第一話
項貴国に春の兆しが見え始めていた。
雪解けと共に茶色の地面と若い新芽が顔を出し、これから訪れる季節を色づかせようとしている。
そんな時期、後宮に一人の人物が訪れた。
十二貴人の一人、翠候 翠 覇斬。
謁見の間で居住まいを正す彼に、女官が皇后の入室を告げる。
膝をつき、首を垂れて、彼は上座に座る皇后を迎えた。
上段の椅子に座り、紗の幕が下ろされて、ようやく顔を上げることが許される。
翠候は型どおりの挨拶の言葉を述べ、皇后の許しを得て、立ち上がった。
「今日は、ごく私的な事でお呼びしたのです。どうぞ気を楽になさいませ」
皇后は微笑むと、幕を上げさせる。
最初の挨拶の時は形式に従って、二人の間は遮断されるが、それが済んでしまえば、大抵皇后は直接話しかけてきた。
臣下としてはもったいない限りだが、これも翠候の人徳の賜物といえよう。
彼は皇帝の信頼厚い重鎮で、常に国の為に尽くす忠臣として知られている。
皇帝ばかりか皇后、諸侯の信認も大変に厚かった。
皇帝や皇后の私的な相談まで受けることもあるほどで――今日もどうやらそんな内容のようである。
皇后は女官に命じ、謁見の間のすぐ後ろに設けられた中庭に茶席を用意させた。
そこに翠候を導き、一緒に茶を飲もうと誘う。
驚きながらも、翠候はありがたく座り、皇后からお茶を賜った。
しばし後宮の話や皇帝の身辺のことなど、世間話をしていたが――。
茶碗を置き、改まった瞳で皇后は話を切り出した。
「このたびは、麗華姫のご縁談が調ったとか。お祝いを申し上げます」
「恐れ入ります」
やはり来たか、と翠候は唇をゆがめる。
突然の呼び出しは、娘のことであろうと予想していたが、やはりだ。
今、皇宮はおろか都の端々にまで、翠家はうわさの種になっていたからだ。
十二貴人 翠候は皇帝の信厚く、その権力はゆるぎないものとして名を馳せていたが、彼の一人娘 麗華姫は都でも評判の変わり者として有名である。
元々は皇帝の寵姫、未来の皇后と呼ばれていた彼女だが、後宮を襲った悲しい悲劇の事件のために、すっかり変わり果てた姿になってしまった。
姫とは思えない振る舞いの数々で、都はおろか地方にまで面白おかしく噂は飛び交い、なかなか縁談話も決まらなかったのだ。
そんな彼女をやっと引き受けた相手というのが、なんと州に名をはせた女装壁のある男だということで、これも茶飲み話の一つとして、いろんな尾ひれをつけて広まっていた。
国一の権を誇る翠家でも、娘がこれでは将来は――と、貴族達の間では、同情というより蔑みのまなざしが注がれる。
そしてそれだけでは終わらず、なんと翠候は、そんな婿を翠家の跡取りとして迎え入れ、皇帝の側に仕えさせようとしていた。
もはや翠候まで気が触れたのではないかというのが、最近の皇宮ではもっぱらの噂である。
後宮の奥に住まう皇后の耳にも、当然噂は入ったに違いない。
愛する息子――皇帝の側に、そんな男がやって来るなどと、皇后にとってはたまらないだろう。
自分に一言、二言、言いたい心境になるに違いないと、翠候は内心で溜め息をついた。
「なんでもお相手の方は、先々代の皇帝の御世に、大将軍として名を馳せた凰家の血筋とか」
「はい。文武両道に秀でており、なかなかの逸材でございます。婿として申し分ない者と思っております」
翠候は済まして申し上げた。
皇后は睫毛を伏せ、軽く溜め息をつく。
「まわりくどい話はなしに致しましょう。翠候、わたくしは心配なのです」
「と申されますと――」
「その婿になる人物について、かなりひどい噂が立っております。あなたもご存知ではありましょうが」
皇后は瞳をあげ、翠候をじっと見つめた。
「なんでもその者は、女装壁があるとかないとか――州に名を知らない者はないほどで、普段から女の姿でいるそうですね」
「……」
「更に男たちをその魅力で手玉に取り、男子でありながら男の崇拝者を多くお持ちだとか――女より男に興味があり、男色家との噂もございます」
