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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

矢羽の蔭

作者: 東 砂騎

挿絵(By みてみん)



 昔は美しかった、ある国で


 1990年代のある年、私は通信兵として戦場にいた。


 かつては歓声と熱気に包まれていた陸上競技場は、既に旧世代の遺構と化していた。スタンド席もグランドも色を失い、分厚い砂と埃に埋もれている。

 乾燥した大地は絶え間なく血を吸い、かつて存在した緑豊かな街を土の塊に変えた。廃墟の中に残って暮らす住人もいたが、殆どが戦災で命を落とし、あるいは逃げ出していた。

汚れた微風と、直射日光の眩しさに目を細める。わずかに傾いた日差しが却って強烈に皮膚に突き刺さり、四分の三以上が破壊されたスタンドの陰影を強くする。黒々と光る小銃の銃身は、日光を吸って火傷するほどに熱い。


「問題ない。作業にかかろう」

 

捲くった戦闘服の袖で汗を拭うと、砂色の布地が汚れに濃さを増す。後ろに付き従う「クロ」が、何の感情も感じさせない声で「はい」と答えた。

 クロは、この国では珍しい漆黒の髪の毛に由来してそう呼ばれていた。草色のベレー帽の下、角刈りにしたその黒髪が汗で光っている。世俗の荒波といくさ世に揉まれた30代後半の部下は、柔和な顔立ちにも苦労のあとが色濃く刻まれていた。つかの間の穏やかな時代と、その崩壊を目の当たりにした世代だ。

 30年程前までは、この国に平和で美しい時代があったらしい。私が知らぬ時代であり、クロにとっては幼少期にあたる。私が生まれてから今に至るまで、民族の境界線が定まることも、報復の波が絶えることもなかった。職に乏しい環境の中、私は消去法で軍隊に志願し、クロは紛争で家業を廃業せざるを得なくなって徴兵に応じた。

 小康状態の数年間に入隊した私は通信兵としてまともな教育を受けることができたが、今回の紛争の前後に徴兵された連中にはそれもない。そもそも学校教育すら受けていない者も多かった。電器屋を営んでいたクロは、まともに読み書き計算ができたので通信兵に振り分けられたらしい。実際、クロは教えたことを難なくこなしたし、情緒的にも安定していた。


「目立つ障害物は南側の照明、北側の掲示板くらいか」


 振り向いた私に、同意するときに動かすクロの片眉を汗が伝い落ちる。その汗は煤に薄汚れた褐色の肌に筋を描き、細長いあごに滴を結ぶ。溜まった汗は、携えた自動小銃に落ち、鉄を黒く染めた。下方に向けた銃口から、ぽとり、と透明な粒が滴った。AK-47をベースに改良された小銃を輸入したものだ。

 衣服の襟や袖、小銃の負い紐が食い込んだ部分に、乾く間もなく汗がにじむ。海水浴をするには完璧な午後だった。あるいは、ビールを飲みながら日陰で涼むべき午後の天気だった。音楽でも掛けながら。


「日陰に入るぞ」


 そう言うと、クロは少し表情を緩ませる。実際問題、私たちはできる限り体力を温存しなければならない。長期化した戦闘と対処すべき正面の分散は人員を著しく損耗させていた。このポイントに派遣された通信兵は私たちだけだ。タイヤ痕を残しながら数両のトラックが行き来しているが、彼らは私たちと役割が違う。私たちには、交代はいない。選手控えのスペースに入り、ふっと息をついた。


「競技場の地図を」

「はい」


 横倒しにされたベンチには、弾が貫通した痕が残されていた。足元のコンクリの床には、古い血の染みが残っていた。それを意に介さず、クロは地図を広げる。南北に広い楕円のスタジアムの見取り図を、その隣に置く。


「予定通り、進入はスタジアム西側から、離脱は東側からだ。進入する機はハイウェイのインター上空で通報させる。着陸できるのは2機までだな、瓦礫が崩れている場所から機体を遠ざけたい」

「了解」


 事前の打ち合わせと変わらない。クロと顔を突き合わせてそれを確認する。その顔はリラックスしていた。


「おじさんたち、水おくれよ」


 言葉が途切れた瞬間を狙ったか、後ろからガキの声が響く。私は振り向いて「うるさいぞ」と言い放った。日陰になる場所に、薄汚れた10歳くらいの少年が転がっている。後ろ手に縛られた少年は私と同じ、この民族の大半を占める薄茶色の髪、亜麻色の目、浅黒い肌をしている。建物に隠れていたガキだ。ここに展開している間は、敵対する勢力に接触されては困る。


