八話:ターゲットは少年
青年が目覚めたのは、もう嗅ぎ慣れた洗剤が香るフカフカの白いベッドの中でだった。其処は青年の自室。女性が使っていない部屋を青年に与えたものだ。
身動きしようとして悲鳴をあげた。脚を蝕むような痛み。
「いてぇ…痛い、痛い、痛い、あー、くそっ」
青年はなんとか上体だけ起こし、力任せに白い壁を殴った。大きな音に気がついたのか、数秒後に女性は悪びれる様子も無く扉から顔を出した。
「五月蝿い。壁を叩くな。隣から文句を言われる」
それどころか女性は青年にシャーシャーと説教を垂れているではないか。女性の涼しげな表情が憎らしくて、すぐに殴り飛ばしたい気分だったが、何しろ肝心の身体がそれはできないと訴えているのだからしかたない。
「お前一人で此処まで運んだのかよ」
もしそうだとしたら少し困ったことになる。案外女性は力も強いのだということになってしまっては、自分に勝てる事が一つも無くなってしまうからだ。そうなれば自分の身の安全は保障できなくなる。
「いや、同僚に頼んだ」
同僚。それはますますマズイ事になった。呼んですぐにくる同僚がいると言うことは、近くに住んでいる可能性が高い。逃げたとしても何人いるかわからない同僚に手分けして探されればすぐに見つかってしまうだろう。
お先真っ暗な運命に、青年は力なく壁に寄りかかった。
「あっのさぁ……絶対誰にも言わないから見逃してくんない?」
「もちろん、答えに期待などしていないのだろう?お前を信用できない」
女性はスタスタと青年の近くまで歩み寄ると一枚の書類を差し出して来た。受け取らない青年に気がついた女性はハラリと書類をベッドに落とし、そのまま出て行こうとした。
「まて」
青年の諦めた様な声が低く彼女を呼びとめた。
「何?」
呟くように聞いた青年の細い指の間で書類が踊っていた。
「読んでおけ、覚えておけば仕事の役に立つ」
青年は書類の一番目立つ箇所。顔写真らしきものをマジマジと見つめた。隠し撮りの様に撮られたその写真の中央には楽しそうにボールを抱きしめる少年と、その少年を幸せそうに抱きしめる紳士の姿が写っていた。
紳士の茶色いチェック柄のスーツと、いかにも金持ちがつけるといった片眼鏡。胸ポケットからは懐中時計のチェーンが優雅に垂れていた。
横の文面に視線を移すと、名前、出生や血液型。趣味や毎日の基本活動まで詳しく書かれているその書類はどうやら紳士ではなく少年のもののようだ。お昼寝や、ボール遊びの予定が入っているのだから間違いないだろう。
「だから、何?」
「私の仕事は、邪魔者の排除だ」
青年の喉がゴクリと音をならせて唾を飲み込んだ。
これは売人なんかよりもっとやばい。
「あんた、殺し屋?」
「違う。少しな」
「少しってなんだよ?」
女性はほとんど出かけていた身体を部屋へ戻し、窓際の小さな椅子に腰掛けた。
髪を左耳にかけると、背もたれに背をつけ細い脚を組んだ。女性は部屋でもけしてスカートをはかない。
「詳しくは話せない。簡単に言えば、私はとある組織のメンバーだ。殺し屋は金をつまれれば誰でも殺しに行くが、私は社長の命令が無ければ動かないし、動けない」
青年は眉を寄せ、軽蔑するような視線を女性に送った。
「詳しくは話せないぃ? 何言ってんだよ、俺も仕事の手伝いするんだろ? だったら……」
「お前が信用できない」
まだ話を続けようとした青年の声を、女性の鋭い声がさえぎった。それでも負けじと文句を言おうとした青年だったが、女性がその後話しを続けたため、黙る事しかできなくなってしまう。
「もし、お前が仕事に失敗した時。ターゲットに逆に捕まってしまった時。ペラペラと此方の事を話されても困るからな」
