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短編・中編

The Nigh†

作者:サケ
草は鬱陶しければ消します。

 授業中、背中から刺されたことはあるだろうか。
 僕はある。一週間前のことだ。普段通りに高校で授業を受けていると、急に背中に痛みを感じたのだ。思わず声を上げて、慌てて振り返ってみれば、後ろの座席で下卑た笑みを浮かべる男子がいた。その生徒は右手に画鋲のような物を持っていて、ケタケタと笑った。そして、わけがわからず苦しんでいる僕に、彼は小声でこう言ったのだ。

「いいから、前を向けよ」

 またか、と僕は思った。
 自分が虐められているという事実に気づいたのは、半年前のことだ。彼らは半年前から現在に至るまで、ありとあらゆる趣向を凝らした嫌がらせを、僕にしていた。驚くことに、彼らは実に想像力豊かであり、いつも僕の予想の斜め上を行く嫌がらせを、思いついては実行する。加えて、彼らは実に悪意を隠すことに長けており、お陰でこの虐めが教師に悟られる気配は、一向に訪れない。
 この虐めに対し、僕が抵抗することは一度もなかった。
 そこには、諦念がある。

 自分が虐められているという事実に気づいたのは、これで五度目だった。僕は過去に四度、同じ経験をしている。それぞれ、小学生で二回。中学生で二回だ。いずれも虐めが発覚してからは、すぐに転校した。けれど転校先でも虐められて、結局、卒業まで我慢することもあった。高校二年生となった今でも、その繰り返しは変わらないらしい。
 僕の転校に伴って、家を引っ越すことも何度かあった。
 多分、また引っ越しだ。少し前まで、そう思いっていた。
 けれど、その繰り返しは唐突に終わりを迎えた。
 虐めを自覚した、その日。安上がりなアパートに帰宅した僕が、虐めについて、今まで通り家族に――父と母に――告げたところで、それは起きてしまった。

「もう嫌だ」

 母が言った。

「俺だって嫌だ」

 父も言った。

「僕だって」

 とは言えなかった。
 父も母も、苦しそうに頭を抱えた。そして、ダムが決壊したかの如く、それぞれの口から罵詈雑言の濁流が放たれた。口論に耳を傾けたところ、どうやら原因は僕にあるらしい。僕の都合による引っ越しに、父も母も嫌気が差したのだ。
 父は、度重なる引っ越しによって、同僚から妙な勘ぐりをされているようだった。一方、母は、引っ越す度に新たなコミュニティに馴染む努力をしなくてはならず、その苦労にもう耐え切れないと嘆いていた。思えば、授業参観の時、僕の母親は他の生徒の母親と比べて、白髪が目立ち、皺も多く刻まれていた。きっと父も同じなのだろう。二人はいつの間にか、精神を病んでいたのだ。両親の話を聞いて、僕は黙るしかなかった。
 しかし、そこで黙り続けた結果。
 両親は離婚した。

 手切れ金とでも言わんばかりの、なけなしの金を受け取り、僕はアパートに一人残った。二人は、離婚届にサインを記してからアパートを立ち去るまで、驚くほど迅速な動きを見せた。どちらも既に愛人がいたのだろう。或いは二人の中では、既に僕という存在は息子ではなくただの厄介者で、それぞれ本物の妻、夫を持っていたのかもしれない。自分のことで手一杯の僕は、それに気づくことができなかった。

 そして、現在。父と母を無くし、半年が経過した頃。
 両親が離婚しても、虐めは続いていた。それどころか、配慮に欠けた教師が、僕の家庭事情を暴露した結果、更に苛烈な嫌がらせを受けるようになった。
 最早、誰にも頼ることのできない僕に、彼らは本当に容赦がなかった。登校すれば石を投げられ、尻を蹴飛ばされる。上履きは、なくなっているか、中に変な物が入っているかの二択だ。大抵は後者で、虫の死骸や腐った食べ物など、彼らは色んな物を面白半分で上履きに詰め込み、僕の反応の変化を楽しんでいるようだった。授業中は、画鋲やコンパスの針で背中を刺されたり、髪を千切られたり、服に落書きをされたりした。
 流石に、堪え切れなかった。

「僕だって嫌だ」

 遂に僕は、一人の被害者として、その言葉を口にした。
 高校二年生の夏が終わる。九月七日。夜の帳が下りたことを確認して、僕は狭い一室から外に出た。少し湿り気の混じった風が、頬を撫でる。
 もう限界だった。これ以上、耐えられそうになかった。

 どうして、僕はこんなにも、辛い目に遭っているのだろう。
 今まで、それだけをずっと考えていた。
 そして、幾つかの答えを得た。

 僕のクラスには、いつも怠けている癖に、常に成績がトップの天才がいる。
 僕のクラスには、学校で誰よりも持て囃されている、絶世の美女がいる。
 僕のクラスには、いつも多くの生徒に囲まれている、人気者がいる。
 僕のクラスには、お金持ちの家に生まれ、恵まれた人生を歩んでいるお嬢様がいる。
 僕のクラスには、誰からも干渉されず、平和に過ごしている空気のような人がいる。
 僕のクラスには、共通の趣味を持つ親友と、いつも楽しそうに過ごすオタクがいる。

 彼らを観察する僕の心境は、複雑とは程遠く、いっそ爽快な気分だった。
 彼らの有り様は、僕が如何に矮小であるかを示していた。彼らと自分を比較することで、僕は漸く、自分を客観視することができたのだ。
 彼らと比べて、僕には何も無かった。
 勉強ができない。
 容姿が優れていない。
 人望がない。
 環境に恵まれていない。
 平和に過ごせない。
 仲間がいない。
 こんな僕が、果たしてこの先、健やかに生きることができるだろうか。いいや、そんな筈がない。何もない自分が、これから先、彼らと同じように歩むことは出来ない。
 僕には何もない。生きる力も、生きた先にある希望も。何もかもが存在しない。

 だから今日、死ぬことにした。

 朝起きた瞬間から、そう決めていた。別に、明日でも、昨日でも良かった。今日にしたことに深い理由はない。単純に気分だ。今日が一番、死んでもいい気分だった。
 時間帯を夜にしたのも、気分だ。
 妖しい月光に照らされて、薄闇の天蓋を仰ぎ見て、運命を呪いつつ死んでいく。劇的である必要はない。ただ、せめて最後くらい、好きに締め括りたかった。
 ところが、街道の眩しさに目を細くしている時、ふと、気づいた。
 死ぬ場所を決めていない。死ぬ方法も決めていない。今晩に死ぬと決めて、外に出たのはいい。だがそれから、どうやって死ねばいいのか。僕は分からなかった。

 馬鹿な話だと自嘲しながら、適当に夜道を進んで行く。
 それもまた、気分に任せよう。このまま進んで、その気になったら、そこで死ねばいいのだ。その時、適当に周りを見て、その気になる物があれば、それで死ねばいい。今の世の中にとって、人の身体は脆すぎるくらいだ。車に轢かれて死ぬも良し。高層ビルから落ちて死ぬのも良し。首を吊って死ぬのも良し。水に溺れて死ぬのも良し。落ちている鉄パイプや、ガラス片を利用しても、簡単に死ぬことができる。

 あと少しで自分が死ぬことを信じて疑わず、夜の街を散歩した。
 夜は長い。のんびりと、死ぬまでの時間を噛み締めよう。
 そう考えながら、僕は、一人のクラスメイトの姿を思い浮かべていた。

 彼は天才だった。
 彼は、朝教室に入った時から、放課後になるまで、終始眠たそうにしている。量の多い癖っ毛が半分ほど隠しているその瞳は、いつも気怠げだった。どの授業を受けている時も、休み時間でさえも、彼は何かに関心を向けている素振りを見せなかった。授業中は寝ているし、休み時間も寝ている。彼は徹底的に淡白な人間だった。
 けれど、彼はいつも、成績が良かった。

 彼はまともに授業を受けたことのない、誰よりも頑張っていない生徒だ。しかし、成績だけは常にトップだった。掲示板に張り出された成績優秀者を示す表で、彼の名が一番上以外に記されていたことは、少なくとも僕の記憶にはない。過去に一度、その張り紙を見ている時に彼と遭遇したことがある。彼は誰にも視線を向けることなく、張り紙を一瞥した。そして、笑いもせず、悲しみもせず、すぐに踵を返した。その様は、この日のために努力してきた全ての生徒を、馬鹿にするようだった。
 これが、天才である彼の、日常である。
 僕には到底歩むことの出来ない道である。

