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睡蓮の恋

睡蓮の恋

作者:小鳩子鈴
 

 秋晴れの土曜日、郊外のショッピングモール。私はスカートとブラウスを手に試着室の中にいた。

ようちゃん、どう?」
「ちょっと、まだ着てないからっ」

 カーテンを閉めて三十秒も経っていないのに気の早い姉だ。
 正面の大きな鏡に映るのは面白みのないアラサー女。ひょろりとした薄べったい貧相な体付きをして、中途半端な長さの髪をどうにか纏めて、バレッタでそれっぽく見せている。何の変哲もないカットソーにジーンズ。白いバレエシューズは171センチという身長をこれ以上大きく見せないためのもの。化粧っ気も薄くアクセサリーは小さめのフープピアスだけ。
 そんなつまんない女が今手にしているのは、花柄シフォンのロングスカート。モネの睡蓮を思わせる、非常に乙女チックな一枚だ。

「うう、何でこんなことに……」

 カーテンの向こうからかかる姉と姪のワクワクした声は止まない。こういうのは姉のように小柄で可愛いタイプのための服だ。私みたいなふんわりしたところがひとつもないようなのが着たらダメな気がするのに。

 休日にこの二人と出かけることはよくあるが、服を買いに来たのは久し振りだ。不規則な勤務形態の義兄が週末も出勤の時などに声を掛けてくるのだが、だいたいは食事に誘われる。実家を出て一人暮らしの不肖の妹を心配してくれているのだろう。小さい頃はよく喧嘩もしたが、成長してからは気の合う親友のような関係だ。

 今日買いに来たのは、姪の牡丹ぼたんの服。小学二年生になる姪は、当然だが毎年服のサイズが変わる。下手をしたら同シーズンの初めと終わりでワンサイズアップすることもあるくらいだ。
 二人の最近の行きつけだというこの店は、私が一人ならまずもって素通りするタイプのショップで、店内はレースとフリルとリボンで溢れ、スーツですらヒラヒラがたっぷりとついている。奥の方にあるセレモニー用のドレスは、もう、本領発揮と言わんばかりのロマンティック全開。

 姉が着ているのもここの服だと言うが、店内で目につくものより格段にシンプルだから探せばそういうのもあるのだろう。店内の客層も十代の若い子よりも同年齢より上と思しき女性が多いのも意外だった。
 ファストファッションよりは多少値が張るが、高いという程ではない。縫製の質が良く長持ちする。着心地がいい。女児服の扱いもあって買い物が一度で済む……この辺が姉のお眼鏡にかなった理由でもある。

 牡丹は気に入ったカットソーとキュロットスカートを見つけてあっという間に買い物は終わった。子ども服もそれなりに量があるのに迷うそぶりもなく、ちらりと店内を見回して真っ直ぐに進み、これがいい、と。

『話には聞いていたけれど、本当に早いのねぇ』
『でしょう? 悩まないし、変えないもの。純粋に好きかどうかだけで選んでるのよ』

 姉は苦笑いだ。手にしているのは確かに姪の好きそうな色、柄、形。

『こっちはいろいろ考えるじゃない? 着まわしとか洗濯とか流行りとか。そう思って、これはどう?って勧めても絶対に自分が気に入らないと頷かないの。買っても着ないのよ』

 さすがに発表会のようなドレスは却下するけれど、と姉は笑う。

『牡丹を見ててね、好きな服を着ればいいんだって思うようになったのよ。仕事上ではTPOがあるだろうけれど、私生活ではね。誰に迷惑をかけるわけでもなし、好み丸出しでいいんじゃないかって』

 それで最近はヒラヒラが多いのね、お姉ちゃん。公園で子どもを追いかける必要がなくなったから、スカートを履くようになったとばかり思っていたわ。
 納得しつつ店を出ようとした時に、入り口近くのバーに吊るされていたこのスカートが目にとまった。他の布の隙間に細く見えた水彩画のような大胆で繊細な色に、つい指を伸ばし裾を広げてみたのだ。

『あ、きれい! ようちゃん着てみて!』

 布が見たかっただけなのに。『ぜったい似合うから』と、きらきらした目でねだる姪に押し切られて今ここにいる。そのスカートに合いそうよ、と姉に渡された白いブラウスは前側はシンプルだが背中がカットレース仕立てになっている……お姉ちゃん、アナタは店員ですか。
 ふう、と軽く溜息をつき諦めて備え付けのフェイスカバーを被った。購入前の白い服だ、間違っても化粧などつけたらいけない。

 やがて上下とも着替え終わったが、先ほどまでしていた二人の声は聞こえない……店内を見に行ったかな。ようやくと落ち着いて全身鏡に映った自分を眺めた。

 あれ……案外、いいんじゃない。

 って、いや、ちょっと待て待て。ついさっき自分で思いっきり駄目出ししてたよね。なにそんな舌の根も乾かぬうちから前言撤回って。落ち着いて、もう一回よく見てみよう。だって似合うはずがない。

 前後左右、ちょっとくるりと回ったりして……あ、ふわっと広がるラインが綺麗。立っている時の落ち感も好みだし、ボリュームも適度。しかもわりと長身の私が履いてこの足首までのマキシ丈ってかなりレア……ああ、肩紐つけてワンピースにもなるツーウェイだからか。ふうん。
 それにこのブラウス、布が柔らかくて着心地がいい。少し短めの着丈はスカートとのバランスもいいし、手持ちのパンツにも合いそう。

 値段も高くない。上下で買っても通勤用のつまんないジャケット一枚より安いわ。しかもお姉ちゃん優待チケット持ってたからさらに二割引きだ。これくらいなら失敗しても諦められるし、なんならお姉ちゃんにお下がりすればいいか。

