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白いしっぽと私の日常 作者:クロサキリク

本編

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49 白い犬神と影の腕


前話に引き続き、ホラーテイストのお話です。


 それは、大学二年生の夏の出来事だ。

 大学一年の冬に、かつての恩人ならぬ恩犬である白い犬神と再会を果たした後、市立図書館に通うことが俺の日課となっていた。犬神がいるおかげで他の図書館よりも静かで勉強しやすいということもあり、今ではすっかりお気に入りの場所になっていたのだ。
 夏季休暇に入り、伯父の喫茶店でのバイトが休みの日の午後、俺は課題の入ったショルダーバッグを下げて図書館へと向かった。
 お盆を過ぎたとはいえ、残暑は厳しい。じりじりと照りつける炎天下を歩くと、ポロシャツの下の皮膚がじわりと汗ばむ。カーキ色のチノパンが張り付く脚をせっせと動かし、広場を抜けて建物の中に入れば、人工の涼しさに生き返る心地だ。図書館は空調が効いて快適であることもまた、ここに来る理由の一つである。
 すっと汗が引く感覚に息をついたときだった。

 からん。

 背後で、乾いた小さな音がした気がした。
 何だろうと振り返っては見たが、硝子のドアの向こうには、建物が作る影しかない。周囲を見回したが、いつものように霊や妙なモノは目に移らなかった。
 気のせいだと思いたかったが、引いた汗の冷たさに心がざわつく。思わず立ち止まった俺の背に、とんっと何かが当たる。

「っ!」
「あっ、ごめんなさい」

 一瞬心臓が跳ね上がったが、背中に当たったのは高校生くらいの女子が持つバッグだった。三人組の女子達はちらちらとこちらを見て囁き合いながら、追い越して館内へと入っていくる。
 ただの人間であったことに安堵しながら、焦った自分が恥ずかしくなってきた。そもそも、入り口でぼーっと突っ立っていては利用者の邪魔になってしまう。
 俺は気を取り直して、いつも利用している専門書コーナーのある二階へと向かった。

 ――大丈夫。だってここには、あの犬神がいるのだから。

 そう、自分に言い聞かせながら。



*****



 専門書コーナーで課題に必要な本を借りた後、自習室を覗いたがほぼ満席だった。
 できるだけ人の少ない場所をとうろうろ歩き回って、ようやく空いた席を見つけた。木の机にノートを広げて、早速取り掛かる。
 実際の課題のレポートはパソコンで作成するのだが、先に流れを決めて紙に大まかな内容を書いておくのが常だ。引用する文献のページ数をメモし、貸出禁止の本のものは書き写しておく。
 作業に没頭していれば、いつの間にか二時間近く経っていた。一通りできあがったところで、ペンを置いて伸びをする。強張った身体を伸ばせば、喉の渇きを覚えた。
 少し休憩しよう。売店で飲み物でも買うかと、机の上の文具をバッグに詰め込み、本を抱えて席を立つ。貸出禁止の本を棚に戻すため薄暗い書架に向かった。

「Kの7208…っと」

 背表紙に書かれた分類番号に従って、棚の上の番号を見上げて歩く。
 すると、かさり、と小さな音が聞こえた。丸めた紙を落としたような、微かな音だ。
 何か虫でもいるのだろうかと、目線を下げて。

「っ…」

 息を、呑んだ。
 書架の間の床に、何かが落ちている。
 始めは、大きな蜘蛛か何かだと思った。
 しかし、その脚は五本しかない。いや、脚ではない。あれは『指』だ。
 五本の指を持つ、黒い『手』だ。
 手と手首、そして途中で切れた前腕は、硬質な見た目をしていた。色が黒いせいもあるが、関節部分がいくつかのパーツで繋がれて隙間があるそれは、生きた人間のものではない。浄瑠璃などで見る人形のようなものに見えた。

 人形の、腕。

 気付いて、ぞっと背中が粟立った。
 誰がこんな所にこんな物をと思った矢先、落ちていた腕の指がぴくりと震える。

「!!」

 思わず、本を取り落としそうになった。

 かさり。
 からん。

 指先が動き、這うように床を掻く。動く度に、当たる関節部分が乾いた音を立てる。

 からん、かち、から、かたん。
 かさ、ずっ、かさり、ずっ。

 指を歪に曲げては音を立て、腕はゆっくりとこちらに向かって這ってくる。

 やばい。ただの人形の腕じゃない。
 霊的なものを感じなかったから油断していた。
 急いで立ち去ろうと身を翻せば、振り向いた眼下に人の頭が見える。今度こそ、俺は驚きのあまり本を落としてしまった。

「わっ」
「えっ」

 相手も驚いたのだろう、後ろを通りかかっていた人物は小さく声を上げた。二人の間に本が落ちて、ばさばさっと音を立てる。
 俺の後ろにいたのは、緑色のエプロンをつけた若い女性だ。肩までの黒髪に、眼鏡をかけた幼い風貌の女性は、度々見かける図書館の職員だった。
 黒い円らな目を瞬かせた彼女は、はっと慌てて頭を下げてくる。

