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物語論Ⅰ:物語とは変化である――「喪失と回復」/文章論Ⅰ:書き出しの作り方

 今日は物語の話をします。

 物語とは何か。今回は、極めて単純に定義します。


 物語とは、変化である。


 どういうことか。

 といっても、難しい話ではありません。たとえば、ある困難に屈していた主人公が、その苦難を乗り越える。これだって変化だし、「物語」ですよね。あるいは、恋人関係の成立です。関係を結ぶということは、常にお互いにとっての変化であり、お互いにとっての「物語」です。


 少し小難しい話をするならば、歴史がなぜ「歴史物語」として成立するかと言えば(つまり、「歴史小説」が読んでいて面白かったり、あるいは歴史の教科書が読み物として面白いのは)、あそこには実にたくさんの変化があるからです。壮大な時間のなかで、数多く変化が起こる。

 つまり、そこには数多くの「物語」があるからです。


 「物語」とは「事件」ではありません。

 「事件」によってどう変わったか。それが物語です。

 何らかの「事件」が起こったとしても、作中でほとんど変化がないのならば物語にはなりえない。


 たとえば、物語の定型パターンとして、「喪失と回復」があります。

 「グッドウィル・ハンティング 旅立ち」という映画をご存知でしょうか。幼いころ父からの虐待を受けたトラウマから、正常に人間関係を結べない青年と、最愛の妻を失い孤独感に打ちひしがれているカウンセラーが、カウンセリングを通して共に救われていく、という物語です。二人の孤独な人間が、友情をもって自分たちの苦難から回復し、そして旅立っていく。まさに「喪失と回復」ですね。

 石田千という人に「きなりの雲」という小説がありますが、これも「失恋で傷ついた主人公が、周囲との温かな交流を通して少しずつ回復していく」話です。ゲーム「幻想水滸伝Ⅴ」(ちょっと古い)は、敵国に蹂躙された祖国を奪還するため、王子が旅をするという物語でした。別にこれ、例にあげた作品に限らず、類型の物語は山ほどありますね。

 「奪還屋ゲットパッカーズ」なんて漫画もありましたね。奪還されるには、奪われる、つまり喪失がなければならない。そこからの回復に、物語が生まれているわけです(最後はどんどんトンデモ化していきましたが)。

 

 つまり、何か大切なものを失い、そしてそれを回復するプロセス=変化こそが、ここでは「物語」となっているわけです。喪失は、物語の始まりになりやすいのです。たとえば「力の核であった右の義手を奪われた魔術師が、取り返さんと旅に出る」とか、「超リアルな体感型MMORPGに入ったままログアウトする手段が失われたから、現実に戻ろうと奮闘する」であるとか。

 そしてその結果、回復するまでの間に何らかの紆余曲折があれば、さらに物語は増していく。「紆余曲折」とはすなわち、一番最初のメジャーな変化以外の、マイナーな変化です。

 たとえば「超リアルな体感型MMORPGに入ったままログアウトする手段が失われたから、現実に戻ろうと奮闘する」主人公が、現実世界では周囲とのコミュニケーションをうまく取れず、孤独に苦しんでいた。しかし、MMORPGでの旅を経て、仲間と何かを分かち合う尊さを知る。

 あるいは、誤解していた親友と和解する。そうしたマイナーな変化、「物語」が複数挿入されることで、小説の「物語」はどんどん厚みを増していくわけです。


 それでは何故、「喪失と回復」が書きやすいのか。

 それはごく単純に、「喪失」した状態が、「ふつう」でないからです。

 そして「ふつう」は、とても考えづらいからです。


 たとえば、経済の話を考えてください。「ふつう」の経済を考えることは、とても困難です。そのために、経済学は恐ろしいまでの理論構築をし、にもかかわらず「所詮経済学なんてアテズッポじゃないか」という非難とを受け続けなければならないのです。

