退屈な箱庭にて_風花
小さい頃から入退院を繰り返していた。
自分の身体のどこが悪いのか、難しい言葉で説明されてもよく分からず、ただ、苦しいと思うことは何度かあったから、まあ何かしら悪いんだろうなという程度には思っていた。
小さい頃はまだ愛嬌があった。明るくて、周りの人に愛されていた自覚はあるし、医師にも看護師にも、何となく可愛がられていたという自覚はある。しかしそれは小さい頃のこと。成長するにつれて、いつまでも全快の兆しを見せない自分の身体が不思議で、病院生活にもすっかり飽きが生じてしまった。学校には行っても馴染めなかったから恋しくはなかったが、外には出たかった。どこでもいいから好きな場所に行って、思い切り走ったり遊んだりしてみたかった。
「フウカ、調子はどうだい?」
そう言って病室のベッドに歩み寄って来るのは、私の父親。
私はそっぽを向いて黙り込んだ。父がどんな顔をしているのか分からない。別に父に対して憎い気持ちを抱いているわけではないけれど、子どもの私は自分を制御できなかった。
父はその後、すぐに会社から連絡が入り、そのまま病室を出たっきり戻って来なかった。忙しい人間だということは知っている。だから別に私の見舞いになんか来なくたっていいのに。そしたら私も、こんな親不孝な態度とらなくたって済むはずなのに。
「……言い訳、酷いなあ」
私の病気のことが発端で、母は私たちから離れて行った。
私に原因があっても、父は私に八つ当たりしなかったし、今だって懸命に働いてくれている。弟のことだって、本当なら私が面倒見なければならないはずなのだが、それが出来ない状況なので、弟の世話を含めしっかり家庭のこともやってくれている。その頑張りは、全ては私を生かすために。分かってはいるけれど、私の中の寂しさは、形を変えてどろどろとした何かに成り果てた。
結果として、父親を始めとして、私は周囲の大人たちとの間に大きく分厚い壁を隔てることになり、愛嬌の欠片もなくなった。医者の言うことも親の言うことも無視した。「いつかきっと良くなるから」「元気になれるように頑張ろうね」という何の根拠もない言葉が嫌いになった。一度だけ、その言葉に対して声を荒げて反抗してしまったのは、まだ記憶に新しい。
いつ出られるとも分からない白くて無機質な部屋。退屈さだけが身に染みる。父が買ってきた問題集もあっという間に終えた。元気だった頃に好きだったことには、今はもう興味も湧かず、読みかけの本も描きかけの絵も、全て手付かずのまま放置された。
「退屈、退屈。退屈すぎてもっと具合悪くなりそう」
その頃から私は、病院を抜け出すようになった。もちろん毎日ではないし、病院の外の死角になりそうな場所でちょっと空気を吸うとか、そんな程度だったのだが、それでも十分気分は良かった。いけないことだとは分かっていた。医師や看護師と相談すれば、外出やら外泊はできるのだが、それじゃあつまらないと思ってしまったのだ。抜け出したことが彼らに発覚する日も、まあまああった。
そんな奔放な生活を続けたせいで、私は患者としての評価が随分下がったように思う。まあそれはそうだろう。厳重注意したって言うことを聞かずに脱走する子どもなんて、私だって嫌になる。それでも私は止めなかった。まるで麻薬か何かみたいで、私の唯一の逃げ道だった。
「……我ながら馬鹿だとは思うんだけどねえ」
季節は冬。昨日からの雪が積もり、今も小降りであるが空から雪が舞い落ちる。
ちょっともこもこした温かいパジャマに、黒いカーディガンを羽織る。退院したときに使っているお気に入りのマフラーを巻いて、邪魔なくらい長い髪は、緩いお団子になるように纏めた。帽子は、病院内で被るのも変だから手持ちで良いか。
いつものように患者の雰囲気をなるべく消して、病室を後にする。見る者が見れば一発で私だと分かってしまうが、そのときはそのときだ。
さて、今日はどこから抜け出そうかと考え、病院側の人間の目を注意深く避けながら一階に辿り着く。
何となく見上げた部屋のプレートには、“第二談話室”と記されていた。