「すみません、驚かせてしまって」
「あ、いえ、こちらこそすみません……っ」

 むしろこっちの方が驚かせてしまったのに、謝られて戸惑う。急いで謝った言葉に背後の音が重なって、状況を思い出す。
 振り返れば、人形の腕との距離は二メートル程しかない。ぎょっと身を引く俺に、職員の女性は「どうかしましたか?」と問いかけながら、床に落ちた本を拾うためにしゃがもうとする。

 ふと、乾いた音に混じって何か声が聞こえた。


 …ミぃつケタぁ。
 シラせの、メなし。
 めナシの、おジョウさん。


 腕が、確かな意思を持ったようにぶるりと震える。
 がり、と床に指先が強くささり、千切れた前腕が蛇の胴体のように揺れた。腕の下にある影が、黒く濃く、色を広げていく。
 それを見た俺は、屈もうとした職員の女性の腕を掴んで横の通路へと押し返した。

「早くここから離れ……」

 言いかけたとき、床を這っていた腕が勢いよく動き出した。

 かさ、かさかさっ。
 ずっずっ、ずずっ。

 先ほどの緩慢な動きはどこへやら、本当に蜘蛛のような早い動きで迫ってくる。
 このまま走って逃げたかったが、女性を置いていくことはできない。それに、腕が狙っているのは俺じゃなくて、この女性のような気がした。女性には腕が見えていないようで、自分の行動は不審に思われるだろうが仕方ない。何か嫌なことが起こる前に、この人を逃がさないと。
 女性を片手で押しながら、腕を睨み付ける。
 関わるなという祖父の忠告は身に染みている。見えるだけの自分には祖父のように祓うことなどできないことも重々分かってはいた。いつもポケットに入れている塩の入った和紙の包みを、もう片方の手で握って取り出そうとしたときだ。

 視界の横を白いものが駆け抜けた。

 今にも飛び掛かろうとしていた黒い腕。
 俺と女性を庇うように前に躍り出たのは、美しい白い毛並みの、大きな獣。
 尖った鼻の一振りで起こした風で腕を薙ぎ払い、開いた口が宙に舞ったそれを捕らえる。
 鋭い牙が腕に食い込み、ばりん、と音を立てれば、腕から声にならない絶叫が迸る。耳の奥に響く断末魔は、黒い霧と共に薄くなって消えていった。

「……」

 あっという間の出来事だった。
 床に四つ足を付けた白い獣――白い犬神は、口の中に残っていた欠片を吐き出し、黒い霧の残滓を白いふさふさの尻尾で掃う。それだけの仕草で、床に広がっていた濃い影が薄くなり、いつも通りの床の色へと戻った。
 腕がいなくなった安堵と、犬神の鮮やかな手腕に見惚れて、ほうっと息が零れる。
 犬神が顔を上げ、青色の眼差しでこちらを見て駆け寄ってくる――と思いきや、犬神は俺の横をすり抜けた。

「え…?」

 拍子抜けして後ろを振り向くと、職員の女性がきょとんとした表情で下を見ていた。彼女の脚には、犬神がすりすりと大きな身体を寄せている。
 しっぽを追うように目線を彷徨わせる女性は、俺が傍らにいることを思い出したのだろう。

「ええと……あ、そうだ、本!」

 わたわたと彼女はしゃがみこみ、本を拾い始める。まるで犬神がいないように振る舞う姿に、すぐに合点がいく。彼女は俺に――いや、他の人間に犬神が見えていないと思っているのだ。
 俺自身も、自分がいろいろなものが見えることを他人に言うことは無い。彼女に言おうか言うまいかと悩んでいる間に、女性は拾った本を差し出してきた。

「……そういえば、さっき、何かいたんですか?」
「あ…」

 見上げられて、言葉に迷う。
 女性には犬神は見えているようだが、腕には気づいていなかった。

「……」

 言っていいものかと迷った挙句、俺はいつものように口を閉ざす。
 まだ確信も無いのに、近づく勇気はない。
 表情に苦笑を乗せて、ふるふると首を横に振った。

「……ちょっと大きな蜘蛛がいたんです」
「えっ、蜘蛛」
「蜘蛛は苦手で、驚いてしまって。すみません、急に掴んだりして」
「いえ。私も蜘蛛は苦手です」

 苦笑する女性から本を受け取って、俺はその場から離れた。
 犬神が側にいるのなら、あの女性は大丈夫だろうと分かったからだ。
 そして同時に、気付く。

 犬神が、彼女を守っていることに。
 彼女が、犬神の主であることに。


 以来、俺は犬神と彼女を観察するようになり、ふたりの関係に確信を抱いた。やっと声を掛けることができたのは、それから数か月後のことである。


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