冴える空気は嫌いじゃない。
人気の無い学校の独特の空気も、今時珍しい木造校舎も、上履きと廊下の木目が奏でる柔らかく吸い込まれるような足音も。
そして、見るだけなら、窓の外のじっとりと湿った、大粒の雪も。
大きな窓の外、黒い空に覆われた薄暗いグラウンドは7割方雪景色で、もうしばらくすれば銀世界が完成するだろう。校舎を満たす冷たい空気の中にも、どこか水気が混じり始めていた。
壁に貼られた、昔の校内新聞だとか、ニュースの切れ端、部活のポスターなんかを横目で流して、ひっそりとした教室を通り過ぎる。
目的地は二階廊下の突き当たり、扉の小窓からうっすらと光が漏れている。
そこに居るのは分かっているけれど、こうしてその存在証明みたいなものがあると、やっぱりどこかホッとする。
図書室と書かれた掛札と、ガタガタ煩い引き戸。
「……暖房くらい入れてろよ」
室内でも外の雪の中にいるような室温に、白い息で抗議した。
「貴方が来るんじゃないかと思って」
ドア横の貸し出しカウンターに座った一人ぼっちの図書委員は、ちらりとこちらを一目見てからつまらなそうに言い放ち、表情を全く変えずに眼鏡を掛け直して、視線を両手の本に落とした。
「カミカゼ式の嫌がらせか?」
スチームストーブの前に行き、パネルを弄りながら、からかう様に問いかけた。
下校時刻には少しだけなら余裕はある、ボイラー室の火はまだ落ちていないはず。だからこうして、スイッチを入れれば……うん、まだぬるいけど、なんとか温風が吹き出してくる。
「神風?」
小首を傾げた明海。その前髪がとても滑らかに揺れ、白い言葉は彼女の肌の抜けるような白と重なって、儚く、どこか痛々しくも見え、自分の責任では無くても、申し訳無い様な、苦い気持ちが込み上げてくる。
「自爆してんじゃん」
射抜く様に見つめる彼女の視線が外せなくて、その上、からかえる様な気持ちでも無くなっていて、曖昧な表情のまま、予定通りに、台本を読む様に話した。
「寒いのは、好きだもの」
その変化に気付いているのか、いないのか、明美の声はいつもと同じでそっけない。だから「気が合うな」と、嫌味っぽく返し、手近な本棚から一冊を手に取り、貸し出しカウンターから、少し離れた机の椅子に座った。
間にはちょうど一つの机、四つ並んだ読書机の彼女寄りの二番目、多分、二人の距離もこの位なんじゃないかと思う。
「……そうね」
と、答えた明海。視線はもう上げて来なかったけど、呆れているのが声の調子から伝わってきて、やっぱり、ちょっとムッとした。
まったく、何でコイツと会話しているのかが、未だに分からない。
もっとも、向こうにとっても、それは同じかもしれないが。
彼女にしてみれば、運動部でしかも、粗野にみえるらしい俺が、ハードカバーを読む事は、天地が引っ繰り返る様な出来事だとほざいていたし。俺にとっては、普通にシカとすれば良い所を、敢えて絡んで来る理由が分からない。秘かに慕われている? いや、そんな事は無い! 声の温度や、態度、そんなサインは一つも出されていなかった、始めから、そして今も。
それはそれで失礼じゃないか?
容姿とかも自信があるわけじゃないけど普通程度は良いと思うし、成績だって悪くない、運動関連なら、陸上で鍛えているのでばっちり。俺が鈍いというオチは無いと思うけどなぁ……って、こんな事を考えていると、俺がコイツを好きみたいじゃないか、と、そこまで進んでいった思考を慌てて緊急停止させる。
タイプじゃない、タイプじゃない、タイプじゃない!
