あなたの馬はどんな馬?
以前に騎士や武士やカタフラクトの装備についてお話させていただきましたが、彼らの装備の中で一番重要な部分をスルーしていたことにお気づきでしょうか。
それは彼らの半身ともいえる馬についてです。
騎士や武士は、一体どのような馬に乗っていたのでしょうか。
しかし、馬の話をする前に、ある程度の馬に関しての用語を理解しなくては、何を言っているのかさっぱり解らないと思います。
そのため、まずはじめに「馬のサイズ」と「重軽」と「ポニー」を解説します。
この三つの分類法がわかれば、他は何とかなるはずです。
最初に馬のサイズですが、これは体高、つまり肩の高さが80~120cmを小型種、120~150cmを中型種、150~170cmを大型種、それ以上を超大型種と呼びます。これは体高だけで機械的に分類したもので、さらに中小型種や中大型種を設けて細かく分ける場合もあります。
次に馬の重軽ですが、これは用途です。
軽馬種というのは乗用か競技用のイケメンな馬であり、重馬種というのは農耕用や馬車用のガチムチな馬だと考えれば、まず間違いありません。
また温血種や冷血種という言葉を聞くかもしれませんが、温血は軽馬種のこと、冷血は重馬種のことです。
ですから、例えばサラブレッドは大型種であり同時に軽馬種ですし、アメリカで147cm以下と規定されているジプシーホースは、体重が550キロから650キロもある中型種の重馬種です。
150センチのサラブレッドと150センチのジプシーホースだと、ジプシーホースのほうが100~150キロほど重くなります。
最後にポニーです。
ポニーとは体高が147センチ以下、もしくは148センチ以下の馬を指します。
普通ポニーといわれるとかなり小型の馬を思い浮かべる人が多いかと思いますが、実は印象と違ってポニーの範疇はかなり大きい馬を含みます。
例えば平均が147~152センチのアラブ種やバルブ種なら、ほんの少し小さな個体であればポニーに入ります。
またサラブレッド系とアラブ系を抜いて考えると、馬の6~7割くらいの種はポニーに入ります。
大きい馬のほうが多いイメージがあるのは、18世紀以降のヨーロッパでアラブ系とサラブレッド系を軸にした似たような大型種が大量に生み出され、細かく種類分けされているからです。
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さて、馬の分類法を二つほど解説したところで、もう一つの分類法を提示してみたいと思います。その分類は、跳ねる馬と駆ける馬の二種類です。
跳ねる馬といっても、実際に跳ね回るわけではありません。
後肢が鹿に近い構造で角度がついていて、足首が太く柔く蹄にも角度があり、筋肉は小さめですがその体格にしては頑健で、胴長短足というタイプの馬です。
山岳に近いところに適応してきた種類が多いのが特徴で、日本の木曽や御崎、ロシアのアルタイ、チベットのチベットポニー、エチオピアのクンドュード(Kundudo-Horse)、重馬種だとユトランドなども跳ねる馬です。
食糧が無くなっても長距離を移動することが出来ない山岳に適応していますから、粗食に耐え草だけでもある程度生きていくことができます。
駆ける馬とは、平らな土地を走るのに適した体を持つ馬のことです。
足が綺麗に胴体に接続していて、足首は骨ばって若干細め、筋肉は特に肩周りが発達していて、胴は短めである馬がこれにあたります。
草原や高原に適応してきた馬が多く、中型のモンゴル馬・バルブ種・アラブ種、大型のサラブレッド、超大型になるとペルシュロンなどが駆ける馬です。
食糧が無くなれば移動する大草原での生活に適応していますから、びっくりするくらいの大食漢で、軍で維持するには飼葉の他に豆や穀類などがたくさん必要です。
跳ねる馬は体の構造上から高低差に強く粗食にも耐えますから、補給が難しく戦闘の規模が小さい時代には、駆ける馬よりも奇襲などに向いていて強力でした。