 足元から順に見上げて、いまいち格好のつかない髪が気になった。硬く乾いた毛先が手に触れる。トリートメントはしてるんだけどなぁ、前に美容院行ったのっていつだっけ? やばい思い出せない。
 ……いっそ、切ろうかな。けっこう傷んでるしこんな中途半端な長さよりも、ちょっと憧れてた黒髪ストレートの大人ショートにしたらどうだろう。でも私、ショートってしたことないなあ。

「葉ちゃん、開けるよ〜」

 思考の海に漕ぎ出していた私は唐突に掛けられた声に慌てて我に返った。

「ま、待って待って、今開けないでっ」

 すっかり購入前提で考え込んでいたことに気付いて自分で驚く。なんだか妙に恥ずかしい。ええ、なんでと不満そうな二人の声に思わず言ってしまった。

「買うからっ、開けちゃダメ!」

 店を出てから姉から、じゃあ、翌週の金曜日の夜は食事に行こう、ついてはその服を着て来いといい笑顔で命じられる。勧めた服を着たところを見られなかったと残念そうにぼやく牡丹を前に、断るという選択肢は許されていなかった。



 私の会社は制服勤務だ。来客もほとんど無い内勤オンリーの営業事務という後方支援の立場に制服が必要かどうかはさておいて、着るものに気を遣わなくていいというのは気楽である。
 通勤時には多少はそれっぽい格好は必要だが、ジーンズで来る人も少なくない。夏にキャミソール一枚さらに足元ビーチサンダルで来ていた子はさすがに人事から苦言を呈されていたが、まあ、普通の常識の範囲であれば問題は無い。

 このスカートだって別にそこまでおかしいことはないだろう。他の課の女の子もこういったののもっと派手な色を履いてきたりしているのを更衣室で見ることもある。ちょっとラブリーでロマンティックだが色味もブルー系で落ち着いているし、通勤着として何とか許容範囲だと思う。

 逸脱しているのは、それを身につけるのが私だということだ。

 普段の私の服装は言うなれば、ザ・定番。ごくシンプルなジャケットにカットソー、下はパンツ。色は黒、ベージュ、白、たまにグレー。季節で素材や丈が多少変わるがオールシーズンこれだ。スカートなぞ、制服以外で履いた時が無い。

 そんな私が花柄シフォン。誰が許しても、私が誰にも見られたくない。似合う似合わないの問題ではなく、ひたすらに着慣れなくて恥ずかしい。
 じゃあなんで買っちゃったのかって話になるけど、家で着ようと思ったのよ。 それか、知り合いに出会わなそうな外出の時ね。決して、通勤時に着るためではない。

 さらに今日はわざわざ会社の前まで車で迎えに来てくれるという……駅前のデパートのトイレででも着替えようかと思ったのに、その道も閉ざされた。
 朝の出勤時は人が多いのでいつもの格好で出社したが “カットソーではなくブラウスを着ている” たったそれだけで目敏い同僚からは、今日何があるのと興味津々に聞かれる始末。どれだけ私の服装がパターン化して浸透しているかが窺える。
 聞いておくれよと顛末を話せば笑われたけど。

「葉ってば自分に構わなすぎだもの。スカート持ってきてるんでしょう、ちゃんと履いて行きなさいね」
千香ちかちゃんってば。分かってるよ、牡丹にしょんぼりされるとキツイもの」

 なんだかんだ言って、姪は可愛いのだ。赤ちゃんの時から懐いてくれているので余計に。

「髪も似合ってるし、いいじゃない。来週あたり飲みに行こうよ」
「うん、そうだね」

 同僚というより友人と呼んだ方がしっくりくる同い歳の千香ちゃんは、柔らかい顔で微笑んで私の短くなった髪をふわりと撫でた。

 あのスカートを買った翌日の日曜日、妙なテンションのまま美容院にも行った。長年通っていた美容院の担当さんがとうとう独立して店を出したので、ちょうど行こうと思っていたし……などと言い訳をして電話をしたら、ぽっかり予約に空きがあったのは運が良かったのか悪かったのか。もし一週間後だったら、きっといつも通りの髪型だったろう。

 短くしてみようかと思って。そう言った私の髪に嬉々としてハサミを入れる馴染みの兄さん。いつもの髪型も似合っていたけれどもう少し冒険して欲しかったんですよと言うが、それは君の好みがショートだからってことは知っている。
 まあそれでも、人生初のショートヘアは美容師にも、その後顔を出しに行った実家の家族にもすこぶる評判が良く、そして案外ブローもセットもラクだったことは嬉しい発見だった。

 内勤の私たちの帰社時間は各担当営業さん次第でまちまちだ。更衣室の空いている隙を狙って着替えて、大急ぎでビルを出ればなんとか人の目に止まらずいけるだろう。
 予想通り約一時間の残業の後、幸いなことに誰もいなかった更衣室で姉に電話をかける。

『丁度良かった。あと十五分くらいで着くよー』
「ねえ、本当に会社の前まで来るの?」
『あの辺、他に停めやすい場所ないもの。日も落ちてくるし暗がりにいないで、見えるところにいてね』
「う、分かったよう……」

 明るい場所で目立って待てと。お姉さまは酷なことをおっしゃる。妹は辛いねぇ……。
 人が来る前にと、ささっと着替えるとドアから顔を半分出して周囲をうかがう……なんか自分が悪いことをしてる気分に。複雑だ。