「僕はおんなじ民族なのに」

「水ならやるからちょっと待ってろ」

「僕、昔はお父さんの手伝いで基地にだって出入りしてたのに。僕たちを置いて逃げたくせに!」


 ガキが苛立ちを吐き出す。この近くには小さな基地があった。ガキはそこに住んでいたのだろう。勢力図の変動に呑まれて基地と街が消えたのは、ずいぶん前のことだ。クロがふっと短い息を吐く気配がした。父を手伝う利発そうな少年に、かつての自分を見たのだろうか。


「黙れ。喚くと撃つ」


 ガキの目が私の手元を見る。安全装置を確認しているのだ。そのまなざしには値踏みをするような色があった。死と飢餓の世界で、命からがら生き延びてきたその目は据わっている。銃弾の質量と威力を理解している人間の目だった。


「すまんな。少しだけ耐えろ」


 私より幾分柔らかな口調で、クロがミネラルウォーターのペットボトルの封を切る。従っていれば危害は加えないが、騒ぎ立てれば命はない。クロが転がっているガキの口元にペットボトルを当てる。ガキは肉の落ちた喉を鳴らしながら水を飲んだ。


「食え」


 包装を開け、塩分の入った飴を食べさせる。息をするだけでも汗をかく環境だ。脱水症状は兵や難民の命を奪ってきた。少なくとも、生きて帰すつもりではあることをガキに分からせる。


「俺たちがここを出たらお前を解放する。どこへなりとも逃げるがいい」

「どこに逃げろって言うんだよ」


 ガキは吐き捨てる。激戦で街は廃墟となり、そして見捨てられた。戦火に追われたガキは、ここで息を潜めて生きてきたのだろう。汗染みと垢汚れだらけのTシャツ、そして筋の浮いた痩躯がその生活を思わせる。ガキの目は淀んでいた。きっと兵隊を憎悪していた。


「こんな場所で、よく生きてきたな」


 意識する間もなく、そんな言葉が口からこぼれる。ガキが目をそらし、色の悪い唇を噛んだ。生きていくために窃盗も殺しも経験したのかもしれない。一瞬人目を避けるように顔をそむけたその表情には、色濃い陰りと後ろめたさがあった。

 孤立。食料の欠乏。逃げる場所のない子供。その条件が、ふと脳内に後ろ暗い記憶を瞬かせる。


「・・・食ったか」


 クロが怪訝な顔でこちらを向く。戦況が悪くなった時期、孤立した集落や街、この国のあらゆる場所で起きたことだった。食い詰め、究極まで追い詰められた住民が最後に手を出す命の糧。


「軍曹?」


 沈黙が張り詰めた。景色と感情が眼の前に、鮮やかに生々しく広がる。表情が硬直した私を見、クロがはっとした顔をする。

 敵の遺体のみならず、仲間や肉親までも口にした者が少なからずいた。喉に空気が詰まり、私は言葉を発することができずにかぶりを振った。あのとき、彼らの血肉を口にしなければ、生きてここにいることはなかった。黄ばんで冷たくなった皮膚の表面に食い込むナイフの感触。黄色い皮下脂肪の粒。心停止して勢いなくあふれる血液。大腿の筋繊維。切れた血管。床が暗い赤色に染まる。服も靴もその色に濡れる。


「・・・軍曹」


 何かの感触が、回顧から私を引き戻す。気がつけば、肩に置かれたクロの手が強く食い込んでいた。その目は、私の正気を確かめている。私は埃まみれの酸素を吸い込んだ。肺の奥までいっぱいに満たしたあと、意識してゆっくりとそれを吐き出す。大丈夫だ、と自らを確かめるように声帯を震わせた。

 ガキの薄茶色の目が、私をじっと見据える。難民として育ち、軍人になり、死ぬか殺すかの命の二択を繰り返す日々。ガキと私は、互いに過去と未来の姿だった。


「クロ、行こう」


 私は踵を返した。クロが一瞬、安堵の表情を見せる。小銃がカチャカチャと音を立てた。屋内につながる廊下には椅子やバリケードが散乱し、アスリートたちの足跡を血痕と瓦礫で塗りつぶしていた。私たちは、戦争の上に積もった埃に足跡を残した。



