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あとみっく☆ダーリン 作者:立花招夏
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第一話 窓拭き

 三月。温んできたとはいえ、弥生やよいの風はまだ冷たい。一方、背中で受ける陽射しはかなり強くて、春の気配が濃密だ。冷たさと暖かさがせめぎ合う季節。その不安定さが心地良い。
 どこかで咲いているのだろう、梅の香を微かに含んだ風がさぁっと通り過ぎていく。その馥郁とした風を胸いっぱいに吸い込んで、柚葉は、よしっ! と小さく呟いた。小花柄の割烹着の腕をまくり、バケツの水に古新聞を浸すと軽く絞って丸め、リズミカルに窓ガラスを拭いていく。このやり方を、柚葉は昨日、善太郎ぜんたろうから教わった。新聞のインクが汚れを吸着してくれるのだそうだ。昨日雑巾で水拭きした時よりも格段に艶が良いようだ。
 ちなみに、善太郎は、事後で両親を亡くした柚葉の後見人だ。母の知り合いだという彼は、柚葉にとてもよくしてくれる。こんな些細な悩み事も聴いてくれて、アドバイスをくれる頼もしい存在なのだ。
 大体さぁ、今時窓ガラスを雑巾で水拭きってのは古いと思うわけよ。洗剤塗ったくってワイパーみたいなスクイジーとかいうやつで落とすのがプロなんじゃないの? あれなら、簡単で手早そうなのに……。コツはいりそうだけどさ。
 ぶつぶつ言いながらも、せっせとガラス面に新聞紙を滑らせる。
 とはいっても、柚葉の雇用主がそれらの便利お掃除グッズに興味がないのだから仕方がない。
 あの人は、最も手間暇のかかる方法をわざと選んで私にやらせてるんじゃないだろうか。時々疑ってしまう。
 でも、まぁ、愚痴っていても仕方がないもんね。やらないと終わらないし。
 数時間後、柚葉は拭き終わった窓ガラスをコツンとつっついて満足げなため息をついた。拭き上げられたガラスは、その存在を忘れてしまうくらい透明だ。外から家具のないガランとした室内が明瞭に見える。
 すごっいキレイ。これならアトミック陸也も文句ないでしょお。
 朝から初めたガラス拭きは、お昼過ぎにはすべて完了した。三時を過ぎて、やや傾き始めた陽脚ひざしが、シャンパン色に染まっている。
 余裕で完了~。どうよ。
 はっはっは、と腰に両手を当てて高嗤う。
 柚葉の雇用主兼上司である後見陸也あとみりくやは、実に細かい。
 彼が窓ガラスに残った拭き跡を指摘したのは、柚葉が一棟五室あるテラスハウスの窓という窓をすべて拭き終えた直後だった。
 ――やり直してください。
 彼はいつもの抑揚のない声で無表情にそう言い放った。
 鬼だと思ったよね。マジで豆まきしなくちゃって思ったもん。節分は先月終わったばかりだったけどさ。
 上機嫌でベランダから掃除道具を抱えて室内に引き上げる。満足感で、鼻歌でも歌いたい気分だ。実際、ベートーベンの『喜びの歌』などをハミングしながら柚葉が室内に戻ると、くだんの上司がやってきた。喜びの歌がパタリと止まる。
 年の頃は二十代後半か三十代前半くらい。カチッと撫でつけられた黒い短髪。ブラックスーツにサングラス。身長は高め。どちらかと言えば痩せぎす。スーツの袖口から覗く骨っぽい手首には銀色の腕時計がはめられている。無口無表情。顎から首筋にかけての肌の均一な白さに、アンドロイドを想起してしまうのは柚葉だけではないはずだ。
「あ、後見さんっ、窓ガラスを全部拭き終えましたっ。確認をお願いできますか?」
 柚葉の言葉に、後見陸也は軽く頷くと、部屋の内側から窓をぐるりと見渡した。その後、ベランダにも出る。ベランダから両隣の窓もチェックしているようだ。やがて戻ってきた彼はこう言った。
「窓ガラスは合格です。とても綺麗になっています。しかし、サッシレールが汚れているようですね。明日中にすべてのレールの掃除をやり直してください。承知しているとは思いますが、明後日は引き渡しですから、明日中にすべて終わらせるようにお願いします」
 彼は無表情にそう言う。
 えええ~? レール? 拭いたよぉ。これ以上どうせよとおっしゃってるの? この人は!
 思いがけない指摘に、呆然とつっ立っていると、ドアをノックする音がして、秘書の中川さんが現れた。中川さんはかなり年配で、一番の古株秘書なのだそうだ。柚葉のいる職場へついてくるのは決まって彼だ。
「陸也様、お取り込み中申し訳ないのですが……」
「構わない。どうした?」
 後見さんの口振りから彼への全幅の信頼が感じられる。
「滝川専務がご連絡をいただきたいとおっしゃっておりまして、それがかなり緊急なご様子で……」
 分かった、と秘書に頷くと、後見陸也は柚葉に向き直った。
「そういうことですので。私は行きます。後をよろしくお願いしますね」
 そういい残すと、せわしなく部屋を出て行った。
 行きます、なぁんて私にいちいち報告する必要なんてないですよ。行っちゃってくださいよ。そしてもう、引き渡しの時まで見に来なくていーですから。
 出て行った後のドアに、いーっと悪態をついた柚葉は、バケツの持ち手を握りしめながら一人呟く。
「……やっぱり、明日、豆を買ってこよう」
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