 廊下に人影がないのを確認して、小走りで一階に降りエントランスから飛び出た。会社のビルから少しだけずれた歩道の植栽の脇、会社からはやや死角で、そこそこ明るくて車道側からはよく見えると思われる場所に立つ。
 誰にも会わなかったことにようやく一息ついて、気持ちのいい秋風がシフォンのスカートの裾をサラサラとなびかせるのをそのままに姉の車を待っていた。
 今日はいつものフープピアスの他に、牡丹お手製のビーズのブレスレットもしている。ゴム紐に通しただけの簡単なものだけれども最近はスワロフスキーのビーズが簡単に手に入るから、小学生の手作りとは思えないなかなかの出来栄え。私の誕生日にこれをくれた時の牡丹の顔を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。もうじき来るかな。

「……あれ、三枝さえぐささん?」

 うっひゃあ! 誰っ!? 思わず振り向けばそこに立つのは背の高い三十代の男性と若手の営業マン。

「今上がり? お疲れさま。どうしたのそんなところで」
「か、片桐課長、それに佐々木くん、お疲れさまです。あー、あの、人を待っていまして」

 嫌ーっ、めっちゃ知ってる人だった! 隣の営業一課の課長と期待の新人君だぁっ。あ、私は二課です。個人客担当課です。一課は企業など大口顧客担当です、うちの社の稼ぎ頭ですね。
 そんな一課の片桐課長は数年前に最年少で課長の職に就いた、仕事に厳しく人にも厳しい仕事の鬼。さらに容姿もなかなかにいい男。彫りの深い顔立ちと目を引く長身で、どこか外国の血が入っているという噂がまことしやかに流れている。

 佐々木くんは今年の新入社員ながら仕事がよくできると評判の、え、誰の評判って内勤の女性社員の評判よ、ちょっとかわいい系のこれまたなかなかの好青年。私なんかとは世界の違うきらきらしいお二人を前に、このふわふわと揺れるスカートがまた大変いたたまれない。
 ああ、二人並ぶと眼福ですね、今日は新人連れて得意先まわりでしたか、お疲れさまです会社そこです戻っていいですよお姉ちゃん早く来い!

「三枝さん、珍しいですねそういう格好。似合いますよ」
「あ、それは、どうも……」

 ええい、佐々木め、笑顔でさらっとそういうことを言うんじゃないわっ、こちとらお世辞だって言われ慣れていないんだから。もう、風に揺れる髪を押さえながら片手で顔を隠すのも限界となった時、一台の車が滑るように歩道に横付けになった。シルバーのメルセデスの窓が下がり、声をかけてきたのは義兄だった。

「お待たせ、葉ちゃん」
純也じゅんやさんっ、やっと来た……あ、課長、佐々木くん、それではお先に失礼します」
「あ、ああ。お疲れさま」

 顔も見ず挨拶もそこそこに逃げるように助手席に滑り込む。2ドアの車の後部座席にはジュニアシートに座った牡丹と姉がいた。

「お疲れー、丁度十五分だったでしょ」
「ようちゃん、似合うっ、スカートかわいい」
「はは、ありがとう牡丹。ああ、疲れた。お腹すいた〜」

 ようやく逃れられたことに一息ついた私は、課長と佐々木くんが走り去る車を唖然と見つめていたことに気付いていなかった。




 その噂に気付いたのは次の金曜日の事だった。

『営業二課の三枝は結婚間近らしい』

 はい? なにその話。
 お昼休みに同僚を捕まえた。屋上には他に人はおらず、日陰になっているベンチで社内販売のお弁当を膝の上に広げる。秋の空は高く、湿気のなくなった風は爽やか。ずっと室内にこもっているから日陰なのに眩しくて目が痛い。PC画面の見過ぎだなぁ。

「今頃耳に入ったの? 私が聞いたのは一昨日だったよ」
「ちょ、千香ちゃん、なんで教えてくれないの〜?」
「別に悪意のある噂でもなかったからね、まあいいかなって思って。ガセだって分かってるし私に直接言う人もいなかったし、わざわざ否定して回るのも変な話でしょうよ」

 それはそうだが。営業二課の三枝にはもう何年も恋人もいないのですが。

「実際何か困るの、もしかして、実は私に内緒で恋人とか?」
「ない、それはないけれど。ええ、なんでぇ?」
「葉、最近可愛くなったもの。やっぱり髪じゃないかな。あと、例のスカートが深層心理に何かを」

 千香ちゃんは出し巻き卵をつまんだお箸を器用に私に向けた。こらこら、そういうことをしてはいけませんよ。

「何かってなに。だいたい、髪は長い方が可愛いんじゃないの? 私なんか身長もあるし男っぽくなってるはずだけど」
「長さの問題じゃないわ。それにすらっとした子のショートヘアって逆に色っぽいわよ」
「ええ……」
「似合ってるってこと」

 にっこりとあでやかに微笑む千香ちゃん。そんな風にすると、カラコンなしでも黒目がちの大きな瞳がペルシャ猫のようで、貴女の方がよっぽど可愛いですよ。黒い服着せて赤いベルベットのリボンを首に結びたい。絶対似合う。っていうか、その格好で彼氏の前に出しちゃ駄目だ。

「私が聞いたのは、葉が金持ちの彼氏と付き合ってるって話。そうか、結婚まで話が膨らんだか」
「金持ちの彼氏って、そこからしておかしいって」
「高そうな外車に乗ってるって」

 なんだそれ。うん、待てよ、車……?

