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何故異世界転生ファンタジー小説だらけなのか

作者: 未設定

◆前書きとして

このエッセイは改訂版です。このたびで二回目の改訂になります。


この度はつたない文章を改めること、および少々表現上に問題のありそうな部分を置き換えさせていただこうと思い、改訂する次第でございます。

◆序論

 最近、ファンタジー小説を見かける機会が増えたように思う。それはこのサイトの特徴と言っても過言ではないように思われる。

 例えば、このサイトで小説を読んでいるとき、「この小説の読者が他に読んでいる小説」として小説がおすすめされるのを、読者の皆様は目の当たりにしたことがあるだろう。その時におすすめされる小説のほとんどは、面白いことに、ファンタジー小説がほとんどなのである。

 無論このサイトにはファンタジー以外の小説は存在するのに、である。


 今回、このエッセイでは、そのファンタジー小説について取り上げたいと思う。何故なら、このサイトの閲覧数上位がほぼファンタジーで占められている、という不思議な現象についての、一種の考察を提示したいからだ。


 考察を示す前に。

 ファンタジー小説とそうでない小説とでは、書き手と読み手の系統が若干異なるように思える。前者は、幅広い層の著者と読者が存在し、後者はファンタジー程には存在しない。

 ファンタジー小説は万人が馴染みやすいということだろう。ファンタジーが馴染みやすい故か、新しく小説を始めたい人はファンタジーを選んでいるように見受けられる。


 いや、彼らが書きたいと思った作品が偶然ファンタジーだったのかもしれない。ファンタジー小説が多いから、それらに影響されて作品を書く人も比例して多いのかもしれない。

 しかし、数々の筆者がファンタジー小説を選ぶ理由は他にもあるはずだ。

 ここではそれを考察したい。





◆ファンタジー小説における「魔」

 まず、ファンタジー小説を語るにおいて、外せない存在について述べておきたい。

 それは、魔法の存在だ。

 Fantasy、という言葉が幻想、という意味である以上、魔法の存在は自然なのかもしれない。

 大抵のファンタジー小説には――もしかしたら全てのかも知れないが――魔法が存在する。



 魔法。

 魔法とは、定義の難しいものである。魔の方法、魔の法則。ともかく「魔」と付くからには、人ではなく魔について適応されるルール、及び手段と見てよい。


 では、「魔」とはなんであろうか。

 こちらの定義も難しい。魔がさす、好事魔多し、などと「魔」とは邪魔の魔、つまりよこしま(邪)な存在なのだ。

 しかしその一方で、最近はプラスマイナスの無い、中立的な意味でも用いられるように見受けられる。


 一例を出すと、それは魔女だろう。

 魔女も、昔こそはその不名誉な肩書だけで、処刑に足る存在であった。

 中世に横行した魔女狩りでは、対した証拠など無くとも、魔女という肩書だけで人を裁いたものだ。


 一転し、今では魔女はファンタジーの担い手として、ヒロインを務めたり、そうでなくとも社会に溶け込んだ存在として登場する。

 魔女狩りの時代から鑑みれば、これは大きな変遷とも言えよう。


 一体何故、ここまでの変化が生まれたのか。



◆価値観の変化

 これは、人々の間に、自立した思想と倫理感が生まれたことを示唆しているように見受けられる。


 自立した思想とは何であろう。

 昔の人々には、人権らしい人権と言うものは保証されておらず、王の言葉は絶対、神託は絶対、という世界だった。