 僕は勉強ができない。それは、頭が悪いからだ。
 頭が悪いのは、才能がないからだ。
 きっと、彼のように。生まれ持った才能があれば、こんな惨めな思いをしなかったに違いない。そう思いながら、僕は夜の道を歩んだ。



 ◆



 街灯と街灯の間を抜けると、ふと、目を惹く光景があった。
 それは喫茶店だった。こんな夜に経営しているとは珍しいと思い、僕はふらふらと店に近づいた。看板を照らす蛍光灯が、周辺の虫を集めている様を眺めつつ、窓から店内の様子を窺ってみる。そこには一人の男性が、席に座っていた。真面目そうに、テーブルの上に敷かれた書類を見つめる彼の横顔に、僕は「あ」と声を上げた。
 同時に、背後から、僕に近づく足音が聞こえた。

「彼の友人?」

 声の方へ振り返ってみると、そこには黒い制服を着た、一人の女性がいた。こちらに向けているその顔には、僅かに皺が刻まれているが、声音は若い。三十代くらいだろうか。格好から、彼女がこの喫茶店の店員であることが分かった。
 声を掛けられたことに驚いた僕は、少しだけ時間を要して返答した。

「いえ、そういうわけでは」
「あらそうなの。じゃあ知り合い?」
「まぁ、そんなところです」
「良かったら入る? 寒いでしょう」

 その親切を、僕は何故か断ることができなかった。
 この時間帯には客も少ないのか、その女性の振る舞いは素のように感じた。商売に使うには些か淡白だったが、その軽い口調と提案に、僕は気がつけば乗せられていた。
 店に入ると、二つの視線が僕に向いた。一つは、彼女と同じく、この喫茶店の店員であろう男性のもの。そしてもう一つは、先程窓から覗いていた、彼だった。彼は僕を見た瞬間、数秒前の僕と同じように「あ」と声を漏らす。

「お好きな席へどうぞ」

 やや気を遣ったように女性は告げたが、僕は敢えて、彼の元へ足を向けた。
 今までの僕ならば、彼女の気遣いを甘んじて受けていただろう。だが、今夜死ぬ予定である僕にとって、多少の気まずさは、別段避けるほどのものではなかった。普段は話すことのないクラスメイトの元へと、僕は歩み寄る。

「よぉ」
「どうも」

 感情を押し殺した声を紡ぐ彼に、僕も返す。
 取り敢えず何か話してみようか。そう考えたが、視線をテーブルに落とした直後、僕の頭は真っ白になった。その光景は、あまりに予想外だった。

「座れよ」

 溜息混じりに言う彼に、僕は無言で首を縦に振り、相対するように座る。
 テーブルを挟んだ先で、彼は二度目の溜息を吐いた。癖っ毛を右手で乱雑に掻き乱して、何かを諦めたかのような表情を浮かべる。

「意外か?」

 気怠げな瞳が、僕を見据える。

「何が?」
「俺が、こうして勉強していることだ」

 テーブルの上に散らばる教材を指で突きながら、彼は言った。
 彼自身、自覚があるのだろう。自分が他人にどう思われているのか。僕にどう思われているのか。見透かされているなら、遠慮することもない。僕は静かに頷いた。

「君が勉強している姿を見るのは初めてだ」
「俺も、自分が勉強している姿を他人に見せるのは、これが初めてだ」
「クラスメイトとは思えない発言だね」
「クラスメイトだからこそだ」

 彼の言葉には、理屈ではない、彼ならではの美学のようなものを感じた。彼の言っている意味が理解できなかったが、僕は追求せずに、話題を変える。迂遠に話を運ぶことはやめて、純粋に、一番気になっていることを尋ねた。

「君は、天才じゃないのか?」

 僕の記憶では、彼は天才だった筈だ。学校ではいつも寝てばかりいるが、成績は何故か常にトップ。努力もせずに結果だけを残す、羨ましい才能だと、誰もが思っている。
 だからこそ、目の前の光景はおかしかった。
 天才である彼は、勉強なんて、する必要がない筈だ。

「俺は、ただの見栄っ張りだ」

 彼は渇いた笑みを浮かべて、語り出した。

「まず前提として、俺は人前で絶対に恥を掻きたくないと思っている。例えば授業中、先生に名指しされて、うまく答えられなかったら、お前はどう感じる? 俺は、死にたくなる。例えば電車の中で、急に携帯電話から着信音が鳴って、一斉に注目を浴びたら、お前はどうする? 俺は吐いた」

 壮絶な過去を語る彼は、自嘲しながら続ける。
 僕は無言で話を聞いていた。

「そんな奴なんだ、俺は。人前で無様な醜態を晒したくない。その臆病な思いが、プライドが強すぎて、俺はいつも外聞を気にしている。だから、こんな風に汗水垂らして努力する姿を、誰かに見て欲しくない。だって、努力って格好悪いだろう。少なくとも俺はそう思う。俺が、学者でも目指しているなら、話は別なんだけどな。大した夢を持っているわけでもないのに、こうして勉強しているということは、勉強ができないか、勉強のできない自分が怖いかの二択だ。俺にとっては、どちらも格好悪い。どちらとも思われたくない。なあ、ウサギと亀の話、知っているよな。俺はあれが嫌いなんだ。見るに堪えない醜態を晒して、レースに臨む亀を、俺はどうしても凄いとは思えない。その場で汗水垂らして頑張る必要はないだろ。俺が亀なら、こうやって結果を出す」

 テーブルに置かれた教科書と、大量の文字が綴られたルーズリーフを、指で突きながら彼は続けた。少なくとも十枚以上のルーズリーフが、表裏ともに文字で埋め尽くされている。良く見れば、彼の右手の側面は、鉛筆の灰色に染まっていた。

「授業中、寝ていることは、醜態じゃないのか」
「先生に注意されて、問題に答えられなかったら醜態だ。でも、答えられたら、逆に格好良いだろ? 天才と思われるだろう? 秀才なんて、そこら中にいる。だけど、天才は中々いない。そして、一目置かれるのは、いつだって天才だ。誰がどれだけ取り繕おうと、事実はそうだ。元々、俺は馬鹿で愚図な人間だよ。だけど、そんな自分は、自分一人が知っていればいい。馬鹿な自分とはここで決別して、皆の知っている天才の自分を作るのさ。結局、俺は皆に天才と呼ばれたいだけの、ただの凡人だよ」

 全てを語り終えた彼は、どこか爽やかな表情を浮かべていた。

「なんか、不思議だ。お前になら、あまり知られても嫌な気分じゃない。なんでだろうな。今すぐにでも、消えてしまいそうだからかな」

 勘が鋭いと僕は思った。
 僕自身、そのような態度を取っているつもりはないが、まっとうに生きている彼からすれば、今の僕はどこかおかしいのかもしれない。今夜死ぬ予定である僕は、明日以降に起きる事象と、一切関係を持つことが出来ない。未来を持たない僕は、未来のための布石に関心を抱くことができないのだ。彼はそんな僕の冷めた思考を読み取った。

「なぁ、お前、いつも夜は暇なのか。もしよければ、俺と一緒に勉強しないか。俺は馬鹿だから、効率が悪いんだ。他の誰かの力を借りることができれば、きっと、今よりも簡単に天才に成れる。無理だと思っていたけれど、お前とならば、できそうだ」

 気怠げな瞳を精一杯開きつつ、彼は言った。
 しかし、僕の気持ちが揺らぐことはなかった。

「遠慮しておくよ。僕には関係のない話だ」

 僕の返事を聞いて、彼は小さく「そうか」と呟いた。それから、彼は再び、天才である自分を作る作業に没頭する。僕はそれを傍目に、席を立った。

 喫茶店を出て、煌々と照る月を眺めながら、僕は夜道を歩む。
 月明かりに照らされながら、考えた。

 彼は天才ではなかった。僕の憧れた天才は、この世界のどこにもいなかったのだ。
 僕の彼に対する印象が音を立てて瓦解する。彼は決して才気溢れる天才ではない。彼が手にした栄光は、安っぽい偽物だ。少し突けば破れるであろう薄紙を、汗水垂らして必死に補強しているのだ。彼の正体は、天才を装いたいだけの馬鹿だった。
 紛い物である彼に、僕はこれ以上、憧憬を抱けない。
 僕は今一度、「本物」である一人のクラスメイトを思い浮かべる。

 彼女は美女だった。
 絹のような黒い長髪、白磁のように肌理細かな肌。そして何より、絶世と言っても過言ではない端正な顔立ちを、彼女は持っていた。その整った顔には、控えめな柳眉、存在感のある瞳、上品な鼻梁、色気のある朱唇が、絶妙なバランスで配置されている。

