第一話「彼女の銃と僕のビデオカメラの話」−2
PM.0:55
さっきまで勢いよく降っていた雨が、少し小降りになった。
絶えず生まれ続ける水滴が、一瞬のためらいを見せた後、呆気なく落ちる。そして小さな波紋を起こし、また大きな流れに飲み込まれていく。僕はコンビニの前にしゃがみ込み、突き出した屋根の縁から落ち続ける水滴を眺めていた。
あの後、救急車が来るのを見届けてから一人で街を歩いていた僕は、雨が降り出したのでここで雨が止むのを待つことにした。雨が降っているせいかコンビニに客の姿はなく、店員も奥に引っ込んでしまっていた。道路にも人の姿は見えず、時折車が目の前を通り過ぎていく。僕はもう一度辺りに人がいないのを確かめると、ビデオカメラの電源を入れた。
僕は昔からカメラマンになりたかった。
何故かと言われると答えられないが、昔から見られるよりは見る側の人間だったことは確かだ。実際、リョウにカメラマンを頼まれた時は、『処刑』に参加しなくていいという安堵と共に、ビデオカメラが使えるということに少し……いや、かなり心が動いた。
リョウの言う通り僕だって同罪だ。
モニターにはさっきの処刑の様子が映っていた。地面に転がるおじさんと、それをまるで人間ではない何かのように痛めつけているリョウ達……さっきまで本当に体験していたことなのに、モニターを通して見ると遠い国の出来事のように見える。
しかし、やがてさっきの嫌な感じが映像から解凍されて伝わってきたので、僕は電源スイッチに指を伸ばした。
このビデオカメラは決して楽な生活を送っているわけではない僕が、バイト代を使い果たして衝動的に買った唯一の物だ。僕にとってビデオカメラは世界から僕を守る防波堤であり、また僕を世界につなげる唯一の目だ。この手のひらに収まる小さなレンズとフィルムの固まりによって、僕は『見る側』の位置を保っている。
だからこのレンズに映るものは、リョウだろうとおじさんだろうと……道行く他人も落ちている空き缶も、僕にとっては『被写体』であり僕とは違う世界の存在となるのだ。
僕はモニターの再生映像を消すと、録画することなしに周りの風景をモニター越しに見つめ始めた。
……と、雨が上がり、雲の隙間から丸い月が覗いた。
月の光は薄くかかった雲をくすんだ虹色に染め、アスファルトを白く輝く波のない海へと変えた。その上を、苛立つ心を抱えた人々を乗せた車が、オレンジと黄色のライトの尾をはためかせながら滑っていく。
その時、不意にモニターの画像が乱れ、ブラックアウトした。
僕は反射的にモニターから目を放してビデオカメラをチェックした。浅ましいようだが、使い慣れた物が壊れるのは自分の一部がなくなったようで嫌なものだ。それに……これは高かったのだ。
ところがレンズを地面に向けた途端、モニターに光が戻った。
「……あれ?」
確かに元に戻ったのは嬉しいが、やはり異常があるかもしれない。僕はもう一度周りを撮ってみることにした。
コンビニの明かり、その前のゴミ箱、駐車場の白線、歩道脇の街路樹、ガードレール、遠くの信号、砂漠の嵐……あれ?
道路の方にビデオカメラを向けた僕は、また画像が乱れたので眉をひそめた。
そう言えば、さっきもこっちにビデオカメラを向けた時に画面が乱れたのだ。ということは、この方向に異常の原因がある……ということになるのだろうか……?