「キラッキラしたゴージャスなブレスレットもプレゼントしてるって」

 ……それって。私はポケットから牡丹のブレスレットを取り出した。今朝、なんとなく付けて来たら外し忘れてて、朝礼の時に気付いてあわててポケットにしまったのだ。ピアスは更衣室でちゃんと外したんだけど。やっぱり普段付けていないから忘れちゃったんだろう。

「これのことかなぁ」
「……あら、キレイ。牡丹ちゃんのお手製デスカ」
「こちらスワロフスキーをふんだんに使用した逸品でございまして、ゴム紐の結び目が飛び出してるのが可愛らしいアクセントになっております」
「まあ、目に痛いほどキラキラ輝いていますわね」

 訳知り顔で大げさに頷くと、二人で顔を見合わせて吹き出した。ひとしきり笑って、なんだかバカバカしくなった。

「車ってそれ多分、純也さん。この前の金曜、ご飯食べに行くのに迎えに来てくれた。変なの、後部座席にはお姉ちゃんも牡丹もいたのに」
「ああ、ディーラーにお勤めのお義兄さん。そりゃあ仕事柄いい車に乗るわ」
「あの車、ほとんど社用車で営業車だよ。すっごい乗り潰してるし」

 もう、そうすると噂の出どころなど限定される。どっちだ。それとも両方か。

「会社の前で待ち合わせてて、その時に帰社した片桐課長と佐々木くんに遭遇した」
「なぁるほど……うちの人間が二課さんにご迷惑をおかけしたようで、申し訳御座いませんわ」
「いえいえ、お気遣いなく」

 千香ちゃんは営業一課の事務方だ。仕事捌きの速さと正確さには定評があり、また、決して怒らせてはいけないとの不文律も持つ。きらりん、とペルシャ猫の目が光った。

「ウチが絡んでるなら話は別だわ。制裁をご希望?」
「いや、いいわ。むしろ放っておいて」
「あらそう?」
「何のつもりかわからなかったからモヤっとしたの。出処も分かって誤解ってはっきりしたし、そのうち消えるでしょう。だから、いいわ」

 千香ちゃんは私の顔を覗き込んで口角を上げた。くっ、エクステなしの上向きまつげが眩しい。

「葉……さては面倒くさくなったわね?」

 えへへ、ばれてる。

「だって、あんなきらびやかなお二人に関わるなんて冗談じゃない。ワタクシは平穏を愛するのですわ」
「まあ、社内でも目立つ二人だってことは否定しないけれど」

 タイプの違うイケメン二人は社内でも人気者。うっかり関わって注目など集めてしまったら、仕事にも支障が出かねない。総務や人事の女の子たちはキャーキャータイプなのだ。嫌がらせとかはないだろうが、折を見て隙を見て根掘り葉掘り聞かれるだろうことは想像に難くない。
 最近の人手不足で手持ちの仕事はいつも一杯、残業は極力したくない私はそんな事にかまけている暇はないのだ。

「ね、だからいいわ。魂胆も無さそうだし、こっちからわざわざ行くような必要もないしね」
「そう…? 分かったわ、本人がそう言うなら。でもね、葉。噂はさておき、そろそろ……いいんじゃないかと思うよ、私」

 同情でも呆れでもなく、気遣いだけを滲ませたその一言は、暖かく心に落ちた。いい、友だちだ。

「そうだねぇ、ありがと千香ちゃん」

 サクッとお仕置きするから気が変わったらいつでも言ってねと、見惚れるようなウインクをする友人にお礼を言って膝の上の弁当へと意識を戻した。




 会社から駅までは徒歩十分ほど。会社の周りは企業ビルがほとんどだが、ポツポツとコンビニ、老舗の和菓子屋やギャラリーがある。戦後から続く画廊は細い入り口にその時々の個展やなんかの絵が飾られ、小品ながら見ごたえのあるそれは、和菓子屋の季節の張り紙とともに通勤時の楽しみの一つでもあった。
 今週末から展示が変わるらしい。帰り道に通りかかった時にちょうど絵を架け替えていて……見覚えのある筆使いにどくりと胸が鳴った。

 写真で言えば四つ切りサイズくらいのそれは、デフォルメしながらも精緻に描かれた外国の風景画。どこだろう、東欧っぽい。足を止めて眺めていると作業をしていたギャラリーの従業員が私に気付いた。

「明日からの個展です。画家本人も来ますのでよかったらどうぞ」

 にこやかに渡された案内の絵葉書をお礼を言って受け取る。歩きながら眺めれば、そこに書いてある画家の名前はやはりよく知ったものだった。
 この胸に迫るものはなんだろう。ざわざわするような、安心したような……でもあの頃に感じていた千切れるような痛みは、今はない。

 私の恋人だった人。別れてからもう四年になる。

 案内葉書によるとあれから幾つか賞を取り、海外に拠点を置いているようだ。首都圏を中心に何箇所かで個展を開くスケジュールが載っている。

 探そうと思えば、知ろうとすればいくらでも調べる手立てはあったけれど、一度もしなかった。名前で検索をかけることも避けていた。それなのにまた会ってしまった。

「これもご縁かしらねぇ……」
「何が?」

 突然声をかけられて、鞄に葉書をしまった手が中途半端なところで止まった。恐る恐る声の方を見上げようとすればその間に詰まる距離。

「片桐課長……驚かさないでください。今日は早いお帰りですね」
「驚かせたか? 悪い。区切りが丁度良くてな、金曜だしたまには定時で上がろうかと」
「そうしてください。働きすぎは体にも、帰りたい部下にもよくないですから」

 それもそうだ、と笑いながら駅まで一緒に行くかとごく自然に横を歩く課長。なんだこのスマートさ。身長も足の長さも全然違うのに私の速度に無理なく合わせてくれている……慣れてるんだなぁ。

「週末だけど三枝さんは飲みに行ったりしないの?」
「本当は約束してたんですよ、一課の千香ちゃ、高遠たかとおさんと」
「ああ、仲よかったな」
「やんごとない諸事情により延期です。なので帰って一人酒します」
「うん? じゃあ、その辺で飲んでいくか」

 え? は、何? 社外で話したのなんてこの前の一瞬を入れてもこれが二回目の他部署の部下を単独で飲みに誘うなんて。そんなにフレンドリーな人だったなんて聞いたことない。誘っても誘っても飲み会にも来てくれないと総務の子が愚痴を言っているのは知ってるけど。あれ?