「男色家ですか」
さすがにそこまでの噂は聞いていなかったので、翠候は驚いた。
「更にかなりの我が侭者だとも――花嫁修業に入った姫たちから衣や飾りを取り上げて、粗末な衣服と部屋を与え、朝から晩まで下女としてこき使い、服従しなければひどい暴力を振るうとか。何人もの姫を傷つけ、実家に追い返したそうではないですか」
「はあ……」
「いくら血筋が良く、学に武に秀でた者であっても、性格に問題ありでは困ります。そんな者にあなたは一人娘を与えるというのですか。それだけでも言語道断なのに、翠家の跡取りにして、後の翠候にするなどと酔狂の至りです」
「……」
「そのような者を皇帝陛下のお側に置くなど、もってのほか――翠候、どうか今一度お考え直しください」
真剣に訴える皇后に、翠候は少々可笑しくなった。
「皇后様、ご心配には及びません。噂は噂――真実ではございません」
「そうでしょうか」
皇后は、疑い深そうに翠候を見る。
「陛下も――陛下も大層ご心配になっていました。麗華姫のことですから」
皇帝のことを言われ、翠候も顔を曇らせた。
娘をいまだに皇帝が想っていることは、彼もよく知っている。
麗華が皇帝の想いを拒否したため、身を引いてくださったのだが、心の奥にはまだ忘れがたいものがあるのではないかと、翠候も危惧していたのだ。
彼は口調を改め、皇后に言った。
「陛下にまでご心配をおかけして、本当に申し訳ございません。ですが皇后陛下」
彼は真摯な瞳を、国一の女性に向ける。
「わたしは常に皇帝陛下の御為に動いております。今回の件もしかりです」
「え?」
「陛下のお側にいる諸侯、重臣たちは、皆、真面目でよく働き、国のために尽くしております。ですが将来を考えますと、もっと優秀な人材が必要ではないかと」
「優秀な人材?」
「恐れながら、候家に生まれた者ならば、試験など受けることなく無条件に高位につけます。重臣と名を馳せる者たちの子弟もそうです。勉学や武に秀でずとも、無条件に陛下のお側に仕えることが出来るのです」
「それはそうですが」
「ですが、そういう者たちだけでは国が困難に陥った時、陛下を支えるのは難しいでしょう。先を読み、市勢をよく知り、貴族たちの融和を保ち、時には自らの剣を持って、陛下をお守りする者が必要です」
皇后は黙した。
翠候の指摘はあまりにも的確で、皇后自身も危惧していたことであったのだ。
皇帝を支える十二貴人たちの中では、翠候が最も若い。
中にはそろそろ足腰が萎え、老後を迎える者もいて、その息子に全権をまかせて、表に出てこない候もいる。
跡取りの顔ぶれをみれば、皆、世間をよく知らない平凡な貴族ばかり。むろん少しは勉学もしているだろうが、平凡で特出した人物はあまりいなかった。
野心もなければ欲もないが、その日その日を安楽に暮らせれば、それ以上の事には手を染めない者たちがほとんどで――こんな人材ばかりで皇帝はどうやって政を成すのだろうかと、心苦しく思っていたのだ。
「私は常々、陛下のお側に共にあり、良き理解者として陛下を支え、野心なく私心なく国のために仕えることの出来る者を探しておりました。幸いわたしには息子がおりません。なので誰はばかることなく優秀な人材を探し出し、養子として候の名を与えることが可能です」
「では、この噂の主がそうだと――」
「はい。彼は申し分なく陛下を支え、その懐刀となれる男です。ですがそれには条件がございます」
「条件?」
翠候の言葉に、皇后は目を見開く。
彼は微笑むと、皇后に言った。
「その条件は、いずれ陛下に奏上申し上げるつもりです。皇后様、どうぞお心を安んじられませ。必ず陛下は、国一の臣下をお持ちになられることでしょう」
翠候の言葉に、不安の残る表情ではあったが、皇后は静かにうなずき、話を終えた。
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