 キリスト教が悪いのでは無いが、教会などといった組織は、やはり人の運営する機関の性だろうか、徐々に腐敗がすすむ。

 そして遂には、既得権益を守るために、ひいては自分の懐の為に、信者をコントロールするようになる。


 陳腐な言い回しだが、頭だけすげ替えれば長持ちするような組織は、往々にして既得権益を所持しており、その権益に頼って存続している場合が多い。

 そうでなければ、長いときを淘汰されずに生き残る組織は少なくなる。



 話は戻る。騙される信者の話だ。

 昔こそは騙される人がいただろうが、今では、どうだろうか。

 確かに、信者をコントロールするような詐欺は今でも存在する。が、果たして万人が万人、その詐欺に騙されようか。


 大多数の人々は冷静に判断して、自分の考えで行動するだろう。

 これは各人が、自立して考えるようになったからだ。昔は権威の代名詞だった教会も、今ではその力は無い。

 それに伴い詐欺も巧妙になったが、大多数を相手に仕掛けるペテンは、もはや少ない。



◆倫理感の発達


 今度は倫理感の話へ進む。

 昔は、キリスト教の教えに反する言動は出来なかった。それをすれば最後、魔女狩りである。

 だが、今の時代に魔女狩りなどが為されるだろうか。

 死刑ですら賛否の別れる今の時代など、昔には想定出来なかっただろう。


 死刑。

 とある調査には、一人処刑すれば五つの犯罪が減る(死刑を廃止したらそれだけ割合が急増した)とも言われている。しかし、別の国の調査には目立った犯罪抑止の効果は見られなかったそうである。

 冤罪による死刑の執行の可能性は、軽視できない。


 ちなみに、費用対効率では、死刑制度を設けた方が勝る。

 無期懲役は最終的なコストが高く、また牢獄の許容収容数を圧迫する。

 さらに、日本には、死刑の代わりに設けられるはずの刑罰、終身刑は存在しない。

 無期懲役とは期限「未定」の刑罰であり、「ほとぼり」が冷めたら、囚人が申請を出せば出獄できる。


 効果論を適用すれば、この制度は有用な物だと結論づけられる。

 それでもなお死刑に反対する人間がいる、ということは、倫理感が効果論と同じぐらいに一般人に浸透した証拠と見てよい。



◆以上二つによる、ファンタジーの変化


 倫理感は、効果論を凌駕しかねないほどに成長した

 そして倫理感は、ファンタジーの生き物に人権を与えた。


 そもそもがファンタジーの生き物には、人権など無かった。彼らは人間社会的な存在じゃなかったからだ。

 彼らは彼らのルールで動き、倫理感も全く人と異なる。

 つまり、彼等の営む生活のルールが人間のそれとは違う根本にある訳である。そんな彼等に人間のルールを当て嵌めても無駄だったのである。



 今のファンタジーでは、人間の暗黙のルールが魔物達にも適応されているケースが多い。

「見た目が人に近い」「服を着る」「一日三食」「二足歩行」「道具を駆使する」…挙げれば限がない。


 ここまでは、まだ魔物の身体的特徴とも言えるだろうか。

 しかし、以降の特徴は全て、魔物に人間的社会性があることを前提にしたものである。

「名前がある」「会話が出来る」「文化や集落がある」「身分がある」「倫理的な判断力がある」



 恐らくは、この変化は「ファンタジー小説」なる分野が確立されだした頃に生まれたものだろう。

 有名な物で言えば「指輪物語」も、この特徴が見られる。

 (ギリシャ神話においても似たような特徴が見られ得るが、これはギリシャ神話における人の扱いが「神に愛されて作られたもの」という扱いだから「人の振る舞いと神の振る舞いが似通って当然」ということなのかもしれない)


