春の少年と冬のスズラン
それは、ある真冬の夜でした。
冷たく吹きすさぶ風の中、雪と氷に覆われた森の中に、一人の少女が入り込んできました。
着ているものは、コートとは名ばかりの薄い上着に、ワンピース。手袋もマフラーも身につけてはいません。履いている革の靴の丈は短く、素肌がのぞいています。漏れる吐息は白く煙り、顔色は今にも倒れそうに青白く、唇は紫色になっています。
少女は、この森の中に、あるものを求めてやってきたのでした。
(スズラン……なんて、この季節に咲いているのかしら)
かじかむ指を己の吐息で気休め程度に温めながら、少女は辺りを見回しました。
森の木々はその葉を冬の入り口でとうに落としており、裸の枝には今、雪が降り積もっています。
(やっぱり、春の花がこんな雪の中に咲いている訳、ないわよね……。お義母さんやお義姉さんに、何て言おう……)
吹き溜まりに足を取られるたびに靴の中に雪が入り込み、少女の足の感覚は次第になくなっていきました。風は凍えるほど冷たく、なけなしの体温も一秒毎に容赦なく奪われていきます。
(泣いては駄目、凍ってしまうから。もっとよく探すのよ。一輪くらい気の早いスズランが咲いてないとも限らないわ)
叱咤激励するつもりの言葉でも、ふらつく足を支えきれなくなってきました。
何度目に転んだ時でしょうか。
少女は、森の奥に、きらめく明かりを見つけました。それはどうやら、焚き火の明かりのようでした。
(人がいるの……?)
少女はふらふらと頼りない足取りで、明かりの方へ近づいて行きました。
森の奥には少し開けた場所があり、はたしてそこには赤々と焚き火が燃えていました。火を囲んで穏やかに談笑しているのは、4人の人影でした。
楽しげな会話を遮って申し訳ないと思いながら、少女は、おそるおそる話し掛けました。
「あのう、すみませんが、少しだけ焚き火に当たらせてもらってもいいでしょうか?凍えてしまいそうなんです」
「おや、女の子の声がしますね」
4人のうちの一人、青い服を着た青年が、少女に気付きました。
その言葉に、焚き火の前の全員が、寒さと緊張に震えている少女の方を向きました。
「構わないよ、どうぞお入り」
茶色の服を着た壮年の男性が、自分の立っていた場所を開けて、少女を招き入れました。
焚き火の熱は凍りついた身体を優しく溶かしてくれるようです。少女は、ほぅ…と息をつきました。
「寒かったでしょう。これをおあがりなさい」
青い服の青年が、熱いお茶を入れた陶器のコップを、少女に手渡してくれました。
「ありがとうございます」
お礼を言って少女はお茶を一口飲みました。すると途端に身体が暖まり、さっきまで痛い程に吹き付けてきていた風が、不思議な事に全く気にならなくなりました。
「して、そなたは夜の森に何用なのじゃ」
少女に問い掛けたのは、白い服の老人でした。流れるような白い髭をたくわえた、矍鑠たる姿勢の持ち主です。老人は4人の中で1人だけ椅子に腰かけており、あとは皆火を丸く囲んで立っていました。
「はい、私はリリィといいます。この森には、スズランを探しに来たのです」
少女―――リリィが言うと、4人は互いに顔を見合わせました。
「スズランは春の花。このような真冬にはまだ咲いていませんよ」
青い服の青年が、幼子に優しく教え諭すように言いました。
「……ええ、それは分かっています」
リリィは湯気の立つコップを両手で包み込むように持ちながら、ためらいためらい、話し始めました。
「実は―――私は2年前に母を亡くしているのですが、最近になって父が再婚して、新しいお義母さんとお義姉さんが出来たのです。今日は本当のお母さんの命日で……せめてお墓に花を飾ってあげたいとお義母さんにお願いしたら、ではスズランを採ってこいと言われて、家から追い出されてしまったのです」
「ずうずうしいお願いだという事は分かっていますが、もしどなたかスズランの咲いている場所をご存知でしたら、教えて頂けないでしょうか?………私、スズランを見つけないと、家に帰れないんです」
思い詰めたリリィの言葉に、白い服の老人が、右隣の方を向きました。
「春の花―――ということは、おぬしの出番じゃな、プランタン」
「イベール様がそうおっしゃるのであれば」
緑の服を着た人物が、リリィが来てから初めて口をききました。声音からすると、リリィとそう年の変わらない少年のようです。リリィの位置からちょうど焚き火を挟んで反対側に立っていた為に、今まで顔がよく分からなかったのでした。
少年は焚き火の周りをぐるりと回り、リリィの傍までやってきました。
炎に照らし出された少年はどこかまだあどけない顔付きで、柔らかそうな茶色の髪と榛色の瞳をしていました。
「リリィ、手を」
少年に言われて、リリィは差し出された手を握りました。
火に当たっているとはいえ、真冬の夜中の屋外にいるとは思えない程に、温かい掌でした。
「春へ」
一言少年が呟くと焚き火を取り巻く景色が目まぐるしく変わり、次の瞬間には、冬の森は春のそれへと景色を一変させていました。
夜なのに昼間のような明るさです。小鳥が鳴き、木々は萌え、花々が咲き乱れ、蝶が舞っています。凍っていた小川は滔々と流れ、そのほとりにリリィは探していたものを見つけました。
スズランです。
白い鈴を連想させる可憐な花をつけています。
「あったわ!」
リリィは歓声を上げ、スズランに駆け寄りました。
少女は慎重な手つきで、やっと見つけたスズランを、根っこから土ごと掬い取ろうとしました。しかし持ち上げたと思った瞬間、スズランの花はリリィの手からすり抜けていき、幾度繰り返そうとも、川のほとりから摘むことは出来ませんでした。
