一蓮道中
わたしはあなたの刃であり、
わたしはあなたの毒であり、
わたしはあなたの狂気そのものである。
「鬼が出たぞ! みな、壕に隠れろ! 鬼が出たぞ!」
町を眺望する見張り櫓から、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。
それは、敵の襲来と、町の壊滅を意味する警鐘であった。
一 鬼を食むもの
「たのもうー。たーのーもーうー」
立派な門構えの屋敷の前で、えんは無遠慮に門扉を叩いていた。
だが家主の添元源三郎はいっこうに姿を見せる気配がない。それもそのはず、得体の知れない二人組みが屋敷の出入り口に張り付いているのだ。
迷惑極まりない大音声で叫ぶのは、派手な着物に腰まで垂らした赤髪の少女。その後ろでただ突っ立つばかりの地味な着流しの青年。
二人が現れて小一時間経とうとしている。
「たあーのおーもおーうー」
まもなく、門扉の左手横にあるくぐり戸から、ひとりの小坊主が顔を出した。
「あのう、旦那さまから何事か聞いてこいと仰せつかったのですが……。何用でございましょうか?」
「ほほう。坊主、小童のくせに働き者だな。だが用件は添元どのに話す。さ、中に通せ」
ずい、と小坊主を押しのけ、少女は有無を言わせず小さな戸をくぐった。青年も少女のあとにつづく。ぎょっとするほど長身で、くぐり戸を通る際ひどく窮屈そうにみえた。
「困ります、旦那さまからは用件だけを聞くように仰せつかって……いたっ!」
「わめくな。わたしは添元どのの依頼を受けに参ったのだ」
煙管を思い切り額に喰らい、小坊主は涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪えた。目から火花が出た拍子にはたと思い出す。今朝方、鬼退治の依頼を受けに屋敷を訪れる人物がいるとの噂を耳にし、その傑物がやって来たら招き入れるように、と主人の添元源三郎から言いつけられていたのだった。
それにしてもまさか、この二人がそうだというのだろうか。
背後からまじまじ見つめると、視線に気付いた少女が振り返った。
「坊主、詮索はやめたほうがいいな。わたしと係わり合いにならぬほうが、賢い生き方だぞ」
にや、と皮肉を浮かべた唇が弧を描く。
先月のこと。
隣の馬小屋町が鬼の襲撃を受け、たったの二日で焼け野原となった。町を守るべく建てられた見張り櫓は跡形もなく灰となり、鬼から逃れるため地中に掘られた壕は、町人ごと燃やし尽くされてしまった。危険を知らせる鐘は鈍色の塊に姿を変えた。
鬼は自己の破壊欲を満たすため、あらゆるものを燃やし、食欲を満たすため、人間の肝を喰らうという。上位の鬼は炎をあやつり、多くの手下を従え、そして欲望赴くままに人間の町村を襲うのだ。
醜悪な姿かたちのものがほとんどで、美しいものはごくわずかにしか存在しない。だが、たとえどれほど人間に近い容姿だとしても、その性質は凶悪で残忍、そして冷酷だといわれる。
二本の角を持つそれらは、古くより人間の敵とされてきた。
そんなものが、隣の町を死に至らしめた。
蔵町町長である添元源三郎が心底おびえるのも、無理からぬことであった。
鬼退治を生業とする『鬼討師』を募るべく、『討ち取った者には報酬五拾萬富』の号外を慌てて蔵町とその近隣にばらまいた。
一刻も早く自らの安全を確保しなければならない。もちろん、命と地位の両方を、だ。事を放置すれば町民からの非難は必至。次の選挙で落選の火種となろう。
懐がほんの少し冷えるくらいだ。それで命と町長の座を守れるならよしとするか。
そんな魂胆もあって、溜め込んだ金の一部をはたく決心をしたというわけだ。
しかし、幾たびも鬼を撃退してきた猛者たちでさえ隣町を襲った鬼の正体を知れば、われこそは、と名乗り上げる者は一人もいなかった。
生き残った老父が、あれは赤鬼だ、と断言した。
かつて南の領地すべてを灰燼に帰した赤鬼の名に、誰もが唾を飲んだ。死の国と呼ばれるようになった南の地は、文字通りあらゆる生命が死に絶え、草木の一本すら芽吹くことができない。
十年も前にぷっつり姿を消したが、彼の鬼の残虐なる所為は語り継がれ、脅威は今にいたる。
そのような鬼が手下を引きつれ再び現れたのだ。すでに多くの村や町が壊滅的被害にあっていた。
いつ蔵町も襲われるかと気が気でなかった添元源三郎に朗報が入ったのは、つい今朝方。添元家に小間使いとして雇われている小坊主が偶然耳にしたという。
「馬小屋町を襲った鬼を退治すると名乗り上げた者がいるそうだぞ」
「なんでも今日町長のお屋敷を訪ねるとか」
「よそから来た流れ者らしい。いやはや、どんなつわものか。鬼のようなやつではあるまいか」
「それはいい。そんなやつなら鬼などひねりつぶしてくれるに違いない」
市井の噂話に、小坊主と添元源三郎は小躍りしながら来客を待った。
が、期待とは裏腹に現れたのは奇妙な二人組み。
片方は小柄な、齢十四、五ほどの少女。客間の座布団にどっかり胡坐をかき、家主を前にしても不遜な態度を崩す様子がない。素朴な町娘と違って、はっと息をのむほど典雅な顔立ちは、とうてい胡坐をかくようには見えないのだが……。
少女がまとう気配は、庶民のそれとは全く異なるものに思えた。
腰まで伸びたこの界隈では稀な赤い髪。黒真珠の輝きを放つ両眼には高圧的な色がある。若さに見合わぬ豪胆な振る舞い。黒地に金の模様が描かれた豪奢な着物、純白の帯に赤い鳥の刺繍。どれもが意匠を凝らした贅沢な品であると、ひと目で分かる。