 この変化の背景には、人の「未知なる物」に対する姿勢の変化が見られる。

 それとは一体何なのか。

 分かりやすいように、まずは「神」について話を進める。



◆未知なる物への姿勢

 昔は自然科学が発達してなかったため、神の存在が信じられていた。

 日本では馴染みが薄いかも知れないが、海外において、特にヨーロッパやイスラム圏においては、それだけ宗教の政治的影響力は強かったのだ。

 むろん、宗教と言っても、私達の想像する訝しい物ではなくて、もっと厳粛なものである。


 また、向こうの国では清廉なクリスチャンであることは、礼儀の正しさを示していた。

 丁度「食事の前には食べ物への感謝としていただきます、をする」「仕事を怠けないように、神に誓って自らを戒める」などが、我々の感覚的に近いのではないだろうか。


 このように、昔の彼等にとっては神への感謝は日常行為だったと言える。

 ところで何故、神などという超越した存在を憧れるのか。

 それはというと、昔は自然科学が発達してなかったためなのだ。


 昔の人は、理解の範疇を越えた存在に畏怖の念を抱いた。

 その畏怖の念とは、未知なる自然への畏敬と、当時では説明不可能な現象へのおののきの事である。


 彼等は、その現象を説明するために「神」なる存在を作り、「精霊」「悪魔」なるものを考え出した。

 当然、昔の人の畏怖の念は、話に尾ひれを付け加えて、ファンタジーの住民はまさしく「幻想化」されていったのである。

 畏怖の念が、彼等を彩り、人とは超越した存在に作り上げたのだろう。




◆現在のファンタジー

 しかし、今はファンタジーの住民は親しみやすい存在、人間社会的な存在へと変わりつつある。

 彼等を彩った畏怖の念は、今はもうない。科学が進み、説明不可能な現象が少なくなったからであろう。


 あるいは、我々が説明不可能な現象に直面しても、「科学的には説明出来るんじゃないかなあ」とぼんやり考えるだけで、たいした危機感を覚えないだけかもしれない。

 実はこれこそが、今回の私のテーマである。



◆テーマ

 ファンタジーが人々の間に浸透したことの意味することは、良いことだけではない。

 先程指摘した通り、無知を促進しているからだ。


 そもそも、小説を読む人にはしかるべき知識が要求されている。

 作者が伝えようとする事に対応すること、その為の読解力と知識が必要なのだ。


 例えば作者が湖の綺麗さを伝えたかったら、「木の影をぬって水面に瞬く光」「透き通った色」などの言葉を使うが、読者はそれを「照っている」「透明色」と翻訳して理解しなくてはならないだろう。もちろん、その敷居を出来るだけ低くすることが作者の技量の見せ所ではあるが。