 彼女は僕の知る限りでは、常にあらゆる男性に付き纏われていた。そして、常にあらゆる女性から妬まれていた。朝は登校中に、最低でも三人以上の男子を侍らせ、放課後になれば、それが十人を超える。短い休み時間の間でも、他クラスの男子が彼女に会いに来る程だ。一方、女子は彼女に対して陰口を叩くことが多いが、本人はそれを知っていて、その上で黙認している。それがまた、彼女の器の広さを強調するようだった。毎日、目に見えてわかる程の熱烈な好意に囲まれる彼女は、実に幸せそうだった。
 これが、美女である彼女の、日常である。
 僕には到底歩むことの出来ない道である。

 僕は容姿が優れていない。
 きっと、彼女のように。生まれつき美しい容姿を持っていれば、こんな惨めな思いをしなかったに違いない。



 ◇



 店員しかいないコンビニの前を横切ると、ふと、目の前で物音がした。
 少し前を歩く女性が、鞄の口を開けた際、何かを落としたようだ。女性はそれに気づいておらず、歩みを止める様子はない。声を掛けるタイミングを失った僕は、街灯の光を頼りに、アスファルトの地面に落ちたカードらしき物を拾った。
 見れば、それは僕の通う高校の学生証だった。
 見慣れた校章を見て、目の前の女性が、同級生であることを悟る。しかし、そのまま学生証を裏返したところで、僕は僅かに動揺した。何故なら、つい先程まで頭に思い浮かべていた人物の名が、そこに記されていたからだ。

「あの、これ、落としましたよ」

 感情の揺らぎを押し殺し、僕は口を開いた。
 呼びかける僕の声に、目の前の女性もこちらに気づく。しかし、彼女が振り返り、その横顔が見えた辺りで、僕は思わず「え」と声を漏らした。それは彼女も同様だった。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 辛うじて、愛想笑いを浮かべる。
 絞り出したような声を紡ぐ彼女は、僕の知る彼女ではなかった。無作為に纏められている無造作な髪。ところどころが荒れて、ニキビ跡が目立つ額。油の乗った鼻に、シミとそばかすだらけの頬。瞳は垂れ下がり、唇は太く、色気は微塵も漂っていない。
 学生証を渡す前に、もう一度だけそこに記された名前を見た。認識に誤りはない。差し出された掌の上に学生証を乗せながら、改めて、彼女の顔を確認する。

「言いたいことがあるなら、聞くけれど」

 溜息混じりに言う彼女に、僕は息を呑んだ。
 恐る恐る、言葉を発す。だが、言葉を選ぶ余裕はなかった。

「君の顔は、もっと綺麗じゃなかったか」

 僕の記憶では、彼女は美女だった筈だ。学校中から、注目の的にされている程の、端正な目鼻立ちをしていた筈だ。
 だからこそ、目の前の光景はおかしかった。
 美女である彼女が、そのような醜い顔であるわけがない。

「私の顔は、造り物よ」

 自らの頬を、まるで引き剥がそうとするかのように摘みながら、彼女は言った。

「別に深い意味はないわ。切っ掛けは二年前、中学三年生の頃よ。山中さんって女の子がいてね。彼女、顔が凄い可愛くて、学校中の男子から注目されていたのよ。でもある日、彼女の人気は、唐突に終わりを迎えた。確か、料理研究部だっけ。彼女はそこで火の扱いに失敗して、顔に火傷を負ってしまったの。それ以来、周囲の彼女に対する反応は、途端に覆ったわ。あれだけ持て囃されていたのに、今じゃ誰も寄り付かない。内面は何も変わってないし、外見だって、顔の五分の一を除けば、全く同じなのにね。私はそれを見て、悟ったわ。結局、世の中、顔なんだって」

 説得力のある話だった。
 彼女は続ける。

「でもね、悲観することはなかった。寧ろ私はこう思ったの。美人が不細工になって、皆に無視されるようになったということは、その逆も有り得るんじゃないかって。そう思って、私は高校生になったら、化粧に力を入れようと決めたの。ちゃんと舞台も整えてね。私のことを誰も知らないような、地元から遠くの学校を選んだわ。結果、私の予想は大当たりだった。中学生までは全然人に話しかけられなかったのに、今では、隣のクラスの男子まで、私に会いに来てくれる。世の中、本当に単純よね」
「でも、化粧を落とせば、君は元の自分に戻る」
「ずっとこのままよ。私の素顔は、誰にも見せない。私ね、高校生の間にバイトでお金を稼いで、大学生になったら、整形しようと思うの。そうしたら、もう完全に私の勝ち。私の作った偶像は、遂に実像になる」
「偶像を作って、悲しくならないのか」
「ならない。だって私は、これで満足しているもの。少なくとも、あなたより、毎日を楽しく過ごせていると思うわ」

 その一言に、僕は押し黙った。その通りだと思う。どういう原理があろうとも、僕は確かに、彼女に羨望の眼差しを送っていたのだ。その事実だけは変わらない。

「ねぇ、あなた。いつも夜は暇なの。もしよければ、私の化粧を手伝ってくれない。化粧って結構手間がかかるのよ。クレンジングに、保湿クリーム、パックも。買い出しも大変だし、後はなんといっても、流行の調査。あなたには、買い出しと調査を頼みたいのだけれど。そのくらいなら、できるでしょう」

 垂れ下がった瞳を僕に向けて、彼女は言った。
 だが、僕の気持ちが揺らぐことはなかった。

「遠慮しておくよ。僕には関係のない話だ」

 今夜死ぬ僕に、その相談は無理な話だ。
 僕の返事を聞いて、彼女は小さく「そう」と呟いた。それから、彼女は踵を返してどこかへ向かう。僕もまた、少し間を置いてから、死に場所を探す散歩を再開した。

 瞼に下りた前髪を拭いながら、考える。
 彼女は美女ではなかった。僕の憧れた美女は、この世界のどこにもいなかったのだ。
 僕の彼女に対する印象が、音を立てて瓦解する。彼女は決して、人に羨まれるような美女ではない。彼女の容姿は、ありとあらゆる工夫によって偽られたものだ。彼女の正体は、持て囃されたいだけの不細工だった。
 紛い物である彼女に、僕はこれ以上、憧憬を抱けない。
 僕は今一度、「本物」である一人のクラスメイトを思い浮かべた。

 彼は人気者だった。
 学校で、ふと彼の姿を見ると、その傍にはいつも誰かがいる。男女問わず、彼はいつも誰かと共に行動していた。登校する時や休み時間は、常に誰かと談笑し、昼休憩になると、グラウンドで多くの生徒たちとサッカーを楽しんでいる。それどころか、廊下で誰かと擦れ違う度に、小さな会話が始まるくらいだ。彼が口を休ませているのは、授業中くらいだろう。放課後になっても、彼は誰かと話し続ける。

 常に誰かに囲まれているという点においては、美女である彼女と同じだ。けれど、彼の周囲にいるのは、傍観者でも他人でもなく、彼と対等な存在である友人だった。いつも友人と過ごしている彼にとって、学校生活というものは、さぞや楽しいものなのだろう。よく人と話す彼は、相対的に、よく笑顔を浮かべている。
 これが、人気者である彼の、日常である。
 僕には到底歩むことの出来ない道である。

 僕には人気がない。
 きっと、彼のように。クラスの人気者になれるような、面白い人間であれば、こんな惨めな思いをしなかったに違いない。



 ◆



 やや賑わいのある表通りの傍を通ると、ふと、喧噪が聞こえた。
 一瞬だけ、そこから遠ざかるように身体の向きを変えるが、僕は真っ直ぐ進むことにした。どうせ今夜死ぬのだ。多少の厄介事に巻き込まれても、痛くも痒くもない。
 暫く歩いていると、喧噪の内容が明瞭に聞こえてくる。三人の男の声だった。その内の二人が凶暴な声を発しており、残る一人は、訥々と謝罪を繰り返している。関心を向けずに聞き流していると、今度は風船が割れたような音が聞こえた。それからすぐ、鞄を下ろした時のように、地面に何かが倒れたような音がする。

 音のしていた路地裏から、二人の男が出てきた。彼らの顔を一瞥する僕は、その二人が同じ学校の生徒であることに気づく。だが、名前までは分からない。一度か二度、どこかで見たことがある程度の関係だ。
 彼らの内、片方の男が、その手に茶色の封筒を握っていた。封筒の口から、数枚の紙幣が覗いている。なんとなく事態を察した僕は、そっと目を逸らした。僕に気づいた二人も、眉間に皺を寄せ、足早にこの場を立ち去る。

