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第2章
第9話 振り子の心
 本当にアルバイト生一人だけをこんな寂しいところに残して行ってしまうのかと、早海であることは関係なく祇園は心配になったのだが、「あとはよろしくー」と男連中は荷物を片付けてしまっている。
「……本当に大丈夫なの?」
 口も聞きたくないと思ったが、祇園は思わず早海に尋ねた。
「心配してくれてるんですか?」
 しかし嬉しそうに笑って聞き返されるので、余分なことを言わなければよかったと彼女は心底思った。
「分析の方が心配なだけ」
 祇園はぶすりとそう返し、早海に「ひでえ」と苦笑される。

 そんなやり取りを横に、斯波が光達に向けて言う。
「一応、メールで僕と連絡取り合うことになってるけど、宿から歩いて来れる距離だし、君らも気が向いたら見に来てあげてねー」
「はーい」と言う光や弥栄の声を聞きながら、祇園はぼんやりと考える。
 実際、早海も「仕事」として斯波にそれなりの金は渡されているのだろうし、この川原もサンプリングの場とするくらいであるから荒れた人目のつかない場所であり、車もここまでは入ってこれないので、余程のことがなければ不良悪漢に襲われはしないだろうが……。
 また、梅雨時であるが最近は雨も降らずに増水の心配もない。野犬なども火を焚くようであるし……大丈夫かな、と祇園は早速、一晩此処で寝泊りする準備をし始めた早海を見るともなしに眺めていた。

 彼はザックの上から薪を一束、ザックの中からはテントだの椅子だの飯盒だのを出し、手際よくセッティングしている。
「一体、何者だよ……」
 その手際よい様子に祇園は思わず呆れたように呟いた。
「こーゆーこと、慣れてますからねー」
 早海の言葉のとおり、飯盒は古びたものだった。祇園は聞いた割には興味なさそうに「ふうん」と頷いたが、そう言った彼の笑顔には僅かにひっかかるものがないでもなかった。
 空白の五年間に、こういうことを彼はしてきたと言うのだろうか。あの頃は女の子のように可愛い顔をしていたのに、逞しくなったものである。
 だが、それはただの趣味かなんかだろう、と祇園はそれ以上疑問には思わなかった。


「それじゃ、白川くん、よろしくお願いします」
 最後に斯波が早海に頭を下げ、「がんばってねー」と斯波研の面々も彼に手を振り去っていく。そして来た時と同様、弥栄の車に祇園と光が乗り、斯波や青井はそれぞれの車で今夜の宿へと向かったのであった。

 荷物が多いので車で移動したのだが、宿までは車で五分もかからなかった。先ほどの川原まで歩いても二十分はかからない距離である。
 また温泉宿と言っても、所詮斯波が教職員組合のクジ引きで引き当てたものなので、老舗旅館などではなく、遠くから温泉水を引いてきただけの大浴場を持つ、ビジネスホテル風の建物であった。
 それでも昨年のようなテント泊を思えば、女性の祇園としては広い風呂にのびのびと入れるだけでも嬉しいものだ。確かに早海には感謝もしたくなる。

 ……一度くらい、何か差し入れでもしてやるか……。

 冷酷になりきれず、真面目で世話焼きな一面がある祇園は、湯船にとぷりとつかりながらそんなことを考えていた。
 そういう彼女であるから、つい仕事を引き受けてしまったり、懐いてくる早海も切り捨てられなかったりするのだろうが。


 祇園が風呂から上がり、食事が準備された部屋に行くと、既に斯波がひとりで出来上がっていた。
 祇園も含め、他の面々は流石に何かあれば川原まで行けるようにというのもありジャージ姿でいたが、斯波は浴衣で開襟状態になっていた。彼こそここで最後まで飲んだくれている気らしい。訴えられるようなことだけにはならないで欲しい……と切に願う祇園であった。
 とりあえず六時のサンプリングを終えたと言う早海からの定期連絡が、斯波の元にメールで届いたらしい。
 それを聞きひとまず安心した面々は、一応巡検の打ち上げということで――実際、二十四時間体制なので明日の午前九時まで続行されるのであるが――、開宴した。

「バイト君、飲めなくてかわいそーだなー」
と光は言うものの、実質早海はまだ十八歳なのでこの場に居ない方がいいだろうと祇園は思っていた。
 そして飲むと饒舌になる斯波研メンバーは斯波を中心に賑やかな盛り上がりを見せ、食事が済み、男性陣の部屋で二次会が開催されてもそれが続いた。
 昨年はまだ女性の先輩も一人は居たものだが、今年は祇園が女性一人で泊まっている状況である(宿泊部屋はもちろん別であるが)。しかしおちゃらけていても、家庭もあり最終的には全責任を負うつもりの斯波と、一見ふざけていても何処か真面目で紳士な一面もある斯波研メンバーの性分と、祇園のキャラクター性の問題で、女性一人が飲んだくれる男共に囲まれていてもおかしな雰囲気になる様子もない。
 いつも彼らを怒鳴っており変な研究の片棒も担がされているが、こういう明るくさっぱりした空気であるのも、怒りつつも祇園が毎日此処に来てしまうほど居心地のよい場所だと感じる所以でもあった。

 祇園も酔ってきていつもよりは口数が多くなったものの、それ以上に賑やかな斯波や光には敵わない。ちびりちびりと日本酒を飲みながら、彼らの話を聞いたり突っ込んだりとしている。酔いも回り彼女の頭もふわふわとしているが、そこまで酒に弱くないのでまだ眠いということはない。
 祇園が時計を見ると午後十時を過ぎようとしていた。お喋りな彼らと居ると、いつも時が経つのが早く感じられる。