 知識に関することならば、予め筆者が説明を入れることもあるだろう。例えば、水の沸点は高いところに行けば下がる、などである。


 読書とは、読者と筆者の知識が多分に要求される行為なのだ。

 しかし、小説ならではの例外がある。

 作者が独自の設定を設けることだ。

 例えば、その小説内において、魔法で水を一瞬で沸騰させてしまえば、沸点の議論は一気に解消してしまう。


 もちろん、この自由性に関してはファンタジーが群を抜いて卓越していることは周知の事実だ。

 別にファンタジーは全て作者の自由という訳ではない。

 しかし、魔法という「理解を越えた存在」が、それを可能とさせている。


 理解を越えているのに、読者は何故納得出来るのだろうか。

 ここが「無知の促進」の焦点になる。






◆理解を「越えた」≠「超えた」存在


「越える」、と「超える」の違いをまず話しておく。

 越える、は「物の上を過ぎていく、障害を乗り越えていく」の意味がある。

 つまり、「ある物体が、他の物体と比べて位置的に上位に存在する」という意味を持つ。

 この意味は、超える、には存在しない。


 超える、は主に「ある限度を過ぎてそれ以上になる、上回る」を意味する。

 越える、にもこの意味はある。

 しかし、広辞苑を参照にするなら、「超える」のほうがよりフォーマルである。


 ここで私は、魔法が、理解を越えた存在、から、理解を超えた存在、に変化したのではないか、と提唱したい。

「理解」の次元を越えた存在、から「理解出来ないだけ」の存在に成り下がったということである。


 つまり、「理解できる現象ではない神秘的なもの」から、「現実では理解出来ないことを起こしたいから、それを説明するために作った作者のルール」へと変わったことである。


 どんなファンタジー小説の魔法も、必ず多少は後者の意味があるだろう。しかし、最近は、それに頼りすぎるファンタジー小説が多いのだ。




◆まとめ

魔法 = 「理解を越えた存在」 = 「【理解】という次元より上位に存在し、(現実の)理で解釈するものではない」ものの一つ。

「魔」⇒「理解と言う次元を越えたもの」


だから

「現実の理で解釈できないもの」 = 「魔」は「畏怖」を付随する。

ここでの畏怖は、我々が幽霊等に抱く、理解出来ないが故に抱くタイプの怖さのことである。


「畏怖」は「一種魔術めいた存在」を「幻想化」していく。

 例えば、今では単なる噴火でも、昔は神の怒りであり、神の仕業であった。


 こうして出来上がった「ファンタジー世界」には「畏怖」が付随しており、それがファンタジーを彩った。


 簡単に図式化すると、以下の三項目になる。

「魔法」→「理解出来ない」→「怖い」

「理解出来ない現象」←「魔法のせいにして納得する」

「ファンタジー世界」←「畏怖の念によって、より複雑に神秘的に変化」



 しかし、ここで人の価値感が変化した。

「理解出来ない現象」の殆どが科学で理解できるようになった。

 今までは、宗教は「神の威光」 = 「神の持つ畏怖」によって保護されてきた。

 しかし、科学主導の世になると、宗教は力を失う。

 当然、宗教が人々に教えて来た「規範」 = 「倫理的なルール」は変化する。




 図式化すると以下になる。

「宗教」→「人々にルールを与える」→「価値観も宗教に縛られる」

「神の畏怖」→「宗教を裏付ける存在」

 ↑

「理解出来ない存在の持つ畏怖」←「理解出来ない存在を、科学が解明」

∴「ルール」が変化→「価値観」も変化




 価値観の変化により、人々は「理解を越えたもの」 = 「魔」に対して、畏怖を抱かなくなった。

 理由は、科学が「理解を越えたもの」を「理解出来る」ようにしてくれたからである。

 これにより、人々は「ファンタジー世界」を幻想的たらしめていた「畏怖」から解放された。


 昔はファンタジー世界の魔物が現実に存在していて、それらが我々を襲う恐怖がどこかにあったはずである。

 しかし今は、ファンタジーが科学に完全に否定されて以来、ファンタジーは空想娯楽の一種になった。

 そのため、ファンタジーの存在を、まるで身近な存在として感じるようになったのである。

 今日、我々がファンタジー小説に感じている感情は、こういった「憧れの世界が身近に感じられる恍惚」に外ならない。







◆浮上する危惧


 ここで、話を戻そう。

 ファンタジーが無知を促す、とは一体何なのか。


>理解を越えているのに、読者は何故納得出来るのだろうか。


 これは前に述べた文である。

 これに対する、私の解答はこうだ。


>あるいは、我々が説明不可能な現象に直面しても、「科学的には説明出来るんじゃないかなあ」とぼんやり考えるだけで、たいした危機感を覚えないだけかもしれない。


 こちらも前に述べた文である。




 科学は、余りにも鮮やかに、我々の身の回りの疑問を解消した。

 その変化は驚異的である。


 いつしか、不思議な現象への畏怖はどこかへ消え、人々から畏怖の念が薄れたように思える。

 代わりに、理解出来ない現象に対面しても「誰かがなんとか説明してくれる」と、特に取り合わなくなった。

 不思議な現象の理解を、放棄しだしたのである。



 これでは、科学の発達以前の考えに逆戻りである。いや、別の意味でより酷くなっている。

 昔の人は、理解不能の現象を何とかして説明するために、「魔法」なるものを考え、信じて来た。

 今は、理解出来ないことは理解を放棄して、代わりに先人の作り出した「ファンタジー」に憧れるだけではないだろうか。



 いつしか、不思議な現象の理解を放棄した我々は、「【理解】の次元を越えた存在」 = 「魔」と「ただ単に理解出来ないだけの疑問」との区別がつかなくなってしまったのではないだろうか。