「こっちに美味い店がある。三枝さんは和食好きか?」
「はあ、大好きですけど私は家に帰」
「戻り鰹が美味い時期だな」
「はい、行きます。どこですか、こっちですか」

 盛大に笑われた。誘っておいてそれはないと思ったけれども、私が課長の立場だったらやっぱり笑うだろうから良しとした。美味しいものは大好きだ。いざ行かん、戻り鰹。


 案内されたのはちょっとだけ住宅街に足を踏み入れた場所にある、こぢんまりとした小料理屋だった。表通りではあるのだけれど、会社から駅へ行く道からは外れている。

「こっちには来たことなかったです。いい雰囲気のお店ですね」

 美人の女将さんと、私と同年代くらいの女性の二人がカウンターと奥の厨房をくるくると行き来している。母娘でやっているお店らしい。
 お店のつくりはお寿司屋さんみたいな感じで席数は多くなく、家庭的な雰囲気だけど一見さんお断り的な排他感はない。賑わっている店内の客層も和気あいあいとして素敵なお店だ。美味しい匂いも堪らない。

「食べられないものはあるか?」
「ないです。初めてなので注文は課長にお任せしてもいいですか? どれも美味しそうですけど」

 丁度ひとつだけ空いていた二人掛けのテーブルに座ると、まわりの席をちらりと見て言った。うん、本当に美味しそう。

「あ、あれは食べたいです。あそこの人が食べてる小鉢」
「あれは鶏のつくねを南瓜のきんとんで包んだお饅頭ですよ。女性に人気ですね」

 片桐さんいらっしゃい、と着物姿の女将さんがおしぼりとお水を運んでくれた。にっこりと笑って丁寧に渡してくれるその所作に見惚れる。

「戻り鰹入ってる?」
「今日はいいのがありますよ。お造り? たたきは梅がおすすめね」
「たたきがいいですっ」

 私の勢いあるオーダーにふふ、と笑って承知しましたと伝票に書く。その他にも課長が幾つか注文を入れて、ついでに日本酒も頼んだ。お通しは菊のおろし和え……ほうれん草の緑、菊の鮮やかな黄色に白く甘い大根おろしが目にも美しい。この後の皿を思っていやが応にも高まる期待に顔が緩みっぱなしだ。

「……食べるの好きなんだな」
「大好きですよ。特にこういうお店はなかなか一人では来られないから、すごく今日嬉しいです」
「そうか、それは良かった」

 四十歳くらいになればどんなお店も一人で行けそうだから、早いとこ歳とりたいと言えばまた笑われた。いつも真面目な顔しているとこしか見たことなかったから、正直こんなに笑う人だと思わなかった。あまりに緩い雰囲気に思わず私も軽口を叩く。

「課長、そうして笑ってるとずいぶん若く見えますね」
「俺まだ三十六なんだけど。君の視力はいくつかな」
「左右とも1.5ありますよ」

 ひどいな、とまた笑う。何がそんなにおかしいんだか、年頃のお嬢さんみたいだ。

 やがて運ばれてきた南瓜のお饅頭は上からお出汁の効いた熱々の葛餡がかかっていて、ふはふはしながらぺろりと食べた。戻り鰹はもう、最高。炙って温かいまま、氷水で締めずに出された鰹は、溶けた脂に梅肉だれがとろりと絡んでしつこ過ぎず旨味は十分。刻んだ小梅がいい歯ごたえのアクセントになって、非常にお酒が進む一品でございました。

 主に食べるのに夢中であまり会話らしい会話もなかったけれど、その間も気詰まりを感じずにいられたのは課長が楽しそうだったからだと思う。不思議なことに上司と同席というよりは、もっと気心の知れた人と一緒にいるような気分で。

 他にも揚げ出し豆腐や串のない焼き鳥、根菜の炊き合わせなんかもいただいて、最後はおすましと可愛らしい手毬寿司。

「はあ……美味しゅうございました」

 食後のお茶を飲みながら満足のため息を吐く。始終にこにことしていた向かいに座る人も、いいほろ酔い加減で気分が良さそうだ。

「そういえば声かけた時、何見ていたんだ?」
「ああ、ギャラリーの個展の案内です」

 通りがかりにもらって、と鞄から取り出して渡すと興味深そうに眺める。課長が持つとただの絵葉書もなんだか様になって、ちょっとだけ悔しい気がする。何で男の人のくせに手の形が無駄に綺麗なんだ。ネイル塗っちゃうぞ。

「絵が好きなのか?」
「好きですけれど、それは、偶然にもその画家さんが知ってる人なので。高校の同級生なんです」
「へえ……たいしたもんだ」

 それはたくさん海外で賞をとっていることにか、それとも芸術という不安定な職種で生きていることに対してか。ぽろっとこぼしてしまったのは、きっと美味しかった冷酒のせいだろう。

「ずっと付き合ってたんですけどね、四年前に別れました。その後この人は本格的に海の向こうに腰を据えて。今回、凱旋帰国のようですね。まさか、こんなに近くの画廊に来るとは思いもしなかったですけど……意外ですか?」

 鳩が豆鉄砲、って顔をしていた。確かに枯れてるアラサーの私みたいなのに色恋の話をいきなり聞かされたら驚くとは思うけど。今日は見たことのない課長の顔ばかりだ。

「ああ、いや……どちらかというと、納得した」
「え」
「いや、うん。大丈夫」

 何がだ。よくわからないまま葉書は戻されて、ついでに会計まで済まされた。自分の分は払うと言ったのに許されず、じゃあ次は割り勘でとなった。あれ、次回が確定している……ここにはまた是非来たいから、深く考えないで頷いた。
 ついでになんだかんだ言いくるめられて携帯の番号なんかも交換した。