 経済学が出来るのは、「ふつう」の経済図をイメージすることではなく、「異常」の経済、つまり恐慌とか不景気について原因を述べることではないでしょうか。

 マルクスという学者は恐慌から、マルクス経済学を考え出しました。


 あるいは、「ふつう」の精神状態とは何でしょうか。

 そんなもの、わかりはしません。なぜなら、私たちが「ふつう」であるならば、その外部から「ふつう」を考えるということは、不可能だからです。「ふつう」の人たちを考えられるのは、「ふつう」でない人たちだけです。

 しかし、「ふつう」ではない状態、精神疾患については、「ふつう」の人でも考えることが出来る。

 フロイトという医者は精神疾患から、精神分析を考え出しました。


 こんなふうに、「ふつう」でない話から「ふつう」を考えよう、と言い出したのは、ニーチェという哲学者です。彼はこれを「病者の光学」と呼びました。

 カッコイイネーミングだけど、別に覚えなくてもいいです。大切なのは、「ふつう」は「ふつう」でない場所から考えたほうが、楽だよ、ということです。


 もっと軽い話をしましょう。

 人間が恋愛論を書くのはいつか。

 それは、恋愛が成功したときではなく、失敗したときではないでしょうか。

 何故ならば、恋愛が成功しているならば、それを論ずる=それについて考える必要など、どこにもないからです。コミュニケーション論とは、コミュニケーションを失敗した者だけが、その失敗を考えることによってのみ書ける、と言い換えてもよいでしょう。

 あるいは、クラスでも職場でもいいですが、団体の中で誰が「ふつう」かはとても言いにくい。全員で挙げたら比較的ばらばらになるでしょう。でも、「ふつうじゃない人」は、たぶんみんなの意見が一致する。

 じゃあ、なぜその人は「ふつうじゃない」のか。そこから、「ふつう」の人を考え出すことが出来る。


 後述しますが、物語には「一般性」と「特殊性」の両方があります。

 何故人は、「超リアルな体感型MMORPGに入ったままログアウトする手段が失われたから、現実に戻ろうと奮闘する」という荒唐無稽な、極めて「特殊」な物語を読んで夢中になれるのでしょうか。

 それは、たとえ場所が「超リアルな体感型MMORPG」であっても、そこで繰り広げられる感情が、人間一般に通ずるものだからです。そこにおいてこそ、「共感」は存在する。

 どんなに形が特殊であっても、一般なるものが存在するから、私たちはその物語を読めるのです。


 しかし、この「一般なるもの」を書くというのは、つまり「ふつう」とは、ちょっと考えるととても難しいのです。

 そんなの、「ふつう」の心の動きを書けばいいじゃない、と言われるかもしれない。

 でも、だとしたら答えてほしい。 

 「悲しい」とは何なのでしょうか。

 あるいは、「嬉しい」とは。

 明快な答えは出せないのではないでしょうか。

 

 そこで何が起きるか。「ふつうじゃない」話を書くことになる。そこから得られた「ふつう」ならば、誰もが分かち合える。理解出来る。共感してもらえる。もっと言うなら、「ふつうじゃない」という感触自体は、「ふつう」に誰もが理解できるのだ――。

 少し、ややこしくなってきました。


 しかしたとえば、先の「悲しい」とは何か、という問いかけに対し、こういう答えは可能です。

「悲しいという感情を味わえない少年の物語をすれば、わかるかもしれない」

 実際、そういう話、どこかにあるでしょう。最後に悲しいという感情を味わって泣く、みたいな。


 もちろん、実際にはそんなこと考えずに、みんな「悲しい」とか「嬉しい」とか言うわけです。

 別にそれは、いい。何の間違いもありません。

 しかし、にもかかわらず「ふつう」はよく分からない。そしてみんな、「ふつう」のほうがいい(私もそうです)。たとえば「嬉しいという感情が味わえない」となったら、結構大変な問題ですよね。あるいは、「大切な恋人が誘拐された」とか。

 だったら、そのための解決方法を主人公たちが模索しても、「わかる」というわけです。なぜなら、結局はみんな「ふつう」になりたい、というと語弊があるので言い直すと、「ふつうじゃない」欠陥があるのは嫌なのですから。