◆ファンタジーへの影響


 こうなって来ると、ファンタジーはやや違った見方で捉えられる。

 科学を理解できない我々が、ファンタジーの不思議に憧れる。

 畏怖を忘れた我々が、ファンタジーの不思議を解消すべく「魔法」を乱用する。

 理解出来ない現象も、「魔法」で納得する。

 これはファンタジーではない。夢だ。



 科学により「合理化」が進み、宗教の衰退により「個人の考え」 = 「自我」が人に生まれた。

 やりたいことをやりたいように出来ない「合理的」な世の中。

「自我」を満足させるべく、やりたいことがやりたいように出来る世界に憧れを持つ人々。

 この考えは、ファンタジーを別の物へと変化させた。

 そこにある「幻想性」は、「人の憧れ」によりごっそり入れ代わったのだ。



 ファンタジー小説は、ともすればこのような事態に陥る危険性があるのだ。







◆小説の変遷


 しかし、「主人公がやりたいようにやる」小説に爽快感を覚える読者はいる。

小説家も「書きたいものを書く」権利がある。

 その為の、便利な道具として「ファンタジー」が存在する。

 そしてまた、ファンタジーの世界を拝借して、そのような小説を書く事も、立派な執筆活動であることは、忘れてはならない。


 ファンタジーを題材に、痛快な小説を書くな、とは言わない。むしろ、そういう小説を誠に痛快に書ききるのは相当な技術が要求される。存分に挑戦してほしい。

 では私が主張したいことは何か。




 ここまで、長くに渡って様々な事を言って来たが、主張はシンプルな言葉に置き換えられる。


 私が主張したいのは、ファンタジーの魔法を「よく有りがちな陳腐な設定」で「作者の都合よく」作り上げるな、ということである。

 工夫が必要なのである。

 それも、作者の自分ルールを適応するだけの工夫ではない。それだけで全て解決させては、自己満足だ。

 ではどのような工夫が良いのかと言うと、「現実世界の知識を借りる」という工夫である


 そういった知識を理解し応用する心掛けは、小説の筆者も読者も、どちらも必要である。


 筆者も読者も「理解の放棄」はしてはならない。





◆理解の放棄


 理解の放棄、とは随分広い言葉である。

 ここでの意味と言葉の実際の意味に、ズレがあるので、もう少し細かく説明したい。


 まず、ファンタジーを書く筆者は、魔法の世界を考えることが大事である。

 自分の脳だけで細かく設定を加えることも大切だが、実際にインターネットなどで何かを調べて、ヒントを探してみてはどうだろうか。


 ただ単に「空を飛ぶ」にしても、「風の魔法」の一言と、「揚力を利用する、磁力を利用する、重力場による影響を受けなくなる」という一言では、新鮮さが違う。


「風の精霊の愛」「魔力の粒子の反発」「魔法陣により風を生む」など、細工を利かせる事も可能だが、それだけではいつか、筆者の知識のストックが尽きて、単調な小説になりかねない。

 それよりも、読者に新しい知見を見出ださせるような、そういった小説のほうが深い味がある。

 何故なら、読者がその小説の設定を詳しく調べることが出来るからだ。


 新しい知見の見出ださせかたにも、「現実の理論を流入させる」ことと「自分の設定を押し広げる」ことの二つがある。


 例えば、炎の魔法についても、前者は「炎とはプラズマの一種なので、例え鉄でも、プラズマ化させれば炎魔法としてコントロールできる」

 後者は「イフリートの炎は霊力を帯びているため不滅だが、魔力による炎はいつしか魔力切れで消える」

など、だろうか。


 しかし、後者ばかりでは、新鮮な小説になりえない。

 筆者自身が夢をみるだけに終わるだろう。



 読者も同様に、理解しよう、という気持ちで臨んで欲しい。

 理解出来ない文章、とは「読者の力不足で」理解出来ない文章、「筆者の力不足で」理解出来ない文章があるのだから。







◆終わりに


 ファンタジー小説が増えた理由として、私なりの結論を書く。

 それは、「日常からの脱却と、不思議への憧れ」だ。


 確かに、ファンタジーにおける魔法は、これらを可能にする。

 しかし、ファンタジー以外の小説にも、日常からの脱却と、不思議の探究は可能であると、私は思う。



 それなのに、ファンタジーが流行る理由とは何か。

「魔法」という設定が、ある意味反則的なまでに自由な力を持つからだろう。

 筆者が手っ取り早く「日常の脱却」を計る手段として、ファンタジーが流行るのだ。


 最近は、「科学」も半分反則的な存在になって来た。

 「○○の理論」だとか架空の理論により、話を作ることも可能だろう。しかしまた、この架空の理論もまた、現実の理論のいくつかを流入したものにあれば、それだけ延びしろが増えるだろう。