なんとも珍奇な小娘だ――添元源三郎は値踏みでもしているように、ひたと見る。
少女は懐から取り出した金細工の煙管を片手で弄いで、口火を切った。
「そなたが添元源三郎どのか。ははあ、なるほど。町民から金を搾りあげ、私腹を肥やしているくちか。まあよい。此度鬼退治を引き受けることになった鬼討師のえんという。こちらの者はわたしの相棒、かんなだ」
「は、はあ……」
この小娘、今失礼なことを言いはしなかっただろうか。
そんなことをぼんやり考え、添元源三郎は歯切れ悪くうめいた。
「おい、添元どの。して報酬の額はいくらだったか?」
この物言い。
高慢といわずなんと言おう。
「それは……」はて、報酬の額を忘れたのか? ようし、ならばひとつふっかけてみるか。
内心ほくそ笑んで、守銭奴はひとつ咳払いをしてから、満面の笑みを貼り付けた。
「壱拾萬富でございます」
もとより提示していた金額よりはるかに安価だが、鬼退治の相場はどれもおよそ壱拾萬富。大物ともなれば五倍額から壱拾倍額が通例となっている。
報酬の額を忘れてくれているのは、なんとも好都合だった。
こんな小娘に鬼退治ができるものか。後払いといえど、五拾萬富も払うなどもってのほかだ。
あくどい上目遣いで少女の顔色をそろりと窺ったとき、
「おい、添元殿。俺を軽んじるつもりか」
ぎくりとするほど、低く、通る声が耳朶を突き抜けた。添元源三郎は弾かれたように視線をさまよわせる。定まった先には、距離を置いて壁にもたれて立つ青年がいた。少女に随伴していた男だ。
鴨居よりも高い身の丈。この二人、背丈もそうだが身なりもまったく釣り合いがとれない。
短髪は黒く、双眸はくろがねのような硬さを持つ漆黒。着ているものといえば、薄布で安っぽく、露天で売っているような簡素な着物。地味色ではあるが、この男が着るとどこかえもいわれぬ迫力が出るから不思議だ。腰に帯びる一振りの古ぼけた打刀。黒塗りの鞘はすっかりくすんで艶を失っている。
風貌は年季の入った浪人くさいが、二十歳そこそこであろう。肩には大きな布袋を下げており、手ぶらの少女のしんがりを務めているともなれば、主従がどちらか明白であった。
物静かで質朴な男かと思いきや、あの物言い。小娘に続き、この男もそうなのか。
添元源三郎は男の眼光にすっかり萎縮してしまった。
「あ、いえ……、そのようなつもりは……」苦々しく声を絞り出すのが精一杯である。
「俺は技術を安売りなんぞしねえぜ」
つっけんどうに放言したきり、長身の青年――かんなは黙りこくってしまった。
気難しい男だ、と内心舌を打つ添元源三郎。
「案ずるには及ばぬぞ。鬼なんぞ軽くひねり潰してくれよう! このかんながな!」
気まずくなった空気などまったく意に介さぬふうに、えんはがはは、と豪快に笑う。
これが鬼退治専門の『鬼討師』と名乗りを挙げるのだから、いまひとつ信用性に欠けるのが本音であった――。
「五拾萬、か。件の鬼を相手にするには割りにあってねえぞ、えん」
くぐり戸を押し開けるえんの手が止まった。
「まあな。だが此度は金が目的ではない」
「ふうん。金にがめついお前の口からそんな言葉が出てくるとはな。女の執念はこええな」
まあな、と短く答えた彼女は、いつの間にか握り締めていた拳に視線を落とす。
「十年待ち続けたのだ。今度こそあやつを――討つ」
瞳の奥に、青白い炎がゆらめいた。
屋敷を出て、大通りからやや逸れた河原沿いを縦に並んで歩く二人。陽が傾き始めていた。
「久方ぶりの鬼退治だ。腕は鈍っていないだろうな、かんな?」
先の神妙な面持ちはどこへやら。いつもの調子で意地の悪い問を飛ばす。
「誰にものを言ってやがる。えんこそびびって小便漏らすんじゃあねえぞ」
「おまえ……、本当に可愛げのない男だな」
言葉とは裏腹に、どこか楽しんでいるふうの笑みを浮かべるえん。その後ろでかんなも意地の悪い微笑を浮かべた。
ニ 命愛でるもの
商いの盛んな東国で、酒屋の多さは蔵町が群を抜いていた。夕暮れ刻になると大通りは人波が押し寄せる。長旅の疲れを忘れに、旅人たちがこぞって訪れるのだ。貧富の差こそあれど、町は多くの人が行き交い、活気と喧騒に満ちていた。
だが、隣町で例の襲撃があって以来、明かりは乏しくなっていった。
町のはずれにある酒屋『鬼殺し』でも、それなりに繁盛していたはずだが、客足はすっかり遠のいてしまった。今宵も店内にいるのは帯刀した男が四、五人。よそから流れてきた鬼討師だろうか、行儀悪く瓶ごと酒をあおっている。
まったく厄介な連中だ、町のごろつきと大差ないじゃないか、と店の主人は内心でぼやく。
ふいに、からからと音をたて、なんときぶりかに戸口が開いた。
「いらっしゃい。ん……? お嬢ちゃんひとりかい?」
店の戸をくぐってきたのはうら若い娘。酒盛りの場に似合わぬ年齢と身なりだ。なにより目をみはるほどの美しさときた。
「ふたりだ。安い酒はいらん。上等なものをよこしてくれ」
たとえ数少ない貴重な客だとしても、少女の言い草は苛立ちを抱えた店主の勘に触るものだった。
「おいおい、うちは子供に飲ませる酒はねえんだよ、お嬢ちゃん、あんまりなめた口聞くと――」
「なめた口聞くと、なんだって? 店主殿?」
突如継がれた男の低い声。戸口から頭を屈めて入ってきたのは、やけに長身の若者。かんなである。練磨された刃のごとき視線を、見下ろすかたちで店主殿へ突き刺す。