 雑穀まじりの固パンを切って、クリームチーズと鶏のレバーパテを挟んだ即席サンドをほお張りながら、クロは周囲の空を見回す。黙って座っているだけで汗の吹き出るような暑さだが、日陰にいる分多少はマシだ。

 わずかに残るスタンド席の庇の下に、私とクロは陣取っていた。私とクロで背負ってきた2台の無線機にアンテナを差し込み、2系統の通信を確保していた。


「真西の方向、地平線の尖塔の延長線上。UH―1、2機確認」


 クロと私が、上空通過のため進入する友軍機を見つけたのは同時だった。黄色みの混じり始めた薄い青色の空に、砂粒のような影がふたつ。その下には黄土色の地平線、市街地跡の向こうにはハイウェイが横たわり、砂と石がどこまでも続く大地。傾いた陽によって、わずかな起伏が、血管や骨のようにその表面に浮かび上がる。


「《矢羽》―02フライト(編隊)、貴方を方位約270に視認」


 携帯用無線機に接続した帯頭マイクを、口元に引き寄せる。風の音が入らないよう、マイクを手で覆う。交代で食事をする間も、断続的に無線は入り続けていた。最前線からおおよそ15キロ。陸上競技場を確認しようと、時間差で友軍機が飛んでくる。


「・・・、こちら《矢羽》―02フライト。現在高度、・・・で3000(900m)フィートまで降下する」

「了解。障害物、南側に照明、北側に広告の掲示板。高さは南側が地上から約50フィート(約15m)、北側が約30フィート(9m)」


 携帯用無線機のアンテナはそれほど長くなく、どうしても交信に雑音がまじる。パイロットから帰ってくるのは、無線の送信スイッチを入り切りした雑音による返信。旧型になった中古のヘリコプターといえども、彼らはパイロットでエリートだ。

 かつては反共のため、今では欧米にとっての壁となるため、かろうじて形をなしていたこの国は、財政・軍事的な支援を受けることができた。航空戦力を保有しているのもその為だ。その矢が放たれるとき、私たちは必ず影のように地上にいた。

 空気をたたくバタバタという音が、近づいてくる。鼻先の尖った機体に回転翼をつけた、世界でもっともスタンダードなアメリカ製ヘリコプター、UH―1のD型だ。染みのように遠かった点が、そのシルエット、暗緑色の塗装をはっきりと判別できるほどに近づいている。斜陽に、テール部の回転翼がきらきらと光る。上空を通過するその影が、地上に落ちる。うっすらと金色みを帯びた空気が、対流圏を満たしていた。西日は、AK―47を祖に生まれた小銃と、アメリカから受けたUH―1を照らしだし、西と東の陣営の兵器を使うつぎはぎの軍隊でさえも金色にする。

 《矢羽》―02フライトは速度を増しながら高度を下げる。バタバタと耳障りな羽音は、体を突き抜けていく衝撃波となって襲い掛かってくる。


「競技場を確認」


 中空の表面を滑るように通過した《矢羽》―02フライトは、行き過ぎてしばらくしてから機体を傾ける。旋回し戻る位置がそれぞれの編隊で違うのは、この場所を特定されないためだ。


「これで上空通過は一通りですね」


 クロは、脳内のデータと機体の動きを照らし合わせている。眼球が上を向くのは、そのときの彼の癖だった。反面、首周りに巻いたタオルで顔を拭く仕草はのんびりとしていた。マイペースな男だ。クロは水筒のぬるい水で口を湿らせると、残っていたサンドを口に放り込んだ。



「いつもと降り方が違う」

「そりゃあ、安全じゃないからな」


 ガキの呟きに、クロはコーヒーを飲みながら答える。UH―1の編隊が進入してくるのをガキは見上げていた。着陸地点付近で旋回しながら高度を下げるのは、低空飛行で狙われる危険性を減らすための方法だった。前線に近いこの場所は、目に見える形で標的になる。


「地上風、南西の方向、5ノット未満」


 向かいのスタンド席に設置した吹流しを確認し情報を流す。パイロットから返ってくる無線のクリック。首を回し、耳に引っ掛けたヘッドセットをずらす。このタイプの帯頭マイクは、耳が痛くなるのだ。夜の気配が毛穴に染みこんでくる。

 ガキは、戒めを一時的に解かれて雑穀まじりのパンにクリームチーズと鶏のレバーパテを挟んだ即席サンドを頬張っている。私とクロが、2個のパンのうちのひとつをそれぞれ残したので、今日一番の無駄飯食らいはこのガキだった。私は缶詰のレバーパテも、あまり質のよくないクリームチーズも好きではない。むさぼる様に食うガキにくれてやる。