 興味本位で、路地裏の方へ近づいてみた。徐々に、笑い声とも呻き声ともとれる、歪な声が聞こえてくる。だが、そこに僕の足音が混じったことで、声はパタリと止んだ。
 一メートルくらいの横幅である路地から、もう一人の男が現れる。
 無関心を装うつもりだった。けれど、その人物を見て、僕は「え」と声を漏らす。
 驚いたのは相手も同じだった。

「奇遇だね」

 腫れ上がった頬を擦りながら、彼は言った。
 見慣れた学生服を纏う彼は、身体のあちこちが薄汚れていた。髪にも、服にも、黒いズボンにも、埃が付着している。頬にできた痣は、彼の顔を痛ましく歪めていた。

「こんな時間に、どうしたんだい」

 普段通り、多くの友人に囲まれている時のように、彼は柔和な声音で訊いてきた。
 僕は動揺を飲み込み、落ち着いた回答をする。

「ただの散歩だけれど」
「そうか。ちなみに俺は、バイトの帰りだ」
「こんなところで?」

 一歩踏み込むことにした僕に対し、彼は暫し、目を見開いて硬直した。僕が、このように他者に歩み寄るとは思わなかったのだろう。唇を閉ざしていた彼は、やがて「参ったな」と、苦笑する。破顔した彼は、普段よりも弱気に見えた。しかし、何故かその方が自然のように思えた。違和感を覚える僕に、彼は口を開く。

「バイト帰りなのは間違いないよ。ただ、その途中で、また別のバイトが入った。そっちのバイトでは、俺は働く側ではなく、金を支払うオーナー側なんだ」
「どういうことだ」
「バイト帰りなのは、俺ではなく、彼らだ」

 陰りのある瞳で告げる彼に、僕は記憶から心当たりを探す。

「君より先に出てきた、二人の男のことか」
「その通り。俺はここで、彼らに給料を払っていた」
「給料?」
「友達料だよ」

 平然と。淡々と述べる彼に、僕は絶句した。
 言葉の意味から察するに、友達料とは友達という関係を継続するための、必要経費だろう。彼がそれを払っているということは、そういうことだ。
 気まずい静寂が立ち込める。

「言いたいことがあるなら、聞くけれど」

 静寂を断ち切った彼の瞳は、僕の内心を見透かしているようだった。
 だから僕も、意を決して言葉を発した。

「君は、人気者だと思っていた」

 いつも友人と共に過ごし、いつも笑っている、幸せ者。
 そう思っていた彼は、今、酷く疲れた様子を見せていた。

「俺は、道化だよ」

 両手を広げ、開き直ったかのように、彼は無様な自分を曝け出す。

「俺、実は去年まで虐められてたんだ。まあ、虐めと言っても、君と違って、そこまで目立つことは無かったけどね。さっきみたいに、人目につかない場所で、よく殴られていたんだ。でも、その虐めが、ある時を境に収束した」

 どこか懐かしむように、彼は続ける。

「俺がバイトを始めたら、急に虐められなくなって、代わりに金を取られるようになったんだ。なんでかな、結構、酷い仕打ちを受けた筈なんだけれど、どうやら彼らが俺に感じていた不満は、月三万円程度のものだったらしい。人間が如何に単純か、理解したよ。友人を作りたければ、週に一回、飯を奢ればいい。恋人が欲しければ、月に一回、プレゼントを贈ればいい。それでも気が合わない人には、もっと、目に分かるくらいの誠意を見せればいい。そうして、俺は平和な日常を手に入れた」

 その誠意とは、先程のアレのことなのだろう。
 僕は表情を崩すことなく、話を聞いていた。

「偶に、惨めに思うこともあるけどね。でも、いいんだ。虐められていたあの頃と比べたら、今のほうがずっといい。それに、知っているかな。最近はこういうの、ちゃんとした会社がしていることもあるんだ。友人のフリをして、結婚式で祝ってくれる人。恋人のフリをして、デートしてくれる人。色んな人が、お金ひとつで協力してくれる。そう考えると、別に恥ずかしいことじゃない。俺が本当に欲しいものは、人に見せることのできる平穏さ。誰にも憐れまれず、誰にも不安がられない体裁。それを得るために俺は金を払っている。謂わば、公共の場における平穏だ。金を払うに値する商品だと思うよ。だから俺は、こうやって生きると決めた」
「でもその結果、さっきみたいに争いに発展している」
「争いじゃないよ。ただ、お金を払うだけだ。お金を払って済む争いなんて、本当の争いじゃないよ、きっと」

 彼の瞳は、いつも優しくて、それが人を魅了しているのだと思った。でも、こうして見ると、それが間違いであることが分かる。彼の瞳は、単に臆病なだけだった。覇気がないだけだった。優しいライオンではない。弱者を自覚したウサギだった。
 少しだけ間を空ける。他に言いたいことはないかと、暗に問われているようだった。

「なぁ、君。いつも夜は暇なのか。もしよければ、俺と一緒にバイトしないか。紹介制度っていうのがあってさ。自分の紹介した人が、一定期間以上労働してくれたら、いくらか報酬が貰えるんだ。最近、友人を作りすぎちゃって、そろそろ金が足りないんだ。よければ協力して欲しい」

 縋るような瞳が僕を見る。
 だが、僕の気持ちが揺らぐことはなかった。

「遠慮しておくよ。僕には関係のない話だ」

 今夜死ぬ僕に、その相談は無理な話だ。
 僕の返事を聞いて、彼は小さく「そうか」と呟いた。それから、彼は僕の隣を通り抜け、ふらふらと歩いて行く。僕もまた、真逆の方向へと足を進めた。

 肩についた埃を振り払いながら、考える。
 彼は人気者ではなかった。僕の憧れた人気者は、どこにもいなかったのだ。
 僕の彼に対する印象が、音を立てて瓦解する。彼は決して、誰からも慕われる人気者ではない。彼の手に入れた人気は輝かしいものとは程遠く、寧ろドス黒い、悪意に近い欲望が、具現化したようなものだ。彼の正体は、人に慕われたいだけの弱者だった。
 紛い物である彼に、僕はこれ以上、憧憬を抱けない。
 僕は今一度、「本物」である一人のクラスメイトを思い浮かべた。

 彼女はお嬢様だった。
 小学生でも聞いたことのある大企業の社長である父と、世界的に有名なデザイナーである母の間に生まれた、一人娘。生まれた瞬間から、彼女は恵まれた環境の中で過ごしてきた。裕福の域を超えた、際限なき環境で、彼女は今まで暮らしてきた。その育ちの良さは平凡な学校生活の中でも節々に表れており、彼女の一挙手一投足は、明らかに凡俗のそれとは格の違うものだった。

 彼女の、学校の送り迎えは、全て高級感溢れるリムジンで行われている。黒服の男性を顎一つで従える彼女に、どれだけの生徒が畏怖したか。噂によれば、彼女の身に着けている物はどれも一級品で、昼食時に机に広げる弁当の中身も、ポケットから出すハンカチも、髪を結ぶリボンでさえも、庶民には手が出せない代物らしい。いっそ清々しい程に格差を魅せつける彼女に、周りの生徒たちは、妬みすら抱くことができない。
 これが、お嬢様である彼女の、日常である。
 僕には到底歩むことの出来ない道である。

 僕には恵まれた環境がない。
 きっと、彼女のように。普段から何不自由なく過ごせるような、恵まれた環境の中に生きていれば、こんな惨めな思いをしなかったに違いない。



 ◇



 不気味な公園に辿り着くと、ふと、風の音が聞こえた。
 か細い口笛のような音がする。しかし、それが何処から聞こえているのか、分からない。人影のない広い公園で、僕は周囲を見渡した。塗装の剥がれ落ちたベンチと、人の手があまり入っていない茂み。足元の砂粒が、歩く度にジャリジャリと音を立てる。昼間は普通の光景だったが、夜になると、何故か気味の悪い風景に思えた。
 ここで死にたいとは思えない。早々に、公園から出る決意をする。
 ところが、不意に、僕の足が止まった。

 棒立ちになったまま、全身を蝕む違和感に、僕は得体の知れない何かを感じた。足が凍ったかのように動かない。だが、集中してみれば、それぞれ左右の足が、何者かの腕に掴まれているような感触があった。慌てて足元に目を向ける。けれど、そこには自分の足と、砂粒の地面しか見えない。僕はいよいよ冷や汗を垂らした。
 肌を撫でる空気が、夏の終わりとは思えないほど冷えていた。
 全身が鉛のように重い。硬い針金で、手足が締め付けられているようだ。
 肩に何か乗っている。そこにあったのは、黒く悍ましい影だった。
 ゼンマイ式の玩具のように、キリキリと音を立てながら、影がこちらを向いた。口を開き、夥しい数の歯が顕になる。夜より深い真っ暗な口腔が、僕の頭に迫っていた。