蛇ににらまれた蛙よろしく、小心者の店主は硬直してしまった。
「……あ、いえ、何でもありやせん」小刻みに首を横に振った。かんなが呆れたようにため息を落とすのを見るや、軽く頭を下げ、今とばかりに奥へと走ってゆく。
あんなのが連れなら構わぬほうが利口だ。くわばらくわばら。
店主が走り去るのを横目で見送ると、えんは鼻を鳴らして側の空席へ腰を下ろす。胡坐をかいて、座卓に上半身を投げ出した。これはなかなか機嫌がよろしくない。
「かんな、ああいうときは猩々丸で首を撥ねてしまえ」
「物騒なことを言うなよ。人間を斬ればこいつが機嫌悪くするじゃねえか」
腰帯から抜いた愛刀をちらと見る。
「おまえ、元盗賊の頭だろう。威厳のいの字もないではないか!」
「そりゃ、とっくに足洗ってっからな。威厳のいの字なんて、いらねえだろ。まあ、酒でも飲んで機嫌直せよ」
店の入り口に展示してあった大吟醸をいつの間に持ってきたのか、一升瓶ごとずいと差し出す。不機嫌な相棒を軽くあしらうのは慣れたものだ。
文句も言えなくなったえんは半身を起こし、しぶしぶ瓶に手を伸ばした。かんなは勝ち誇った顔で、向かいの席にどっかり腰を下ろす。目の前で一升瓶が垂直に傾いた。相変わらずの良い飲みっぷりに、思わず苦笑がこぼれた。
傍から見れば唖然とする絵面だが、幸い今宵の客は気にする素振りもなかった。一人を除いて。
「お嬢ちゃん、すげえもん飲んでんじゃねえか。こっちで一杯やろうや」
げへへ、と耳障りなだみ声が狭い店内に響いた。賑わう店内ならよくある光景だが、此処最近では滅多に見なくなった。
側の席に座る男がえんを手招きする。薄汚れた着物の帯には、艶を失った太刀、抜いたことがあるのか疑わしい脇差が一振りづつ。赤茶けた顔がにたにたいやらしい笑みを浮かべていた。
えんは一瞬男に視線をくれてやったが、それは本当にまたたきするあいだにすぎなかった。再び無言で瓶に口をつける。男は露骨に眉根を寄せた。
「おい、聞いてんのか? 俺さまに酌もできねえっていうのか、この餓鬼が!」
それでも少女はしれっと酒を飲み続ける。
「くそ餓鬼……! 俺様は西国随一の鬼討師、凡天斎さまだぞ!」
「はっ、残念だがそんな小物、知らんな」
ぶつり、と自らの血管が切れる幻聴を凡天斎は聞いた。赤顔がみるみるうちに赤黒く変色していく。座卓をひっくり返し、威勢よく立ち上がった。
「おうおう、女子供だからと言って、ただではすまさねえぞ!」
見かけによらず甲高い奇声をあげて、腰のなまくらを払った。尻を突き出した不恰好な構えから、刺突を繰り出す。
「きええい、えい、えい!」
えんの胸を狙って千鳥足で詰め寄る。鼻をたらした小僧にだって避けられそうな早さだ。
だが。
どす、と肉を穿つ鈍い音。誰しも音のほうへ顔を向けた。
胸に突き刺さる錆びた刀。胸骨に当たらなかったのは、ただの偶然だ。
驚き目を剥いたのは、刀の柄を握る凡天斎本人である。そう、凡天斎とえんの間に立ちはだかった者がいた。
えんを庇って間に割って入ったのは、小競り合いを静観していたかんな。胸には刃が深々とめり込んでいる。血があふれ出る気配はいっこうに見られないが、凡天斎はそんな些細なことに気付く余裕はなかった。
「て、てめえ……、自分から飛び込むなんて……。お、俺はしらねえぞ」
引き抜こうとぐいと引っ張ってみても、刀はびくともしない。
胸に突き刺さる刃の根元を、かんなが指でつまむと、持った部分からぐにゃりと折れ曲がりはじめた。まるで熱で溶けだすかのように。
「な、なんだこりゃ……」凡天斎の手が震える。目の前にいる男は魔性の力を持っているのか?
「あんまり俺の相棒を餓鬼呼ばわりしないでもらえるかい?」
刀はとうとう飴細工のように変形したまま固まった。もはや原形を留めていないそれは、凡天斎の手からこぼれ落ちる。
「分かったら有り金置いてとっとと失せろ」
ひい、と情けない叫び声をあげて、凡天斎は『鬼殺し』を飛び出していった。
後に残ったのはわれ関せずの客数名と、いまだ一升瓶を片手に持つえん。そして、大事な一張羅に穴が開いて口をへの字に曲げる、かんな。
「くそ、あいつのおかげで着物が台無しじゃねえか」
手っ取り早く追い払えるいい方法と思ったが失敗だったな、と左胸をさすりながら誰にともなくひとりごちた。刺された胸の傷口は、もうどこにもみあたらなかった。
大きなため息を残して再び腰を下ろす。そこへ不機嫌な声音が向かいの席から飛んできた。
「割り込んで来ていいとは、一言もいわなかったぞ」
開口一番、感謝の言葉に代わって出てきたのは恩をあだで返すような不平不満。えんは柳眉を吊り上げ、むすっと表情を曇らせていた。
「えん……、お前なあ、避けられるくせして避けようともしなかっただろうが……。下手したらあのまま串刺しだったぞ。おまえの勝手で心中はごめんだぜ」
「なに? こんな美人を捕まえて心中はごめんとよく言ったものだな! それにあんなやつなんぞ、この大吟醸『鬼盛り』でぶん殴れば一撃だろうが」
一升瓶をひけらかし、悪びれもせず口答えまでする始末。かんなは短く息を吐く。
何を言っても無駄か。
そういえば、と手に握る巾着袋を振ってみた。
「ああ、あの男、小銭しか持ってねえんじゃねえかよ」
その夜は泥酔を演じ、狸寝入りで酒屋の床に宿を借りた。
初夏の朝は清々しいほどに快晴。