「いいか、くれぐれも黙っておとなしくしとけよ、ガキ」

「わかってるよ」


 食事を与えられたことと、騒いだら殺すと言い含められたこともあり、ガキは幾分落ち着きを見せる。闇を濃くし始める空に応じて、気温が下がり始める。汗で濡れた頬を撫でる冷たい風に息を吐いた。つかの間の、過ごしやすい時間を感じる。


「ガキ、後ろ向いとけ。目を傷めるぞ」


 そう声を掛けると、不思議そうな顔でガキが私を見る。クロと私は、透明なサングラスを掛けた。

 聴覚を刺す破裂音、ひゅんひゅんという風の音が迫ってくる。高度を下げてきた機体から吹き降ろす滝のような暴風が地上にぶつかって跳ね返る。埃が巻き上がり、同心円状に波が立つ。

 降下したUH―1の二機編隊が、機首を上げてふわりと地表に降り立つ。砂埃を巻き上げるその様は、ここから見ると荒れ狂う波濤のようだ。


「うわあ、うわわ!」

「だから後ろを向け!」


 素っ頓狂な声を上げるガキの目を覆う。吹き飛ばされた砂礫がサングラスに当たってピシピシと音を立てた。全身に当たるそれらに、あわてて口を閉じる。接地直前に最大となった下降気流が落ち着くのを確認してから、クロが地上の兵に指示を出す。


「《矢羽》―03フライト着陸、作業支障なし」

「了解」


 目前で、エンジンに火を入れたままの機体に、小型のタンクローリーが臍の緒をつなげて給油をしている。同時に聴取しているヘリ部隊と前線部隊との連絡用周波数に交信が入った。間もなく、弾薬と燃料を補給しに、前線の編隊がこちらへ下がってくる。クロが頷いた。次に進入してくるのは《矢羽》―04フライトだ。


「約15分後に、2機編隊が進入の予定。給油・弾薬補給」

「了解」


 食事を終えたガキを拘束し、クロに連れて行かせる。給油を終えた《矢羽》―03フライトが離陸の通報をする。東の方向に離陸をさせた編隊は、高度を上げながらヘアピンカーブの右旋回を描き、再び西側の前線を目指した。次の進入機の交信を待つ。


「あー、こちら《矢羽》―01シングル(単機)、ポイント・ゴルフを離陸。カジュバック(航空救急)のため優先的に着陸したい。高度1500フィート。なお、後送の機体が基地から離陸している」


 順番に割り込んできたのは、前線を離陸した負傷者搬送の機体だった。気圧による負担を避けるため、高度を下げて進入してくる。


「ポイント・キロ、了解。《矢羽》―04フライト、こちらポイント・K、残燃料を報告せよ」

「《矢羽》―04フライト、約50分」

「了解。進入順位2番。航空救急を優先して進入させる。インター上空で旋回して待機せよ」


 戻ってきたクロが状況を察し、あわてて無線を付け直す。航空救急だ、基地の機体と接続する、と言うとクロは頷いた。


「地上班、緊急で航空救急受け入れ。基地と前線の機体が進入する。完了次第《矢羽》―04フライトが進入」

「了解」

「ポイント・K、こちら《ナイキ》―03、10マイル東4500フィート、航空救急の接続機」

「《ナイキ》―03、了解。競技場上空で旋回して降下せよ。負傷者を乗せた機はポイント・Gを出発している。当該機を先行して進入させる」

「了解」


 夕闇が夜陰へと変わる。競技場内の端に、円を描くように点在するランタンが頼りなく灯った。航空機に向けた目印だ。地上班が担架を用意し、負傷者を待ち受ける。薄ぼんやりと光る黄色のサイリウムを持った誘導員が、競技場内に進み出てきた。


