は嘆いた。それだけの間、肉体を成長させることなくただ時を止めていたと言うのか。


「どうやら君を眠らせていた魔法術式は効力を失ったようだね。きっと、そう遠くない以前に術者が亡くなったのだろう」


 そう言葉を連ねた長老様は、同情しているようにも感じられた。


「それで起きてしまったの」


 少女は、ここは悲しむべきなのだろうと頭ではわかっていた。もう、元居た場所に戻っても、知り合いは居なくなっているか、誰も自分を認識してくれないだろう。

 それを悲しいと感じることもできずに、衝撃だけを受けた。

 記憶も心も、真っ白だ。


「しかし水晶はその形を崩すことはない。深海ザメやダイオウイカに頼んで、壊してみようと試したこともあったよ。君が窒息してしまうのはわかっていながら」

「こわそうとしたの……?」


 怯えた目で長老様を見上げた。クラゲにはきっと、視覚なんて無いのに。


「どの道、魔法が解けたからには君は長く生きられない。水晶の中の酸素は限られている」

「あ。そっか……」

「たとえ君が窒息死しても、その空間の中に閉じ込められたままだ。永遠に、その姿で」


 どうしてか、クラゲの方が悲しそうである。


「長い間その中で時を止めていた所為で、君の肉体に本来宿っていたはずの微生物は残らず消滅してしまった」

「水晶の中は無菌状態ってこと……!?」


 少女にはその発言を理解するだけの知識があった。何故なのか、以前はどういう身分だったのかは、今は考えても仕方がなかった。


「そうだ。菌の協力なくして生きるのは、とても難しい。君はじきに窒息する。そして臓器が残らず機能停止した後も、腐ることができない」

「そんな――……」

「君を守りたいという何者かの願いが災いして、君は海に……自然の流れに還ることもできない」


 水晶を取り囲む小さな魚たちは、蛍光に彩られた頭をしゅんと垂れた。長老様の言葉を重く受け止めているのだろう。

 唐突に少女の胸の内に実感が沸いた。


 ――わたし、死ぬんだ……。自分が何者なのかも、何の為に、何の使命を背負って生かされたのかもわからないまま。


 少女は遠い遠い海面を求めて目を凝らした。

 切望はあっても、懐古の念は、そこにはなかった。想像するだけだ。自分が切り離された世界が、どんな場所であったのかを。

 あまりもの深度だからか日光の気配は感じられない。

 水圧も水晶によって遮断されている。


 ――これじゃあ生きる喜びも思い出せないまま、終わってしまう。


 むき出しの我が身を抱きしめて少女は震えた。

 魔法が解けた反動なのかは不明だが、水晶の中の温度が徐々に下がっている。おそらく外界の深海と同じ温度になれば、自分は酸素があろうとなかろうと活動できなくなる。

 守ってくれた誰かの強い想いは愛だったのだろうか、或いはもっと残酷な何かだったのだろうか。

 強い愛が、残酷な結果を生んだだけ。そう信じたかった。


 ――わからない。これが悲しい、って気持ちかな……。


 泣きたいのに、涙が出ない。出し方を忘れたのかもしれない。自分の中の余計な水分が、涸れてしまってるのかもしれない。


「お嬢さん、君さえ良ければ、その水晶を立ててあげたいのだけど」


 長老のクラゲがふと言った。


「立てる? どうして」

「見せたい物があるんだ」

「……じゃあ、好きにしていいよ」


 何もかもどうでもいい、そんな投げやりな気持ちになっていた。


「君の脚の筋肉は使えないだろうから、立ち上がらなくていいように、少しだけだよ」


 彼女が承諾するや否や――ガコン、と硬いもの同士がぶつかる音がした。それと、魚たちが何やらざわついている。そこかしこで会話が行われているようだ。

 やがて視界の揺れが収まると、少女は再び何度か瞬いて両目の焦点を合わせた。水平から大体二十五度ほど上がった感じだ。これを後ろから支えているのは、巨大なウツボだ。


「え……」


 絶句した。

 それほどまでに、この世ならざる絶景が目の前に広がっていたのだ。

 深い闇が浸透する海底。しかしそこは、命がある限り真の意味での虚無ではありえなかった。

 光る魚の大群が、少女の居る水晶を中心にして輪を描いている。ゆったりと輪は二、三度回転し、そして四散した。

 赤、青、白、緑、などと蛍光は大小さまざまな形で浮遊している。明るい個体の間には、自力で発光しない種の魚も混じっている。ヒレがフリルのように波打っている泥の色の極太な魚は、蛇にもサメにも見えてなんだかおかしかった。

 アンコウもクラゲもサメも巨大亀もイカも名前もわからないような魚も、少女の周りを急がずに泳いでいた。中には凶悪そうな面貌をした魚も居るけれど、不思議と少しも怖くない。

 魚たちは今度は少女の目前で一つの大きな塊を成した。


「わあ」


 刹那、群れはざあっと二手に分かれて泳ぐ方向を変えた。少女の位置から左右に直線を描く。まるで静止している自分が動いているように錯覚する。

 彼らが築く道の先には、蛍光に浮かび上がる海底の様相がある。


 人間の裸眼だけでは決して見ることのできない世界――


 かつては火山だったかもしれない凹凸が、遠い昔に見たかもしれない峰々の姿と重なりそうである。はっきりとは思い出せない。けれど、もう思い出せなくてもそれでいい。

 ただただ綺麗だと思った。

 移動する光源、魚たちの身体の化学反応を頼りに、輪郭を目でなぞる。

 波打つ海底のずっと向こうの果てない世界に思いを馳せる。

 広い。この果てしなく広い世界で、この子たちは自分を見つけてくれたのだ。見つけて、触れてくれた。情を向けてくれた。

 故郷の土を二度と踏むことが叶わなくても、腐ることが叶わなくても、海の藻屑となることさえ叶わなくても。自分は確かに五十年前よりもずっと、たくさんの命と、大いなる流れと繋がっている。そう確信した。

 気が付けば、なけなしの水分が涙管から搾り出されていた。



挿絵(By みてみん)



「ありがとう。長老様、ありがとう」


 少女は頬を濡らす涙を指で拭った。温かい。

 この瞬間、間違いなく彼女は生きていた。

 そしてそれだけで満足していいんだよと誰かに言われた気がした。

 一時だけでも感動して生きられたことに、感謝した。


「いいんだ。生命の流れに戻れない君の魂へのせめてものはなむけだよ」


 長老様の触手がそっと水晶を撫でた。

 クラゲが魂の概念を理解していることに、もはや彼女は何の疑問も抱かない。


「うん。わたし、ほんとうに、幸せだよ」

「安心していい。肉体の方は、ぼくらがここでいつまでも見守っているよ」


 答える代わりに少女は微笑んだ。祝福されて送り出される者の微笑みだった。

 数分前から既に酸素不足に陥っているはずなのに、圧倒的な幸福が苦しみを上塗りしてそれを忘れさせていた。


「さあ、お休み。この深海アビスが君の揺りかごだ」


 長老様の穏やかな声の振動と深海の闇に包まれ、少女の胸板は最期の息を吐き出した。

イメージイラスト:

汀雲さま(http://1720.mitemin.net/)より許可をいただいて掲載しております。



クリスタルアビスは中高生の頃に妄想した場面(ていうかイラスト案)を今更思い出して肉付けしたお話です。タイトルも当時のままです。


当然ながら、同名のメタルバンドとは一切合切関係がありません<検索で存在を知った直後に聴いて回りましたが、ただの別物でしたww


読んで下さってありがとうございます!

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