「談話室か……そういえば入ったことなかったな」
談話室というのは人が集う場所で、抜け出すには確実に不向きな場所であったが、まだ足を踏み入れたことがない場所への好奇心が抑えられず、迷うことなく扉を開けた。
私の予想に反して、部屋はとても小さくて、談話室と言うよりは、プレイルームと言った方が合っているような気がする。恐らくは、第一談話室の方が私の思い描く談話室なのだろう。
片田舎のこの病院は、街で一番と言ってもさほど大きな病院ではない。同年代くらいの子どもが入院しているのは何度か見かけてはいたけれど、実際にはそう多くないのかもしれない。その証拠に、この第二談話室に居たのは、一人の男の子だけだった。
小さな男の子は、後姿を見た感じだと、私より四つ、いや、五つか、下手をすればそれ以上下に見えた。
「こんにちは」
背後から歩み寄りつつ声をかけると、男の子は少しだけ肩を震わせて振り返った。驚かせてしまっただろうか。
「こ……こん、にちは」
男の子は少々戸惑いながら挨拶を返してくれた。初めて見る顔だ。
彼はただ外の景色を眺めていたらしい。積もった雪はきらきら煌めいて、眩しかった。
「おー、結構積もってるね」
そう言いながら帽子を被り、男の子を見たが、彼は眉を八の字に曲げて、どうにも居心地悪そうに景色をじっと見つめていた。この年頃の子どもだと、雪が降ったら一大イベントだというくらい喜ぶものだと思っていたのだが、この子はそうでもないらしい。
本当はそんなに話しかけるつもりもなかったのだが、変なところで年上のスイッチが入ってしまった。
「あんまり嬉しくなさそうだね」
「……冬、嫌い」
「どうして?」
「……外で、遊べないから。皆と同じように出来ないから、嫌い」
少々たどたどしい喋り方だが、言いたいことは分かった。たぶんこの子も、私と同じなのだろう。いや、私なんかと一緒にしてしまうのはどうかとも思うが、きっとこの子も入退院を繰り返している。そして、気温の関係か何なのか、冬になると籠の鳥と化す、ということなのだと思う。
私は傍にあった木の椅子を引き寄せて腰掛けた。
「キミ、名前は?」
「え……ほ、星川、チサト」
チサトくんか。苗字と合わせても綺麗な名前だ。
「私は宇月フウカ。ここに入院してるんだ。退屈だよね、毎日毎日。その気持ちは分かるよ」
「お姉さんも、冬は嫌い?」
好きか嫌いかと言えば……いや、特に好き嫌いの感情は抱かない。他の季節が対象でもそうだ。私はどんな季節だって大して外に出て遊んだ試しはないから、特定の季節に嫌悪するなんてことはなかった。
まあでも、この場は好きか嫌いか、どちらかしっかり答えておくべきだろう。相手は自分よりも幼い子どもなのだから。
「好きだよ。私、冬生まれだからね」
うん、誕生日が冬だということは真実だ。
「そう、なんだ。僕もだよ。クリスマスイブに生まれたの」
なるほど、チサトという名前に当てはまる漢字が何となく思い浮かぶ。
冬に生まれたのに、冬に外に出られなくて嫌いになってしまったのか。皮肉と言うか、何と言うか。似たような境遇――とは言え彼の家庭状況や精神状態までは把握できないが――のせいなのか、少しだけ、ほんの少しだけ情が湧いた。元々大人にだけ壁を隔てていたのであって、彼のような子どもに対しては特に何も思っていなかったのだが。
まあ、ね。ちょっとくらい冬を楽しめるように力を貸してあげようか。人生の先輩として。そして駄目な入院患者として。
私は手に持っていた帽子をチサトくんの頭に被せ、お気に入りのマフラーを解いて、突然のことに狼狽える彼の首元に巻きつけた。
窓を開ける。暖房の効いた小さな部屋にぶわりと冷気が流れ込んできた。流石に首が寒いとだいぶしんどいなあ、と、一度だけ体を震わせて、窓の桟に足を引っ掛ける。
「え、ちょっ」
背後でチサトくんの声がするのと同時に、私は雪の上に足を付く。
一方のチサトくんはというと、先ほどまでのおどおどした態度はどこへやら、怪訝そうな顔で私を見つめながら言った。
「勝手に出ちゃ駄目なんだよ」
