ふりかけ
行くのかと声の聞こゆる曼珠沙華
父が肝臓癌で死んだのはもう二十年も前のことになってしまった。肝臓癌というと酒が原因のようであるが父は酒が強い方ではなかった。わずかでも飲むとすぐに寝た。肝臓癌の原因は輸血だと思う。父は三十代の時に大病を患った。その時血液製剤を使ったのだと思う。私が思うだけで証拠はない。ウィルス性肝炎から肝硬変そして肝臓癌と進行して行った。
父がもう日常生活が難しくなった時、私は初めて家にある医学書の「ウィルス性肝炎」の項を開いた。医学書には「このウィルス性肝炎の場合、二十年で肝硬変へ進展し、その後肝臓癌へと進展します。発病から死亡までは平均三十年です」と書いてあった。分厚い医学書を手に持った時の重さと「進展」という言葉が本来持つ明るいイメージとのアンバランスが心に納まり切らずにいつまでも口の中が苦かった。
父はちょうど発病後三十年で死んだ。平均だ。父の死に医学的意味があるとすれば、それはただ平均だ、ということなのか。他に意味はないのか。人の人生は結局は統計のひとつの数字でしかないのか。そんなことがあろうはずがない。たとえばこのウィルス性肝炎に罹った人の平均寿命が十年だったとしよう。それならば父は平均の三倍も長生きしたことになる。一時はそうも思った。しかし、そのことさえただの数字の組み替えでしかないことに気づくと、もう「平均」でもいいと思うようになった。いや、正直に書こう。その時期を境にして、私の心は自分自身の取るに足らないささいなことで占められるようになった。父の死は思い出さないと見つけられない心の隅に押しやられた。
今、こうして改めて父のことを思い出してみると平均的に死んだ父の、平均でなかった人生の断片を思い出す。その断片の一つひとつが、ある時期父の死を心の隅に押しやったことさえある私への父の愛かと思うと心が痛む。
とにかく一番の働き盛りを父はこの病気と闘った。三人の子どもに一番金がかかる時期だった。会社から「残業はするな」と止められていた。父の会社の健康保険組合はきちんとしていた。健保組合から支社に通達が流れ、営業所に来ると課長が父を気遣った。父は残業をして少しでも収入を増やしたかったに違いなかったが、たとえ検査入院にせよ一年に一度は一週間程度入院しなければならない身では健保組合の意思に背くわけにはいかなかった。
私たち兄弟が寝た後、父と母が何を話し合っていたのかは知らない。しかし私が会社から止められている残業のことをその後何十年も経っても覚えているということは、何か心に残る出来事があったのだろう。母にこのことを確かめるときっと泣き出すだろうなと思う。
母も父の病気と闘った。母は何ごとも父に服従するタイプだ。子ども心にそれがとても嫌だった。病気を抱える父は思うようにならないことがあると一番身近な母に当たった。その度に母は怯えた。(病気がこんなにさせるんだ)母はきっとそう思ってじっと我慢していたのではないかと今になって思う。私が母を嫌い父を恨んだ時期に、母は子どもの視線に耐え、父の暴力に耐えたことになる。当時の私は母に慰めの言葉さえかけられなかった。私はそんな子だった。
父が死んでしばらくして母が「保険が満期になったのよ」と話してくれたことがある。
「いくら?」と訊くと
「三十万よ」
とうれしそうに言う。何十年もかけて満期の金がわずか三十万のはずがない。そのことを正すと、
「あんたたちにお金がかかったから前借りしてたの」と笑顔で言う。
父の暴力も子どもの冷たい目線もそんなものは人生の「ふりかけ」のようなものなのだと、母の笑顔を見ながらそう思った。
すべては「ふりかけ」なのかもしれない。そう思った方が気安くてすむ。が、それはあくまで今という時間から過去を見た場合だ。当時はそうではなかった。父は病気を忘れ、母は父の暴力を忘れるために……、いや、そうじゃない。父も母も我が子のために奮闘したのだ。だからこそ母は笑えるのだ。親の子を思う心が今の母の心にしっかりと根付いているからこそ、すべてを受け入れることができるのだ。
何ごとに対しても傍観者にしかなれない私に、すべては「ふりかけ」だ、などという資格はない。
父の最後は悲惨だった。乳房が女性のように膨らんでいた。女性乳房というらしい。肝機能の低下により女性ホルモンが分解できないからだ。父はそのころにはもう起き上がれなかった。それでも母を叱った。何かあると寝たままで母を叩いた。
「お母さんが可哀想じゃないか」
私は思わず父に言った。体を動かせない父は頭だけ向こうに振った。そして泣いた。母はそんな父の背中を撫でた。私はその様子を立ったまま見ているだけだった。
それからしばらくすると父のお腹がパンパンに張ってきた。そのころには父は声を出すことさえ苦しくなっていた。
……やかん。
私は父のお腹はやかんの様だと思った。やかんのように膨れていると思った。動かない父はただの物でしかなかったのか。今、なぜ父がやかんのようだったのかを思い出してみるが、ただ形状が似ているからそう思ったとしか言いようがない。それが無性に悔しい。
父の乳房も腹部もまだそんなに膨れていない頃、家族全員が正月に集まった。正月は家族が集う楽しいひとときというが、そうばかりではない。日頃離れている家族が数日を実家で過ごしただけで、打ち解けられるものでもない。気まずさが家族を包むことも多い。父は正月だろうが母に当たる。それが嫌さに集まった家族がそそくさと帰っていく。私たちも二日の昼には帰ると、言った。
二日の昼、父が母に支えられて庭に出てきて私たちを見送った。
「行くのか……」
と父は言い、母は無言だった。
「うん……」
と言いながら車のドアをパタンと閉じた。
バックミラーで父と母を見る。腰を曲げた父が母に支えられている。「行くよ」の意味で、クラクションをそっと押したが音は出なかった。
父が死んで何年目かの春の彼岸に久しぶりに実家に帰った。父が死んだ後、母が独りで暮らしているので前よりは頻繁に帰る様になっが、相変わらず二晩とは泊まらなかった。
こんな非情な私でも死ぬ時にはすべてが「ふりかけ」のようだったと思えるのだろうか。
庭の隅には一群れの曼珠沙華が咲いていた。
「行くのか……」
と父が言っているようだった。
(完)
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