しかし速度は遅くスタミナも少ないため、走るのは苦手です。
逆に駆ける馬は大食漢ですがスタミナが大きく長距離を走れますから、中央集権化された国家による大規模な軍事計画に沿っていれば、跳ねる馬よりも重宝されます。
しかし非常にデリケートで手間がかかり、また食費もかかる馬でした。
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次に、馬が乗せることのできる斤量を考えてみましょう。
斤量というのは、騎手の体重や装備と体重調整のための重りを含んだもので、競馬用語になります。
ちなみにソリのようなものに重りを乗せるのは「ばん曳斤量」といって別です。
例えばサラブレッドですが、彼らは競馬においてせいぜい60kgまでの斤量しか乗せません。また騎手の一番大事な仕事はダイエットです。
つまりサラブレッドは、競馬を基準にした場合、鎧を着た兵士を乗せることが出来ないのです。
重装騎兵になる兵士は武器の扱いに長けたエリートですから、その体重は最低でも70kgになり、鎧などの装備品を含めれば斤量は100kgを軽く超えてしまいます。
そしてサラブレッドは100kgもの斤量を乗せて不整地を走ると、足が折れてしまうといわれています。
実際に記録映像で、19世紀頃だと思われるアメリカ軽騎兵が不整地を走る映像がありますが、そこには小川を飛び越えた後に膝から崩れ落ちたサラブレッドが映っていました。
彼は映像中は二度と立ち上がることが出来ず、20秒ほど倒れ伏したままテープが切れてしまいます。
では1750年前後に、西ヨーロッパの軍馬改革によって登場した近代軍馬はどうでしょう。
まずは1732年にプロイセンで開発されたメクレンブルガー種です。
軽馬種のサラブレッドに重馬種のサーフォークパンチを掛け合わせた彼らは、軽馬種並みのスピードを持ちながら斤量で120kg程度までを乗せ疾走することが出来ます。
最高速度は50キロ前後です。
1735年にはハノーヴァー種がイギリスやハノーヴァーの共同開発で生まれます。
これはホルシュタイナー種や旧サラブレッド種(三大始祖の血とは別)のような温血と、クリーブランド・ベイ種という馬車馬を掛け合わせた強靭な馬です。
このハノーヴァー種も120kgを乗せて最高50キロ程度を出すことが可能です。
この二種の近代軍馬は1740年のオーストリア継承戦争には数が揃いませんでしたが、1756年の七年戦争では敵対したフランスやオーストリアの騎兵を散々に打ち破り、プロイセンやイギリスの軍事的な成功の一助となります。
このように近代騎兵の軍用馬というのは、胸甲と兜を身に着けカービン銃とサーベルを装備した人間を乗せて、その状態で全力疾走ができることが一つの条件でしたから、近代日本の軍馬が「馬のようなもの」といわれてしまうのも当然でした。
ではその「馬のようなもの」である日本の馬が運べる斤量はどれくらいだったのでしょう。
その答えは90kgです。ただし全力疾走は極短時間。
足首が柔らかく太いため、体重に比して重い重量を乗せても足が折れることはありません。
しかし日本馬の体重は280kgから360kgですから、鎧を着た人間は重すぎるのです。
最高速度は時速40キロですが、それを発揮できるのは本当に一瞬だけになります。
ちなみにテレビの木曽馬を使った実験では、40kgの大鎧を着た騎手を乗せて時速20キロの駆け足を披露していました。この程度の速度であればかなり長距離を駆けても問題ないようです。
武士の馬が出ましたから、次は騎士の馬の斤量を調べていきましょう。
まず、騎士の馬というとペルシュロン種を想像する人が多いかと思います。
ですが中世ペルシュロンは現在のペルシュロンとは比べ物にならないほど小さいということを覚えておいてください。
現在のペルシュロンは1760年から改良が始められ、1801年のナポレオン時代に153から155センチになり、それ以降ゆっくりと大型化してきた馬種なのです。