 その時、開いていた携帯電話を閉じた青井が不意に立ち上がった。
「――ちょっと俺、川原の方見て来るよ」
 それは一人取り残してきたアルバイト生――つまりは早海の様子を見に行くということであった。
 それを見た祇園は、酔った勢いもあり咄嗟に口を開いた。

「わ、私も行く――」
 
 その言葉に青井は驚いたように振り返り、他の三人も少し驚いたように祇園を見たが、青井の方が早海と彼女の関係に納得したか、あっさりと「いいよ」と答える。彼女は慌だしく立ち上がり、彼の後ろに続いていった。


 それを無言で見送った残された三人の男達であったが、やがて光がスルメをもごもごと噛みながら、
「結局、ゼミ長ってどっちのことが――」
と微妙な話題を口にしかけて、その口を閉ざした。

 そして更にその微妙な沈黙を破るように、
「ま、そんなことより飲もうようー。麻雀するー?」
と斯波が再び騒ぎ出し、
「って面子足りないじゃないっすかー」
「宿の人呼んできますー?」
と同じく気まずい空気が苦手な二人も、それに乗じる。

 かくして不安定な心境の一人の女が、片想いの相手と共に微妙な関係の相手の元へと、夜の闇の中、足を踏み出してしまったのであった……。


 ・・・・・・・・・・


 行き先は早海のところであるのが好ましくないものの、片想いの先輩と二人きりになれるチャンスなどないと、酔った勢いと一人にしてきた早海が少し可哀想なのもあり、祇園は思わず立候補してしまった。
 しかし青井は祇園の気持ちには少しも気付いていない。

「あのバイト君って、祇園の彼氏なの?」

 早海への差し入れを持ち、暗い夜道をぺたぺたとサンダルの音を立てて歩きながら、彼は祇園に問い掛けた。こういう話を二人で余りしたことはないが、青井もまた少し酔っているらしく、この間から何度か祇園の傍で眼にした斯波研のメンバーではない一年生を、彼もまた「もしかしたら」そうではないかと思ったらしい。
「ち、違いますよ!!」
 叶わない想いであっても好きな人にはそう思われたくない、と祇園は慌てて否定した。

 彼女がこんな風に人を想ったのは初めてのことである。それは一人で生きていると気張っていた少女の頃の中学生、高校生の時には生まれなかった感情であった。
 大人になって視野が広がり、それまでよりも柔軟に物事を受け入れられるようになった時に、自分の世界をこの人ならばもっと広げてくれると、青井に対し思ったからだろうか。

 しかし祇園の言葉ににやにやと笑う青井は、彼女の態度が照れているとしか映っていないように見えた。
 ……確かに、こんな夜にそこまでして「彼氏」のところに行きたいのかと、普通誰もが思うだろうな。そう思った祇園はため息混じりに呟く。
「中学の時の後輩です……それだけですよ」
 美幸あたりにも、それだけの関係で、あんなに――と何度も言われてきたのだが、それが真実なので他に言いようもない。

 ――どうして早海もこんな風に周りに誤解されても、五年間の空白があっても、昔のように「祇園」でないと駄目だと言うのか。 いっそ教えて欲しいと尋ねたが「告白」で返されてしまい、祇園はどうしてよいのか益々分からなくなってしまったのだ。

「それだけで行きたいなんて言うかー?」
 生憎、青井にもそう言われてしまった。
 がっくりと来た祇園は、隠しているものの自分の気持ちに何も気付かない男が憎らしくすらなり、酔った勢いもあって彼の広い背中をぺしっと叩いた。青井はまた声を出して笑うと、二、三歩前に踏み出した。

 それからまた、二人は他愛もないことを話していった。
 優しくて、いつも明るくて――祇園は青井と話している時間がとても好きだった。だが彼が、自分との特別な時間を楽しむために外に出たわけではないと知っている。

 二人で歩いている内に、昼間サンプリングを行っていた川原に、いつの間にか辿り着いていた。
 そこで遠目に早海の焚き火を確認し、祇園は残念な――と言うよりはある種、妙な罪悪感や緊張感が広がった。

 青井の前で、彼と居るところを見られたくない。
 逆に彼の前で、青井と居るところを見られたくない。

 宿を出るときはそこまで考えなかったが、そんな変な焦りが祇園を襲った。

 早海は自分にとって邪魔者ではなかったのか?
 それはどちらに対しての罪悪感なのか。どちらに何を見抜かれることを恐れているのか――。

 祇園には、分からなかった。だが、早海と自分が何の関係もないことを青井に証明する為にも、祇園は彼と一緒に川原へと降りて行かざるを得なかった。
 川原は暗闇だったが青井がライトを持っていたことと、早海が焚き火を焚いていたこと、梅雨にしては珍しく満月に近い雲ひとつない夜だったことから、夜だがその姿がぼんやりと確認出来た。
 早海が二人の姿を確認し、ライトを消して持っていた本を閉じたのが祇園にも朧気に見えた。斯波研の誰かがたまに此処に来ることは予想していただろうが、それが青井と祇園の組み合わせであったことに、彼はやや驚いたような顔をしている。

「お疲れさん」
と青井が持ってきた差し入れを早海に差し出し、
「ありがとうございます」
と彼はにっこり笑ってそれを受け取る。

 そのやりとりを見ながら何故かひとりでひやひやしてしまっている祇園であった……。

 

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