「下がって!」

 横合いから掛けられた声に、僕は驚愕した。
 下がれと言われても、動くことができない。どうにかして、この場から逃げ出そうと努力の意志を見せる。その瞬間、僕の身体は、勢い良く押し飛ばされた。
 咄嗟の出来事に対応できず、砂の地面に尻もちをつく。慌てて顔を上げると、頬に生暖かい液体が掛かった。手の甲で液体を拭い、その正体を知る。赤黒く、生理的嫌悪感を催すそれは、紛れも無く誰かの血だった。
 呆然とする僕の目の前には、一人の女性が立っていた。
 彼女は僕に背を向け、眼前の何かと対峙していた。
 もぞもぞと、輪郭のない、子犬くらいの闇が蠢く。僕の肩に乗っていた影だ。その影が、彼女に向かって疾駆した。しかし彼女は、その繊細な指に挟んでいる、お札らしきものを影に翳す。直後、影は中心部から破裂した。

「もう大丈夫よ」

 悠然とした立ち居振る舞いで、彼女は僕に手を差し伸べる。
 差し出された手を頼りに立ち上がった僕の目の前には、先程まで思い浮かべていた人物の顔があった。艶のある黒髪に真っ白なリボンを結んだ彼女は、奇妙な紋様が描かれたお札を、懐に仕舞う。そして、普段通りの鋭利な瞳で僕を見据えた。

「怪我はない?」
「あ、うん。ないけれど」
「血が出てるけど」
「いや、これは僕のものじゃ」

 言い淀む僕に、彼女は小さく「あぁ、私のね」と呟いた。
 非現実に晒されて、僕の頭は思考を拒んでいた。自分で考える余裕はない。だから僕は、目の前の彼女に、純粋に疑問をぶつけることにする。

「君は、何者なんだ」

 少しだけ悩む素振りを見せて、彼女は答えた。

「陰陽師って、聞いたことはない? 不思議な術で、夜な夜な化物を退治する職業。私はそれなの。信じられないかもしれないけれど」

 言葉だけならば、信じられなかっただろう。だが、実際に、現実としてその一部始終を見せられた僕にとって、その事実はどうにか飲み込めた。

「じゃあ君は、いつもこんな風に?」
「そうね。年がら年中、日がな一日、こうやって化物を退治している。おかげ様でいつも生傷だらけよ。私、体育の授業をよく欠席しているでしょう? あれは、その傷を隠すためなの。あと、授業中、偶に気分が悪くなって退室することもあるでしょう? あれも嘘。学校に現れた化物を、退治しているのよ」
「君の親は、それを知っているのか」
「当然でしょ。陰陽師は、遠い昔から代々続く家業よ。だから、父様も母様も、私が学生であることに重きを置いていない。それどころか、さっさと学生をやめて、この仕事に専念しろと口酸っぱく言ってくるわ。実際、学業と仕事の両立には、私も無理を感じているし、そのうち学校を辞めると思う。延々と化物を退治するだけの、つまらない人生の幕開けね。陰陽師って、平均寿命が三十代半ばだし、私もすぐ死ぬのかしら」

 自らを卑下するわけでも、同情を買おうとしているわけでもない。本人は、ただ淡々と実情を語っているだけだった。けれど、僕はこれ以上、彼女の過酷な日々の中身を聞きたくなかった。聞いているだけで、気が滅入る。

「何よ」

 眉間に皺を寄せ、伏し目がちになる僕に対し、彼女は言った。
 僕は正直に、言葉を発した。

「君は、もっと恵まれた環境に生きていると思っていた」

 彼女は、お嬢様だった筈だ。
 大企業の社長と、世界的に有名なデザイナーの間に生まれた一人娘。両者の恩恵を余すこと無く享受した、生まれつきの幸せ者。彼女は、そうであった筈だ。

「あんたにとっては、そうかもね」

 吹っ切れた様子で彼女は言った。

「確かに私は、人と比べて、生活水準が高いと思う。でも、その代わりに、私は代償を払っている。見て、これ。さっき、あんたを庇った時に受けた傷。あぁ、別に負い目を感じることはないわよ。これが私の仕事だから。でも、こうして簡単に怪我を負うような仕事をしている時点で、とても幸せとは言い難いでしょう」

 彼女の白い細腕には、肘から手首にかけて、一筋の爪痕のような傷があった。血が垂れた痕がある。しかし、彼女は表情を歪めることなく、語り続けた。

「当たり前だけど、こんなの、好きでやってるわけじゃないわよ。さっきも言ったけれど、これは遠い昔から続いている家業なの。街に蔓延る魔を祓うべく、私たちは子供の頃から、過酷な訓練を強いられている。そして毎晩、死と隣り合わせの戦場に、駆り出されている。手足を引きちぎられた子もいるわ。喉を焼かれた子もいる。心が壊れて自殺した子だって、何人もいる。そういう世界よ」
「辛くないのか」
「辛いに決まってるでしょう。でも、逃げられない。一度でも逃げたら勘当だもの。裸一貫の女一人で、どうこうできるほど、世の中は甘くないでしょう。辛うじて、お金は援交で稼げるけれど、最近は取り締まりも厳しいらしいし、きっと長続きしないわ。逃げるなら、せめて後一年経ってからね。十八歳になれば、働けるから」

 非現実的な世界に生きている彼女だが、将来の展望は現実的に考えていた。僅かな寂寥感を瞳に浮かべながら、彼女は続ける。

「結局、皆が言う恵まれた環境って、こういうことでしょう。綺麗な洋服。豪華なディナー。財布の中身。社会的地位。確かに、そういったものは、多くの人が憧れていることだと思う。そして、その中の極一部だけが手にするものだと思う。けれど、多くの人が、それを得るための過程を直視していない。私は、皆にとって恵まれた環境に生きているのかもしれないけれど、相応の対価は払っているつもりよ。決して、何処からともなく湯水の如く湧いてくるものではない。働いている社会人が、休日に自分のお金で買い物をすることと、何ら変わらないわ。或いは、仕事は激務で給料が良いけれど、お金を使う暇がないって感じかしらね。それでも、お金を持っている分、恵まれていると思う人はいるわ。あんたや、学校の皆も、きっとそういう奴なんでしょう。言っておくけれど、私、自分で買い物に行く暇なんてないし、お金だってもう数年近く触ってないわよ。硬貨の柄とか、すっかり忘れちゃったわ」

 高級な黒いオーバーブラウスの生地を摘みながら、彼女は言った。
 彼女は表の世界の住人である僕に対し、様々な喩え話で工夫を凝らした説明をしてくれた。けれど、裏の世界に浸された彼女の感性は、僕とは相容れないものだった。いずれの喩え話も、とても適切とは思えない。彼女はもっと、壮絶な人生を歩んでいる。

「ねぇ、あんた、いつも夜は暇なの。もしよければ、私の家業を手伝ってくれない。あんたは雑用をしてくれれば結構よ。いい運動にもなるし、どうかしら」

 ちょっとした気分に乗せられて、彼女は言った。
 だが、僕の気持ちが揺らぐことはなかった。

「遠慮しておくよ。僕には関係のない話だ」

 今夜死ぬ僕に、彼女の家業は手伝えない。
 僕の返事を聞いて、彼女は小さく「そう」と呟いた。それから、彼女は夜の街の見回りを再開する。僕もまた、少し間を置いてから、死に場所を探しに向かった。

 ズボンに付着した砂を払い落としながら、考える。
 彼女はお嬢様ではなかった。僕の憧れたお嬢様は、どこにもいなかったのだ。
 僕の彼女に対する印象が、音を立てて瓦解する。彼女は決して、皆が羨むようなお嬢様ではない。彼女の環境は、代償を払うことによって漸く成立する、不毛な幸福だ。彼女の正体は、誇り高いだけの負け組だった。
 紛い物である彼女に、僕はこれ以上、憧憬を抱けない。
 僕は今一度、「本物」である一人のクラスメイトを思い浮かべた。

 彼女は空気だった。
 端的に述べれば、存在感が薄い。しかし、透明人間とは異なるものだ。彼女は、存在だけは認識できる。けれど、誰もそれを意識しないのだ。彼女がどこにいても、どこに流れようとしていても、どこからやって来て、どこに去って行くのかも、周りは一切気にしない。人が無意識に呼吸をするように、僕たちは無意識に彼女と接する。