えんはうんと背伸びし、新鮮な空気を吸った。赤髪を吹き抜ける薫風がなんとも心地良い。
酒屋を朝一番で追い出されたえんとかんなは、蔵町から街道沿いを下って歩いていた。隣の馬小屋町への道のりだ。
「うーん、まだ奴さんの気配はねえな」
ふわ、と大きなあくびが出るほど平穏な空気が流れている。
空は晴れ渡り、そよ風に木々がなびき、街道を通る者はいまのところこの二人しかいない。
「うん、まあ鬼など気配を消すことくらい造作もないしな。用心しておかねばあっという間にお陀仏だぞ」
がはは、とまるで他人事のように豪快な笑い声をあげるえんに、そういえばこの娘に緊張感というものは存在しないのだと思い出し、かんなは再びため息を吐いた。
そんな平和も束の間、林の中から大人の怒声と子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。
二人は顔を見合わせ、同時に駆け出す。
「きく、離すんだっぺ!」
「いやあ! まめちゃんはおともだちなの! おとう、やめてけれ!」
まだ十もいかない少女が、父親の足にすがり付いて泣いている。
「いくらちっさくてもこれは鬼だ、人間と一緒にいることなんかできねっぺ! 今殺すておかねえと……」
手には娘から取り上げた小鬼が握られ、もう片方の手には鉄でできた冷たい斧が握られていた。小猿に似た小さな鬼が掌中でもがいている。
「もし、そこの旦那」
突然女の声がして、父親の肩が跳ね上がる。慌てて振り向くと、そこには見知らぬ少女と青年が立っていた。
少女の身なりは東国にはない上質で華やかな装い。一方青年は東国色の強い質素な着物だが、大荷物を背負う姿はどう見ても流れ者だ。
こんな人気のない林になぜ旅人が――
父親が口を開きかけた時、機先を制したのは眼前の一人だった。
「子供の前で殺生はよくないな。わが子のためを思うなら、手を汚さぬ方がよいぞ。なんならわたしがその小鬼の始末をつけてやろう」
派手な着物の少女がこともなげに言ってのけた。父親のうろんな視線に気付いてか否か、「案ずるには及ばぬよ。わたしたちは鬼退治を生業にしているのだ」鼻高々と付け加えた。
その言葉に、父親の硬かった表情がいささかやわらぐ。だがそれも現実を思い出すまでだ。
「すかす、あの……たすか鬼退治には結構な金がかかると聞いてますが……」
徐々に声がしぼみ、最後の方は聞き取れないほどだった。
それもそのはず、鬼討師に鬼を退治してもらうには、庶民ならば家を丸ごと売り払わねばならないほどの額を必要とする。分限者なら多少懐が冷えるくらいで済む話だが。
「ああ、仕事の途中だ。そんなちび一匹、金は取らんよ」
けらけら笑う鬼討師の少女は、萎縮する父親から小鬼を取り上げた。
「そう、人間は鬼と一緒にいることができないと言うしな。今殺しておくのが得策。そう思うだろう? 旦那」
去り際にそんな言葉を吐き捨て、二人は父親とその娘を置いて林から去っていった。
「おいおいえん、んなもんどうするんだ? こんな無害な小鬼を殺るんじゃ、寝覚め悪いぜ」
「何を言う。わたしがそんな鬼畜に見えるか? それに、目の前で大事なともだちが斧で真っ二つにされてみろ。あの娘っこが可哀相であろうが」
かんなが軽く眉を上げる。
「……おまえの優しさは分かりづれえな。つうか、いつまで握ってるつもりだ。早いとこ捨てちまえよ」
「いーやーだー。別によいだろう、ほーれ、ちっこくてかわいかろうが」
「こいつ、狂ってやがる……。そんなもん連れてく気かよ」
ため息がこぼれた。
かんなの文句を気にせず、えんは手の中で暴れる小さな鬼を小突いて遊んでいた。
街道を再び歩み、旅は道連れ――。
「おねえさんとおにいさん、まってけれ」
突然背後から大声で呼ばれ、二人は同時に振り向いた。先ほど林で会った少女が、急ぎ足でやって来る。
「まめちゃんをたいじしないでけれ! きくのだいじなおともだちなの。おねがいだっぺ」
がば、とえんの腰にしがみつく少女、きく。
必死の抵抗がか細い腕から伝わってきた。だがその手は震えている。
「……そうか、この『まめちゃん』はきくの大事な友なのだな。わかった。『まめちゃん』はきくに返そう」
父とは違う穏やかな声音に、少女は弾かれたように顔をあげた。見上げれば慈母のような優しい微笑がある。両のまなこがあっという間に潤いで満たされていった。
小さな両の手のひらに戻ってきた『まめちゃん』はぶるる、と身震いしてから嬉しそうに親指にしがみついた。
鬼と人間、相反する両者は理解しあうことなどできない。というのが定説。
「おい、嬢ちゃん。そいつを家には連れて帰るなよ。親父さんにまたつまみ出されるぜ」
「……でも……」しゅんとうな垂れるきくに、かんなはやはりぶっきらぼうに告げる。
「鬼はどこだって生きられる。住む場所が違っても、一緒には暮らせなくても友達に変わりはねえだろ。だから大事にしてやんな」
きくの髪をくしゃっと撫でてから、かんなはひとり踵を返した。
「まあ、あやつの言うとおりだ。共に暮らすことはできまいよ」
きくの少し乱れた髪を、優しく梳く。
「……今は、な。鬼と人間、解しあうことなどできぬというのは、そんなもの、思い込みなのだ」
初夏の陽射しのように強く笑むと、えんもまた踵を返し再び街道を進む。
いつか互いが気づくときも来よう。それまで、『まめちゃん』と仲良くあれよ――。