「こちら地上班、負傷者の受け入れ準備完了」

「了解」


 通信の切れた合間、クロが息をつく気配がする。


「ガキに、解放されたらさっさとここを離れろって言ったら、どうしてだよって言いやがりましてね」


 吐く息と共にボソッと呟いたその言葉が、妙にはっきりと聞こえる。段々と明度を落としていく夜気に、表情ははっきりと見えない。


「ここを占領すればここで生き残ってるみんなが助かるのに、って」

「《ナイキ》―03、2マイル東方向に視認。クソ、あのガキ、分かってて言いやがる、《ナイキ》―05フライト、感度明度良好」


 口元に寄せたマイクに交信を吹き込む合間、送信スイッチを切って私は毒づく。連絡なしで飛び込んできた基地からの機をさばく私の横顔に、クロの視線を感じる。


「なぜ軍曹まで、メシなんかくれてやったんです。半端な情けでガキを助けたところで、救いになりゃしません」

「《ナイキ》―05フライト、了解。南側を迂回して飛行せよ。進入機、東西からそれぞれ1機。・・・お前だってそうだろ」

「食わせれば大人しくなりますからね。私はガキに同情したりしません」

「俺だってしちゃいない」


 重ね塗りした濃紺の空に、雲母のように星がちらつく。黒いテープで目張りしたライトのぼんやりした光が、広げた地図を舐める。川、地形、その上に書き込まれた部隊を示す記号。そこに脳裏で航空機のシンボルを書き込む。

 時折、ズン、ドン、と散発的な砲声が響く。目を上げれば、熱い色の砲火に照らされる地平線。炎に薄く染められる夜の裾に、砂粒のようにヘリコプターのシルエットが浮かぶ。

 《矢羽》から担架で運び出された血まみれの負傷兵が数人、そのまま《ナイキ》に運び込まれる。離陸後、赤十字を描いた《ナイキ》は東へ、《矢羽》は西へ飛行する。間髪入れず《矢羽》―04フライトに進入を開始させる。


「間もなく1個編隊が進入。離陸後は直ちに補給を行える状態」


 鉄火場とその奥に分散した前線管制チーム同士の交信は、クロが地上班と共に受け持っていた。私たちは限られた人数を分散して、この見通しの空を統制しなければならない。


「《矢羽》―05、06フライトが、《川岸》ポイントを通過した。そちらにコンタクトする」

「了解。以降の編隊は間隔調整のため5マイル付近で旋回、待機させる」


 補給を求める編隊が、戦場から下がってくる。補給に要する時間を仲間に流す。補給を終えた編隊を、前線に引き渡す。川べりの高地を求めての戦いは最終局面に入っていた。自軍は損害が多く、戦線は後退しつつあった。廃墟と化したスタジアムに短い時間、変則的ながら秩序だった離着陸が繰り返される。

 パシッという音を立てて外壁に銃弾がめり込む。それを追って、乾いた発砲音が響き渡った。わずかながらも周囲にいた敵性勢力が集まりつつあるのだ。クロが無言で、小銃に弾倉を装てんする。少数ながら配置した歩哨が応射する音と、閃光が連続した。

 今や安全でもない陸上競技場でも、一時の作戦支援には耐えられる。私たちはそのために送り込まれた。交代も要らず、本格的な無線機も必要としない短期間のために。


 ガキの影がぼんやりと脳裏に浮かぶ。ここを守るため命を賭けるなら、きっと名前を聞くこともできただろう。ここを砦に彼らを守ると断言できたなら、その言葉に応えることもできただろう。

 実際問題、私たちはチームを温存しなければならない。常態化した航空作戦と対処すべき地域の拡大は人員を著しく消耗させていた。後方に民間人が控えていたとしても、自国の領土の中であっても、私たちは時にそこを捨て、生存を優先しなければいけない。

 クロも、私も、ガキの名前を尋ねなかった。物を渡すときでさえ、触れるのを避けていた。私たちは軍務に忠実で、人道に不実だった。そして、その事実から目を逸らさなければ生きていけなかった。


 表情を浮かべないガキの目に、クロが持つわずかなライトの光が差し込む。私はガキの前に屈んで、その瞳孔を覗き込んだ。


「いいか、外に出たなら姿勢を低くして、建物の影に隠れて逃げろ。絶対に戻ってくるんじゃない。いいな?」


 金属を殴るような銃声が、闇の中の多方向から響いてくる。庇護者を失い、生活を失う繰り返しが、子供から幼さを奪っていた。その光景を、私は直視する。これが、人の住む場所から軍隊が撤退した結果だった。人は住み慣れた場所を捨てて逃げるとは限らない。人が住んでいる場所を軍隊が最後まで守り抜くとも限らない。その繰り返しと後ろめたさが、神経を少しずつ削ぎ取っていく。そういう理由で住民との接触を避ける者は珍しくない。一方で、兵站や工事に民間人を徴用せずには戦えない状況だった。