 だからこそ、彼女は常に、平和だった。
 人間が他人に感情の矛先を向けるためには、必ず相手を意識しなくてはならない。誰にも意識されない彼女は、最早、無敵と言っても過言ではなかった。怒りも感動も喜びも悲しみも。そういった感情が、彼女に向けられることは決してない。
 彼女は争いとは無縁だ。いつも、そこにいないようで、そこにいる。
 これが、空気である彼女の、日常である。
 僕には到底歩むことの出来ない道である。

 僕は平和に過ごせない。
 そう、彼女のように。大人しくて控えめで、空気のような人間であれば、こんな惨めな思いをしなかったに違いない。



 ◆



 薄暗い路地を抜けると、ふと、誰かの足音が聞こえた。
 人気の少ない道に、その音はよく響いた。足音は前から近づいてくる。その持ち主であろう人物は、すぐに路地の角から現れた。膝丈のコートを纏った女性だ。前のボタンは全て閉めており、夜とはいえ、この季節には不自然な容貌だった。
 興味本位で、僕は彼女を見据える。
 彼女と目が合った気がした。次の瞬間、彼女の身体がこちらを向いた。

 切り揃えられた前髪が、その人物の瞳を隠していた。コートの襟が、口元も隠している。どことなく不穏な気配を感じた僕は、そこで足を止めた。一方、女性も僕の三歩前にて立ち止まり、そこで徐ろに、コートのボタンを一つ一つ外す。
 布の捲れ上がる音と共に、目の前の人物は、勢い良くコートを左右に広げた。
 左右に開かれたコートの奥には、肌色の裸体があった。下着の類は一切ない。瑞々しい女性の裸が、湿った外気に晒される。まだ発育に乏しい、幼い身体だ。色は健康的だが、肉付きはやや足りない。触れれば手折れてしまいそうな、儚い少女の裸だった。

 その時、コートが開かれたことによって、彼女の口元を覆う襟が逸れた。瞳を覆っていた前髪も、彼女の大きな動作によって、僅かながら持ち上がる。
 一瞬だが、僕の瞳は彼女の素顔を捉えた。
 しかし、見てしまったからこそ、僕は「え」と声を漏らした。
 その少女の顔は、僕が先程まで思い浮かべていた人物のそれだった。
 恐らく、僕の漏らした声によって、彼女も誰に裸を見せているのか理解したのだろう。互いに暫く硬直する。
 先に口を開いたのは、彼女の方だった。

「こんばんわ」

 ゆっくりと、コートの前を閉じながら、彼女は言う。

「こんばんわ。僕が誰だか、気づいている?」
「今、気づいたわ。クラスメイトよね。暗くて顔がよく見えなかったの」

 悠長に語る彼女に、僕は「そうなんだ」と適当な相槌を打った。

「普段から、こんなことを?」
「ええ。毎日」
「冬も?」
「そうよ」
「寒くないのか」
「寧ろ火照っているから丁度いいわ」

 恥じらいもせず、焦燥もせずに、彼女は答える。

「何かしら」

 クラスメイトに裸を晒した後の態度ではない。
 状況に不相応な、平然とした振る舞い。そんな彼女の態度に、僕の口もつられて軽くなった。だから、そのまま疑問を発す。

「君は、空気のような人だと思っていた」

 僕の記憶では、彼女は空気だった筈だ。誰からも注目されず、誰からも関心を向けられない。多少の会話はあったかもしれないが、いずれも、彼女という個人に対して、声を交わそうとした者はいないだろう。しかし今、僕は彼女に関心を向けていた。
 空気である彼女を意識して語りかけるなんて、本来なら有り得ないことだ。
 空気である彼女が、人の目を惹くような行為をするなんて、考えられなかった。

「私は、シュレーディンガーの猫よ」

 澄ました顔で、彼女は言った。

「昔から、誰かに注目されるのが嫌だった。何時からか、無意識の内に、私は他人を避けていた。何故なら、周りは私に余計な不幸を運んでくるから。未知という領域は、私にとって、最も忌避する存在なの。井の中の蛙、大海を知らずという言葉があるけれども、私は別に、大海なんて知らないままで良いと思う。少なくとも私は、井戸の中で十分な幸福を得ることができるから、態々外の世界に関わる必要がない」
「それじゃあ、君がさっきしていたことも、井戸の中での出来事なのか」
「鋭いね」

 僕の疑問を褒めるように、彼女は続ける。

「質問の答えは「はい」でもあり「いいえ」でもある。さっきの話の続きだけれど、私は周りに関わる必要がなかった。だから、常に他人の目を避けていた。彼らが影響を与えるのは、幸福か不幸か、その二択だもの。幸福が要らないなら、後に残るのは不幸だけ。そんなもの誰だって避けたがるでしょう? でも、そうしてずっと避け続けて、周りから空気みたいに扱われるようになってから、ふと、疑問に思ったの。果たして私は本当に、この世界にいるのだろうかって。自分から望んで空気になったけれど、もしかして、私は誰の目にも映ってないんじゃないかと思い始めた。だから私は、シュレーディンガーの猫なの。この言葉の意味は分かる?」
「確か、箱の中にいる猫は、蓋を空けるまで、生きているか死んでいるか、分からないという話だっけ」
「厳密には少し違う。あれは要するに、人間は、重なりあった状態を認識できないという話よ。つまりね、誰からも空気として扱われる私は、その生死の確認ができないの。生きているかもしれない。死んでいるかもしれない。そんな二つの状態が重なりあっていた。私は箱の中の猫だったの。いつ青酸ガスで死んでもおかしくない。自分で自分が認識できないのは、何よりも怖かったわ。だから私は、箱を開けてくれる誰かを探すことにした。私の生死を明確にするには、第三者による観測が必要だったの。けれど私は井戸の外に出たくなかった。だから、どうにかして、大海の住人に、私の入った箱を開けたくなるように、仕向ける必要があった。その結果が、これ。皆に見て欲しくて。私は、私が生きていることを実感したくて、こういうことをしている。服を脱いで裸を晒せば、こんなにも簡単に証明できる。思ったより単純な問題だったわ」

 再び、コートの前を開きながら、彼女は言った。手入れの行き届いた裸体に視線が吸い寄せられる。彼女はこうして、自らの観測者を作っているのだ。

「ねぇ、あなた、いつも夜は暇なの。もしよければ、私と一緒に露出しない。気持ちいいわよ」

 惜しげなく裸を披露しながら、彼女は言った。
 だが、僕の気持ちが揺らぐことはなかった。

「遠慮しておくよ。僕には関係のない話だ」

 今夜死ぬ僕に、彼女の仲間になることは無理な話だ。
 僕の返事を聞いて、彼女は小さく「そう」と呟いた。それから、コートを閉じて、再び自分を探す旅に出る。僕もまた、死に場所を探す旅を再開した。

 萎縮した心を、溜息を吐くことによって解しつつ、考える。
 彼女は空気ではなかった。僕の憧れた空気は、どこにもいなかったのだ。
 僕の彼女に対する印象が、音を立てて瓦解する。彼女は決して、人間関係とは無縁で毎日を平和に過ごす空気ではない。彼女は、自分が空気であることに、いつも不安を覚えている中途半端な存在だ。彼女の正体は、孤高になりたいだけの臆病者だった。
 紛い物である彼女に、僕はこれ以上、憧憬を抱けない。
 僕は今一度、「本物」である一人のクラスメイトを思い浮かべた。

 彼はオタクだった。
 機能だけを追求した眼鏡を掛けて、いつも、似たような容姿を持つ誰かと談笑している。周囲にいる人の数は、決して多くはないが、それでも彼は話し相手に困っている様子を見せたことがない。休み時間だろうが、放課後だろうが、彼はいつだって、誰かと話すことができた。そして、話題に詰まることも、恐らくなかった。

 時折、彼らは大きな声で熱く何かを語り合う。その内容は殆どが、アニメか、ゲームの話だった。新作が発売されるとか。監督が変わったから期待できないとか。大好きな声優が結婚したとか。大多数にとっては理解できない世界の話だ。しかし、彼らはその人を選ぶ話題を、全力で語っていた。その気持ちの入りようは、傍から見れば鼻白んでしまう程だった。けれど、彼の話し相手もまた、彼と同じくらい全力で返し、彼と同じくらい密度のある主張を述べていた。彼らは、自分の主張で相手が一歩退いてしまうことを、全く恐れていない。熱い議論を交わした後の彼らの様子は、まるで、二人の不良が河川敷で殴り合った末に、友情に芽生えるようだった。
 これが、オタクである彼の、日常である。
 僕には到底歩むことの出来ない道である。

