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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…四〇六六号室・2

 松子夫人は苦笑した。老人はジッと二人を見下ろす。髭を撫でている。

「いや、それでもすごいよ、マツコ」

 老人は微笑む。三毛は老人を見上げる。

「しかし、この子は元気だね。良かったよ」

 

「さあ、入りなさい」

 老人は自分の言語で少年を部屋へと促した。ニコニコ笑っている。

 この船で彼の本当の言語を耳にすることが出来るのは、三毛と少年だけではないだろうか。木管楽器が鳴っているような、深さと古さが感じられる発音で、三毛は何となく好きだ。だけど、孤立した言語だ。誰にも伝わらないのだから。少年と同じだ。

 でも、英語やフランス語やスペイン語を母語としている住人たちが孤立していないというわけではない。彼らは皆孤独だ。

 だけど、何故老人のこの言葉は、三毛に寂しさを感じさせるのだろう。

 三毛は老人に抱かれている。茶色い三毛の毛が、老人の白いスーツの胸元に張り付いている。

 老人は笑っている。少年は老人に背中を押されながら不機嫌に細長いドアの枠の下を通りすぎる。

 老人は作り笑いを一瞬たりとも崩さない。

 ドアは静かに閉じた。

 

「君はどこに寝る?」

 老人の白い部屋は、陰影が無ければ本当に真っ白だ。純白の絨毯を踏みしめながら、三毛は辺りを見回す。少年の丸く開いた目と、突き出された唇が、この特異な部屋に対する驚きをささやかに表していた。

「ベッドはあるよ。二つ」

 老人は長い足をゆったりと前後させて、丸い部屋の壁に付いた五つのドアの一つを開いた。中には確かにベッドがあった。しかも、少年にピッタリの小さなベッドが。

 何だか妙に都合がいい。三毛は首を傾げた。

「眠いだろう。もう子供が寝る時間だ。さあ、寝なさい」

 老人は腰を屈めて少年に微笑みかける。少年は仏頂面で横目に彼を見る。

「さあ」

 態度は柔和な癖に、老人はやたらに少年を寝かせたがっている。

「さあ」

 老人の手が少年の背中を強く押した。少年がよろける。

「寝なさい」

 少年の目に怯えの影が見える。老人は相変わらず優しく微笑んでいる。

 ただ、手だけが乱暴に少年を押している。

「あっ」

 少年が小さく悲鳴を上げた。彼は突き飛ばされるようにして部屋に押し込められた。

「じゃあ、おやすみ」

 老人は静かにドアを閉じた。

 三毛はその間、薄暗い部屋の中の少年が、倒れた床から立ち上がろうとしているのを見ていた。老人が押したせいで、彼は絨毯につまずいて転んでしまったのだった。

 

 閉じたドアの向こうからは何も聞こえてこない。ただ、振り返った老人は相変わらずニコニコ笑っていた。

「三毛、私と一緒に寝ようか」

 三毛は初めて老人が怖くなった。

「私は眠い」

 老人が三毛に近付いてくる。

「あの子が来てから全然眠れないんだ」

 三毛は後退りする。

「馬鹿げていた。あの子の体をあんなに心配するなんて」

 三毛はあっさりと捕まって、老人の長い指に絡めとられた。

「クソガキ」

 三毛は老人の寝室に連れていかれた。抵抗できなかった。体がこわばっていたからだ。

 

 ぎこちない夜が、ゆっくりと更けていく。

 明け方、誰かが咳をするのを聞いた。三毛は老人のベッドの上で、まんじりともせず起きていた。その真横に顔を置いた老人は、ピクリとも動かずに眠っていた。

 そういえば、眠っているのが老人の日常だった。以前松子夫人がここに連れてきてくれた時、老人は快活に話していたが、やたらに目をショボショボさせていた。この部屋の前を通るときは、眠る者の静謐さがドアの隙間から漏れてきたものだ。

