第38話 もしかしたらの神様(後編)
誰かが言葉にしなければ一生隠し通せたかも知れない感情が、言霊として命を持ち、とめどなく溢れ出して少年を飲み込んでいく。
たった一言、「もしかしたら」と仮定されただけなのに。
その後に言われた、「もしかしたら相手も同じ気持ちなのではないか」という仮定までもが、少年の胸を鷲掴みにし、本当は昔からそれが事実であったかのような優しい幻覚で惑わせる。
その時、ぽろり、と少年の眼から涙が零れた。
一度落ちるとそれは止まらない。物心ついてから泣いた覚えなどなかった少年であったが、溢れ出した熱いものはとめどなく流れ落ちてくる。
――その日彼は、何年かぶりに、大声を上げて泣いた。
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……そして、泣いて、泣いて、泣いて――。
どれくらいの時が経ったのか、少年は泣き腫らした眼の上に冷たい氷嚢を乗せ、暗い自分の部屋に寝転び考えていた。
自分の気持ちが、父親の気持ちが、祇園の言うとおりであるかは早海自身にも分からない。
だが一度それを認めて泣いた彼は、何処かすっきりしていた。そして実はプライドの高い彼は、こんな醜態はもう二度と晒したくないとも思っていた。
八つ当たりだと言われても、人の隠していた気持ちを暴き出すような、「もしかしたら」のまやかしを見せた、あの少女が憎いと思った。こんな気持ちにした彼女を恨んだ。
逆にそうして憎む「対象」として「彼女」に感情のベクトルを向けることでしか、自覚したこの深い寂しさを葬り去ることが少年には出来なかったのだ。
こんな気持ちになってしまった自分を消し去ることが、他の方法では出来なかった。早海は彼女の所為で、無理矢理そんな気持ちにさせられたことにした。
だからその原因である彼女にこの寂しさを埋めさせようと、彼は密かに歪んだ心の内に決める。
余分なことを言わなければただの憧れの先輩で終わったかもしれない少女は、この日から彼にとって忘れられない存在となる。
己の心を残酷に破壊し、まやかしで包んだ者として。やはり唯一の己の心に触れてきた相手として。
「もしかしたら」の魔法を行使した、絶対的な存在として――。
そのように自分を操られたことが悔しく、だからこそ早海は次の日から再び元通りの笑顔に戻った。絶対に彼女にだけは、昨日あのように寂しさから泣きじゃくったことを悟られたくはなかったからだ。
祇園は昨日の出来事で早海を怒らせたのではないかと緊張していたが、彼の態度がいつもどおりに戻っていたので、安心したようであった。いつもと変わらず、その軽口に応じ、彼を怒鳴り始める。
よって昨日のことは気のせいか、と彼女もまた早海を失いたくないという深層心理から、その気まずい出来事をなかったことにしようとした――彼女への彼の笑顔の裏側が、もう昨日までと違うことも知らずに。
自分がされたように、いつかその清らかな心を破壊してやろうと、彼が抱いた黒い願望も知らずに――。
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「って、俺が一年の時の話、覚えてねーだろ」
早海は祇園の頭の上で苦笑した。その腕は、現在の大人になった彼女を閉じ込めている。
「えっと……は、早海が急に不機嫌になってびっくりしたことがあったのは、なんとなく、覚えてる……」
パニックになるとよくわからないことを直感のままに口走ってしまう癖を反省する祇園だが、ここまで彼の感情を左右し、五年間も自分を想わせ、執着されることになるとは思わず、ただ驚くばかりであった。
「ご、ごめんね……」
その太い腕に触れながら、身を小さくして謝るが、彼の嘲笑がそれを一蹴する。
「今更」
祇園は益々居たたまれなくなる。そして彼を傷つけ続けた自分は、彼により何をされてももう仕方ないのだな、と観念もしていた。早海の話は続く。
「今度は、俺が祇園のことを滅茶苦茶にしてやりたい、ゼロになるまで壊したい、俺がそうされたみたいに祇園も俺じゃなきゃ駄目なようにしてやりたい。そう思っていつかどうにかしてやろうってまとわりついてたし、だからこれでもかってほど、優しくした。逆にもしかして俺のこと好きなのかなって、馬鹿みてーに期待したこともあった。実際、こっぴどくフラれたけど」
三年の終わりの昇降口での出来事を思い出し、祇園は再び罪悪感で首を竦め、慌ててフォローする。
「き、嫌いじゃなかったよ? なかったけど――恐くて……。私なんか、男の子に好かれるわけないって思ってたし。早海だって冗談みたいにしか言ってなかったし、引越しもするし。これで終わりになるから、それが寂しいから、最初からなかったことにしようって……その時は、そう思ってた」
だが、今は違う。今度は勇気を出して彼を求めようと思いやってきたのだ。それを証明したく、祇園は早海の方を振り向くと彼の胸のシャツをぎゅっと握る。
「ほ、本当は、その頃から、好き――だったかもしれなかった。だから、恐くて――」
まるで今更の言い訳のようであるが、彼女がそう口にすると早海は苦笑して彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そしてその上に顎を乗せると、今一度彼女を抱き締める。
「うん、分かる。でもそん時は俺もガキで分かんなかったからさ、」