「どうして逃げるの。どうしてこの街を守らなかったの」


 何度も繰り返されてきた質問に、答えることができない。私にはどうすることもできなかった。それでも、聞かずに逃げる訳にはいかなかった。いつも胸ポケットの中に入れていた指輪を取り出す。多少古びてはいるが、プラチナの台に小さなダイヤが爪でとめられている。わずかな明かりを吸い込んで、ダイヤは光の模様をガキの汚れた服に撒き散らした。あの時、口にした命と一緒に受け取ったものだ。


「軍曹」


 クロの鋭い声を意に介さず続けた。ガキのポケットにそれをねじ込むと、携行食糧を入れた肩がけの鞄を押し付ける。


「持っていけ。俺はお前を連れていけない。指輪はメシに換えろ。それから」


 ガキのズボンに拳銃をねじ込む。


「これは護身用だ。うかつに撃つな。至近距離じゃなきゃ当たらない」 


 ガキは私を無言で責める。こんなことをしても誰も救われないし、何も変わらないと分かっていた。


「あなたは、卑怯だ」


 ガキの言葉に、私は息を詰めた。


「おい、早く逃げろ」


 クロが、弾倉を抜かないままの小銃に手をかける。銃口は迷いなくガキに向けられていた。情けを見せてはいけない。それが互いのためだ。


「行け!」


 クロの口調には波も震えもない。ひたすらに、他人を拒絶する硬さだけがある。この国のそこらで、きっと繰り返されてきた光景だった。無表情のままのガキが、淡い茶色の瞳でこちらを見据えながらゆっくりと歩き出す。


「あなたは、ここに敵を呼び寄せた。結局僕たちを地獄に放り出しただけだ」


 敵に追われる地獄。飢餓と乾き。病。外には果てのない闇が口を開けている。私たちがここで義のために死んでいたなら、きっとガキは救われただろう。少なくとも、自らのための犠牲を生きていく糧にすることができたはずだ。

 1990年代のある夜、私は通信兵として戦場にいた。



 あの戦闘の夜、一時的に使用していた陸上競技場は夜明け前に本格的に攻撃を受け、予定より幾分早く捨てることが決まりました。予期していたことです。

 あの少年は、戻ってくるなという軍曹の言葉の意味を理解していました。一時しのぎの運用であること。この地域は再び敵性になりつつあること。

 軍曹は冷静ではありませんでした。今この場所を切り捨てる不実を見咎められることに、とてつもなく動揺していました。彼はまだ若かった。私たちの誰もがそうであるように、生き残ったことを罪として背負っていました。その横顔に、不穏な予感を感じたのは確かです。


「ここで見捨てられるくらいなら、味方を信じたまま死にたかった」


 去り際のその言葉に、軍曹は唇を噛んでいました。そしてそのとき、近くで響いた銃声にとっさに少年を庇った軍曹は、その体に強く触れてしまった。私たちが常に超えないようにしていた一線を超えてしまった。

 敵味方の入り乱れる状況で、そのぬくもりを突き放すことができるほど軍曹は完成されていなかった。彼は無言でした。単身、どうにか安全な場所まで連れ出すつもりだったのでしょう。曳光弾のオレンジの光が差し込む中、蒼白な顔色、開いた瞳孔、震えるまぶたを見て私は彼の意を悟りました。

 そのとき、私は強い倦怠感を覚えました。軍曹の気持ちは私だって十分理解できます。まして私は子を持っている。それでも、彼を止めなければ、いずれこの軍隊は瓦解していく。ほかの通信兵も、パイロットたちも、自分自身もこの場に踏みとどまることができなくなる。それは冷たく明瞭な予知でした。

 私は考える間もなく、拳銃に手をかけ抜きました。吸った息を止めて、少年を連れ出そうとする軍曹の太ももに狙いをつけました。そうして引き金を絞り、後ろから撃ったのです。そうしなければ、彼は二度と戻ってこなかったでしょう。

 床に倒れ呻く軍曹の前で少年は、そんな不義を強いられる私たちを哀れんでいた。あの日、闇に消えた少年は、きっと苦境の中で今も死ねずに生きている。私たちもまた、ヘリで脱出し、戦闘を生き延びました。私たちは戦士ではなく兵士でした。生きることの一端は、罰であり義務です。


 1990年代のある夜、私は通信兵として戦場にいました。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 見捨てられるぐらいなら、味方を信じたまま死にたかった。この言葉が作品を象徴しているような気がしました。兵士の方からは一兵卒では戦況を覆すことも撤退命令を撤回させることもできないという、でき…
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