「……どうして?」
途方に暮れてリリィは緑の服の少年を振り返ります。
少年は、榛色の瞳でリリィを見返しました。
その瞳に潜む色は、憐みなのか、悲しみなのか、それとも全く違う何かなのか……リリィにはよく分かりませんでした。
「誰しも、一足飛びに春を迎える事は出来ません。長い長い冬の間寒さに耐えて、草花はようやく春に芽吹くことが出来るのです。あなたの目に映るその花は、幻影です。やがて来る春を待ちわびて眠る、スズラン自身の夢。それをあなたは今見ているのです」
少年は、リリィから川辺の可憐な白い花へ目線を移し、その姿を愛おしむ様に眺めながら言いました。
「―――こうありたいと希う、虚構の幻。あなたにも、心当たりがあるのではないですか」
少年の言葉に、リリィはびくりと身体を震わせました。
「………………」
口をつぐんで俯くリリィの瞳はだんだんとうるんでいき、やがてぽたりぽたりと大粒の涙がこぼれ落ちました。その涙はスズランの上に滴りましたが、水滴が花弁を揺らす事は無く、やはりただすり抜けていくばかりなのでした。
「……ええ、私はいじめられてなどいません。お義母さんもお義姉さんも、とても優しくしてくださるわ。スズランを見つけるまで帰ってこないと言ってうちを飛び出したのは、そう、私の方でした……」
リリィの告白を、緑の服の少年は静かに聞いていました。
「……ごめんなさい。ご親切にしてくださった皆さんに、嘘をついてしまいました」
「それは、気にしなくて良いですよ。私達は、最初から皆、分かっていましたから」
「……私には、分かりません。ほんの2年で母を忘れて新しい女性と結婚した、父の気持ちが……。いっそお義母さんが、本当に嫌な人だったら良かったのに。素直になれなくて、くだらない意地を張ってしまって……私、私………」
「ヒトには、他人の気持ちは、ただ想像しているだけでは分からないでしょう。きちんと本人と話をしなければ」
少年の言葉に、リリィは、焚き火を囲む4人の姿を思い出しました。
自分達はヒトではないのだと遠まわしに言われても、ああそうなのかもしれないと、何故だかリリィには素直に信じられる気がしました。
「―――スズランは、母の好きな花だったのです」
それから、来た時と同じように少年と手を繋ぎ、リリィは焚き火の所まで戻りました。幻の春の景色はあっという間に通り過ぎ、辺りは再び真冬の光景を取り戻します。
泣き腫らした目をして空手で帰ってきたリリィを見ても、3人は黙って微笑んでいるだけでした。ふいにリリィは気が付きました。隣に立つ少年の榛色の瞳が、他の3人と同じ色をしている事に。そして年齢で差があるとはいえ、全員がひどく似通った容貌をしている事に。
「あなたは、―――いえ、あなた達は……4人でひとりなのね」
おや、と小さくつぶやいて、少年はリリィを見ました。その目にはかすかに、真実を言い当てられた驚きが宿っているようでした。
「そうです。私達は、『四季の王』。今の支配者は冬―――王座に座るイベール様です」
「リリィ、聴いてごらん」
突然、茶色の服の壮年の男性が、リリィに注意を促しました。
「誰かが森の外で、君の名を呼んでいるよ」
「えっ…」
言われてリリィは懸命に耳をそばだてましたが、風のうなる音以外、何も分かりません。
ところが白い服の老人が杖を一振りすると、女性と男性の、微かな呼び声が周囲に響きました。
【……リリィ、リリィ、どこなの?お願いだから、返事をしてちょうだい……】
【……お願いだリリィ、帰ってきておくれ。凍えてしまう……お前にまで死なれたら俺は……】
「お義母さんとお父さんだわ…!」
リリィは驚いて叫びました。
茶色の服の壮年の男性は、優しく微笑んでリリィに尋ねます。
「どうやらあなたを心配して、ご家族が探しに来てくれたようだね。どうする?」
白い服の老人は、穏やかな眼差しでリリィに語り掛けます。
「行くも残るもそなた次第じゃよ」
青い服の青年は、リリィの背中をそっと押してくれました。
「ご自宅で、お義姉さんもあなたを心配して待っているようですよ」
「ありがとう、皆さん。……私、帰ります!」
温かい焚き火に背を向けて森の外へと歩き出したリリィに、緑の服の少年が、両手で包んだ何かをそっと差し出しました。
「…これは?」
「スノードロップ。雪の中にも咲く花です。これを、あなたの母上のお墓に」
それは、スズランと似た純白の、可憐な一輪の花でした。
少年の心遣いが嬉しくて、リリィは言葉を詰まらせました。
「…………」
一瞬だけ、二人の間に何かが通い合ったような気がしました。
けれど次の瞬間には、少年は思い切りよく身をひるがえして、焚き火の仲間の所に戻っていきます。どんどん離れていく少年の後ろ姿に、何か言わなければと、リリィは焦って声を掛けました。
「―――教えて。あなたの名前は?」
「私の名は、プランタン……春です。リリィ、またすぐ逢えますよ」
【厳しい冬を越えれば、次には必ず春が待っているのですから。】
吹きすさぶ風の音にも関わらず、少年が口にした言葉が、リリィの耳にはちゃんと届いたように思われました。凍えるほど冷たいみぞれ混じりの風の中でも、リリィの胸の中は、まるで春の日差しのようにぽかぽかと温かい気持ちで満たされていました。
読んでくださってありがとうございました。
童話、初挑戦でした。
スロバキアの民話、「12の月のおくりもの」を下敷きにしています。