第一話「彼女の銃と僕のビデオカメラの話」−1
PM.11:44
ビデオカメラのモニターの中で、おじさんの灰色のコートがはためいた。
何度も足をもつれさせながら、冷たいアスファルトの上を走っていく。
おじさんが街灯の下を通過する度、薄汚れたコートが奇妙に白くモニターに映った。
年齢は多分五十歳くらいだ。職業はサラリーマンだろうか? 体格は貧弱で顔には皺が多く、頭髪もかなり薄い。僕らがおじさんについて知っているのはそれくらいであり……それ以上知る必要もないだろう。
ここは古びた工場脇の細い道路だ。何処までも続いていそうな灰色の塀の向こう側に、高い煙突が影絵のようなシルエットを浮かべている。
この工場は数年前に潰れてから取り壊されることもなく放置され、この時間帯に訪れる者などまずいない。もっとも、数十メートル先まで行けば小さな商店街がある。前方にぼやけて見える緑色の光は、まだ開いている店のネオンの光だろう。
もしもあそこに辿り着けたなら、このゲームはおじさんの勝ちだ。
でも、辿り着けなかったら……。
おじさんの左側の闇から長身の男が身軽な動作で現れ、おじさんを追い抜いた。そして男は、サッカーボールでも蹴るようにおじさんの足を払った。
おじさんは咄嗟に避けようとしたようだが、バランスを崩して頭から地面に滑り込んだ。
地面に服が擦れる嫌な音と共に、小さな悲鳴が響く。おじさんは受け身をとることもできず、傷めたらしい右腕を庇う形でうずくまった。
長身の男に続いて現れた数人の男達が、素早くおじさんを取り囲む。何処にでも見られるような服装だが、全員がマフラーやサングラスで顔を申し訳程度に隠している。
おじさんは地面に這いつくばりながらも明かりの方に進もうとしたが、男達の足が彼の進路を塞いだ。男達が楽しげにおじさんを蹴りつける。
最初におじさんの足を払った男が短く声を放った。男達が統制のとれた猟犬のように一斉に動きを止め、再度おじさんを囲む壁のように並ぶ。長身の男は走って乱れた長めの黒いコートを整えると、ビデオカメラを構えている僕の方を振り返り、髪をかき上げながら言った。
「ちゃんと撮ってるだろうな? これからがいいところなんだからな」
「……ああ。ちゃんと撮ってるよ、リョウ」
僕はモニターから目を離して答えた。ずっとモニターからの映像に集中していたので距離感が狂い、地面が揺れる感じがする。
長身の男……神野涼は僕と同じ二十歳だ。
浅黒い肌に軽く脱色した長めの髪、それと両耳につけた銀色に輝く大きな逆十字のピアスが特徴的だ。顔立ちは彫りが深く、顎の辺りに生やしたヒゲが、その輪郭を更に強調している。切れ長な目から覗く黒い瞳は、猛獣のようでいて不思議な程に透き通っている。
リョウはビデオカメラに視線を向けながら、おじさんのそばへと進んだ。そして地面にうずくまっているおじさんの姿を一瞥すると、アメリカのテレビ番組の司会者のように大袈裟な身ぶりで話し始めた。
「さて、皆さん」
たっぷりと余韻を残し、再び口を開く。
「これから、お楽しみの『処刑』の始まりです。ええっと、時間は……」
「十二時十五分前」
薄明かりの下で腕時計の文字盤を見ようとしていたリョウに代わって、僕はモニターのデジタル表示を読み上げた。
「ああ、時間は十一時四十五分だ」
リョウは頷くと薄笑いを浮かべてこちらを見た。
彼はこの辺りではかなり名の通ったグループのリーダーだ。言わずと知れたことだが、その地位は彼自身の運動能力の高さとカリスマ、そして気に入らない者に対しては容赦なく拳を振るう暴力性によって成り立っている。他の要因としては、彼がとある大手会社の社長の一人息子だというものもあるが。
更に言うと、彼は有名な私立大学の経済学部の二年生で、クラブでDJをやっている。本人は将来役者になるつもりだと語っているが……まあ何にしても大学受験に二度も失敗し、既にやる気もない二十歳のしがない浪人生には関係のない話だ。
まだ現役の大学受験生だった頃、当時通っていた地元の予備校で僕はリョウと知り合った。僕らの間にはまったくと言っていいほど共通点がなかったのだが、彼は僕のことを気に入ったらしい。二人の関係が今も続いているのがいい証拠だろう。
しかし、僕は未だにリョウとの関係が続いていることを不思議に思う。さっきの時刻のことにしても、他の誰かが同じことをすれば、殴られはしないまでも雰囲気は悪くなったはずだ。
勿論僕にしても完全に対等というわけではない。もし僕が不用意に彼の領域に踏み込めば、二人の関係はすぐさま崩壊するだろう。僕らの関係は常にリョウの方が強者であり、僕は無礼講の許された道化に過ぎない。
もっとも、僕がその辺りのことを理解しているからこそ、彼は僕のことを気に入っているのかもしれないが。