去り際の言葉にうなずき、子鬼を胸に抱いたきくは、深くお辞儀をして二人を見送った。
「おまえが慈善活動するなんざ、こりゃ昼から大雨じゃねえのか――いでっ!」
ばちんと音が鳴るほど煙管で腰を叩かれ、さすがのかんなも悲鳴を上げた。
「ともだちなのだ。誰かが引き離していいはずがなかろう」
誰にともなく、えんは小さく呟いた。
三 共に歩むもの
正午をまわり、朝まであれほどからっとしていた空気が一変し、湿った風が頬を撫でていった。空は分厚い暗幕を垂らしたように、たちまち明るさを失ってゆく。
これは本当に大雨になるな――かんなはぼんやり天を仰ぎつつ、だんごを頬張るえんをちらと見る。
街道を下る途中で発見した茶屋。だんごが食べたい、とわめく相棒をなだめるべく、仕方なしに休憩をはさむことにした。
まったくのんきなもんだ。
湯のみの中が尽きたとき、ふいに血のざわめきをおぼえた。暗雲のせいではない。
これは、と思う刹那、かんなは全身で鬼の殺気立つ気配を捉えた。それはえんも同時であった。
「えん!」
「行くぞ、かんな!」
疾風の如く――いや、脱兎の如く茶屋を飛び出す二人に、店の看板娘は無銭飲食だ、と叫ぶ暇もなかった。
市井の噂話を聞けば、鬼は街道を上りながら途中の町を襲っているようだ。隣の馬小屋町を襲ったからには、必ず蔵町へ入るだろう。その手前で鬼の侵入を阻止し、討たなければならない。馬小屋町と蔵町の中間に位置する先の茶屋が巻き込まれないように、二人は気配の先へと全力で向かった。
かんなは腰の愛刀――猩々丸の柄に手をかけた。
近い。
「野郎ども、林ごと焼いて人間共を蒸し焼きにするぞ」
奇怪なしゃがれ声を合図に、地鳴や雷鳴にも似た掛け声がいっせいに沸き起こる。十や二十の数ではない。
えんとかんなが駆けつけたとき、辺りの林は火の手が上がっていた。古木が激しく燃え上がり、豊かな緑は蹂躙されつつある。林のいたるところで、我がもの顔の鬼が闊歩する。下卑た哄笑が響き渡る。
えんは拳を握り締め、唇を強く噛んだ。
「馬小屋町を襲ったのは、おまえらに間違いないか?」哄笑を遮る凛然とした声音。
「ああん?」
林に火を放ち遊んでいた鬼たちが、豆鉄砲を食らったように顔をあげた。
人間はひとり残らず逃げ去ったはずだが、驚くことに目の前には赤い髪の娘子がいるではないか。後ろには長身の男。鬼たちは互いに顔を見合わせ、もう一度視点を正面に立つ二人に合わせた。
「ぷ、ぎゃははははははは! なんだてめえらは。人間の分際で俺様たちに何の用だ?」
「なんで逃げない? 人間どもは俺たちを見ると泣き叫びながら穴蔵に逃げ込むってのに!」
「ひひひ、ああそうか、俺たちを退治するとかいう連中だな? 糞ったれめ、丸焦げにしてやる!」
口々に罵る鬼たちは、どれも薄汚れた半裸で、腰には人間から奪ったであろう衣を巻いている。頭部に二つの角が生え、肌の色は黒、深緑、赤褐色、青紫――人間なら誰でも震えあがる、世にもおぞましい姿だ。
だが、騒々しくわめく鬼たちと違って、二人はただただ静観するのみ。怯えるわけでも逆上するわけでもない。震える様子はいっこうにみられない。
「かんな、やれ」
短くも冷酷な命令が下った。
刀の鯉口を切ると、それはまるで生きているのかのように、ひとりでに鞘走る。
神速の抜刀。
草履が硬い土を蹴り上げる。一縷の迷いもなく、間合いを詰めた。
前線でいきまいていた鬼たちが一瞬で切り刻まれ、黒い血しぶきがあがる。
剣閃は美しく滑らか。紙を切り裂くごとく肉が削られ、骨が断たれる。妖刀、猩々丸に血のりがつくことはない。水を弾くように、血はつぶてとなって刃をすべりゆく。瞬きさえも許されぬ、まさに電光石火。
抵抗するすべもなく、およそ五十いた鬼の半分がぐずぐずの肉塊と化した。
それは神の御業か、あやかしの妖術か。
血と肉の海でたった一人屹立するかんなは、猩々丸を天高く掲げ満足げに笑みを浮かべる。
「今日はやけに奔りがいいな。ご機嫌ってわけか」
頭から黒い血を被ったかんなの姿は、まるで鬼神。
あれほど熱気だっていた鬼の群れはすでに動揺と焦りで尻込みをしていた。たったの一瞬で同胞が半分なのだから、仕方のないことだ。
だが、突如として空気の流れが変わった。
ざわめく鬼たちの背後から、胸騒ぎに似た冷たい気配がゆっくり近づいてくる。かんなでさえぴりぴりと皮膚が震えるほどの、強烈な存在感。
えんはその気配を感じて無意識に唇がゆがんでいった。それは恐れでも驚嘆でもなく、歓喜。
「来たか……!」
密やかにつぶやいた。
「……おや、何事だい?」
嫣然とした女の声。艶やかだがひんやりとした響き。
鬼たちは一気に安堵と喜悦に包まれた。
「おお、赤鬼さま……!」
どの鬼も口を揃える。
悠々たる面持ちでえんとかんなの前に現れたのは、むせ返るような色香を放つ美しい女――いや、鬼だった。
真っ赤な振袖に高くまとめあげた紅蓮の髪。こめかみの少し上に生える二本の角。前髪が右の顔面を覆い隠していた。露出の多い肌は雪のように真白で、ぞくりとする美しさがある。遊郭で最も名高い水宮町の太夫も、この鬼の艶やかさには敵うまい。薄く笑った口元から鋭い八重歯が覗く。
つい、と目の前のかんなに視線を向けて、彼女は奇妙な生き物を見るように首をかしげた。
「ん……? 人間?」
そして、そのかんなの背後に立つ者を見つけて、目を剥いた。
「……な」
目を疑い、言葉が詰った。妖艶な面貌が一瞬にして凍りつく。