 だから、「回復」を模索するのは、当然だとわかる。

 そして「ふつうじゃない」状態を書き手が考えるのも、そななに難しくはない。物語るとは、部分的にはそういうことです。


 物語とは変化である、という話から大分それてきました。そろそろ時間も長くなってきたことですし、最後に書き出しの話をしましょう。

 どうして「変化」の話から書出しになるの、と思われるかもしれませんが、この二つは重大に関与しているのです。

 もしよかったら、今、お手元の小説を開いてみてくれませんか。

 書き出しを見てください。短編集なら良いです。色々見て、比較してみてください。

 私は昨日の名残で、青空文庫の夏目漱石先生のページを開いているので、そこを見ます。


 「山道を登りながら、こう考えた。」(「草枕」)

 「こんな夢を見た。」(「夢十夜」)

 「うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。」(「三四郎」)

 さて。何か、共通するものがありませんか。

 第一番目の「草枕」は、山道を「登りながら」です。つまり、移動です。

 「夢十夜」は「夢を見」る。つまり、現実から夢の世界へと移動するわけです。

 「三四郎」も、言わずもがな「目がさめ」ている。もうわかりますね。眠りから現実へ移動する。

 

 小説の書き出しで一番使いやすいもののひとつは、「移動」です。

 なぜか。これは、先に言った「物語とは変化である」ということにつながります。

 「変化」とは、移動のことです。

 物語を始めるうえで、一番最初の書出しが「移動」だというのは、何とも出来た話ではないですか。

 

 つまり、小説を読み始めるとき、読者は現実の世界から小説の世界への「移動」を体感します。「本に没頭する」という「変化」といってもいい。

 そして、こうした「移動」の書出しは、まさに小説に今入ろうとしている人々と、歩みを重ねているわけです。

 キャラクターの語りが、読者の気持ちと「たまたま」一致している。

 しかし、小説に引き込むうえで、これほど簡単かつ、威力の大きなものも珍しい。


 ちょっと変わった例として、芥川先生にもご登場いただきましょう。

「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。」(「羅生門」)

 「待つ」は、移動じゃないじゃん、と仰られるかもしれません。いえいえ! 同じことです。

 私たちは小説を読むとき、やはり「物語」が訪れるのを待っているわけです。「話の先が気になる」というのは、「先を待っている」ということに等しい。これもまた、未来の「変化」を期待する、すなわち「移動」のための書出しだといっていい。


 人間でなくてもよいです。ゾラというフランスの小説家に「クロードの告白」という小説があります。

 この小説の書出しは、「パリに冬がやってきた。」

 やはり、変化ですね。

 今まで秋だったところに、冬が「来た」という変化の足並みに、読者の小説世界への歩みを重ねている。


 もちろん、書き出しには色々な種類があります。「吾輩は猫である」……という名乗りもあります。つまり、人に話をするんだから、ちゃんと自己紹介をしよう、ということですね。礼儀正しい。

 こういう書出しもあります。あくまで、この「移動」の書出しは、読者を小説に引き込みやすい、というだけに過ぎません。

 「吾輩は猫である」も、その一文の魅力でもちろん十二分に読み手を引き込んでいます。


 さて、今日もまた長くなってしまいましたが、「物語とは変化である」という話から、「書き出しの作り方」の一例にまでなってしまいました。

 こんなふうに、物語の作り方と文体の作り方は、一致します。

 ですから、私は今回の話は「物語論/文体論」と重ねたわけですし、今後もこういうやり方を採用するつもりです。

 「神(全体)は細部に宿る」といいますね。

 小説の「書き方」は、「うまい文章を書く」だけの話ではなく、「よい物語を書く」さらには「よい読者を目指す」などなど、色々な「良さ」の総合的な追求でなくてはなりません。


 しかし、「よい読者」とは何なのでしょうか。

 そもそも、「読者」とは、誰なのでしょうか。

 次回は、その話をします。……たぶん。

具体性の話は、ま、またこんど!

今回のネタ本は大塚英志「キャラクター小説の書き方」

柄谷行人「<戦前の思想>」です。どちらもいい本ですよ。

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