「で、行くのか? 元彼の個展」
「行きませんよ、買えないですし。今のこの人の絵、ぜったい高価たかいですもん」
「会うだけでも」
「課長、もしかして絵が欲しいんですか? 確かにいい絵を描きますけど、残念ですが元カノ割引はないですよ」
「いや、そういうわけじゃ……」

 駅までの道のりでそんな話をして歩いていたら、ふと課長の雰囲気が変わった。

「そういえば噂になっているようだが……結婚するのか」
「課長がそう言うんでしたら、出処は佐々木くんの方ですね。しませんよ、彼氏だっていませんし。先週迎えに来たの、あれは義兄です。後部座席には姉と姪も居たんですよ」
「それ…は、見えなかったな。そうか、よかった」

 は、何が? 課長の顔を見上げればすっきりした顔をして笑っていて、その子どもみたいな嬉しそうな顔にちょっと鼓動が早くなった……気がした。うん、気のせい。ほら駅に着いたし。私と課長の路線は別だ。

「課長は向こうでしたね。では、」
「これで安心して口説ける」
「はい?」

 え、なんて言った。聞き間違い……振り返って見上げればなんというか、苦笑いを貼り付けたような課長。

「この前の服、よく似合ってた。まあ、他の男の前では着て欲しくないし通勤はいつもの格好でいいと思うが」
「え、は、」
「彼氏も婚約者もいないんなら俺でどうだ。とりあえず、連絡する。この週末は予定がないと言っていたな、そのまま空けておけ」

 改札に押し込まれてじゃあまた、とされた私が我に返ったのは降りる駅をひとつ乗り過ごしてからだった。




 そしてなぜかまた向かい合って食卓を囲んでいる翌日土曜の晩。今日は和食じゃなくて中華ですけど。夜の飲茶コースですけど。急に誘われたからチュニックにパンツというめっちゃ普段着ですけど。せめての抵抗でちょっといいストール巻きましたが、同じラフな普段着でもカットソーにジーンズの課長に負けてる気がするのはどうしてでしょうか。素材の差ですね。くうっ。

「……なんで私、課長と二日連続で夕飯ご一緒してるんでしょうね」
「俺が誘ったからだな。で、食べ物に釣られたんだな」
「だって丁度、中華の気分だったんですよ。どうして私の食べたいものがわかるんですか、なんか仕込んでます?」

 課長はくつくつとまた楽しそうに笑ってこっちを見ている。

「いや? よっぽど気が合うって事だな」
「うう、なんか悔しい……これ、食べちゃいますよ」
「小籠包、足りなかったら追加するぞ」
「間に合いますよぅ、ああ、もう、熱いし美味しいし」

 お店の人が丁度次のセイロを持ってきた。うわお、海老シュウマイ。透明感のあるプリプリの生地がいいね。こちらの華僑の店主さんとも顔見知りらしい……課長、何者?

「お嬢さん、美味しそうに食べるね。おじさん嬉しいよ」
「本当に美味しいです。この湯包たんぱおもスープ最高」
「わかる? ゼラチンなんか使ってないから。いやあ、嬉しいなあ! 片桐さん、いい子連れてきてくれたね。小籠湯包、言う子初めてだよ」
「祖母のお友達に中国の方がいらして。少し教わりました」

 不思議そうに見る課長と、面白そうに見るお店のおじさんに向かって種明かしをする。

「こんなに美味しくて、形も綺麗。尊敬します。ぜんぶ食べます」

 にこにこ笑って言えば、奢りだと青島ビールを出してくれた。やったね。今日は課長が車を出してくれて運転手なので一人で飲みますよ。目の前ですみません、ご馳走様です。

「詳しいな」
「一時、はまっててよく作ってましたから。肉まんなんかは今でも得意ですよ。湯包…小籠包は難しくてとても無理」
「へえ、生地から作るのか」
「ふふ、むしろ他に何を作るんですか」

 聞かれるままに作り方など披露したけれど、退屈する様子もなく楽しげに聞いてくれる。途中で入れる合いの手が絶妙でつい話しすぎた気もする。
 ビールで軽く酔ったこともあってかなんだか楽しくなった。こんなに自然に “楽しい” と思えるのは本当に久しぶり。もうどうして課長と一緒に、とか考えるのも面倒になって目の前の食事に集中する。美味しいごはん、楽しい空気。小さな疑問やモヤモヤなど、勝てるわけがない。
 デザートは杏仁豆腐と温かいジャスミンティー。定番コースはやっぱりこれで締めたい。

「課長、昨日のお店といい、美味しい店よくご存知ですね」
「友人にこういうの探すの好きな奴がいてな。けっこう外れがない」
「素敵なお友達……」

 ほう、なにそれ、羨ましい。ぜひ私もお友達に。

「残念ながら、デザート系は範疇外なんだが。もう少し寒くなったら鴨南蛮の旨い店もある」
「鴨!」
「はは、楽しみにしてろ」

 え、あれ、今ナチュラルに冬まで予約された? ああ、でも、鴨南蛮……。

「まあ、食べ物でもなんでもいいさ。釣られているうちに俺に慣れればいい」

 ぶっ。考えないようにしてたのに、ぶち込んできましたね課長っ! 店内はいい感じに騒ついていて、誰も他のテーブルになど注目していないことにほっとする。

「課長……ジャスミンティー吹くところでしたよ。それ昨日の冗談じゃ」
「いや、いたって本気」
「いやいやいや、ありえませんて。ろくに話もした事ないのに」
「昨日からすごい勢いで話してると思うが?」