およそ結論とは言い難い結論に達し、モニターから目を離した僕は、意外なものを見ることになった。
そこには女がいた。
……女がいたのだ。
ただ……少し変わっていた。
女はかなりの長身で、長い黒髪が更にその長身を際立たせていた。月の光に遮られて顔立ちははっきりしないが、輪郭は白く輝き、痩せた体つきで手足は長い。この時期、夜はもう寒いというのに、赤い薄手のワンピースの上から大きめの薄汚れたコートを羽織っているだけの服装だ。
まだ雨は霧雨となって少し降っていたが、女は雨よけの物は一切持っていなかった。いや、それどころか雨のことなどまったく気にしていないようだ。何故か素足で、肩にかけた手には赤いサンダルがぶら下がっている。
女は濡れた黒髪を額からかき上げ、水滴を払い除けた。そして僕の視線に気づいたのか、目線をこちらに向けた。
僕はその情景の異常さと……美しさに魅せられていた。しかし女と目が合ったので、少し焦ってしまった。
見るということは、その対象と同じ条件の情報の世界を共有するということである。言い換えれば、同じ遊戯盤の上にいるということだ。だから特殊な機具(望遠鏡や写真機、ビデオカメラなど)を用いない限り、見る側と見られる側の立場は常に変化する可能性がある。ボールの位置で攻撃する者と防御する者が変化するドッジボールのように、見る側は常に見られる側になる危険性があるのだ。
そして僕は見られるのが好きではない。特に女性には……。
女は僕の思惑などおかまいなしに、こちらに向かって歩いて来た。黙ったままの僕の前を通り、雨のかからない場所に入る。そして小さくため息をつくと、体を曲げて手にしたサンダルを地面に放り投げ、僕の隣に座り込んだ。
顔はうつむき、体に張りついた長い髪から雫が絶えず落ちている。間近で見ると肌がなめらかな褐色であることに僕は気づいた。
「……濡れてるけど、寒く……ない?」
「…………別に……」
やはり何か話しかけるべきだろうと思って考えた質問に、女は簡潔に答えた。
低い囁くような声で、少し背筋を撫で上げられたような気がした。
「……ああ、そう…………それは良かった」
それだけ言うと、僕は黙り込んだ。ここまで不愛想に反応されると、どう続けていいのかわからない。
その時、不意に女がこちらに顔を向け、微笑んだ。
間近で見る女の顔はとても美しかった。少し面長な顔立ちに、切れ長で大きな……ネコのような目が輝き、眉は黒く弧を描いている。鼻筋は整い、その下の唇には寒さの為か血の気がなかったが、それが却って彼女の美しさを際立たせている。
僕は微笑みの意味をつかみかねて……またその美しさに心奪われて、しばらくの間少しも動けなかった。女は僕のそんな様子を見て、もう一度小さく微笑むと、顔を戻した。
それと同時に我に返った僕は、自分がかなりみっともない表情であったことに気づき、今更ながら焦った。
「靴。どうしたの?」
僕の問いに、女はこちらに顔を向けることなしに、地面に転がったサンダルを指差した。そのサンダルはヒールが高い物だったが、片方のヒールが折れていた。
成程……いや、納得している場合ではない。
「何処から来たの?」
僕が続けた質問に女は面倒そうに答えた。
「西から……」
「……何処に行くの?」
「東へ……」
「…………そう」
ダメだ、会話のきっかけがつかめない。
しかし沈黙を苦痛としているのは僕だけのようで、彼女は僕の存在を忘れたように体に張りついたワンピースを触っている。ワンピースは上に着ている古い……おそらくは男物のコートとは違い、かなり高価そうな物だ。東洋風の細かな模様が刺繍されている。コートに隠れていて見えないが、多分、形としては袖がなくキャミソールみたいに肩紐でとめるタイプだろう。
と思っていたら、彼女がコートを脱いだので、いきなり褐色の肌の肩と背中の上部が露になった。僕は慌てて視線を逸らした。女は立ち上がるとコートを叩いて水気を切り始めた。
何をやってるんだか、僕は。