――祇園が彼の前から姿を消した後、早海の身体が成長期に入る。高校に入る頃には彼も急激に背が伸び、同世代の女子の殆どを見下ろすようになっていた。
精神面、外見、両方の変化から高校生になってからは、中学生までと女子の男子への態度が違うということを、彼も周囲の少年と同様感じ取る。
それ以外は彼を取り巻く状況は変わらないままであり、そのまま祇園の居ない日々を送ろうとしていた――が、それは出来なかった。そしてそれはあの少女以外為しえない、と幾人もの女子と知り合い付き合うこともあったが誰もその穴を埋めることが出来ず、余計にそう確信するようになっていた。
欲しいのに、彼女は自分を拒絶した。自分の前から何も言わずに姿を消した。
――会いたくとも、会えない。
その鬱屈とした日々は、早海にとっては非常に辛く、今となれば忘れたいほどである。
祇園のことを忘れようと、付き合っていた女を抱いたこともあった。そんなことをしても、尚更虚しくなるだけであったが。誰であろうともあの時のように彼をあっさりと切り崩せるような、そんな絶対的な存在は現れなかったのだった。
そう思うことと実物の顔が見えないことで感情は悪循環となり、彼女の存在は彼の中で神格化されてしまい、より絶対的なものとなる。
「それ」でなければならない、と彼は何かに取り付かれた様に思い込み、そんな気持ちになってしまうことに苛立った。
何故ならその存在は自分の前から去り、手の届くところにはないのだから。だからそのジレンマを忘れようと何度も何度も試みたが、結局はどうにも出来なかった。
その苛立ちから心がささくれ立ち、父親との関係が希薄であったこともあり、早海も当時は人には言えない後ろ暗い行為もしていた。しかしあの真面目な彼女にもう一度会いたいならば、胸を張れる生き方をしていなくてはならないと何処かで思っており、警察の世話になるような犯罪には手を出さず、ただ攻撃的に、悶々と日々を過ごしていたのであった。
「そん時は、思い出したくも言いたくもないくれえに荒れてたけど、ある日ふっと、思ったんだ。祇園に会いたいって。それ以外に、もうスッキリする方法はないって。――だからもう、諦めて従うことにした。そうやって認めた方が、楽になれるってようやく気がついた」
意地を張っていた高校生時代だったが、ある冬の終わりの夕暮れ時。
あの日拒絶されたのと同じ、誰も居ないオレンジの色彩に染まる昇降口で、彼はふと彼女の幻影を見て、自然にそう思った。
後は以前に説明したとおり。一度口にするとその言葉は命を持ち、彼はその覚悟をあっさりと固めることが出来た。
既に早海も高校三年生。彼女にもう逃げられないよう、将来的なことも考え大学を追うことにした。様々な手段で調べたところ、彼女の通うことになった大学が近県の国立大学でレベルの低くない総合大学であったのは、彼にとっても幸いであった。
また父親や学校の世話になりたくない一心で、心が荒れていても学校の成績は悪くなかったため、それほど困らずに受験も無事終わる。
そしてようやく再会出来た彼女は――、早海がここまで悩み苦しんだにも関わらず、あの日から変わらない、「少女」のままであったのだ。それには愛しさを通り越し、いっそ呆れてしまうほどに。
だが彼女が変わらないで居てくれたことには、自分の長年の想いを否定されたような気分にはならず、そこには安堵した。
呆れ返って、ほっとして――彼は久しぶりに、心から笑った。
そして散々笑った後、少年の時よりも激しい憎悪のような愛情のような感情を、彼女に対して改めて抱いたのであった。
再会した後は、己の方に眼を向けさせようとして、彼は彼女にひたすら優しく接する。
彼女は別の男のところに逃れようとしたが、それが出来なかったので、彼を求めるようになっていく。そしてその気持ちが彼の思惑通り次第に能動的なものになり、五年間や否定していた当時の想いまでも彼女は肯定するようになる。
彼の望みは叶い、彼女は彼女なりに早海により心の中の何かを壊され、新しいものを構築したようであった。
そして大人になった今は、「身体」と言う確かなものをこうして寄せ合うことですれ違っていた二つの想いを徐々に重ね、ようやく今、一本の線に繋がろうとしていた。
欠けていたパズルのピースを全て埋め、相手の気持ちを理解し、二人でそれを現実に共有しようとしている。
――ただ、傍に居たかった。
五年も掛かったが、本当はずっと互いにそれだけを望んでいた。「それ」以外に代わりがないと、互いに愚かなほどに妄信して。
「だから、私も会いたかったって、言ったじゃん……」
申し訳ないように祇園はそう言うと、早海の憎悪も含んだような深い想いは少々恐くはあったが、それでも今度こそそれを受け止めようとその胸に寄り添った。
ほんの小さな願いが子供のままであった二人を何年も苦しめ、渇望させていた。互いに「もしかしたら」で始まったほんのひとひらの幻想が、ここまでの深い想いになってしまうとは、その時、二人共に思わなかったことであろう。
何が二人にとって正しかったのか、誰にも分からない。
――だが、今はその存在が、もう腕の中にある。触れられる距離にある。
まだ足りないものはあるかもしれないが、そのように信じられるもの、心を解放するものがあり、それを手に出来たことは、孤独であった二人にとって幸運であり、「救い」と呼べるものではないだろうか。
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