 そうじゃないでしょうよ。思わず目を上げれば、楽しそうにしながらも真剣な眼差しの課長とバッチリ目が合って狼狽える。

「仕事ぶりを見ていれば、おおよその人柄はわかる。気付いていないだろうが、二課の三枝葉さえぐさようは定評がある。一課に欲しいとずっと言っているんだがな、渡辺課長が手放さなくて」
「……初耳でございます」

 途中入社の私はずっと営業二課で、もはやお局の域。異動や引き抜きだなんてそんなこと、かすりもしなかったのに。

「まあ、それだけではないが。それに昨日今日と一緒にいて、間違いでなかったと確信したしな。こんなに同じ飯を食うのが気分がいい奴はそういない」

 いやっ、そこでその笑顔っ!? ちょ、ちょっと、顔が熱くなるんですけど。 いやこれはビールのせい。そして熱々のジャスミンティー。そう、絶対。心臓ドキドキしてるのも、そう。

「髪型変えたろう? たったそれだけで社内の男どもが見る目を変えてな。ついでに佐々木だ。それこそ冗談じゃない、俺が何年待ったと思って」
「はいっ?」

 あ、しまったって小さく言ったのが聞こえた。何年って言った? え、なにそれ課長、何年も前からってこと? やだ課長まで赤くなってる。私の視線に諦めたのか、口元を押さえながらボソボソと話し出した。

「……ここまで言うつもりはなかったんだが。ああ、もういいか……四年前だ」

 話すから、話すけど取り敢えず店を出ようと、店主にご馳走様をして外の駐車場に行き、なんだかふわふわした気分のまま助手席に座った。黙って車を出した課長がぽつぽつ話し出したのは、赤信号を二回止まってからだった。

「四年前、俺が課長に昇進して周りがバタバタしていた。年齢も若かったこともあって、つまんないトラブルも多くてな」

 最年少で課長に、しかも花形部署の営業一課。やっかみが多かったことは、当時入社早々の疎い私の耳にも届いた。

「まあ、仕事で見返せばいいかと思っていたんだが、気にしていないようで気になってたんだろうな。新人のちょっとしたミスに気付かずに、大穴を開けるところだった。慌てて回収処理をしたんだがどうにも手が足りなくて……高遠の、一課の仕事を手伝ったことがあったろう」
「え……ああ、あの時。私が勝手に手を出したんですよ。頼まれたわけじゃないです」
「いいんだ、高遠にもかなり無理をさせたし実際助かった」

 毎日遅くまで明かりの灯る隣の部署を覗けば、事務の子の尋常じゃない目の下のクマに驚いて、思わず終業後にこっそり終電近くまで仕事を手伝ったんだった。丁度、あの人と別れたばかりだったから、一人でいるより何かしていたかったってだけなんだけど。それがきっかけで千香ちゃんと仲良くなったのだ。
 話しながらも課長の運転はブレがなくて安定感がある。

「その時から “二課の三枝葉” のことは俺の中に残った。ゴタゴタが片付いて、礼がてら食事にでも誘おうかと思ってた時に退社するところを路上で見かけた」
 
 課長は前を向いたまま少し言いにくそうに言葉を続ける。

「声をかけようとしたら、泣いていた」
「……え」
「あの、画廊の前で少しだけ泣いて、また普通の顔して歩いて行った」

 それで、声をかけそびれたと。

「その時から気になって仕方がなかった。その後も会社では全く普通どおりで、あの晩のは見間違いかと何度も思ったが……どうしても気になって」

 そう言って課長は黙ってしまった。音楽もラジオもつけていない車内はしばらくロードノイズだけが低く響いていたけれど。

「昼間、あの画廊に行ってきた」
「っどうして、」
「実物を見てみたかった。悪い」
「いえ、別に悪くは……」

 見たかったのは絵なのか、それとも。

「盛況だったよ。おかげで販売員も傍に付かれずにゆっくり見られた。絵画は全く門外漢でよく分からないが、何というか……力のある絵だった。小さい絵でも迫力があって引き込まれるというか」

 そう語る顔は真剣で、冷やかしでなく行ったことはよく伝わってくる。

「……あのひとは、描かずにはいられない人なんです。彼の家は経済的に恵まれてなくて。あれだけの絵を描けるのに高卒で就職しました」
「それは勿体無いな」
「彼が弟たちを養わなくてはいけなくて。働きながら絵を続けていたんですけどね、やっぱり難しくて」

 睡眠を削り、身体を損ないながらも描かずにはいられないひと。思うようにならない現実に、彼の心がゆっくり潰されて壊れていくのを傍でずっと見ていた。
 見ていることしかできなかった。

「そんな時、知り合いの伝手でたまたま画廊に持ち込んだ絵が売れました。それを買ったのは資産家のお嬢さんで、彼と彼の絵を気に入って。結婚を条件に後援を約束してくれましっ、ひゃっ」

 ガックン、って。ああ、赤信号、びっくりした。今まですっごいジェントルな運転してたのに、変な声でたわ。

「っ、悪い、乱暴に踏んだ」
「いえ、大丈夫です。まあ、そんな訳ですよ」
「そんな訳って、いや…ちょっとそれは、あんまりじゃないか」
「そうですか? ううん、そう、彼にとって絵を描くことは息をすることと同じなんです。止めたら死にます。恋や愛は生命維持の前には決して出ませんよね」

 なんとなく顔を向けられなくて、窓の外に流れる景色を眺めていたから表情はわからないけれど、課長は静かに長いため息を吐いた。

「大丈夫ですよ、お嬢さんはもとより家長のお爺様が随分彼に惚れ込みまして。もし離婚しても援助は続けるって契約書も交わしたって聞きました。私ではあんなサポートは無理です、絶対に」

 海外のアトリエ、数多くの資産家の知己、実家の借金の返済と援助。何よりも、絵に没頭できる時間……必要な対価は彼の身一つ。もちろん彼の技量と画壇の動向を見定めて、天秤にかけた上での申し出だろう。でも結局そんなことは関係なくて。