 僕には親友がいない。
 そう、彼のように。ひとつの趣味を、熱く語り合えるような親友がいれば、こんな惨めな思いをしなかったに違いない。



 ◇



 長い坂道を登ると、ふと、大きな建物が目に入った。
 天文台だ。山の上にあるとは聞いていたが、そう言えば、行ったことがない。この時間なら既に閉まってるだろうと思いながらも、僕は天文台に立ち寄ることにした。どうせすぐに死ぬ。最後の見学なのだから、好きなところに足を運びたかった。
 天文台に繋がる扉が、僅かに開いていた。隙間から光が漏れている。誰かいるのだろうか。疑問に思った僕は、足音を立てず、ゆっくりと扉に手を掛ける。
 ギィ、と古めかしい音が鳴った。

 そこには大きな望遠鏡があった。天蓋は開いており、無機質な天井の合間からは、夜の帳が広がっている。天体望遠鏡からは複数のプラグが伸びており、その内の一本が僕の真後ろのコンセントに挿入されていた。周囲にはケーブルの他にも、机や、その上にあるコップ、菓子、飲料など、生活感のある光景が築かれている。
 そしてそれらの中心に、望遠鏡を覗き込む、脂肪だらけの巨体がいた。

「おや、こんな時間に、どちら様ですかなww」

 僕の気配に気づいた巨体が、椅子の向きを変えて、こちらを見る。その喋り方と顔を認識して、僕は少し動揺した。彼は先程まで、僕が思い浮かべていた人物だった。
 相手も僕のことを、顔見知り程度には覚えているようだ。
 意外そうな顔をした後、彼は脂ぎった顔に笑みを浮かべる。

「珍しい来客ですなwwご用件はなんで御座るかww」
「通りがかったら、電気がついていたから。そういう君は、何をしているんだ」
「見ての通りww星を見ているので御座るww」

 僕が言いたかったのは、そういうことではない。
 言葉を選んでから、正しい表現で、僕は彼に質問する。

「夜はいつも、アニメの鑑賞をしていると言ってなかったか」
「おや、何故それをwwまぁ、拙者たち、無駄に声が大きいで御座るからなww残念ながら、それは嘘で御座るww拙者、夜はいつもこうしているので御座るよww」

 嘘と述べる彼の発言に、僕は驚愕した。
 頭の中からうまく言葉を引き出せない僕に対し、彼は菓子を摘みながら口を開く。

「訊きたいことがあるなら、聞くで御座るよww」

 僕は正直に、疑問を発した。

「君は、オタクではないのか」

 彼は、オタクだった筈だ。
 口を開けば、アニメ、ゲーム、漫画ばかり。それしか話すことがないのかと、侮蔑の視線を向けられることも多々ある。けれど、それを一切気にせず、大事な仲間と楽しく語り合う日々を送っている。そんなオタクであった筈だ。
 だから彼が、天体観測などという、大きな趣味を持っていることが意外だった。
 ましてや、彼が大事な仲間に嘘をついているだなんて、思ってもいなかった。

「拙者の本当の趣味は、こっちで御座るww」

 ボリボリとポテトチップスを咀嚼しながら、彼は言った。

「拙者、元々はアニメなんて、全く見なかったで御座るwwアニオタになったのは彼らの影響ですなww拙者が昔から続けている本当の趣味は、この、天体観測なんですなww。んんwwおっと失敬、つい普段と同じ口調で、話してしまったで御座るww今直すで御座るよwwwwん、あれ、あれwwこれは、もしやww元にww戻らないwwwwドプフォww拙者、何時の間にか完全に染まっていたみたいですなww」
「君のその本当の趣味は、他に誰か知っているのか」
「オウフwwwいわゆるストレートな質問キタコレですねwww誰も知らない筈で御座るよww過去に何度か、さり気なく言ったところ、全てアニメの影響として片付けられてしまったで御座るww連中、拙者が習慣的に星を見ているだなんて、サラサラ思っていないに違いないですなwwちなみに天文学部に顔を出したこともありまするが、同じ反応だったで御座るよww一番衝撃的だったのは「え、その顔で」と驚かれたことですなwwおっと、別に恨んではおりませぬぞぉww大なり小なり、皆、同じことを思っている筈ですからなww彼は人一倍、正直なだけで御座るww言われた時は、寧ろすっきりしたくらいですなwwデュフフww」

 心底楽しそうに、彼は語り続ける。

「ただ、その顔による印象は、拙者としても中々覆せないものでしてww恐らく、拙者の友人たちも、この顔を見て同類だと判断したから、仲良くしてくれているので御座るよww残念ながら、拙者の一番の趣味は天体観測で御座るww完全な同類では無いのですなww拙者、彼らとは一線を画する存在なのでwwコポォ」
「同じ趣味を持つ友人が、欲しいとは思わないのか」
「無論、思うで御座るよwwただ、必要かどうかと問われれば、否と答えますなww拙者、完璧な友人などという幻想は、端から持ちあわせておりませぬwwきっと世の中のどこかには、そういう人もいるかもしれませぬがwwwそもそも見つけることが不可能に近いで御座るwwだから、取り敢えず話して、気が合えばそれで友人で御座るwwズバリ、妥協ですなww偶に腹がたつこともありまするがwwそれは向こうも同じで御座るww拙者も妥協している以上、向こうも間違いなく妥協している筈で御座るwww人間、真っ直ぐに生きていると、片っ端から壁にぶつかってしまうで御座るwwだから一人ひとり、適度に妥協して進むので御座るよwwでないと気苦労で死にますなww田中氏は、どうもその辺が苦手であると思われwwwwwwおっと、いやww失敬失敬www偉そうな口を叩きましたなww今のは忘れて頂きたくww」

 気味の悪い笑い声を発しながら、彼は謝罪した。そこには一切、誠意を感じない。しかし、それだけに、彼は自分の発言を誤りとは思っていないことが分かる。
 思い倦ねる僕に対し、彼は最後にこう言った。

「と、時に田中氏wwいつも夜は暇で御座るかww? よければ拙者と、星を観るのはどうで御座ろうww正直一人で見るのも飽きてきたし、やっぱり誰かと一緒のほうが楽しいで御座るwwwちなみに知識が無いとか、そういう心配はいらないんですなww拙者、手取り足取り、教えるで候ww」

 気軽に遊びに誘うように、彼は提案する。
 だが、僕の気持ちが揺らぐことはなかった。

「遠慮しておくよ。僕には関係のない話だ」

 今夜死ぬ僕に、彼の趣味は分かち合えない。
 僕の返事を聞いて、彼は「辛辣ですなww」と笑った。それから、彼は天体観測を再開する。僕もまた天文台から立ち去り、死に場所の散策に戻った。

 夜空を仰ぎ見ながら、考える。
 彼はオタクではなかった。僕の憧れたオタクは、どこにもいなかったのだ。
 僕の彼に対する印象が、音を立てて瓦解する。彼は決して、趣味趣向の合致する友人と共に、楽しい毎日を送るオタクではない。彼は、完璧な友人には初めから期待せず、妥協して友人を作ったのだ。彼の正体は、友情を育みたいだけの薄情者だった。
 紛い物である彼に、僕はこれ以上、憧憬を抱けない。
 だからと言って、他に憧憬を抱けるクラスメイトは、もういない。
 僕は、ふらふらと、放心したまま何処かへ向かった。



 ◆



 坂道を下っていると、ふと、雑木林が目に入った。
 天文台からの帰り道。このまま真っ直ぐ坂道を下れば、街に戻る。しかし、僕は雑木林へ足を踏み入れいることにした。鬱蒼とした木々。夜を遮る枝葉の天蓋。弾力のある土。大地に染み渡る自然を全身で感じながら、僕は、自分が死ぬビジョンを見た。
 ここならば、死んでもいい。ここで死んで、僕は自然の一部となるのだ。僕の死体はやがて腐って、土に飲み込まれる。それが養分となって、草や木に巡る。そして、冬になると、枝葉は朽ちて、再び土に飲み込まれる。僕はここで、大自然と共に、誰にも邪魔されることなく、永遠を過ごすのだ。

 お誂え向きに、僕の目の前には、枝に括られた藁縄があった。縄には既に輪が作られており、その真下には、大きな岩でできた足台が置いてある。まるで、踏ん切りのつかない僕に、今この場で死ねと言わんばかりの状況が整っていた。先に誰か逝ったのだろうか。だとすれば、その人物はきっと、僕を包むように、自然と一体化しているに違いない。この土に。この木に。この空気に。その人物は、生まれ変わったのだ。
 けれど、僕はそれを、あの六人のように羨ましいとは思わなかった。

