取り扱いは慎重に
眩い光が目を焼く。
久方ぶりの風を肌に浴びると、体に纏わり付いていた樟脳の香りが見る間に薄まった。
「おお、久しいの。右の」
「ごぶさたしております。左の」
白い髭を蓄えた老人に、凛々しい若者が答えた。
「いやはや、ほんに久しいの。日の光を見るのは何年ぶりじゃて…」
狭い箱の中は老体に堪える。と老人はこきりと肩をならした。
「恐らく十年は経っておりましょう」
「ほう、そんなになるか。さて、皆は息災か?」
老人が声なき声をあげる。すると次々に返答が帰ってきた。
「中将様……おひさしゅうございます!」
「外じゃ外じゃ。ようやっと出られましたわい」
仕丁達のやんや、やんやの歓声に、老人は頬を綻ばせた。
久方ぶりの外に、皆の心は浮き立っていた。今日ばかりは無礼講だ。
「おや、我等が主は随分と老けましたな」
箒を手に笑い上戸が、声を上げる。
そちらを見て、老人の顔は益々ほころんだ。
最後に見た時は、ほっそりとした少女であった主が、腕に小さな赤子を抱いて立っていたのだ。
「ほうか、代がかわったか。おお、おお、可愛らしいのう」
「ほんに、なんと愛らしゅうございましょう」
「あの子共がもう、子を儲ける歳になりましたか」
「時が経つのは早うございますなあ」
優しい笑みを浮かべるかつての主と、その胸に顔を擦り付ける、ぷっくりと桃色の頬をした赤子を見て、皆は目を細めた。
少女の無事の成人に、新しい命の誕生。それは何よりも喜ばしいことであった。
老人は、そっと袖で涙をぬぐう。
――やれやれ、歳をとると涙脆くなっていかんわい。
時の移ろいにしんみりと浸りかけたとき、甲高い声が耳に届いた。
「ああっ」
「何事だ!」
少将の問い掛けに、長柄銚子を手にした官女が涙声で答える。
「私の着物に穴が開いてございます」
「虫食いか……」
「虫食いにございますな……」
老人の溜め息に若者のそれが重なる。
「仕方あるまい。形あるものいずれは崩れるものよ」
「……少将様」
おずおずと声かけたのは一番年嵩の、三宝を持つお歯黒をつけた女官だった。
「どうした?」
「盃がございません」
見れば、確かに三宝の上に盃はなく、ただ白っぽい糊の跡があるのみ。
「…………」
「三宝さえ持っておれば、そう気付くものもおるまいて」
絶句した少将に変わり、中将は努めて明るい口調で告げた。
「恐れながら、中将様」
そこに声をかけたのは三人目の女官だ。
「加銚子がございません」
三人目は手ぶらだった。これにはさすがの中将も言葉を失う。
「まあ、まあ、長柄はございますし。立ち姿的にも、何もなくともそう不自然には思えませんし……」
立ち直った少将の苦しげな言葉に、一同は押し黙る。
暗い沈黙を破ったのは、怒り上戸の焦りを含んだ声だった。
「まずい! 牛車が!」
「これ、牛車がどうした」
尋ねる中将の声には疲れが滲んでいる。
「……赤子に食われ申した」
「ああ、涎まみれに……」
見れば、いつの間にやら母の胸の中から抜け出した赤子が、牛車を手にして車輪をかじっている。
「ぎ、牛車で良かった、と思うことにいたしましょう」
少将の提案に、皆は一斉に頷いた。
「ところで少将、そなたは無事が」
問題続きの皆の様子に、中将が心配になって尋ねると、少将は遠い目をして呟いた。
「矢はありまするが……」
「が?」
「弓がございません」
「……そうか。気にするでない。平和な世に弓矢はむしろ無粋であろう」
落ち込む若者に、老人は精一杯の慰めをかける。
「左様でございますね」と暗い声で答えて、それでも、気を取り直して顔を上げた少将であったが、中将の顔を、いや正確には頭の上をしげしげと眺めて、明後日方向へと視線を向ける。
「ど、どうした?」
「い、いえ、なにもございません」
何もないわけがないのは、何よりもその態度が雄弁に語っている。
「申せ」
「中将様の冠が……五人囃子のものに……」
「……そうか」
中将はがっくりと肩を落とした。
最後に飾られてから長い時が過ぎている。
成人したかつての主は、きっと居を移しただろう。その際の混乱にて小物を失う事もあるだろう。
捨てられず、再び飾られるだけ、ましだと思わねばならないのかもしれない。
そう、自分を慰めた中将を嘲笑うように、絹を切り裂く悲鳴が響き渡った。
「きゃああああああ、首が……親王様の首が!」
色を失った女官の視線を追って、中将は見てしまった。
煌びやかな束帯を纏った体から、ぽろりと首が転げ落ちるむごたらしい瞬間を。
白い首はころんころんと転がって、牛車に飽きて重箱に涎を塗していた赤子の傍で止まった。
赤子はその顔に、ニヤリと無垢な笑みを浮かべ、新しい玩具に手を伸ばす。
てらりと涎に光った丸い手が届く寸前、赤子の母であり、かつての主である女は慌てた様子で首を拾い上げると、ぎゅうぎゅうと力任せに、体に押し込み始めた。
冠がひしゃげ、笏が折れる。
その凄惨な光景に女官は悲鳴を上げて目を覆い、仕丁はうめき声を漏らした。
構造上、我らの首は取れやすい。仕方がないことなのだ……仕方がない……
「――で、済むと思うてか!! ええい、もう我慢ならん。杜撰にも程がある。こうまで手ひどく扱われては堪忍袋の緒も切れようというもの。あの粗忽ものから、親王をお救いするぞ。少将! 弓をつがえよ」
「……ございません」
ぐううう。そうであった。
中将は地団太を踏んで、叫んだ。
「ならば、パンツァーファウストを! 誰か、パンツァーファウストを持て!」
「ございません! 何故に対戦車擲弾なのですか。仮にあってもおやめください。あれなるは我らが主とその母でございますぞ。どうぞお静まり下さい」
少将が必死に諌めるが、最早中将の耳には届かなかった。
「さすれば、RPGじゃ!」
「ございません!!」
中将が怒声をあげ、少将が諌める。その間にも、赤子の魔の手は着実に上段へと延びようとしていた……
阿鼻叫喚の喧噪の中、未だ、箱にしまわれていた五人囃子は囁き合っていた。「……旧暦の三月もとっくに過ぎているだなんて、言わない方がいいよな」と。
あーるぴーじじい