「さて、今日の獲物は……」
リョウは右手の人指し指を立てて、おじさんを上から覗き込んだ。
おじさんは大きく息をつきながら怯えた目でリョウを見上げた。かなり薄くなった白髪が、汗ばんだこめかみにへばりついている。
「た、助けてくれ……」
おじさんが掠れた声で呟いた時、リョウの瞳に一瞬危険な色が浮かんだ。
次の瞬間、リョウの黒革のブーツがおじさんの腹部にめり込み、おじさんの体が跳ね上がった。
おじさんは腹を押さえながら地面に這いつくばった。大きく開かれた口からは叫び声の代わりに不透明な胃液が吐き出されている。リョウは引き攣った薄笑いを浮かべ、おじさんの懐から抜き取った定期入れを開いた。
「ええと、なになに? 田島亮介、五十三歳……係長…………最悪だな」
リョウは定期入れを指の間で弄んで眺めていたが、ふと何かに気づいて目を止めた。
途端、リョウは何か嫌な物でも見たかのように定期入れを投げ捨てた。定期入れは地面を転がって僕のそばで止まり、汚れた表面を見せた。
「さあ、始めようか?」
一瞬浮かんだ表情の乱れを打ち消すかのように、リョウは気取った仕草で彼の忠実なる部下達の方に手を振った。
「……どうして?」
男達と共におじさんの周りを取り囲もうとしていたリョウが、驚いたように振り向く。不意をつかれたせいか今度は薄笑いを浮かべておらず、その貫くような攻撃的な視線のみが残っていた。
「……何だって?」
明らかに不機嫌な声で、リョウが尋ね返す。
まずかった。今の質問は明らかに彼の不文律を乱すものだった。
「いや……つまり……ちゃんと『理由』ってものも言っておいた方がいいんじゃないかなってね。ほら、何故処刑をするのかってさ。『パルプフィクション』のサミュエル・L・ジャクソンみたいにね……」
しどろもどろの弁解だったが、リョウは機嫌を直したようだ。僕はモニターの上に再び彼の薄笑いが浮かんだので安心した。
それにしても、何故僕は彼の行動の理由など聞きたくなったのだろう?
リョウは再び司会者の雰囲気を纏うと、そばにいた年下の男に尋ねた。
「どうしてだと思う? どうしてこいつを処刑するんだ?」
年下の男はジンと言って高校を出たばかりのフリーターだ。ピンク色の短い髪と黄色のダウンジャケットが夜でも目立つ。彼はリョウの右腕的存在で、いつも行動を共にしているのだ。そして僕に対しては最も態度が厳しい。
ジンは不意の質問に戸惑ったようだが、僕の方を見るとあからさまに敵意のこもった表情を浮かべて吐き捨てた。
「決まってんだろ。こいつが間抜け面して歩いてたからだ。俺はこういう死にかけの奴が大嫌いなんだ! ……わかったか?」
ジンは御丁寧に僕の目の前まで近づいて来て、ビデオカメラのレンズを覗き込む形で最後の台詞を言い放った。脂分の多い肌がモニターいっぱいに映り、剥き出しの敵意が肌に伝わってくる。
同じグループの仲間だとは言っても、僕はジンのような連中は嫌いだ。勿論彼らにしても、僕のような人間がいるのは不愉快だろうが。
ジンの暴力的な視線がモニターを通して僕の目に届く。直接見ればこの視線に勝てるはずもないのだが、モニターを通して見ると不思議とテレビで猛獣でも見ているような気分になってくる。
僕に屈服した様子がなかったからだろう、ジンはまだ何か言いたげだったが、リョウに呼ばれて忌々しそうに僕を見ながら元の位置に戻った。
リョウは右手の人指し指を僕の方に突き出した。
「わかったか? こいつらはいるだけで俺達の街を汚しているんだ。つまり蠅やゴキブリと同じだ。ゴキブリを潰して罪になるか? いいやならないね、ゴキブリがいると不潔だし不快だ。だから潰す……衛生学の基本ってやつだ」
同じ指に弾かれた逆十字のピアスが、澄んだ金属音を響かせる。リョウは満足げに頷くと僕に背を向けた。
……道化とのお喋りの時間は終わり、ということか。
おじさんの周りでは、王様の許可を得ずに、彼の兵隊達が処刑を始めていた。
『一般的に個人の嫌う物を見れば、その個人がどのような嗜好や性格、又は生活状態であるのかを判断できる。ただしここで問題なのは、その物が直接的に個人に危害を与えるのではなく、個人の恐怖の象徴である場合があることである』
これは心理学の基本というやつだ。簡単に例を挙げると、円形の物が嫌いな人間は、円形の物そのものが恐いのではなく、円形に開いた井戸に落ちたことがある等の過去の経験が恐いのだ。この場合、円形は痛みや孤独、暗闇に対する恐怖の象徴ということになる。勿論、そんなに単純な話は稀だが。
ゴキブリや蠅は確かに伝染病などの恐怖の象徴だ。では五十三歳のサラリーマンは、街の王様にとって何の恐怖の象徴なのだろうか?
