余命交換
「本当にいいのですね?」
「こっちのほうが僕は幸せです」
薄暗い部屋にテーブルと二脚のいす。テーブルの上に置かれた一枚の紙。
「では、契約書にサインを」
「わかりました」
僕は自分の名前を書いた。『承諾しますか?』の『はい・いいえ』の欄に丸をするのに心持ち躊躇いがあったが、今頃躊躇ってどうするのだと心の隅で笑った。
目の前の男は書類を確認すると頭を下げて「確かにお預かりいたします」と柔らかな表情で言い、そしてそばにあったアタッシュケースを開いた。
「こちらが約束の一億円でございます。余命交換が終了次第あなたに差し上げます」
僕は金などどうでも良かった。
ゴホンとひとつ咳をするとこの契約についての概要について説明を始めた。
「もうご承知かとは思いますが改めて説明します。まず、この契約はわが国の法律では認められていません。もちろん倫理上のことでね。ただこの処理がいったん終わりますとあなたも今回の依頼者も今までどおり過ごすわけです。だから罰せられることはありません。まあ、そもそも見ただけではわかりませんからね」
男は怪しく笑って続けた。
「余命が交換されるだけですから」
生きていることにつらくなったのはいつからだったろうか。漠然としたものが長年降り積もった結果そうなったのだろうか。孤独感や空虚感を感じて大げさに言うなら息をするのも苦痛だった。いつ死ぬか、どうやって死のうか。そんなことばかり考えていた。
ニュースをよく見た。特に理由などない。でも世の中の暗黒さが僕の影の部分に呼応した。一方で多くの人に愛されながらも殺されてしまった人々を見て僕は心がねじれるような気持ちだった。犯人への怒りでもなければ、被害者への同情でもない。
どうして僕じゃないのだ。
犯人はどうして僕を殺さなかったのだ。
夢に向かって努力していた青年、正義感の強いサラリーマン、人の良いおばあさんじゃなきゃダメだったのだろうか。
どうして僕じゃないのだ。
そんな歪んだ思いばかり僕の体を締め付けていた。
闇の職安というものがある。僕もそのサイトを見たことがある。はっきり言って興味はわかなかったが、ひとつだけ気になってそのページへ飛んだ。
『余命交換』
余命一ヶ月の人物と余命交換していただける方募集しております。
報酬は一億。現金でお支払いたします。
「聞いておられますか?」
意識が目の前の男のほうに戻った。
「ええ、大体のことはわかりました」
僕はあわてて言葉を返した。
「言いましたとおり、依頼者は余命が一ヶ月しかありませんのでできるだけ早い決断をお願いしたいのですが」
「もう今すぐにでも大丈夫ですよ」
もう躊躇いの気持ちなど消えていた。
「そうですか、それはありがたいです。本当によろしいのですね、これはもちろんゲームではありませんからリセットはできません」
「わかってます」
僕の決意を聞くと男は深く頷いて奥の部屋へ案内した。
ドアを開けると二つのベッドが並べてありその間に細い管がついた機械が置いてあった。
「これ、ですか」
「そうです、これが私の開発した余命交換装置です。余命交換をする二人がそれぞれベッドに横になりこの機械をつけて一晩眠ります。すると次に目覚めたとき余命が交換されているのです。少し難しいのですが理論を説明しましょうか?」
「いえ、結構です」
聞いてわかるはずもないのでさえぎるように断った。それより気になることが僕にはあった。
「余命交換を依頼した方はまだ来ていないようですね」
依頼者の情報は何も知らされていなかった。ただことがことだけに詳しく知らされても困るのだが。
「いえ、もう来ていますよ。言い忘れていましたが依頼者は私自身なのです」
僕は驚いた、が、相手が誰であろうとあまり自分に関係ないことに気づき、冷静に言葉を返した。
「そうですか。何かご病気をお持ちで?」
「ガンです。情けないですけど人ってこれだけには勝てないものですね。知らない間に私の中を侵食していた。研究に没頭していて検診なんてもう何十年も受けていませんからね。それにしても私の最高傑作の最初の被験者が自分自身なんて信じられませんよ」
「でもこれであなたの余命も伸びる。研究が続けられるじゃないですか」
「はい、本当にあなたには感謝の気持ちでいっぱいです」
「ガンというのは痛いものですか?」
「そうですね、暴れだすと猛烈な痛みが襲います。ただ安心してください。交換されるのは余命だけですから。ガンは私の中に残ります。明日早速手術の受付に行こうと思っています。百パーセント助かりますからね」
「なるほど、それは良かった。では早速あなたの最高傑作を試しましょうか」
僕はもうどうでも良かった。バイト代や自分の命よりこの機械の力を見たくなっていた。
「繰り返しますがリセットはできませんよ」