「どうして皆、僕の邪魔をするんだろう」

 足台に乗り、縄を掴みながら、僕は自らに問う。
 この日の夜を迎えてから、何時間が経過しただろうか。僕は未だ生きている。それが不思議でたまらない。死にたい時に死ぬ。簡単であった筈のその条件が、どうしても満たされない。その原因は、間違いなく、この夜に出会った六人の男女にあった。
 彼らのせいで、僕は逃げ場をひとつひとつ失った。今思えば、僕はきっと、これまでに幾つか死に場所を見つけていたのだ。けれど、その度に彼らと遭遇してしまい、気分を削がれてしまった。彼らのせいだ。彼らのせいで、僕は死ねなかった。
 才能のせいにしたかった。容姿のせいにしたかった。人に慕われない性格のせいにしたかった。環境のせいにしたかった。人目につくせいにしたかった。仲間がいないせいにしたかった。けれど、彼らはその尽くを否定してみせた。
 僕には何もない。
 死ぬ理由すら、どこにもない。

「思い出せ。僕は、どうして死にたいと思ったんだ」

 それは、僕は、彼らのように生きることができないと思ったからだ。彼らの輝かしい生き様を見て、自分には生きる資格がないと感じたからだ。
 妥当な理由だ。彼らと僕の差を考慮すれば、人が死ぬに足る理由である。

「本当にそうだろうか。僕が死にたいのは、彼らが原因だったか」

 自らの罪を、突きつけられたかのようだった。
 確かに、僕は彼らを理由にして、死のうとしていた。だが彼らは、その理由足りえる存在ではなかった。だから僕はこうして、無様にも生き続けている。
 彼らに裏切られた今、僕が作った横道は全て塞がれてしまった。
 才能がない、容姿がない、そういった理由に逸れることは、もうできない。
 偽物の理由が消える。心の奥底に隠していた「本物」の理由だけが存在を晒す。
 僕の目の前には、目を逸らしたい真実だけが残った。

「本当の原因は、僕を虐めた奴だ」

 僕は言った。
 僕を虐めた生徒たち。僕を見捨てた父と母。僕に配慮しなかった担任の先生。僕の味方になってくれないクラスメイトの皆。これらが本物の理由だ。

「何故、その事実から目を逸らした」

 そんなの、決まっている。
 六人のクラスメイト。彼らを理由にした方が、楽に死ねると思ったからだ。
 いいや、違う。違うだろう。そんな立派な理由ではない。

「何故、奴らを理由に死ななかった」

 頭が痛い。考えたくない。だが、それは許されない。
 僕の脳裏に、奴らの姿が浮かんだ。男子たちの下卑た面構え。女子たちの見下した態度。教師たちの憐憫の瞳。教室中から聞こえる罵詈雑言。背中に刺さる画鋲の針。上履きに仕込まれた虫の死骸。悪意に満ちた殴る蹴るの暴行。姿を現さない両親。
 沸々と、堪え切れない感情が、湧き上がった。

「僕は――あいつらに、負けたくなかったんだ」

 感情の吐露が、固めた決意を崩した。
 怒りが湧いてくる。無意識の内に、縄を握る腕に力が入る。

「僕は、自殺願望者じゃないのか」 

 自らに問う。

「僕は、ただの負け犬だ」

 自らに答える。

「あいつらを理由に死にたくなかった。あいつらに自分の人生が左右されているだなんて、思いたくもなかった。けれど、僕の心は摩耗した。これ以上耐え切れないくらい苦しくなった。だから僕は抗うことを止めた。負けを認めずに、降参したんだ。そして僕は、僕が死ぬための、都合の良い理由を探し求めた。その結果、僕はあの六人に目をつけた。彼らは僕にとっては、あまりに眩しい光だったから。その裏に隠れて、大きな影に包まれた気になりながら、僕は「これだ」と思ったんだ。これならば、自分が死ぬに足る理由になるだろうと、内心で歓喜した。さながら犬のように、だらしなく涎を垂らしながら、下らない遠吠えを繰り返した」

 才能のせいだとか、容姿のせいだとか。
 なんて醜い、負け犬の遠吠えだろうか。

「でも僕は、裏切られた」
「そう。結局、僕の憧れていた彼らは、眩い光ではなかった。彼らは僕が死ぬ理由として、相応しくない人物だった。僕は、自分の逃げ道に正当性を与えようとして、失敗したんだ。これじゃあ、僕はもう、死ぬことができない」
「あいつらを理由にすれば、死ぬことはできる」
「でも、嫌だ。それだけは絶対に嫌だ」

 巫山戯るな。どうして彼らのせいで、僕が死ななくてはならない。
 その感情だけが、僕の心に揺るぎなく存在する。燻っていた火種が、途端に酸素を得たように、僕の胸中は、あいつらに対する怒りと、六人に対する罪悪感で一杯だった。

「なんだ、あるじゃないか」

 胸の奥から、心が告げる。
 いつの日だったか。僕は六人のクラスメイトを見て、全てを諦めていた。
 僕には何もない。僕には、生きるための糧がない。
 だが、その絶望に、一筋の光が差し掛かる。

「負けず嫌い。それが僕の、生きる理由だ」

 苦しい。辛い。逃げたい。消えたい。死にたい。
 それでも、負けたくない。あいつらに対する怒りだけは、ずっと残っている。
 縄から手を離し、僕は立ち尽くした。積み上げてきた砦が瓦解する。改革の時がやって来た。僕を統べる自殺願望に、反旗を翻す感情が現れていた。

「僕はこれから、どうすればいいんだろう」

 縋るような言葉で、僕は訊く。
 今夜、僕は死なないだろう。そういう確信があった。今の僕は、とても死ぬ気分になれない。心の奥底に閉まっていた、生への執着が、沸々と蘇っていた。

「取り敢えず、希望を繋ぎとめてみたら、どうだろうか」
「希望?」

 力なく、僕は訊き返す。

「僕は今日、沢山の言い訳を失った。けれど、得たものも多かった筈だ」
「それが、希望なのか」
「ああ、そうだ。確かに僕は、彼らに裏切られた。でも、その時、僕は心のどこかで喜んだ筈だ。逃げ道を塞がれたことではない。彼らの生き様に、僕は光を見た」

 心が告げる。
 この感情は無下にしてはならないと、声高らかに主張する。

「僕は彼らの、運命に抗おうとする意志に惹かれたんだ。天才を装う馬鹿。持て囃される不細工。人に慕われる弱者。誇り高き負け組。孤高の臆病者。友情を育む薄情者。彼らはとても歪だけど、とても勇敢だった。彼らの生き様を聞いて、僕は、自分もこんな風に輝けるかもしれないと思ってしまった。僕は彼らの光にあてられたんだ。人の持つ潜在能力に、底知れぬ期待を抱いてしまったんだ」

 僕は彼らの正体を知った時、心のどこかで嬉しく感じていた。
 関心した。感動した。自分以外に、自分以上に抗っている存在がいたのだ。
 彼らは決して、幸福に満ちた日々を送っているわけではない。彼らは決して、手の届かない高みにいる人間でもない。憧憬のベールを捲れば、新たな道が広がっていた。僕の憧憬は、いつしか彼らの表層ではなく、彼らの内面へと向きを変えていたのだ。
 彼らから貰った希望こそが、僕の自殺願望を殺す剣となる。断崖絶壁の先にある深淵を照らすことで、その先に何もないことを、僕に知らしめてくれる。
 自殺は終着点と成り得ない。死んだところで、何も変わらない。
 探すべきは逃げ道ではない。正しい道だ。
 僕はそれを、模索し続ける。

「だから、まずはそれらを繋ぎとめよう」

 そうだね、と僕は自分に答えた。
 それっきり、僕の心は何も言わなくなった。
 岩の足台から下りて、僕は再び天文台の方へ足を向けた。
 まずは頭を下げよう。彼にも、彼女にも。一度断った頼みだが、誠意を見せれば、応えてくれるかもしれない。仮に拒絶されたとしても、そう簡単には諦められない。命を懸けた選択なのだ。土下座でもなんでも、してみせる。

 落ち葉を踏みしめながら、考える。
 彼らは本物ではなかった。僕の憧れた六人の男女は、どこにもいなかったのだ。
 僕の彼らに対する印象が、音を立てて瓦解する。彼らは決して、幸福な人間なんかではない。彼らはきっと、いつだって困難に直面していた。けれど、彼らはいつだって逃げずに戦う道を選択した。彼らの正体は、過酷な現実に立ち向かう戦士だ。
 紛い物である彼らに、僕はかつて無いほどの憧憬を抱く。
 誘蛾灯に引き寄せられる蛾の如く、僕は彼らの元へと向かった。
 願わくば、彼らの未来に幸あらんことを。
 そして、僕を照らし続ける希望であらんことを。
 切に願う――。

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