青年はうんざりと両手を上げてパタパタさせる。もういい、と何度も繰り返して女性に書類を突き返そうと差し出した。
「書類間違ってるぞ。このガキのことなんか知ってどうすんだよ」
無作法に手を突き出す青年を女性は冷めた視線で眺めた。そして彼女の言葉は更に冷たさを増して世界に生み出された。
「殺すのは少年の方だ」
驚いて、舌を緩く噛んだ。目を見開き、もう一度書類に視線を移す。どう見たって少年は6歳か7歳といった年。まだ誰かに恨みを買われる年でもなければ買う年でもない。こんな少年を殺して何の得があると言うのだろうか。
「なんで、こんな」
「その少年の父親が我々に裏切り行為を働いた。今後そのような事が無いように、見せしめとして子供を殺す」
青年は書類が破れそうになる勢いでベッドに叩きつけた。そのまま書類を握り締めたため、本当に破れてしまう。
「今のは説明のつもりか、あ、おい? イ、カ、レ、テ、ル」
歯をむき出しにして、青年は自分の頭を指差して見せた。
しかしそんな挑発に乗るのはこの青年くらいのものだ。女性はあきれたと目を細めて挑発をさらりと返した。
「仕事が嫌ならそう言え。まだ選択肢は二つも残っているだろう?」
そう言いながら女性が取り出したのは昨日と同じ拳銃だ。それを片手にゆっくりと青年へ歩を進める。
「わー、馬鹿、馬鹿っ。言ってねーっ、言ってない。お前、こんな真っ昼間から撃つ気かっ」
そう言ってから青年は気がついた。当たり前と言えば極自然な事。すぐに気がつかなかったのがおかしいくらいだ。昨日の銃声は隣近所に聞こえるはずだ。自分が大騒ぎしたくらいですぐに苦情を言いつけてくる隣の住人。彼等ならば銃声が聞こえれば何事かと管理人に報告するはずだろう。
「よーし、良いぞ、撃て。いや、まて、殺すな。俺に向けるな」
女性は皮肉った口元を作って笑ってみせた。彼の言いたい事が解ったのだろう。急に撃つ気がうせてしまった彼女は、銃を懐へ戻した。
「変に期待をさせておくのは同情を引くものだな。だから教えておいてやろう。このアパートは我が社経営の元にある。つまり住人も管理人も同業者だ」
破れてしまった書類をベッドから取り上げ、女性は鉄製のゴミ箱の所まで持っていった。ジッポで書類に火をつけるとそのままゴミ箱の中へ落とす。鉄製の箱の中で寂しく燃え上がる書類を、青年は更に寂しそうに眺めた。
「接触する機会はすぐ近くにある。今度この父親の経営する会社で、イヴにパーティーがあるらしい。著名人を集め自分の名を売ろうとしているようだ。其処でお前にはアパレル関係の仕事に携わる社長の御曹司として潜入してもらう」
まだ、少年殺しに加担するとも言っていない青年を置き、女性は勝手に話を進め出した。青年はうんざりした顔で女性を見る。
「また、たいそうな設定で…」
「……そのパーティーで上手くターゲットの父親に取り入り、子供を紹介してもらえ。その後、私達はちょっとした騒ぎを起こす。父親が其方に向かわなければならなくなった時、お前はその少年を連れ出して、外で待機する我々の車へ連れて来い。それで、お前の仕事は終わりだ」
「…終わりって。殺すのはお前がやんのかよ?」
「時が来たら近くにいたものが殺る。特にだれが殺すなどの取り決めはない」
女性はなんて涼しい声で語るのだろう…青年は背筋が震えた。殺すことをそんなに簡単に考えているのか…。近くの者が殺す。そんな簡単なもので良いのだろうか。
青年が鈍い悲しみの痛みに頭を押さえた時だった。玄関のチャイムが鳴る。
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