 何故ならば、現実の設定にあれを足せばどうか、これを足せばどうか、と夢を膨らませることこそが、物語の始まりだからである。

 人の想像力に際限はない。




 同じように、人の創意工夫に際限はない。

 現実の理論も、角度を変えたら「ファンタジー」の中で輝くものばかりだ。

 寧ろ、科学の理論は「理想物体の運動」を取り扱っている時点で、全てファンタジーなのだ。


 「自分の中で自己完結するファンタジー」を書くよりも、「現実の設定を流入したファンタジー」を書いてもらいたい。それは決してファンタジーの自由性を束縛はしないものだ。寧ろ、その自由性を補強するものにすらなる。

 ファンタジーの持つ自由性には、そういった「現実の理論」を魅力的に自由に輝かせる素質があるのだから。

◆賛成派意見

・■冤罪の可能性がある

すべての刑罰に冤罪はあるので死刑に限って反対する理由にならない。

さらに現行犯も死刑にできなくなる矛盾。

■命は取り戻せない

取り戻せないことを論点にするなら時間も取り戻せない。

ならば懲役も反対しなければダブルスタンダートである。

■死刑廃止は世界の潮流である

嘘。死刑廃止は90国、死刑存置は97国。

さらに、潮流とやらで内政を決定しなければならない理由は主権国家である以上まったく無く、

仮にそうならば真っ先にあなたは9条の廃止と軍隊を持つように主張しなければダブルスタンダートである。

■抑止力が無い

嘘。非常に大きな抑止力があると証明されている。(一件執行されるたびに殺人が5件減少する)

■国が殺人を容認するのはおかしい

刑罰は殺人では無い。正当な司法である。ならば懲役は監禁、罰金は恐喝になる。

■犯罪者にも人権がある

自然権以外の人権は国が保障したものであり国の法に反した者の人権を制限することは何も矛盾が無い。

■終身刑でいいだろ

日本の刑務所は"満員"を超えて116%の収容率になっている。場所が足りない。税金も無駄。

さらに、死刑になるような凶悪犯罪に対する罰がその程度では国民が納得しない。

国勢調査で8割の国民が死刑を望んでいると出ている。

■自分がいつか殺人を犯すかもしれないだろ!

犯しません。普通は加害者になることよりも被害者になることを心配します。

■刑務官がかわいそう!

職業選択の自由が日本にはあります。

■野蛮!

日本は世界のどの廃止国よりも犯罪率の低い国です。ちなみに廃止国は現場で射殺しています。日本では正当防衛で撃っただけで問題になります。

■死んでいる被害者よりも生きている加害者を助けよう!そのほうがインテリ!

んなこと言ってるから支持が得られないんだよ、犯罪者の味方さん。



■死刑廃止は世界の潮流である


死刑廃止国や廃止州でも、警察や軍隊の判断による死刑執行は行われている。(裁判にさえ掛けて貰えない)

それに引き替え、日本はどんな犯罪者でも(警官を犠牲にしてまで)逮捕して裁判をする権利を与え、精神異常があったり生い立ちに問題があった犯罪者には罪を軽減し、三審制を保証している国。


出典(?):インターネット掲示板2ちゃんねるより

まとめサイト【2ch】コピペ情報局

http://news.2chblog.jp/archives/51481984.html

一部過激な表現が見られますが、ネットスラング的な意味合いです。



・死刑の調査結果

・一つに死刑に対し、平均18の殺人を妨げる効果があがる(全国を対象にしたエモリー大学の教授による2003年の研究) ・イリノイ州での2000年の死刑一時廃止により、4年で150の殺人を誘発したとヒューストン大学の教授が2006年発表