「あはは、知ってる!」
私は彼が不安げな眼差しを向けてくるのを華麗にスルーして、その辺に積もった雪を掻き集めた。うう、冷たい。今度一時帰宅したらこっそり手袋でも持って来ようか。そんなことを考えながらささっと形を作り、付近にちょうどよく発見したナンテンの木に手を伸ばす。ちょっとくらいなら頂戴しても問題ないだろう。身を二つ雪に付け、葉を二枚軽く刺す。あっという間に雪うさぎの完成だ。
それを両手で包むように持って、窓辺でただじっとこちらを見ていたチサトくんに披露する。
「じゃじゃーん、フウカさん特製スペシャルうさちゃーん!」
何を言ってるんだか。いくら子ども相手でも少し気恥ずかしい。いや、自分も十分子どもだけどさ。
こんなものではあまりリアクションは期待できないだろうかと思っていたが、どうやらそんな不安は無用だったようだ。彼は一瞬にして目を輝かせ、私が作ったただの雪うさぎに対して感嘆の息を漏らしていた。
あれ、そんなに感動しちゃう? この年頃の子ってこういうものに興味を示すものなんだろうか。ああ、いや、そもそもこの子は冬に遊ばないのだから、こういうものに触れる機会もさほどないのだろう。
チサトくんが無意識なのか両手を差し出してきたので、私はその小さな手に雪うさぎを乗せた。相変わらず目を輝かせて呟く。
「……すごい、可愛い」
「気に入った?」
「う、うんっ! すごく綺麗。僕も作ってみたい」
そう言う彼を眺めながら、私は静かに和んでいた。自分の弟とは違う可愛さがあって、なんだか構いたくなってしまう。元々子どもが好きだったわけじゃないけれど、恐らく、久しぶりに子どもという部類の人間と接したせいなのだろう。予想外に心が穏やかになった。
それから、彼が雪うさぎを褒めてくれたのが嬉しくて、はりきってその作り方を伝授した。作り方、とは言ったものの、誰もがご存じの通り雪うさぎの作り方なんて簡単も簡単だ。ただ雪の塊を作って目と耳をくっ付ける。ただそれだけのはずなのだが、この星川チサトという少年、不器用にも程があるようで、何度も何度も挑戦しても、雪の塊がどうにも歪になってしまうのだ。逆に何をどうしたらそんな風になるんだろう。
そんな歪な形なのに、本人が至って真剣な表情で雪と格闘しているものだから、思わず吹き出してしまった。
「うう……上手く作れない……」
さすがに笑ってしまったのはまずかったかな。ちょっとだけ泣きそうな目をしている。
「あっ、ご、ごめんごめん。大丈夫、何回か作ってみればきっと上手になるって」
「そうなのかな……」
「そうそう! 頑張ろう! え、あ、雪うさぎ作るの頑張るっていうのも何かおかしいかなあ……」
一人であたふたしている私を見て、今度はチサトくんが笑った。やっとちゃんと笑ってくれた。笑っていなくても可愛らしい顔をしてはいるが、笑顔の方が似合っている気がする。
二人で顔を見合わせてくすくすと笑い合っていると、不意にチサトくんが小さく咳き込んだ。そういえばここに来てからどれくらい経っただろうか。ずっと窓は開けっ放しだったし、この子の身体に障ったかもしれない。私もいつもに比べれば長居しすぎてしまった気もしないでもないし、そろそろ部屋に戻るべきか。
そう思っていると、第二談話室の扉ががらりと開いた。若い女性、見た感じ患者ではないようだ。
「チサト、待たせてごめんね。お部屋戻ろうか」
ああ、チサトくんのお母さんか。
彼は慌てたように返事をし、私が強引に貸した帽子とマフラーを外して私に差し出した。その視線は、窓の桟のところに置いてあった私の雪うさぎに釘付けである。
「あの、これ、貰ってもいい?」
「え? い、いいけど、溶けちゃうし止めた方がいいんじゃないかな。個室とか、ベッドが窓際なら窓の外に出しておけばいいだろうけど……」
あからさまに彼は肩を落とす。ああ、残念ながら個室でも窓際でもなかったらしい。
閉じた小さな口の中でもごもごと何事かの言葉を反復させた後、チサトくんは勢いよく私を見上げ、ゆっくりと小指を突き出した。
