中庭では枯葉が冷たい風に舞う。十一月の終わりの今はテスト期間でもなく、放課後は殆どの生徒が部活動に参加している。
中学校の放課後の図書館には人がまばらであったが、当番である祇園と早海は閉館時間までは大人しく座っていた。閉館時間が訪れると、利用者人数などの日誌を書き、担当の先生に提出して帰宅するという日課になっている。
その間も、開館中は生徒の邪魔にならない音量と頻度で、閉館後は憚ることなく祇園に話しかける早海。
無表情で必要以上に他人に干渉せず、反面、言葉少なでも面倒見はよく、他人の感情にも敏感な彼女の隣は彼にとって居心地がよかった。自分に眼を向けて欲しいということもあり、常に話しかけた。他の友達といることも楽しかったが、彼女の傍はまた違った温かさを感じていたのであった。
そして「その日」の放課後。当番日誌を書きながら、祇園が珍しく早海に話し掛けてきた。
「期末テスト終わったら三者面談だよね。日程決まったら一年の方、取りまとめて。それで当番組むから」
委員長としての仕事を真面目にこなす彼女は、いくら邪険にしていると言っても必要なことは早海にも指示を出している。彼は軽く見えても頭がよく責任感もあるので、一年生全体の取りまとめなどは祇園も彼に任せているのであった。
「はーい」と彼は答えた後、頬杖をつき、彼女の動かすシャープペンシルの音を聞きながら思わず嫌そうに呟いた。
「三者面談、かー……」
祖母が亡くなってからというもの特に、三者面談と家庭訪問は早海にとって大嫌いな学校行事となった。授業参観など、通知を見せたことすらない。
自分のことを何も知らず興味もないであろう、あの父親と親子ごっこを人前でするなど真っ平御免である。幸いにも彼は人間関係を円滑にするため品行方正をモットーとしていたため、得意の天使の笑顔で、「父は急に仕事が入りました」などと嘘をつき切り抜けたことも数度あったが、度重なれば教師もやはりそれは困るということになるらしい。
家に教師から電話が掛かってきていたが、父親は冷たく、「学業のことは学校に一任します」と一言。若い教師は早海の成績も優秀であったため言い返すことも出来ず、益々困っているようであった。
夏の三者面談はそうして電話で済ませたが、冬はどう切り抜けるかと十三歳の少年は悪知恵を働かせていたのだが――。
祇園と二人きりでいることで気が緩んだか、ふとそんなことを考え始めてしまった早海のことを、日誌を書き終わった彼女が切れ長の眼でじっと見ていることに彼は気がついた。
シャープペンシルで顎を掻く、三年生にも見える少し大人びた顔立ちの彼女は、真っ直ぐに早海を見ている。
「終わったんですか? じゃ、一緒に帰りま――」
「親父さん、来れないの?」
中学二年生の女子らしくない呼び方だが、彼女は家で父親をそう呼んでいるのだろう。祇園は早海の方を見たまま、少し首を傾けた。
早海は一瞬返す言葉が出てこなかった。彼女の察しのよいところは早海も気に入っていたのだが、それが裏目に出たらしい。
確かに、最初に「おそろいですね」と彼女に言ったのは彼の方だ。その言葉通り父親しかいないという「同属」の仲間として、今の彼女は彼を見ていた。
「そーだよね、無理に学校も呼び寄せないで欲しいよ。うちの親父さんなんて、来ても何言ってくれるわけでもないし」
シャープペンシルを片付けながら偉そうにぶつぶつと呟く祇園に、早海は早くこの話を終わらせたく、彼女の言葉を遮るように吐き捨てた。
「どーでも、いいから!」
聞いたことのない早海の声と見たことのない顔を顰めた表情に、祇園はきょとんと彼を見た。いつもなら相手に無関心を決める彼女であったが懐いてくれた後輩に、そして同属に、流石に少しは同情心も湧くのかいつもと違う彼が気になるようであった。
また彼女にもまた彼を特別に思う気持ちが少しずつ芽生え始めていたのかもしれなく、まだ精神的に幼さの残る十四歳の少女は、心配になったことをついそのまま口にしてしまった。
「もしかして――親と、上手くいってない?」
早海の様子からして、まさか虐待ということまでは彼女は思っていなかった。中学生の思考では、同性の親に反抗しているのだろうというくらいの考えで、そんな一言を口にしたのであった。
