上巻
「おおっ」
星の大群が落ちた。町人たちは一様に、なにかの吉兆やら吉凶だと騒いだ。そのなかで、佐乃介はひとり、
『死にたい』
と静かに願った。これといって理由があるわけではない。江戸の中期、このように漠然と自殺願望を持つ者がいたことは定かではないが、とにもかくも町医者の倅の佐乃介はそう思ったのである。強いていえば、厭世感のようなものだったのかもしれない。
はてさて。
「灸を」
親父が女の瞼をこじ開けている。
「佐乃、灸を」
せかすように名を呼ばれ、佐乃介は愚鈍な動きで灸の用意をする。
なにいってやがる、親父め。
当時は誰でも医者になれた。資格や免許があるわけでもなく、誰がなんといおうと医者と称すれば医者だった。
「お前がやるのだ。」
「おれが?」
「そうだ。やれ。」
というわけで、随分といかがわしい藪医者も多かったというが、とかく永沢玄乃介は人気があった。腕がいい、というわけではない。そもそも、灸というのは、町人が医者にかかるほどの病でないと判断すれば、それで済ませてしまう民間療法である。治療が緩慢だ。
「乗せ方が悪い。もっと、こう」
玄乃介が人差し指で女の背中を撫でる。何度も。女は寸とも反応しない。まるで白い置物に見えた。ただ身をゆだねている。
『玄さんとこに来てる患者は、病を治しにやってきてるんじゃねえ。玄さんに触ってもらいにいってるんだ。悦い男だからな。』
患者は女が多かった。
それも、トウのたった女や後家が多い。どの女も、とくに悪いところなど無さそうに見えるのに、間を置かずにやってくる。
佐乃介は嫌だな、と思った。
父と、その女たちに嫌悪を抱いた。親父の涼しい顔立ちも、女たちの白い背中も大嫌いだった。おれは医者にならぬ、と早々に決め込んだ。
「そう、それでいい。お前は、なかなか良い。素質がある。」
「……」
かといって、何をするわけでもなく、こうして玄乃介の見習いに甘んじている。
昨今、どうも変だ。生きた心地がしない。
鬱々と日々を過ごしている。
そんな或る日、隅田川に男女の死体が上がった。
「情死ですな、あれは」
鼻息も荒く、佐乃介にそれを知らせてくれたのは、夢買いの密という小男だ。
「商家の手代と遊女だ。ごめんなすって」
密が、ぬ、と手のひらを差し出す。
佐乃介は無言のまま銭を乗せた。この男は、界隈でも有名な変態で、縁起の良い夢や小咄を売り買いして生計を立てている。一言二言めには、『面白い咄はねえかな』と催促し、隙があらば銭を求めてくる。佐乃は慣れているから、文句もいわずに金をやる。そんな風だから、すっかり懐かれて、
「今日も『姫』ですか」
郭(遊郭)にまで付いてくるようになった。
佐乃が通っているのは、風呂屋であり郭でもあった。湯上がりに一杯やって女と寝ころぶ。そういう処だ。
部屋で待っていると、目当ての女が現れた。『湯女』である。
「おやめやす」
血が滲むほど首筋を引っ掻いていた佐乃に、やんわりと云う。佐乃は、ああ、と返し、夢買いの密を追い払った。
「どうなされました、今日はなんだか」
爪先に溜まった皮膚を、ふっと吹き、立ち上がる。熱い湯に浸かりたかった。湯女は無視されたので機嫌が悪くなるというふうでもなく、その背中を追う。
湯女は、名を、美登利という。
昔の名はとうに忘れてしまった。ときどき、鼻緒が切れるときに思い出すようなもので、まったく無意味である。肌が白くなめらかで綺麗だったから、見世では『白姫』で通っている。ただ、佐乃はそういう経緯は知らないから、ただ『姫』か『湯女の姫』と呼んだ。
初めて見世に上がったとき、美登利は老婆と共に風呂場で浴客を待った。老婆と、である。客の背中を熱心に磨く、己の婆ほどの年の老婆を見つめながら、美登利は理解した。ああ、そういうことか、と悟った。低俗であからさまだ。案の定、湯上がりの客の相手をするのは美登利で、それが気の遠くなるほど、いつものやり方で続いている。故に、此の女は湯女でありながら、客の身体を清めたことがなかったのである。が、
「きもちええどすか」
「…良い」
永沢佐乃介だけは例外だった。
『伽の相手をするなら湯の世話もするのが礼儀だろう』といって、きかない。老婆と番頭が宥めようとしても無駄だった。美登利も、別に億劫で避けていたわけではなかったから、じゃあ、と此の男の体だけは自分の手で磨くことにした。他にも理由がある。
「心中があったようだ」
佐乃がぽつり、と云う。
「へえ」
「商家の手代と遊女だ。」
「……結婚しようとして、親の反対にでもあったのでしょう。」
湯女が江戸弁になる。
「愛を貫こうと、男女が」
「くだらぬ」
美登利は京の女ではない。京女に仕立てられている。
流行であったからだ。江戸の男は、京の女を求め、京に上った。江戸女には無い、柔らかな物腰が、たまらない、らしい。これでは江戸の遊郭が日照りになる。番頭が出した苦肉の策は、京女を作り上げることだった。愚かしい行為である。肌の白い美登利は、どうしてなかなか巧く化けていた。しかしばれぬはずがない。まず、佐乃にばれた。
「そのような物言いをなさいますな。仲間はずれになります。」
「なぜだ」
「流行、でございましょう。」
近松門左衛門の『曽根崎心中』――
ただちに芝居となり浮世絵になり、心中は世間に広まった。時代の閉鎖感、仏教の来世思想や死を潔しとする武士道の影響が入り交じって、世間に流行したと思われる。
「疲れた」
伽の閨で、湯女の姫が寝言をいった。
「死にたい」
佐乃介は、がばり、と起きた。
傍らの女を揺り起こす。
「死にたいのか」
起き抜けに問われた言に、しばし混乱したように瞬きをしている。
「そういった、そなたが」
「わたくしが」
「疲れた、とも」
「つかれた……ああ、疲れました」
京女のふりをしているのも。ばかばかしい、もう沢山だ。
湯女はそう云い加えて、佐乃に縋り付く。
「こうして気を許せるのは、貴方だけ」
「おれも死にたいのだ」
あの星の大群。
十代の頃は、何かを成し遂げようという気負いがあった。何か、とは具体的でないが、根拠のない若い自信が佐乃を生かせていた。しかし、星が落ち、町人たちが慌てふためく様を見て、ひどくもの悲しくなった。おれが何をしようと、到底かなわぬ。成し遂げようにも、世間はあまりに果か無い。
「死ぬか、おれと」
「へえ」
ぶっきらぼうな心中の誘いに、湯女は優美に微笑んだ。あらかじめ示し合わせていたように芝居じみた笑顔だった。
「ようがす。お伴いたしましょう。」
「…よし」
はてさて、次回に続く。
|