「じゃっ、じゃあ、また雪うさぎの作り方、教えてくれる? また、い、一緒に遊びたい……!」
真っ直ぐな瞳が私を射抜く。
雪うさぎの作り方はともかく、また一緒に遊びたいなんて誰かに言われるのは初めてだ。屋外の気温は低いのに、胸の奥が一瞬、火を灯したみたいに温かくなった。
気まぐれに声をかけただけだった。気まぐれに冬を好きになるための行動を起こしてみただけだった。それなのにこんな見返りを貰うなんて。弟がもう一人出来たみたいな感覚だったけれど、これは、弟とはちょっと違くて、何と言えばいいんだろう。そう、まるで“友達”みたいだな、と思った。
私は彼の小指に、自分の小指を伸ばして軽く絡めた。
「もちろん。約束ね」
「う、うんっ、約束!」
雪をも溶かしそうなほどの眩しい笑みを見せ、彼は「ありがとう」とだけ告げて談話室を後にした。
「こちらこそ、ありがとう」
もう彼には聞こえないが、小さく呟いてみた。何やかんやで、私も楽しかったし嬉しかったのだ。退屈で壊れてしまいそうな毎日に、ほんの少しだけヒビが入って、陽の光が差し込んできたような、そんな感覚を味わっていた。
明日から暫くは第二談話室に通ってみようかな。本当に久しぶりに、わくわくした気持ちが生まれていた。
雪うさぎと雪うさぎのようなものたちをそのままに窓を越える。長居した上に帽子とマフラーと言う私的重大防寒具を手放していたことで、大分身体が冷えてしまったみたいだ。別に具合は悪くないけれど、たぶん顔色も相当変わっていることだろう。見つかったら一目でばれてしまうな、と呑気に思っていたら、チサトくんが出て行ったときに開けっ放しになっていた扉から、見慣れた顔がひょっこりと現れた。
その後、これでもかと言うほど雷を落とされたのは言うまでもない。
約束を果たそう。チサトくんともう一度遊ぶんだ。
そう思ってはいたけれど、その一筋の希望の光に反して、私の体調は急激に悪化した。チサトくんと出会った翌日の昼過ぎからだ。病院を抜け出すことなどもっての外。自由に身動きを取ることも叶わないくらいに苦しみに満ちた日々を送った。
原因があの日の冷えだったのか、それとも他にあるのか、自らの身体のことを曖昧にしか把握していない私には理解が及ばなかったけれど、原因なんてどうでも良かったのだ。大切な約束を果たせないことに変わりはないのだから。
今頃彼は、第二談話室で外を眺めているのだろうか。いつまでも来ない私のことを待っていてくれているのだろうか。そういえば今日も雪が降っている。たくさん積もるだろうから、今度はそうだなあ、雪うさぎだけじゃなくて、ミニ雪だるまくらいなら作れるかもしれない。
ぼんやりとした頭で考えて、考えて、私は結局、一つの季節を過ぎるまではいかなかったものの、かなりの日数をずっとベッドの上で過ごしていた。
そうしてやっと元通りに歩き回れるまで回復した頃。約束が気がかりだった私は第二談話室を訪れてみたが、当たり前と言うか何というか、チサトくんはそこに居なかった。それどころではない。彼は既に、その病院からも姿を消していたのだった。
元気になって退院していったのだから、私が嘆くことではない。むしろ退院できたことは喜ぶべきことだろう。それでも、あの約束を守ることができなかったのは、ちょっとした心残りになっていた。それなりに年が離れているとはいえ、初めての友達が出来そうだったのだ。寂しい気持ちはもちろんあった。
せめて彼が春夏秋冬問わず元気に生活できていることを願って、私は私で、彼に出会うより前と同じ入院生活に戻ることにした。
余談ではあるが、この頃の私は、雰囲気が少し柔らかくなっていたらしい。まるで、まだ愛嬌のあった幼い頃の私が纏っていた空気が戻って来たみたいだ、と。私が壁を隔てる前から私のことを見てきた医師や看護師らが言うのだから、恐らく間違いないんだろう。私としてはそんなつもり全くなく、無自覚であったし、原因は知らないけれど。
その後、どれほどの時間が経っただろう。
再び病状が悪化した私は、父と弟と、世話になった病院の人間に見守られ、その短い生涯に幕を閉じたのである。