第十一話 華宮邸
今日引き渡し予定の華宮邸は、茨城県の阿字ヶ浦海岸を見下ろす高台にある。二階建て4LDK。バリアフリー住宅。二階建なのにエレベーターが設置されているのは、施主様の奥様のためだ。奥様は出産時のトラブルで、まだ若いのに下肢が麻痺して歩けなくなってしまったのだそうだ。すっかりふさぎこんでしまった奥様のために、お医者様の奨めもあって、思い切って転地療法をすることにしたのだ。
ぐるりと螺旋状に傾斜した坂道を上ると、ヨーロッパのコテージを思わせる濃茶の筋交いがむき出しになったハーフティンバー様式の白壁が見えてくる。玄関の前はロータリーになっていて、その真ん中には大きな桜の木が植わっていた。蕾をたくさんつけた桜の枝は、早春の日差しを浴びて既にほんのりと桜色の光を纏っていた。 そのエントランスに、女性がひとり立っていた。髪をふんわりとエレガントに結った品の良い女性。二十代半ばか後半くらい。ベージュ色のスーツのウエストは見事にくびれていて、短めのタイトスカートからはすらりとした美脚が伸びている。
柚葉はおもわず目を見張った。
おおおー。見事なボンキュッボンのシルエット!
そのスタイル美女は、陸也の姿を見つけるや、深くお辞儀をした。それに対して陸也は軽く手を挙げる。
「さとみ、ご苦労様」
おぉ? 名前を呼び捨てにした……ってことはもしかして、この人が奥様? 人前には絶対顔を出さないという噂の? 後見さんがメロメロだと言う?
なるほどー。こりゃ、一目惚れするわ。すんごい麗しいもん。
あ、いかんいかん。見とれていた。
ふと我に返って、慌てて会釈をする。少し怪訝そうな顔で会釈を返したさとみさんは、すぐに後見さんへと視線を戻した。
「陸也様、遠くまでご足労いただきありがとうございました」
さとみさんが満面の笑みで応える。なのに、一方の後見さんは、少し不機嫌そうに眉を顰めた。
「さとみ、その呼び方は……」
みなまで言わさず、さとみさんが頭を下げる。
「申し訳ありません」
少し傷ついたような顔で謝った後、さとみさんは柚葉の方をやや険しい目で睨んだ。
なんだこの夫婦。後見さんはやけに偉そうだし、さとみさんはやけに堅苦しい。上流階級の夫婦ってこんなもんなの?
しかし、さとみさんの自分に向けられる視線が妙に険しい気がするのはなんでだろうか。
柚葉は内心狼狽える。
もしかして、私、何かした? いやいや、ないよね。だって、今着いたばかりだもん。私、何もしてないよね。
――はっ! 待てよ。夕べ後見さんを泊めたことは?
でもさ、車に泊まること知ってて泊めないのも悪いじゃん? 気にすることないよね。何もなかったんだし……。いや待てよ? 手は繋いだか。ま、まさか、そんなことまでお見通しなのか? 千里眼なのか? そうだ! 千里眼なんだよ!
どうしよー。
でも、あれは、後見さんが寝ぼけて奥様と間違えただけだし。説明しなくっちゃ!
「あ、あの……」
昨夜の件だったら、誤解ですから、とビビりつつも説明しようとした柚葉の台詞は、陸也に遮られた。
「あぁ、柚葉さんは初めてでしたね。彼女は、さとみ、と言って、今、この物件のトータルコーディネートを任せています」
次いで、後見さんはさとみさんに向かってこう言った。
「さとみ、彼女が柚葉だ」
ちょ、ちょっとぉ、私まで呼び捨てですかい? ……ってか、私の肩に回したその手、はずした方が良くないですか? 奥様が私を睨んでるの、そのせいじゃないかと思うんですが……。
「は、初めまして。北村柚葉です」
ひきつりながら自己紹介をする。
「初めまして、さとみと申します」
堅い表情のままそう言うと、さとみは、自己紹介はこれで終わりとばかりに、陸也に向かって仕事の話を始めた。
「今、施主の華宮様から連絡があったのですが、実は奥様が……」
そこまで言うと、さとみさんは、続けて良いのかどうか逡巡するように言葉を途切らせ、私の方をちらりと見た。それにつられるように後見さんも私に視線を向ける。
「構わない。続けて」
後見さんはそう言ったけど、なんとなく居心地が悪い。さとみさんも居心地が悪そうだ。
後見さん、この空気の悪さ気づいてます? そのサングラス、もしかしてUVカットならぬ、空気カット機能付なんじゃありませんか?
「あ、あのっ、すみません。私、外を見させてもらってもいいですか? 車酔いを治したいので……」
柚葉の申し出に、一瞬、陸也は眉間にしわを寄せたが、すぐに気を取り直したように小さく頷いた。
「そうですね。その方が良いかもしれませんね。外はまだ寒いですから温かくして行ってください」
そう言うと、自分の肩にふわりと掛けてあった上質そうな濃いグレーのマフラーを外して、柚葉の首に巻き付けた。
え? えっと……。
想定外の後見さんの行動に、戸惑ってさとみさんに視線を向けると、タイミングが良いのか悪いのか、彼女の携帯の呼び出し音が鳴った。応対しているさとみさんをよそに後見さんは続ける。
「庭の眺めは良いですが、崖になっているところもありますから、くれぐれも気をつけてください。あと、裏手の階段は海辺につながっていますが、まだ早いですからひとりで行くのはやめてくださいね。危ないですから」
はいはい、分かりました、と返しながら、そそくさと庭へ歩き出す。ぐずぐすしていたら、付いてきそうな勢いだ。そんなことになったら、更に迷惑をかけて、結果、私はさとみさんに睨み殺されるかもしれない。
一体、彼はどうしちゃったんだろう。私の保護者にでもなってしまったかのようだ。
最近の後見さんは様々に豹変するので、そのたびに狼狽えてしまう。
高台にあるこの物件は、別荘地の一番崖側にある。裏庭の端っこには鉄製の手すりが設置されており、そこから見下ろすオーシャンビューは大変美しい。絶景だ。
「うわー、海~」
言われたとおり、裏庭の端には階段があって、それは海岸線に沿って走る道路まで続いていた。気持ちの良さそうな低木林の小道だ。かなり段数はあるけれど、十分もかからずに浜辺まで行けそうだ。
ちょっとだけ行ってみようかな。