他に騎士が多く使っていた馬として、シュバル・ド・オーヴェルニュ種、リモージュ種、アルデンヌ種、ホルシュタイナー種などの軽快さを持った重馬種か重量のある軽馬種があります。
では、そんな騎士の馬の斤量はどのくらいなのでしょう。
それは大体120kgから150kgです。
ただしアラブ種やバルブ種の血が薄いか入っていない彼らは速度と持久力にかけていて、戦略的な速度や戦術的な速度はあまり速くありません。
中世初期末の一騎打ち時代では、戦闘に入ると300から200メートルほどまではゆっくりと近づいて、その後は駆け足で流しつつ一騎打ちの相手を探し、50から20メートルほどの距離になるとギャロップに入って突撃をかけます。
最高速度はやはり40キロくらいは出ますが、それを発揮させるのは短時間です。
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さぁ、ここからは実際に武士が乗っていた馬についてお話したいと思います。
とはいえ狭い日本のこと、武士が乗っていた馬は日本馬のどれかに決まっています。
現代の木曾馬に似た馬であろうその馬は、サイズとしては120cm~140cmだったとよく言われています。
実際に大阪府蔀屋北遺跡から出土した五世紀はじめごろの馬の全身骨は体高127cmの馬のものでしたし、岩手県奥州市水沢区中半入遺跡からは五世紀おわりころの馬の骨が出土していて、これも120cm程度です。
少々話は逸れますが、和歌山県大谷古墳からは馬鎧の一部が出土しています。
そしてその形状は、中国敦煌の莫高窟に描かれた五世紀半ばの北涼か北魏の重装騎兵といわれる壁画と酷似しているのです。
つまり古墳時代の日本には、馬鎧とラメラーアーマーを纏った中央アジア式の重装弓騎兵がいた可能性がある、かもしれません(実際にはこの馬鎧は装飾品として送られたという説が一般的です)。
話をもどしましょう。
今挙げた遺跡は五世紀の古墳時代ですから、武士の時代からは少々離れすぎています。 ですから、もっと後の時代の馬関係の資料が必要です。
奈良時代から平安時代末にかけての遺跡からは、具体的な数値が取れませんでしたが、在来中型馬(定義では136センチ以上)の馬が出土していました。
さらに時代を下って鎌倉時代末期だと、鎌倉由比ガ浜南遺跡や材木座遺跡では、109cmから140cmの馬の骨が出土しており、その平均は128cmでした。
また、遺跡ではないですが、宇治拾遺物語では144cmの馬が登場しますし、吾妻鏡の高楯黒は147cm、源平合戦の宇治川の先陣争いに出てくる磨墨と生食は145cmです。
他にも蒙古襲来絵詞を見ると、前巻一で轡を取られている馬がいますが、これの肩の高さは人間の肩の高さと大体同じです。
鎌倉時代の平均身長は160センチよりほんの少し高いくらいですから、その肩の高さとなるとやはり140センチ前後になります。
また同じく蒙古襲来絵詞の後巻一では、郎党集と思われる武士が小さめの馬に乗り、その将である竹崎季長は145から150cmはある大きな馬に乗っています。
このことから、平安末期から鎌倉全期にわたって、郎党や下級武士は130cm前後の馬に乗り、一般的な武士は135cmから140cm前後の馬で、有力者や総大将などは145cmクラスの日本馬としては規格外の馬に乗っていたのではないでしょうか。
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次に遊牧民の乗っていた馬を見ていきたいと思います。
しかし、遊牧民の活躍していた範囲は広すぎますから、中でも特に強力な二つの騎兵である中央アジアのグラーム騎兵と北インドのクシャトリヤ騎兵についてお話したいと思います。
6世紀から7世紀ごろにインド北西部に興ったプラティーハーラ朝は、ヒンドゥー教の王国でした。
