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霧雨のやせ我慢。
作:森本エリ


 私と沈黙を乗せたまま、彼の銀色のセダン車は都市高速を走り続けている。
助手席で身を固くしている私とただまっすぐ前を見つめてハンドルに手をかけている彼。
 外は霧のような雨が降っていて、柔らかく静かに世界を鈍色に染め上げている。もう入梅をしたと、人づてに聞いた。なるほど、雨はいつもより殊更降ることを当然と主張している。

 私と彼は、上司と部下。直属ではないにしろ、彼は私が勤めているデザイン事務所の所長であり、メインデザイナーでもある。主なクライアントは、市立美術館で、パンフレットなどの製作をしている。私はそこで事務員というか、大半の雑用を任されていただけだった。
 お茶を運ぶときの、彼の背後にある窓から陽がいっぱいに差してきらきらと眩しいにも関わらず、時折見せる彼の苦みばしった表情が、私の気に入った。太陽に背を向けて抗っているかのように退廃的な姿勢に見えたのだ。武藤京一、美しい妻と可愛らしい子供たちに囲まれ、多忙ながらも順風満帆だといえる日常を過ごしている彼はいま、私と共にいる。
 二週間ぶりの休日に。
 私が身を固くしているのは、武藤が私の上司だからとか、そんな潔白な理由からではない。私たちの関係を一言で説明するなら、不倫。そしてもちろん妻帯者との関係による罪悪感という健全な理由ではない。
 そもそも妻帯者である彼が、私と関係を持つということは、私の常識に最も反することだったし、軽蔑するはずだった。そう、はずだったのだ。
ところが、私は彼を軽蔑するどころか、今、酷く欲情している。

「美智恵」
「なに?」

 雨に遮断された沈黙の密室に耐えられなくなったのか、彼が小さく私を呼んだ。
私は体中をめぐる緩やかな熱を押し殺そうと格別にそっけない返事を返した。
彼は半開きにした唇からこぼれようとする言葉を諦めて、片手で煙草をとりだした。
苦みばしった表情は、乾ききっているようで、どこか潤んでいる。

 二週間前の夜に初めて寝たとき以来、紙切れ一枚で遮断されているような距離を保ち続けている。互いを欲していることは火を見るよりも明らかだ。
 けれど、私はその気持ちだけを胸の中で飴玉を転がすようにひっそりと味わっている。
 欲情という飴玉を理性という舌で嬲り、その恍惚とじれったさ味わっている最中で、私は彼の殺伐とした憂いを浮かべた顔を盗み見るのが好きなのだ。
 すぐ舐めきってしまうには、あまりにも、勿体無い。
 焦らして焦らして、彼が、私が、どろどろになるまで、私は舌を動かし続けていたいのだ。
本当は、指先が触れただけで蕩けてしまう自分をわかっていながら、そうせずにいる。
 霧雨が作る薄絹のような密室のなかでさえ、すぐに充満する浅ましい欲情。きっと車内の空気は私の雌に汚染されているだろう。
 彼の表情は窒息を始めたように、少しだけ歪められ、何かにすがるようにハンドルを握っている。私は窓に頬杖をつきながら見て見ぬ振りをする。
このまま、都市高が続けばいいのに。そう切望しながら、シートベルトを握り締めている。
この距離を切り裂いて私に触れて。そう切望しながら、霧雨を見つめている。

 私は彼の手が下されることを望み、恐れている。

 そうして、いつまでも続くかと思われたアスファルトの退屈は、彼のハンドルと小さなタイヤの軋みによって、終焉を迎えた。

「京一さん?」
 私はあきらかな動揺と微かな怯えにも似た声を漏らした。
高速を出たすぐに銀色ののセダン車は走行をやめた。サイドブレーキを引いた彼の手が、私の手を掴んだ。握り締められたのは、私のこぶしの形をした心臓だった。
 詰まったはずの呼吸は唇からこぼれ、熱い空気になって漏れた。
 触れられた所から崩壊し、分解されて蒸発してしまいそうだった。

「美智恵、もう、いいだろう」
 私の指に触れた熱い唇と溜息。
梅雨が始まったばかりだった。

 














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