「……な、んだ、と……? まさか、おまえは……!」まるで、幽鬼を目の当たりにしたような。
えんはゆったりと顔をほころばせた。だが、そこに潜むは――憎悪。
「お久しぶりでございます。あねさま」
「どうしておまえが生きている……。紅鬼……!」
「地獄より舞い戻って参りました。あねさまへの恨みつらみ、あれより十年忘れた日などございませぬ」
えんは一歩たりとも動かずただ語る。
赤鬼は頬を紅潮させ、一歩進み出た。
「よくも抜け抜けと……。おまえが落命の直前にあたしの半身を焼き払ったおかげで、再生に十年もかかったのだぞ……!」
「ほほう、ちゃんと右半身再生できたではありませんか。燃えてなくなったはずの腕も脚も、たったの十年で元通り。さすがはあねさまだ」
口ではけらけら笑っていたが、目だけは赤鬼を見つめて笑っていない。
「よりによってあたしの美しい顔までも……! 再び地獄に送ってやるわ」
赤鬼が叫ぶと同時に、業火が地面を舐めるように走り、えんに迫った。
微動だにしないえんは、相変わらず微笑をはりつけている。それが赤鬼の心を逆なでする火種となった。
「おのれ、紅鬼!」
炎は爆発し、辺り一面を火の海にした。しかしそこにえんの爆ぜたあとはない。
赤鬼が目で追った先には、炎と煙越しに無傷のえんがいる。
迫る火炎を寸でのところでかわし、えんを抱きかかえ無事に避難させたのはかんなだった。
「おい、かんな、もっと丁重に扱え!」
「助けてやってなんで俺が文句言われるんだ」
どうやら降ろされる際、どすんと放り投げられたことに、ご立腹の様子。
えんはありったけ頬を膨らませ、立ち上がると着物についた土を払った。
だが、冗談事はそこまでであった。土を払い終えると、冴え冴えとした二つの黒真珠が、真っ直ぐ前を見つめた。
吼える猛火を挟んで、赤鬼がゆらりと現れた。その体表からちりちりと焼ける音が鳴る。人間ならば恐怖に失神するほどの殺気が、音となってほとばしる。
「……また人間なんぞと一緒にいるのかい……。おまえはあたしと同じ――」
「――あねさまと同じ、鬼とでも仰りたい? まあ、矜持でもある角を折られ、心臓を抉り出されて喰われる前はそうだったかもしれませぬがな」
「なにをほざく……! 鬼のおまえが虫けらどもに肩入れするからよ!」
「はは、鬼の紅鬼はあの日、息絶えましたぞ。今あねさまの目の前にいるのは、流浪の鬼討師、えんにございます」
言って、禍々しく口元を歪めた。
そこに音もなく舞った赤鬼が降りかかってきた。鬼の形相とは、まさしくこのことだろう。
振りかざす鉤爪が赤い軌道を描く。
「痴れ者が!」
脳天めがけてその爪を振り下ろす。次に赤鬼が見るのは首のないえん、のはずだった。
「――!」
その刹那、鬼の赤鬼でさえぞっとする殺気を全身に感じた。本能が身体を支配し、つま先が触れた瞬間に全力で飛び退き、距離をとった。
えんの背後で、妖刀の白刃が獲物を狙って待ち構えていた。あとわずか反応が遅ければ、首を失っていたのは赤鬼だったかもしれない。
熱くなれば紅鬼の思うつぼか。
意図的な挑発だとすぐさま悟り、赤鬼は深く息を吸った。
静謐な空気が立ち込め、その場の誰もが身じろぎひとつしなかった。いや、針をあてられたような緊張感が全身を支配しているからだ。動けば針はさらに奥深くへ沈む。
そんな切迫した空気を切り裂くように、それはそうと、と場にそぐわぬあっけらかんとした声があがった。
「鬼は人間に肩入れしてはならぬのですか? そんな掟、ありましたでしょうか?」
「愚かな……。あたしら鬼は人間の肝を喰らう者よ。やつらは虫けら同然、所詮、食料にすぎんわ」
「心臓を食わずとも、生きていけますぞ。すべては古き虚妄。われらは解しあうことができるのです」
静かに目を瞑り胸に手を置くえんは、かつて、共に過ごした人間のことを思い出していた。それはほんの短い間だったが、あたたかい生き方だった。
歪んでいた口元が、やっと自然にほころんだ。えんにとって無意識に生まれた隙だ。
その一瞬を赤鬼は見逃さなかった。
熱くなれば、思うつぼよ――。
「ああ、あれのことを言っているのかい。鬼を好いた馬鹿な人間……。あの男の肝は美味くはなかったけどねえ」唇が薄く割れ、それと同じ血の色の舌が口唇をゆっくり這っていく。
えんの大きな目が揺れた。
これが意図的な挑発だと頭は理解しても、胸の内のもっとも深い部分に封じていた感情は抑え切れなかった。
怒気が覚醒し、憎しみが鎌首をもたげる。
見開く双眸に烈火が宿っていた。
「赤鬼……、十年間ずっと探していたのだ。わたしの角を折り、心臓を抉り、縁を……大切なひとを殺したおまえだけは生かしておけぬ。たとえわが姉だとしても!」
鬼の本性がむき出しとなる。
えんは慟哭に似た咆哮をあげた。冷静さを失い、己を見失ったときが敗北を意味すると知っていても、吠えずにはいられなかった。
赤鬼が冷笑を浮かべた。
「鬼が人間を大切と言うか。恥の上塗りよ。紅鬼、おまえがなぜ生きのびたか知らんが――」
赤鬼の声が途絶え、えんの眼前から姿を消した。
「もう一度死ぬがいいわ」
背後からぞわりと響く妖艶な声。えんの耳にふっと息が吹きかけられた。
――しまった、熱くなりすぎたか。
赤鬼の右の人差し指から火が灯り、それは業火へと変わり炎の矛となる。えんは避ける暇などない。矛は唸りをあげて迫った。
――胸を貫かれる……!