俺が好きなのは、もっときちんと愛情表現をしてくれる可愛い子で……って、だから、少し恋愛の考えから外そう。
「そういえば、一昨日、俺が前々から要請出してた本、かっぱらっただろ」
唐突だったかもしれないけれど、別の思考を探していて見つけてしまったので、そう話しかけた。
「せめて上品に、浚うと言ってくれないかしら」
ページの文字を目で追いながら、口ではそう答える明海。
案外、器用なヤツだ。
「一緒じゃん」
馬鹿にした様に、俺がそう呟くと、明海は、分かっていないなあ、という風に溜息を吐いて、二つの大きな違いというヤツを、極めて些細な実例と言葉の意味で説明し出した。
耳に丁度良い彼女の声を聞きながら、そんないつもの事を今日も繰り返して、それでいて距離を縮めたり親密になる事無く、約二年間もこんな事を続けているんだな、と、改めて人事みたいに感心してしまう。
そして、その講釈を話し終えて、最後に念を押す明美に「分かった、分かった」と頷いてから、やっと本に意識を落とした。
自分以外のあと一人の存在が、この空間を静かにさせ過ぎないから、ちょうど心地良い。
下校チャイムまでの三十分という、長くも短くも無い時間は、窓の外の雪のように、穏やかに降り積もっていった。
間延びした声の下校放送は、人気の無い校舎に響き、その中に吸い込まれる様に消えていく。
いつもは、閉館作業をする彼女を置いて、先に帰っていたのだけど、今日に限って俺と同時に図書室から出て、鍵を閉めている明海。
放って置いて帰るのはどこか感じ悪いかったので、施錠を確認するのを待って、こっちを振り向くのを見てから、背を向け歩き出した。気まずくはないけど、何を話せば良いかも分からなかったので、特に言葉も無く、下駄箱まで、間に横たわる五歩分の距離を変えずに二人歩いて、それぞれのクラスの下駄箱の場所へと別れた。
「何だよ?」
靴を履き替えて、顔を上げた時、少しだけ意外な見つめてくる視線に、少しつっけんどんに問いかける。
いつもなら図書室で別れていた彼女、ここまではそんな日もある、で良かったけれど、ここで待っているのは、なんとなく廊下を歩く雰囲気から予測出来ても、理由がないとしっくりこない。
そう、先に靴を履き替えた明海は、ドアの前でこっちを見て待っていた。
「傘、持っていないもの。まだ降り続いてるのは、予想外カナ」
悪びれもせずに、明海はからの両手をヒラヒラと振って、そう言った。
直接的な言葉じゃなくて、それでも、して欲しい事をきちんと伝えてくるあたり、かなりしたたかな性格だと思う。
そしてその後ろ、ガラス張りのドアの向こうには、深々と降り積もる雪が、暗く染められた景色を、ぼんやりと照らしていた。
俺に頼み事をするというのは意外だけど、状況を思うに、やっぱり仕方がないので、広げた傘を傾けて右半分のスペースを空ける。
「違うよ」
「どこが?」
そう聞くより早く、彼女の細くしなやかな指が、一瞬、俺の指を絡め取って、その内にあった傘の柄だけをさらっていった。戸惑う俺をそのままに、真白な雪原に三歩、トン、トン、トン、と、軽やかに足跡を刻んで、逃げていく。
触れた指先が熱を伝え、離れていく背中が少し胸を苦しくさせた。
「どうかした?」
分かっているのに敢えて挑発するように、含み笑いで振り返る明海。眼鏡の奥、一重瞼が嫌味ったらしい。
重く湿った雪の感触が、髪を嫌な感じに濡らしていく。
「良い度胸だな……このバカ!」
踏み込む一歩、飛び退いた彼女、伸ばした指先、翻る彼女の長い髪、吸い込むと痛いほど冷え込んだ空気に、彼女の白い息、いつもより幼く聞こえる笑い声、少しだけ上がった体温、自然と近づいていた二人の距離。
空は、まだ雪模様。
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