そのすぐ西にはイスラム教のウマイヤ朝イスラム帝国がありますから、当然のように戦争が勃発します。
ときに西暦738年。
ラージスタンの戦いといわれる、イスラム対ヒンドゥーの決戦です。
戦力はイスラム勢力60000対ヒンドゥー勢力40000。
イスラム勢力の主力は、いわずと知れたペルシア系カタフラクトのマワーリー騎兵です。
それに対するヒンドゥー勢力は、主力として北インド系カタフラクトであるクシャトリヤ騎兵を繰り出します。
カタフラクト同士の戦いは長引くと思われましたが、しかし、実際はクシャトリヤ騎兵が一瞬にしてマワーリー騎兵を粉砕してしまいました。
馬の大きさと速さが圧倒的に違ったのです。
マワーリー騎兵の馬は体高が147センチから152センチのアラブ種やバルブ種がメインで、馬まで鎧で覆うと駆け足程度が限界速度になります。
しかしそれに対するクシャトリヤ騎兵は、体高が150センチから160センチ、体重が500kgから650kgのマールワリ種やカーティヤワール種に乗っていたのです。
そのため馬鎧を着せていてもかなりの速度を維持できました。
結果として、突撃力も持久力も全てにおいてクシャトリヤ騎兵が勝ったわけです。
そしてイスラム勢力はそれ以降250年もの間、北インドに侵入できなくなってしまいました。
ラージスタンの戦いで敗れたイスラム勢力のウマイヤ朝は、その後に権力を失いアッバース朝に取って代わられます。アッバース朝イスラム帝国の誕生です。
このアッバース朝はアラブ人の特権を廃止し、アラブ人とペルシャ人とベルベル人を区別せずにイスラム人として扱ったため、軍の士気は大幅に向上しました。
しかしそれでも北インドには侵入できそうにないため、彼らはその北部へと侵攻の目を向けます。
現在でいうところのトルクメニスタンやキルギスタンから中央アジアに侵入し、そのまま東へ進んで唐朝中華帝国へ至ろうというわけです。
ところがその唐も、西に勢力を拡張しようとしていました。
唐はもともとテュルク系遊牧民の鮮卑族が建てた王朝ですから、重装騎兵を非常に重視しています。
特に太宗が導入した鉄騎隊は人鎧30kgと馬鎧80kgを装備する鋼鉄の怪物で、突撃の衝撃力で敵陣を破壊するのではなく、装甲と重量と圧力で敵陣を押し潰します。
そのため、唐は最盛期には中華全土に牧場を持ち70万頭もの良馬を保有していました。
そして更なる良馬の産地と交易路の二つを同時に得るために、西域からトルクメニスタンへの侵入を試みたのです。
こうしてイスラムと中国は激突しました。
西暦751年。
タラス河畔の戦いです。
この戦いはイスラム勢力200000、中国勢力100000などという途方もない数字が記録されていますが、実際の勢力はおそらくイスラム側60000名で中国側が30000名程度だったと思われます。
イスラムはラージスタンの戦いと同数の60000。
中国はこのころの安西4鎮の定数20000とカルルク族10000です。
残念ながらこの戦いには鉄騎隊はおらず、戦いの半ばごろにカルルク族が裏切ったことで唐は総崩れになり大敗します。
このとき中国が手に入れようとし、結果としてイスラム勢力が抑えた馬が、中国史に名高い汗血馬や大宛馬と呼ばれる馬でした。
これは現在でいうトルクメン種やアクハル・テケ種などの、気高く美しい馬です。
体高は150センチから160センチ。
体重が450kgから500kg。
スリムですが足首は太く強靭で、なによりスタミナに優れアラブ種やバルブ種よりもギャロップで走れる距離が長い馬でしたから、突撃戦術には最適です。
アッバース朝はこの馬を騎兵とともに大々的に導入し、彼らはマムルークの一種であるグラーム騎兵としてイスラム世界にその名を轟かせます。
また、この馬を失った唐はその後の安史の乱で良馬を大量に失い、急速に軍馬を増やし直したために、馬の平均サイズが小さく質も悪くなってしまいます。