刹那、下段から刃が跳ね上がり、炎をまとった赤鬼の腕は弾きあげられた。
両断するまではいかなかったが、骨は粉砕され、わずかな肉と皮でかろうじてつながっている。腕は力なくだらんと垂れ下がった。幸い、高い再生能力が出血をくいとどめていた。
唐突な襲撃に赤鬼はただ驚くしかなかった。
気付けば息もかかる距離に先の男がいるではないか。
どう考えても助けに入る隙などなかったはずだ、なのになぜ。
赤鬼が睨み据えると、刀を手にしたかんなが、ふっと嘲笑を浮かべた。
「こ、の……、人間の分際でえ!」
赤鬼の怒りが再点火する。
機能を失った右腕の代わりに、今度は左手に、より高温の炎をまとう。この距離なら避けることも刀で逸らすことも不可能だ。
貫手を一気に突き出す。
二度目の偶然は、ない。
えんは息を飲んだ。
重く湿った音だけが空気を揺らす。肉の焼け焦げた臭いが無風の中を漂った。
「……く」
苦痛が漏れた。
一瞬の判断は、かんなにとって唯一最善の方法だった。
いや、正確には方法など他になかった。
皮を突き破り、肉を穿ち、骨を砕き、そして赤鬼の腕はかんなの左胸に深々と突き刺さっていた。
近距離から繰り出された貫手を避ければ背後のえんが命を落とすことになる。
えんだけは絶対に殺させない。
――その身を盾にするより、なかった。
「ばかもの……」
大きな背中を見上げてえんがつぶやいた。
「愚かな! 人間が鬼を庇うか!」
そのままえんの胸も貫こうと、真紅に染まった腕をさらに深く突き伸ばす赤鬼。だが、動くはずのないかんなが、それを拒んだ。
ぐっと腕をつかまれ、驚愕に目を見開く赤鬼。それもそのはず、左胸を貫いたのだ。なのになぜ絶命していない?
は、と気づいた時、真横から刃が迫るのを目の端で捕らえた。慌てて腕を抜き、飛び退る。
こいつ本当に人間か?
「くそ、おー痛てえ。こりゃ治るのに時間かかりそうだな……」
焼け爛れた胸を押さえるかんなは、やはり生きていて、それもたいしたことのないように振舞っている。あろうことか出血がほとんどないのだ。たとえ焼灼により止血されていたとしても、その域を超える風穴が胸に開いている。
久々に全身に寒気を感じて、赤鬼は表情を硬くした。
「ああ、どいつもこいつも大体はびびんだよ。それに、さっきから勘違いしてるようだから言っといてやるけどな。俺は純粋な人間じゃなくて……、半分人間で、半分鬼だ」
「半鬼、だと……? ありえん。人間と鬼の相の子……? 実際にいるなど聞いたことがない」
「目の前にいるじゃねえか。ま、角は初めからなかったけどな」
前髪をぐいとかき上げるが、鬼の特徴である角はまったく見当たらない。しかし薄い唇から覗く八重歯は人間のそれとは思えないほど鋭い。
「だが鬼とて胸を貫かれれば生きてはいられぬというのに……」
気付いたようにえんを見る赤鬼。
「……は、まさか……」
そう、えんの肝は抉り出し喰らったのだ。
それが生きているとなると、呪で誰かの肝を入れたに違いない。高位の鬼のみが使用できる術だが、赤鬼と紅鬼には空気を吸うのと同義だった。
そして、この半鬼なる男は左胸を貫いても死なない――。
「はは、残念だったなあ、あねさま。わたしが死にかけたあの日、かんなに救ってもらったのだよ。長命といえど、さすがに心臓を獲られてしまっては生きてはいられぬ。だがこのまま朽ちるわけにはいかなかった。そこで、呪を施したのだ。わたしはかんなの心臓をもらって生き、代わりにかんなはわたしの身の内で生き続ける。わたしが死ねばかんなも死ぬがな。そして半分人間のかんなに、枯渇することない鬼の力を注いだのだよ。まあ、あねさまよりは再生力が劣るのは仕方のないことよな」
えんは、常の軽い調子で言ってのけた。
「そうか……ならば、力を失ったおまえを殺せばいいだけの話か!」
手下の鬼たちを一斉にかんなに充て、自らえんの懐に飛び込む赤鬼。
「えん!」
囲まれるかんなは離れてしまったえんを呼ぶが、返事はなく、炎の爆ぜる音だけが耳に届いた。
あたりにぽつぽつ雨音が響いた。
とうとう暗幕からつぶてがこぼれ落ちてきたのだ。いまだくすぶる木々を慰めるように、天から恵みが注がれた。
猛火の余燼消えやらぬなか、かんなは異臭放つ鬼の残骸を踏みしめ歩いていた。
そこに赤鬼の姿も、えんの姿もない。
いつも前を歩いていた少女がいないと、やはり寂しいものだと改めて気付かされた。
幼い頃に両親を失い、半分鬼という出生があった故に、たった一人で生きていくことを余儀なくされたかんなは、盗賊として誰かの物と命を奪ってゆくしかすべがなかった。次第に集まった人間の仲間も、頭の秘密を偶然知ったとき、刃を突き立ててきた。仲間だと信じた者たちから化け物だ、鬼だと罵声を浴び、心と身体に癒えぬ太刀を受けた。
そして、かんなは共に過ごした彼らを全て、その手にかけたのだ。
信頼していたはずの、者たちを。
生きてゆく意味を失いかけたときに出会ったのは、鬼の少女。彼女は鬼のくせに、人間くさくもあった。
鬼は破壊と簒奪だけが全てだと思ってきた。半分鬼の自分自身がそうであるように。だが、彼女には自然を愛で、人を想いやる心がある。
変なやつだ。
「どうして解しあおうとしないのだ」死を目前にした彼女が言った。
――鬼と人間は共に歩むことができるのに。
――同じ言葉を話すわたしたちは、喜びも悲しみも分かち合うことができるのに。
――季節のうつろいも同じように感じることができるのに。
そう言った彼女になら、この命、渡してやるのも悪くない、と思ったのだ。奪うだけの生き方をしてきたかんなが、初めて、誰かを助けようと思ったのだ。
そうだ。鬼と人間は共に歩むことができるはずなんだ……。
「えん」
雨音にまぎれてしまいそうな弱い声だと、自分でも思った。えんがいないと、刀身を奪われた刀のように存在意義を喪失すると思えた。
名を尋ねたとき、彼女は『えん』とだけ名乗った。
