第三話
少女が笑っていた。
『綺羅―っ』
明るい声、まぶしい笑顔。
桃色の想花を抱え、軽やかな足取りで自分のところに駆けてくる。
触れたくて、手を伸ばすと、その幻影は、突然消えた。
驚いて、目を凝らす。
辺りに静かな楽の音が響き、淡い蛍の光が舞い散った。
(ああ……これは……)
溜め息と共に前を見ると、月光と蛍に囲まれて、少女が煌きながら踊っている。
本当に楽しそうに、彼女は白い布をひらめかせ、指先までピンと伸ばしてしなやかに舞っていた。
あの日と同じように――。
うっすらと瞼を開けると、そこは豪奢な天蓋の下だった。
斎陽帝は身を起こし、まだ夢の余韻が残る胸に手を当てる。
(あんな夢を見るなんて――)
体が汗ばんで、心臓が音を立てる。
彼は溜め息をつくと、横に眠る后を起こさぬように寝台から降りた。
衣を羽織り、寝室から居間に入ると、卓の上に窓から月の光が差している。
まるで、斎陽帝に卓の上の物を指し示すように――。
そこには、巻物がいくつか載せられていた。
彼は卓に歩み寄ると、巻物の一つを取り上げる。
じっとそれに目を注いだ。
(やはりこれのせいなのか……)
その巻物は、今年の宣旨を記したものだった。
本日、国の全土で皇帝たる彼の名において、宣旨が下される。
国の中枢を守る重臣から、末端最下級の下官にいたるまで、すべての官が彼の命を受けることになるのだ。
そして今年は特に、斎陽帝にとって見逃すことの出来ない者が、国の中枢に入ってくる。
彼にあんな夢を見せた原因となる人物が――。
彼は巻物を卓に置くと、静かに部屋を出て、中庭に立った。
眠気は吹き飛び、心は天にかかる月を彷徨う。
今、彼の心を占めるのは、収まりきれない自分の感情。
ずっと隠してきたはずなのに。
忘れていたはずなのに。
もう二度と、そうは想わないと決めていたはずなのに――まだ未練があるのだろうか。
(麗華……)
斎陽帝は、煌々と光りを注ぐ月を見上げた。
彼女は、この月のように闇でも明るく輝いて、自分の中から永遠に消えることはない。
(もうすぐ帰ってくるのだな。都に……一人ではなく)
自分の元を離れ、麗華は随分変わったと聞いた。
揉め事ばかり起こし、剣を振り回し、貴族の姫とは思えない荒んだ娘になってしまったとか。
今、どうしているのかわからないが、そんな彼女もついに結婚するという。
(君が選んだ男は、一体どんな者なのか)
どんなに愛しても、決して受け止めてくれなかった少女。
そんな彼女が、心を決めた者とは――。
胸の奥が疼いた。
麗華は、国の最高峰、十二貴人と呼ばれる候家の姫。
彼女の夫となる男は、皇帝たる自分の側で、政の一端を担う者となるのだ。
彼にとっても、とても重要な人物になる青年。
(凰 龍焔か)
その名を胸の内でつぶやいて、斎陽帝は月を見上げた。
(来るがいい。そしてその身を持って、証明してみせてくれ。麗華が選んだ夫としての証を、そして翠候が認めたその資質を)
月が真上に来たのを、ぼんやり眺めていた斎陽帝の背後から、柔らかな声がする。
「こちらにいらっしゃったのですね」
近寄ってくる女性に目を留め、斎陽帝は優しく微笑んだ。
「祐璃」
自分が愛しいと思い、選んだ少女。
麗華を失って悲しんでいた心に、安らぎをもたらしてくれた存在。
彼女は、すっと近寄ると、彼に寄り添った。
「もうお休みになりませんと――明日も早いのでございましょう」
「ああ、そうだな」
そう言いながら、斎陽帝は祐璃を引き寄せ、頬に唇を寄せる。
「知っているかい? 祐璃」
「はい?」
「麗華が――彼女が結婚するそうだ」
斎陽帝の言葉に、祐璃は顔をゆがめた。
「……陛下」
気遣うようにまわされた腕に、斎陽帝は想いを込めて自らの腕をからめる。
「心配しないでいいよ。わたしには君がいる。麗華を失っても、わたしはちゃんと安らぎを得られる。そうだろう?」
柔らかな彼女の温もりが伝わってきて、斎陽帝は胸の奥が熱くなった。
祐璃を抱きしめて、彼はささやく。
「翠候から麗華の相手の話を聞いて、ほっとしたんだ。最初は、随分噂のある青年らしいから心配したんだけれど――どうやらかなり魅力的な人物らしい。あの翠候が興味を持ってるぐらいだからね」
「まあ、そうなんですの?」
「ああ。だからわたしもとても関心があるね。一体どんな男なのか――早く会ってみたいものだ」
斎陽帝は、愛しい后に接吻しながらささやいた。
「あの麗華をものにした男なんだ。きっとこのわたしよりも、すごい青年に違いないよ」
「そんな……陛下と比べられる者などおりませんわ」
憂い顔で彼を見つめる祐璃に、斎陽帝は暖かな笑みを向ける。
「そう言ってくれるとは嬉しいね。麗華はわたしを選んでくれなかったけど、君はわたしを選んでくれた。心から感謝している。今、君がわたしの横にいてくれて」
「陛下」
祐璃は、彼の優しい言葉に頬を染める。
恥じらいながら、彼女は身を摺り寄せた。
二人は互いの想いを噛みしめながら、静かに抱き合って温もりを与え合う。
淡い月が、彼らを天上から優しく見下ろしていた。
雪がすべて消え、都に花開く時。
ついに彼は、朝廷にやってきた。
高貴な瞳を輝かせ、自信と力に満ちた、美しい青年。
凰 龍焔は、翠候の期待以上に皇帝の忠臣、友となり、後の世にまで名をはせるほどの人物になった。
斎陽帝と共に国の発展に大きく貢献し、第十四代翠候としての責務を見事に果たし、人生を全うしたと伝えられている。
そして彼の心を得ることが出来た斎陽帝も、高徳の皇帝と呼ばれ、かつてない繁栄を国にもたらした。
二人は身分を越えた良き理解者、友となり、生涯を国に捧げて生き抜いたと、歴史の書には記載されている。
――終わり―― |