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病 気

作者:山野つつじ

 その日は雨で、電車の中は濡れた傘によって湿っていた。

 そういう日に限って、知らない人の体が密着するような混雑だったりする。

 いつもはドアの側やつり革のある場所に行けるのだが、その時は運が悪く、掴まるものが何もないような場所に追いやられていた。

 降りる駅の手前のカーブに差し掛かると、他の人がかける体重もあってなのか、私の体はまっすぐに立っていられなくなり、そのまま隣にいたスーツ姿の人の胸に飛び込んでしまった。

 私は顔を赤らめて、「すみません……」と言った。

 彼は、「こんな雨の日でも容赦なく混んでるからね」と爽やかな笑顔を見せた。

 彼の胸は温かく、洗いざらしのシャツの匂いがした。

 駅に着くまでの数分間、私は心の中に火が灯ったように感じた。

 今まで一度も異性との交際をしたことがない私は、これが特別な運命のように感じた。

 彼は私と同じ駅で降り、私の会社と同じ方向に向かって歩いている。

 もし、彼が私と違う方向に向かっていたら……私はこのまま彼の後ろを歩いていってしまってもいい、今日は会社なんか行かなくてもいい、そんな気持ちになった。

 彼は私と同じ会社のビルの中に入っていく。

 いつもと同じ電車に乗って、いつもと同じエレベーターにのる。

 なのに今日は、彼と一緒である私がそこにいた。

 彼は五階下の生命保険会社で降りて、私はそのまま自分の会社に行った。

 せっかく運命を感じた相手なのに、なんとかして彼と出会うチャンスを作らなければ、私は一人暮らしの寂しい部屋に帰る毎日を続けることになるのだろう。そんな気持ちを私の心に残したまま、一日の仕事をこなした。


 帰りのエレベーターに乗ると、五階下で扉が開き彼が乗ってきた。

 私の心の中で何かが叫ぶ、やっぱりこれは運命だと。

 私は彼に向かって会釈した。

 「ああ、今朝の……、君も同じビルの中で働いていたんだね」

 「はい……今朝はすみませんでした」

 そう答えるのが精一杯だった。

 私の五階下で、私の運命の人が働いているんだ。

 ああ、なんとしても縁をつながなくては……と何かが私を急かしていた。


 翌日、意識して同じ時間の電車、同じ場所位置の車両を選んで乗った。

 彼は、同僚らしき男性と一緒だった。

 彼に背を向けるようにして、私は聞き耳をたてた。

 「富樫さん、今日のお昼は地下のイタリアン一緒に行きませんか?」

 「そうだな、あそこ新しくなったんだっけ。試しに行ってみるか」

 私の胸がときめいた。 

 私のお昼もあそこにしよう。

 昼食までの時間が、とても待ち遠しかった。

 彼の同僚が一緒であろうと、彼と私の初めてのランチなのだ。

 私がビル地下のレストランに向かうと、店内の奥に彼が既に座っていた。

 彼は同僚数人とテーブルを同じくしていたが、私は一人だったので入り口周辺の席に案内されてしまった。

 違うテーブル、離れた位置、それでも私は心が躍っていた。

 彼が同僚に向ける笑顔は、いつの間にか自分に向けられていると錯覚していた。私も彼が笑みをみせると、それに答えるかのように笑みを作った。

 なんだか少し恥ずかしく思ったので、食べ皿の前に雑誌を広げ、本を見て笑っているような姿をつくろった。

 彼らが食事を終えて席を立つと、なぜだかわからないけれど彼の座っていた席に向かわずにはいられなかった。彼が使った食器やナプキン……そっと手を伸ばすと、さっきまで彼の手に握られていたフォークを握り締めた。

 心臓が高鳴る、私、一体何をしようとしているんだろう。

 本能が理性を超えるというのは、こういうことなのだろうか?

 私は彼が使ったフォークとナプキンを私のバックの中に急いでしまいこみ、素早く支払いを済ませ、会社の自分の席に戻った。

 心臓の音はまだ早足を繰り返していて、自分が興奮しているのがわかった。


 翌日のお昼、彼の会社の中に行ってしまった。

 「富樫」と書いた封筒を抱えていた。

 昼食にでようとした男性に、「あの……間違えて私のところにきたんですけど、富樫さんという方のデスクは……」と尋ねた。

 彼は「ああ、あの角の背広の上着がかかった椅子があるところだよ。お昼にでちゃったみたいだから、机の上にでも置いとけばいいよ」というと、会社の外にでていってしまった。


 彼の机の前にきて愕然としてしまった。

 彼と彼の奥さんらしい女性、それに子どもが二人の写真が飾ってあったのだ。

 運命の人だと思っていたのに、彼とこれから恋ができると思ったのに……。

 私は声を出さず、ただひたすら涙をこぼし続けた。

 数分たったのだろうか、背後から男性の声が聞こえた。

 「どうしたの?大丈夫?」

 私は驚いて後ろを振り返ると、細身の男性が立っていた。

 彼は少し困った様子だったけれど、私を接客室につれていった。

 「ここなら泣いても誰の目にも触れることはないから、大丈夫だよ」と優しくいって、私にハンカチを差し出した。

 「じゃあ僕はお弁当食べてくるから」そういって、部屋を後にした。 

 ハンカチは、少しタバコの匂いがした。


 私の心が脈を打ったように躍動している。

 彼こそが私の運命の相手だと……。


「恋愛体質」という言葉を耳にしたことがあります。私自身、それとはかけ離れた人間ではあると思うのですが、その「恋愛体質」という心理メカニズムを極端に描いてみようと思ったのが、このお話しになります。

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