偽名だとなんとなく察しがついたが、本名はかんなにとって不必要だった。他者との繋がりなど、浅い方がいい。盗賊は命さえも奪い切り捨てるものだ。だが、彼女を救ったときから結びつく深く、強い縁。
それは呪のせいだけであろうか。
――あいつの力のおかげでほとんど歳をくわないっていうのに、こころは歳をくっていくんだな。
えんとの出会いは、頑なだった自分の中のなにかを変えていった。
――ああ、もう二度と誰も必要ないと思っていたのにな。
髪も着物もすっかり濡れて体の芯まで凍えてきた。だが、構わず歩を進めた。
相変わらず雨は旋律を奏でるように降り続けていた。
胸の傷は完全に塞がっていた。
すっかりはげてしまった林の中、一面黒焦げとなった場所で足を止めるかんな。
「……探したぞ」
声をかけた先には、俯いて佇立する相棒がいた。
「泣いてるのか?」
「泣いてなどいない」
「本当は、赤鬼を――姉ちゃんを討ちたくなかったんじゃねえのか」
「そんなことあるものか」
握り締めた拳が震えていた。
「……もう、復讐は終わったのか?」
「……まあな」
「……最期まで、分かってはもらえなかったのか?」
「…………そのようだ」
足元の鬼の亡骸を見下ろしながら、弱々しくつぶやく。
「仕方ねえさ。鬼と人間、そう簡単に分かり合えるなら鬼討師なんてもんは必要ねえだろ」
「それも、そうだな」
「いつか、きっと争いがなくなる日がくるさ」
えんの返事はない。
やや沈黙したのち、彼女の頭にぽんと手を置くかんな。
「鬼と人間、分かり合えねえなんて思い込みだ。共に歩んでいける。その証拠に、ちゃんと半鬼がこの世にいるだろ? 時間はかかるかもしれねえが、いつかきっと、そういう日がくるさ」
えんが初めて顔をあげる。
大きな目から溢れるしずくは、降り注ぐ雨よりあたたかいものだった。
「……ああ、そうだな……」
林には二人の足音と、穏やかな雨音だけが小さく響いた。
「赤鬼が勘違いしなかったら、負けてたんじゃねえだろうな」
「馬鹿を言うな。わたしが負けるなどあるはずなかろう」
「十年前死にかけてただろうが」
「あれは引き分けだったのだ」
「あっそ。そう思っといてやるよ」
「可愛くないやつだな。まあ、かんなにすべて力を渡して、わたしが無力になったと思い込んでくれたのは、もうけものだ。だが、もう一度言うが普通に戦ってもわたしが勝ってたんだからな!」
「はいはい。えんがやられたら、俺も死んじまうんだから、そこんとこ頼むぜ」
林を抜けて街道を戻るえんとかんな。
雨に濡れてすっかり冷えてしまったが、再び頭に置かれたかんなの手は、とてもあたたかかった。
「さて、添元どのから五拾萬富でもせしめにゆくか」
がはは、と笑う声は、暗雲が去って青く姿を変えた空によく響いた。
了
四 一蓮道中
鬼の首も持ち帰っていないのに、金をどうして払わなければいけないのだ。と駄々をこねる添元源三郎。むしろ鬼は来なかったんじゃないか、とまで言い出す始末。
結果、かんなが首筋に猩々丸を突きつけ五拾萬富を掻っ攫っていくことに成功した。
「とっとと町から出て行け鬼討師め」そんな遠吠えなんのその。
満面の笑みを浮かべて街道を上るえん。
かんなはいつもながら手ぶらの小娘をしかめっ面で睨んでみせるが、まったくもってが効くはずはない。
軽快に歩くえんの前に、横手の林から一匹の鬼が躍り出た。まだ幼い鬼のようで、角は小さい。薄汚れた緑の肌にぼろ布を巻きつけている。二人の前で、もじもじ手を組んだ。
「なんだ、こやつは?」
「ああー……。おまえ、あの時の」
かんなが指をさすと、子鬼はこくこくうなずいた。えんが首を傾げる。
「えんに倣って慈善活動したんだ。向かってくる鬼どもはみんな斬り捨てたんだけどな、こいつだけが震えて縮こまるもんだから」
「ほおう。珍しいこともあるものだな。どうりで雨が降ったわけだ」
目をぱちくりさせて、高い位置にあるかんなの顔を仰ぎ見た。
「おまえの毒に侵されちまったんだよ」
なんの含みもなく素直に笑うかんなは、巷を賑わす役者よりも華がある。地味な着物を着るなど勿体ない、とえんは常々は思うも、滅多に笑わないのだから、言ってやるつもりもない。
いや、むしろ己だけが見れる表情だ。言う必要もないか。
「……なににやにやしてるんだ?」
懐から取り出した煙管で、またもかんなは腰を叩かれた。だが今度はさほど痛くない。
教えてやるものか、と叫んでえんは先にひとり走ってゆく。
「まったく……」
歩き出したかんなの後ろで、子鬼が足を踏み出そうか出すまいか、とたたらを踏んでいた。
「一緒に来るか?」
声をかけられると、子鬼は小躍りしながらあとを追った。
――旅は道連れ。
繋がりを持つのも悪くない、と再び思えるようになったのは、えんの狂気がうつったせいか。いや、鬼と人間の共存を狂気と呼ぶなら半鬼こそ狂気そのものだ。
だとしたら、ただ単にあいつの心に惹かれたからか。
――まあ、どっちでもいいか。
「なあ、かんな! おまえの心臓はわたしのものだぞ。生き死にも、わたしにかかっておるのだからな!分かったらちゃんと後ろをついて来るのだぞ!」
遠くでえんが叫ぶ。
かんなは晴天のもと、のんびり歩を進めた。
蔵町から少し離れた水宮町で、赤鬼を倒したと豪語する凡天斎さまと再会するのは、少し先のお話。
おしまい。
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました!
連載形式にしなかったため、とても目に不親切だったかと思います。
うう、精進いたしますのでどうかご勘弁を…。
「四」はエンドロールの後にあるおまけと思っていただければ。ほんのお遊びでした。
本作は伊那さま主催「和風小説企画」の参加作品です。
他の作者さま、絵師さまの作品はこちらからどうぞ!↓
http://wafuukikaku.web.fc2.com/