ふと自分の行動が可笑しく思えた。僕と彼女は初対面で、たまたま同じ場所にいるだけだ。彼女のように互いを無視しても悪いことではないし、無理に会話をすることもない、双方が迷惑でない距離を取ることができればそれでいいはずだ。
どうも僕は他人との距離を取るのが下手だ。
自分が何を他人に求めているのか自分でもよくわからないのだ。まったく人とコミュニケーションできないのは恐ろしく嫌だし……でも、人が自分に近づくと拒絶してしまう。
時々、自分は本当に人との繋がりを求めているのか、と疑問に思ってしまう。
やがて、雨が完全にあがった。空は闇と言うより深い青に近く、月は雨で洗い流されたかのように透明な光を放っている。
「……月が、綺麗だな」
僕は特に誰に言うつもりもなく呟いた。
「そうね。綺麗な月……」
驚いたことに、女が返事をした。コートを腕にかけて空を見上げる彼女の背中で、まだ乾き切っていない黒髪が月の光を浴びて淡く輝いている。
「アタシ、今日何処で寝るか考えてたんだけど……決めたわ」
女は淡々とした口調で呟き、僕を見てからかうように微笑んだ。
「貴方の家に泊まるわ」
「…………え?」
『え』と言うよりは『へ』に近かっただろう、間の抜けた声で僕は聞き返していた。
「だから、貴方の家に行くって言ってるのよ。もしかして家がないの?」
「……いや、あるけど……」
「ならいいじゃない」
「……ちょ、ちょっと待ってよ」
僕は混乱した頭で考えながら言った。自分でも声が上ずっているのが情けない。
「それはつまり……僕と寝たいってこと?」
「別に貴方と寝る必要はないわ……それに」
女はコンビニの硝子窓にもたれかかり、僕から見て向こう側の脚を上げると、指をワンピースの裾にかけて少し捲り上げた。彼女の美しい太ももが、月の光の下に露になる。
次の瞬間、彼女の目が冷たく光った。
「アタシは穏便に話を進めたいの」
彼女の太ももの内側には、革のバンドで何かが括りつけられていた。
それはどうやら何か黒い金属の物体と、それのホルダーで……そしてその金属の物体は……どう見ても小型の拳銃だった。
彼女は鮮やかな手つきで銃を引き抜くと、折り畳んであった銃身を伸ばして僕に突きつけた。
「……さあ、案内してくれる?」
女が相変わらずの低い声で囁く。
銃の銃口は丸くて黒く、その奥は見えなかった。視線をずらすと銃口の向こう側に女の黒い瞳が光っていた。
「これ……本物?」
「試してみる?」
彼女の申し出は僕によって丁重に却下された。それに何と言うか、彼女の乱雑な銃の扱い方や持ち方に不思議な真実味があったのだ。
「……わかった……案内する」
僕は顔の前に突きつけられた黒い銃身を見ながら呟いた。こんな状況なのに、頭の中は妙に落ち着いている。いや、正確には、僕はこの状況を完璧に把握しきれていなかった。まるで夢の中にいるような曖昧な感覚が全身を覆っている。
女は僕の返事を聞くと、銃を構える手を降ろした。
近くにはコンビニの入り口があった。走れば数秒で中に逃げ込めるんじゃないかと思ったが、中で二人の店員が雑誌を見ながら笑っていたので、僕はその考えを却下した。
別に人道的立場から考えたわけじゃない。すぐに追いつかれるだろうと思ったのだ。それに突然「銃を持った女に追われてるんだ、助けてくれ!」などと言ったところで信じてくれるかどうか……少なくとも僕なら信じない。
顔を戻すと、女は楽しそうな微笑みを浮かべながら僕を眺めていた。
「……ところでさ……」
僕はビデオを持ち上げて言った。
「これで君を映そうとしたら動かなくなったんだ。どうしてかな?」
女は銃口でこめかみを掻くと、少し申し訳なさそうな顔をした。
「ああ、それアタシのせいね。そういう体質なのよ。心配しないでいいよ、アタシ以外はちゃんと映るから」
……何なんだ、それは?
僕はビデオの電源を切り、レンズを彼女に向けた。
「それじゃあ、もう一つ質問してもいいかな? ……名前は?」
「……ドロシー……」 |