結果的に人馬とも鎧を軽量化する羽目に陥り、鉄騎隊はその軍事力を大幅に低下させることになったのです。
八世紀において世界最強と目されるクシャトリヤ騎兵とグラーム騎兵は、その馬が強さの秘密だったのです。
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最後に騎士の馬についてです。
斤量のところでもお話しましたとおり、騎士の馬は中世ペルシュロン種、シュバル・ド・オーヴェルニュ種、リモージュ種、アルデンヌ種、ホルシュタイナー種などです。
これらの馬は軽い重馬種か重い軽馬種で、当時の体高はどれも150センチ前後、体重は軽馬種で500kgから550kg、重馬種で600kgから650kgです。
ちなみに一番人気だったのはシュバル・ド・オーヴェルニュ種で、オーヴェルニュの馬といえば最高の贈り物のひとつとして数えられました。
そんなシュバル・ド・オーヴェルニュ種は、現代でも平均体高が145センチで平均重量が630kgであり、写真で見ると驚くほどガッシリとした馬です。
体高でみれば大き目の木曽馬と同じようなサイズですが、体重はサラブレッドより100kg以上重いのです。こんなに重いポニーが居てたまるか、といった重量ですね。
またシュバル・ド・オーヴェルニュ種の産地であるオーヴェルニュはフランス中央山塊に位置しており、彼らはどちらかといえば跳ねる馬です。
600kgを超える体重でありながら足首は太く柔らかで、戦列に何度突っ込んでも無事に帰ってこれる馬でした。
以上のことから、中世騎士の馬はとにかくガチムチでマッチョな馬が求められていたことがわかります。
西アジアや中央アジアと違ってたくさんの替馬を用意するような余裕がありませんから、当たりが強く頑健で怪我をしにくい馬ほど良い馬だったわけで、スピードは二の次三の次でした。
当時は存在しませんが、もしサラブレッドがいたとしても、体高ばかり高くてヒョロヒョロモヤシな駄馬だったことでしょう。
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今回は騎兵の馬についてお話をしてきましたが、どうだったでしょうか。
おそらく、皆様の思っていた馬よりも小さい馬ばかりが登場して驚かれたのではないでしょうか。
実のところ、馬のサイズが極端に大きくなったのは二十世紀に入ってからのことで、それまでは一部の馬を除き、大きい馬でも150センチから155センチが普通です。
なにしろ、イギリスダービーの歴代優勝馬を調べてみるとわかりますが、サラブレッドですら19世紀末までは147センチから155センチのサイズに収まっているのです。
それが二十世紀に入ると急に、ダイヤモンドジュビリーやアードパトリックのような170センチクラスの巨大サラブレッドが登場します。
その原動力となったのは農業技術の進化で、決定打となったのはハーバーボッシュ法です。
馬にマメやトウモロコシなどの飼料をたっぷりと食べさせることができるようになり、それと同時に馬のサイズも大きくなっていったわけです。
そのため、それ以前だとナポレオン時代ですら精鋭重槍騎兵に155センチから160センチクラスの馬がまわされる程度で、一部の竜騎兵などはそれこそ130センチ程度のポニーに乗っている場合もありました。
ですから、中世の重装騎兵も物語や映画のような巨大馬に乗っていた事実はなく、150センチ前後の馬を愛馬としていたのです。
さて、毎度のことですが、今回の私が出した数値はあくまで独自研究であります。
様々な異論があるかと思いますし、私もこれが絶対に正しいと主張するわけではありません。
あくまで雰囲気を掴む程度にご利用下さい。
また、もしこの覚書に目を通してくださった方の中で、もっと良い説をお持ちの方がおられましたら、こっそり教えていただけるとありがたいです。
※「お前間違ってるだろ!」と強く指摘されると泣いてしまうので、あくまでこっそりですよ!