・死刑を早期に執行することは、殺人を減少させる効果を強固なものにする。

2.75年早めることによって、殺人を一つ防ぐことができる。(2004年のエモリー大学の教授の研究による)


出典:らばQ

http://labaq.com/archives/50693235.html



・>イタリアは廃止の翌年凶悪犯罪が1.7倍に増加。その後も増加の一途を辿っている。

>フランスはやはり凶悪犯罪増加の為、死刑制度復活を求める世論の声が高まって来ている。

>と、云う記事も、結構見かける。


出典:掲示板の書き込みより

http://homepage2.nifty.com/yog/03shikei/002rontenz.htm#a




◆反対派意見

・ 殺人の死刑を廃止したカナダでは、廃止する前年である1975年の10万人あたりの殺人率3.09件のピーク時から1980年には2.41件に低下し、2003年には1.73件と44%低下し30年間の間で最も低くなっている。(注1)逆に死刑制度の存在による犯罪抑止効果については有効なデータが見当たらなかった。

(注1)

http://japan-lifeissues.net/writers/amn/amn_01deathpenaltystats-ja.html


出典:自己満足ぶろぐ

http://winpower.blog4.fc2.com/tb.php/296-2e7469cd


カナダ同様に、死刑廃止後に凶悪犯罪の発生率が下がった国は他にも存在します。




・最近再犯率の資料を見て思ったのは、一般犯罪の再犯率は28.9%と高いのだが、殺人罪の同種再犯率は0.9%ときわめて低いということだ[1]。殺人罪に問われた人の再犯率は16.6%だが、殺人を繰り返した人は0.9%しかいない。99%以上の人は殺人を繰り返さないのである。殺人を繰り返す人は暴力団関係者が多く、動機は激情や興奮が多い[1]。

参考

[1]「犯罪白書 〈第7編〉特集−再犯者の実態と対策」p36, p40, p43


出典:世界変動展望

http://blog.goo.ne.jp/lemon-stoism/e/79129bd49f7b50b4d02cfaadb53aacc2




・その他反対の意見

(1) 例え死刑にしても被害者は生き返らない。

(2) 冤罪の可能性が常にある。

(3) 死刑は国家による殺人であり、到底容認できない。


こちらはインターネット掲示板の書き込みを切り貼りしてまとめたものですが、反対派の意見の主要な部分なので載せておきます。出典は表記しません。死刑 賛否で検索して頂ければ…。

一般に心理学…というより統計の話ですが、死刑に賛成の人間は功利的考えが強く、死刑に反対の人間は道徳的考えが強い傾向にあるようです。例えば、賛成派は

・犯罪者を利用して人体実験を行うのがよい

・太るのは悪いことだ

…等です。勿論一種のバーナム効果である可能性が高いのですが…。



◆別意見

 殺人の代償として、被害者の心情のみを思いはかって死刑にする事も賛成できない。さりとて絶対に死刑にしないと言うのにも賛成しかねる。

 日本においてはまず終身刑を作り、死刑は例外的という認識をさらに強くするべきであろう。

 また終身刑も犯罪者の社会生活をすべて奪う事から重く考えるべきだろう。


出典:飯大蔵の言いたい事

http://iitaizou.at.webry.info/200606/article_50.html

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[一言] 個人的な見解 色んな意味で現実世界で頑張っても報われないから、異世界への逃避に憧れを抱くのかなぁと思う やっぱり、甘ったれと言われようとも自分にとって都合のよい世界は欲しいし、そんな世界の…
[良い点] ・死刑廃止論についての反論は良かった。 ・本文についても間違ったことは言っていないと思う。 [気になる点] ・本文より死刑廃止論の反論の方が簡潔かつ明瞭で面白い。ただ、題と全く関係のないこ…
2013/06/07 08:33 退会済み
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