 老人は今、例外的によく起きている。あくびさえしない。

 三毛は横にそびえる老人の横顔を眺めた。少年よりやや色褪せた褐色の肌は、紙のようにかさついていた。弱々しい睫毛が、瞼の合わせ目にみすぼらしく生えている。

 生き物じゃないみたいだ。

 三毛は機械的に息を吐き出す口を見つめた。白く艶の無い口髭の束の隙間に、それはうっすら見えた。乾き、ひびわれた木のうろのような口だった。

 咳の音がまた聞こえた。今度は聞き流せないほど激しい咳き込み方だった。咳の主は

 唸り、あえいでいる。

 少年だ。

 三毛は立ち上がった。少年がまた咳き込んでいる。苦しげに、声を上げる。助けを求めている。三毛の心臓が早鐘を打った。

 老人を起こさなくてはいけない。

 三毛は老人の髭をくわえて引っ張った。行儀よく真っ直ぐに流れていた髭が乱れた。だけど老人は起きなかった。

 それならばと鳴いてみた。耳元でニャアニャアとわめいた。それでも寝息は規則正しく続く。

 首に爪を立てた。老人の緩くなった皮膚は、あっさりと傷付いたが、老人はただただ眠っていた。

 このまま起きないのかもしれない。三毛は呆然と老人の大きな頭を見上げた。永遠に起きるのを止めてしまったのかもしれない。

 だって、船が変わってしまったから。老人は変わってしまった船に用が無いのだ。

 船を変えた少年の世話をする気なんてもはや無いのだろう。初めはいつものように船の新しい住人を歓迎していたけれど、この気にくわない子供には、もう親切にする気は無いのだろう。

 

 壁越しに、子供の泣き声が聞こえる。咳が激しさを増す。苦しいんだ。三毛はおろおろと床に飛び下り、寝室のドアに駆け寄った。

 また、ニャア、と鳴く。呟くように。自分の無力さはよく分かっている。

 その時、また違う声が聞こえた。歌うような声。

 鳥の声が聞こえる。三毛は目を見張った。

 スチュワートのカナリヤが、どこかにいる。

 カナリヤがチチチ、と鳴いた。本当に綺麗な声だった。三毛は聞き惚れた。少年の泣き声も、少し小さくなったようだ。

「何だ。あのカナリヤは鳴かないんじゃなかったのか」

 後ろから老人の声が聞こえた。三毛が振り返ると、寝間着を着た老人が、室内履きを履いて立っていた。

 三毛は驚いて老人を見上げた。瞼はキチンと開き、まるでさっきまで熟睡していたのが嘘のようだった。

「あの子がまた調子を悪くしたみたいだね」

 老人は壁を見た。三毛の耳に、再び少年の唸り声が届いた。

 老人はそのまま動かなかった。三毛は不安になって老人を見つめた。まさか、このまま放っておくつもりだろうか。

 一瞬の沈黙。

「大丈夫かな」

 老人は歩き出した。三毛は体全体の筋肉が緩まっていくのを感じた。

 老人についていくと、少年は涙目で三毛たちを見た。三毛は胸が苦しくなった。また血の臭いがする。

「助けて」

 少年の瞳がそう訴えかけてくる。三毛はたまらなくなって、自分の方が泣きたくなる。

「時間が止まっているんだよ、坊や。君は永遠にそのままなんだ」

 老人が少年の横たわるベッドに近付きながら呟いた。三毛はドキリとして老人を見上げたが、表情からは何も読み取れなかった。老人はまた笑っていた。

「苦しいかね」

 老人は優しく微笑みながら、少年の口許を濡れたタオルで拭いた。初めほどでは無いが、少年はまた吐血していた。汚れたベッドはゆっくりと元に戻っていく。しかし、少年は際限無く血の混じった唾を吐き出す咳をする。

 部屋は少年のヒュウヒュウというせばまった気管から漏れる吐息の音と、そこから広がる血の臭いに満ちていた。三毛は少年の枕元に座ったまま、果てしのない悲しい徒労感を覚えていた。

「君は病気が重いときは大人しいね」

 老人が少年の汗ばんだ小さな額を撫でた。

「可哀想に」

 フウ、と溜め息をつく。三毛はぼんやりと老人の息で揺れる髭を見つめている。

 いつになく不安そうな少年が哀れで仕方がない。落ち着きなく目を動かし、まるでどこかに逃げたがっているように見える。船からは逃れられないというのに。

 治らない病気。船は少年を不幸にするために彼を己に取り込んだのだとしか思えない。

「でも、その方が好きだよ。私はね」

 暫く少年の顔を拭くのに時間を費やした後、老人がそう囁いた。笑っている。三毛は総毛立つのを覚えた。

「永遠に、君は病気でありつづけるよ。永遠に、君は寝たきりなんだ。少しよくなっても、ほら、こんな風にすぐに元に戻る」

 老人の笑顔はこの場にふさわしい物だった。大袈裟でない慰めと、優しさがそこに見える。

 しかし、通じない言語で喜ばしげに囁くのは、それとはちぐはぐな言葉だ。

「私は君が苦しんでいる方が嬉しいよ」

 老人は微笑みながら少年に薄い布団をかけてやった。

 三毛はやっと分かった。

 少年がこんなに不安がっているのは、老人を恐れているからだということを。

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