「わかってます。あなたはあなたのすばらしい未来だけ考えていればいいんですよ」
「本当にありがとうございます」
深々と頭を下げた男は僕に機械の説明をし、二人同時に管を持ちベッドに入った。
機械越しに男が話しかけてきた。
「余命をいただく私が聞くのも変ですが明日のご予定は?」
僕は自嘲して答えた。
「最期にしたいことなんて何もありません。またいつものように近くのコンビニへ行って雑誌の立ち読みでもするんだと思います。一ヶ月も余命がありますからいつもどおり生ぬるく過ごしますよ」
「あなたからもらった余命は大事に使わせてもらいます」
「僕も最後に誰かの役に立てて光栄です」
「それでは始めてよろしいですか?」
僕はひとつ息を吐いて答えた。
「はい」
「それではその管を心臓の辺りに押し付けてください。強く押し付けると吸盤のように体にくっつきますのでその状態にしてください」
「はい、わかりました」
「くっつきましたか?」
「はい、くっつきました」
「それでは今からスイッチを押します。少し気分が悪くなりますがすぐに眠気がやってきますので我慢してください。スイッチを押してよろしいですか?」
「はい、お願いします」
「では、スイッチを押します。また目覚めたときに会いましょう」
男がスイッチを押すと妙な機械音とともに自分の体の中に何か生き物が入っていくような、何かがうごめくような感触があったがすぐに強烈な眠気に襲われ意識が遠くなった。
薄暗い天井が視界に広がっていた。頭の中はスッキリしていて妙に気持ちがいい。こんな爽快な目覚めは初めてかもしれない。ベッドから上半身を起こすと僕の胸にまだ管がつながっていたので少し腕に力を入れてそれをはずした。これで余命が交換されたのだろうか。余命なんて確認のしようがないのでとりあえずベッドから出た。隣のベッドを見ると男はまだ眠っていた。てっきり同時に目が開くものだと思っていたから少しスッキリしなかったが余命は交換されたのだと思うことにした。しかし僕はここから退室していいのだろうか。男が目覚めるのを待つべきだろうか。僕は何もすることができないのでとりあえず男が目覚めるのを待つことにした。
このベッドの部屋にいてもつまらないので一旦男と話をした部屋に戻った。昨日はあまり気にしていなかったが冷蔵庫がありテレビもあった。喉は特に渇いていなかったが、退屈を紛らわせるのに冷蔵庫に入っていたビールを取り出した。勝手に飲んでいいかはわからなかったが余命よりかは安いものだろう。ビールを一口飲み、今度はテレビのリモコンを探した。リモコンは床に転がっていたのですぐに見つけることができた。見るのはもちろんニュースだ。それ以外は見る気がしない。淡々と読み進められるニュース。今日は別段悲惨なニュースがなかった。世の中にとってはいいことだが僕にとってはおもしろくなかった。柔らかい表情でキャスターが一面に花が咲いている公園の様子を伝えている。僕が見てもその映像はきれいであった。しかしすぐに画面は切り替わり再びキャスターが話す。今度は険しい表情であった。臨時のニュースが飛び込んできたようだ。原稿が画面の横からキャスターに手渡される。
『コンビニエンスストアに乗用車が激突』
僕ははっとした。驚きと安堵が入り混じった不思議な気持ちだった。いつも雑誌を立ち読みをしているコンビニだったのだ。もしいつものように立ち読みをしていたら僕は死んでいたかもしれない。
(死んでいたかもしれない)
僕は急いでベッドの部屋に戻った。男はまだ眠っている。いや・・・・・・
男の顔に触れて愕然とした。氷のように冷たくなっていた。温度が無かった。無駄だとわかっていても男の体をゆする。
「おい、おい!」
何の反応もない昨日まで普通に話していた男が今では抜け殻である。
死というのはこういうものなのか。ドラマや小説のそれとはまるで違う急激な絶望感が僕を包んだ。人の形をしているのに息をしていない。動いて当たり前のものが動かない。
同時に昨日の時点で僕の余命が一日であったことに気づく。余命交換をしていなければ僕は今頃この男みたいに氷のように固まっていたのだ。ひどい悪寒がして鳥肌が立った。昨日まであんなに死ぬことに憧れていたのに今では絶望しか見えない。そして今日から一ヶ月以内に僕もこの男と同じようになる。
死を迎えるのだ。
立ちくらみがした。死とはこんなに恐いものなのだ。知らなかった、今までわからなかった。どうしよう。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
そうだ。僕はいいことを思いついた。
『余命交換』
余命一ヶ月の人物と余命交換していただける方募集しております。
報酬は一億。現金でお支払いたします。