 彼のような人には夢のような環境。手が届くなら伸ばさなければ、嘘だ。

「……それで良かったのか」
「そりゃあ、ずっと一緒にいましたし、嫌いになって別れるっていう話じゃありませんでしたから。でも、私は『絵を描く彼』を好きになったんです。どうしてその筆を折らせることができますか」
「三枝」
「優しいひとだから家族を捨てられず就職したし、私のことも捨てられませんでした。だから、私が彼を捨てました……課長が見たのは、まあ、そんな頃ですね」

 大好きだった。本当に大好きで、ずっと一緒にいたかった。キャンバスに向ける眼差し、描いていると聞こえなくなる耳、絵の具のついた指。私だけに向けてほろりと溢れる笑顔。
 ……それら全てが私から消えても、生きていてくれた方がずっといい。

 円満な別れだったとはとても言えない。どうしても別れないという彼に酷い言葉と態度で一方的に絶縁を告げて。実家からも出て職も変え、彼の前から姿を消した。
 心に抜けない棘のように、毒のように残った別れは、それでも、日が過ぎるうちにだんだんと胸の痛みも穏やかになった。けれどそれと同調して、私の心は繭に包まれたかのように外からの刺激に反応しなくなってしまったようだった。

 楽しい、面白い、恋しい。そんな気持ちは薄い膜を通したようにぼんやりとしか感じられなくなっていた。
 家族も友達も心配そうにしながら待っていてくれている。長く引きずりすぎている自覚はあるが、心が騒つかないこのぬるま湯が心地よくて、自ら足を止め繭の中で目を閉じているのも確か。

 二人とも黙りこんでしまえば相変わらず車内に音はなく、ぼんやりと外に目をやり続ける。

 課長はいい人だ。仕事にも真摯だし、人間的にも尊敬できる。昨日と今日と一緒に食事をして、とても過ごしやすくて……こんな魅力的な人はなかなかいない。これ以上近くにいたら惹かれずにはいられないだろう。
 話してて知ったけれど、実はおじいちゃんっ子なのも私的には好感度が高い。共働きで忙しい両親から預けられて、中学くらいまでおじいちゃんの所で過ごしていたらしい。しばらく会いに行けていない、と言ったその顔は本当におじいちゃんが好きなんだなぁって伝わってきて、心が暖かくなった。
 だからこそ、私なんかよりもっと素直で可愛らしい女性ひとと一緒になった方が幸せだ。

 お互いにそれ以上話さないまま、夕方に待ち合わせた私のアパート近くの公園に到着した。

「ここまでありがとうございました。そんな訳ですので、私みたいに後ろ向きなのじゃなくて、課長はもっとお似合いのひとを探してくださいね」
「いや、それは別の話だな」
「え」

 降りようとした腕をやんわりと、でもしっかりと捕まえられた。

「元彼と別れた経緯には同情するが、三枝は復縁を望んではいないんだろう」
「そりゃあ向こうは既婚者ですし、私だって今更どうこうは。ただ、恋愛はいらないかなって」
「じゃあ、問題ない」

 肘のあたりを捕まえていた手はいつの間にか手首へと移動して。くるりと返された手のひらに当たるのは、ひんやりと柔らかい課長の唇……!?

「っひゃ、か、課長っ!?」
「それなら全力で口説くだけだな。女の恋は上書きなんだろう? 三枝、ずっと課長って言ってるが、俺の名前知ってるか?」
「し、知ってますよ、片桐課長」
「下の名前。ほら、言ってみろ……よう
「っ!?」

 知らぬうちに外されたシートベルト。耳元で甘く囁く声に、手首を掴む手に心臓が跳ねた。なにこれ、今、この辺がぎゅんって鳴った……耳鳴りのように心臓の音が響いて、男らしくも形の良い人差し指の背で撫でられる頬が熱い。
 なのに課長は色素の薄い瞳を嬉しそうに緩ませ私の目を覗き込んで、また蜂蜜のような毒を私の耳に流し込む。

「葉。俺の名前は……?」

 息がかかるほどの近い距離。困ったのはちっとも嫌じゃないってこと。すっかり動転した私の口から出たのは、

「か、片桐はい「せめて同性にしてくれ」

 思わず言おうとした女優さんの名前を途中で遮った課長はがっくりとしてしまったけど、力が抜けた手からこれ幸いと抜け出す。課長が顔を上げた時は、もう外に足がついていた。

「あ、葉っ」
「課長、美味しいお店に連れて行ってくれてありがとうございましたっ、では、おやすみなさいませ!」

 慌てて公園の脇を小走りで去る。曲がり角の前で振り返れば、仕方ないなって顔をした課長が車の脇に立って気を付けて帰れと手を振っていた。
 ちゃんと体を向けてもう一度礼をして角を曲がりまたアパートまで走りだす。足早に階段を上がりガチャガチャと騒がしい音を立てて鍵を開ける。部屋に入って、後ろ手で閉めた玄関の扉にもたれてようやく息を吐いた。耳に残るあの声、……知ってるわよ、名前くらい。

「片桐……大樹ひろきさん、」

 思わず溢れた声に自分で驚いて、そのままずるずるとたたきに座り込んでしまった。今この胸が煩いのは、久しぶりに走ったせい。きっとそう。

 そして私は手のひらに残る感触に、眠れない夜を過ごすのだった。


お読みいただきありがとうございます。

片桐課長視点「睡蓮に恋をする(N8318DM)」(タイトル上のリンク、及び、左下の作者マイページから繋がります)に後日談も投稿しています。
そちらもお楽しみいただければ嬉しいです。

2016.11.7 小鳩子鈴
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