二度目の受験に失敗した僕がリョウと再会したのは半年前のことだ。
その頃、僕は親元を離れてこの町の予備校に通っていた。僕は昔から社交的なことが嫌いで、その時もまったく知り合いというものはいなかった。
いや、作らなかったと言った方が正しいかもしれない。
しかしそれでも限度というものがある。流石に孤独感に悩まされ始めた頃、僕は街で偶然リョウと再会した。
どうしてリョウが予備校で数回会っただけの僕を覚えていたのかはわからない。しかし不思議なことに、僕らの関係は続いた。
数カ月後、僕は彼から『処刑』の話を持ちかけられることになった。
処刑は続いた。
おじさんは見るも無惨な姿となっており、ほとんど意識もないようだ。リョウはおじさんの襟元をつかむと、顔の近くに引き寄せた。
「おじさん。俺のことが恐いかい? ……それとも憎いかい?」
おじさんの小さく開いた口から、わずかな言葉が漏れた。
「……家に……帰して……くれ…………」
リョウが無言のまま手を放し、おじさんが再度地面に突っ伏す。リョウは軽くため息をつくと、僕の方を見て……少し微笑んだ。
リョウは時々、僕に向かって奇妙な笑みを浮かべる。まるでこれから悪戯をしようとしている子供みたいに……。
リョウはコートのポケットから無造作に短い棒状の物を出すと、それを軽く振った。
ガチャリという金属音と共に、青白く光るナイフの刃が彼の手の中に出現する。あれはリョウがいつも持っている外国製のナイフで、彼が骨董品屋で見つけたという代物だ。骨董品と言っても、時の流れを感じさせないほどに抜群の切れ味を誇るナイフだ。現にリョウは一度、対抗するグループのリーダーの腕をあれで切り裂いたことがある。
彼はナイフを軽く弄ぶと、いきなりおじさんに突きつけた。
「ちょっと待て! 殺すのはまず……!」
僕は反射的に叫び、ビデオカメラのモニターから目を離した。
ナイフはおじさんの首の直前で止まっていた。おじさんが今にも気絶しそうな表情で目前の刃を見つめている。
「……やるわけないだろ? 何びびってるんだよ」
リョウは器用にナイフを一回転させて刃をしまい、立ち上がった。
ジンが安堵とも笑い声とも判断のつかない短い息を吐く。
リョウはナイフをポケットに入れると、僕の方を見て言った。
「こんなことでびびってるようじゃ、お前もこいつと同じ腰抜けだ。……こいつとな!」
振り上げられたリョウの足が、大きな弧を描いておじさんの腹部に直撃した。おじさんは大きな布の塊のように転がると、道の端で動かなくなった。
取り巻きの中から低い感嘆の声が上がる。
リョウは面白くなさそうに周りを見回すと、短く処刑の終了を告げた。
取り巻きの男達は皆、冷めやらぬ興奮に身を包みながら、緑の光溢れる商店街の方に歩き出した。商店街までは数十メートル……あそこまで行けば皆、常識の世界に戻る。
あの中に入れば、僕達は一応の秩序を纏って生活することになる。少なくとも人に暴力を振るえば咎められる世界。しかしここは闇の世界との境界だ。一度こちら側に入ってしまえば、この世界の支配者が秩序を決めることになる。
リョウは僕の肩に手を置いて耳元で囁いた。
「いいか? 一人だけいい子になろうとしてるんじゃないぞ……見ているお前だって同罪なんだ。くだらない常識なんかここでは何の役にも立ちはしない。ただ喰うか喰われるかだ。お前は頭がいいんだ、そこら辺のことはわかってて来ているだろう? この世界を楽しめよ。みんなやってるんだ……」
そして彼は忠実な部下であるジンの所に行きながら言った。
「ビデオは明日までに編集しておいてくれ、夜の九時から『スケアクロウ』だ……遅れるなよ」
リョウは僕にビデオで撮るように言うと、歩きながら大袈裟な身ぶりで叫んだ。
「それでは皆様、また明日御会いしましょう! See you tomorrow!」
モニターの中の彼の姿が、黒いコートと一体となって大きく揺れる。
最後の台詞を言い終えると、リョウは少し照れ臭そうに微笑んで僕に手を振り、ジンと共に闇の中に消えた。
リョウが消えたのを見計らい、僕は足元の定期入れを拾って中を開けた。
それは確かに何の変哲もない、ただの古ぼけた黒皮の定期入れだった。ただ、その内側には小学校高学年くらいの女の子……鼻筋がおじさんにそっくりだ……と、その横で恥ずかしげに微笑むおじさんのピンク色のプリクラが貼ってあった。
……どうやらこれは、編集ではカットしておいた方がいいものらしい。
僕は定期入れを持ったまま、おじさんのそばに近づいた。おじさんは気を失っているようだが、幸いかろうじて呼吸は続いていた。
僕は定期入れをおじさんのそばに置くと、ポケットから携帯電話を出した。
そんなことをしてもお前だって同罪だ。
頭の中でリョウの声が響く。
「……わかってるよ、そんなこと……」
呟き、僕はビデオの電源を切ると、携帯電話の番号ボタンを三回押した。 |