「べっつに、関係ないだろ!」
早海は祇園から顔を背けると再び乱暴に言い捨てる。いつものわざとらしいほどの丁寧な口調でないことが、「異常」を彼女に知らせていることにも気付かないほど、彼はこんな話題になってしまったことを焦っていた。早海とて、まだ幼い少年に過ぎないのであるから。
それに彼は幼い頃から家族に大事にされていた祇園と違い、自分の家庭が上手くいっていないことを「恥ずかしい」ことだと思っている。
他の人間に対してはそうでもないが、憧れの、そして似た立場の祇園にだけは劣等感を抱き、こんなみっともない自分は格好悪いから知られたくない、と思っていたのであった。
しかしその日に限って祇園は、様子の違う早海が気になるようでおせっかいにも言葉を掛ける。再び彼に元のように笑って欲しいと、寂しがり屋の少女もまた焦っていたのかもしれない。
そして早くこの嫌な話題から逃れようとする少年にとって、決定的な、瞬間が訪れる――。
「もしかして……さみしかったり、する?」
早海は弾かれたように祇園を見た。
その胸が激しく波打つ。
ずきり、と。
その時の早海の表情を見た祇園は、直ぐに「しまった」、という顔をした。自分が「同属」なのに「禁句」を言ってしまい、踏み込んではならない領域に入ってしまったことを今更悟ったのであった。
『もしかして――』
祇園の口にした「その仮定」は、少年が今まで笑顔で隠してきたもの。
彼の家では親戚付き合いもない。だから「強いね」と褒めることはあっても、周囲の誰も早海に確認してやることはなかった、その一言。
なんということのない、ふとした会話の中でそれをあっさりと口にされ、無防備だった心をえぐられた。
――うるせえ! そう言おうとした声も張り付いて出てこない早海の強張った表情に祇園は益々焦り、墓穴を掘るようにフォローを続ける。
「い、いやでももしかして、早海の親父さんも、早海と同じかもしれないじゃないか。どうしていいか、分からないだけかも、しれないじゃないか――」
――やめろ――!
そう、思うのに言葉が出ない。唇が震える。
それは彼の心が、ふわりと何かに攫われたからであった。それは何処か、甘い誘惑にも似ていた。
「もしかしたら」の言葉に包まれた、今まで想像もしたことのなかった、「仮定」という名の幻想。
彼女の言葉が創り出した、有り得ない、見たこともない、自分や自分の父親の弱く温かな姿が、早海の胸の中に急速に広がる。それはまるで、波紋のように。何もなかった乾いた場所に初めて水が、色が、染み込むように。
一人で生きてきたつもりであった。幼少の頃から。それが当たり前だと思っていた。
それが――「さみしかった」?
そして、父親は?
母親がどれほど男の影をちらつかせても、彼は女性の影は見せなかった。それは今でも変わらない。他所で何をしているかは分からないが、外泊はほとんどせずに、家に帰ってくる――男。
何が、真実なのか。
それが、真実なのか。
自分は、何を信じたいのか。
本当の自分は――何処に在るのか。
この世で自分以外に、唯一信じられるかもしれないと淡い期待を抱いていた少女に、脆くも崩され、そして創り上げられた幻想。
信じかけていた彼女の言葉だからこそ、呆気なくまやかしに心奪われた十三歳の少年。
絶句してしまった早海に、余程まずいことを言ってしまったかと祇園の方が驚く。純真な少女の心に少年の黒い影が映ったか、正直と言う残酷さで見えたそれを口にし、少年に現実を突きつけてしまった。
そしてそのことから少年は心の中で、憧れだった筈の少女を今は滅茶苦茶にしてやりたい、その心を踏み荒らし、汚してやりたいとすら思い始めていた。
早海が彼女にどう言えばいいのか迷い、いっそ実力行使に出ようかと衝動にすら駆られたその時――、
「おーい、まだ残っているのかー?」
担当の教師が、姿を現した。
緊迫していた空気が一気に解け、祇園はほっとしたように、「あ、今帰ります」と立ち上がる。早海もはっと目覚めたような表情をした後、濁った視線を祇園から逸らした。そして、
「おれ、先帰ります」
といつもの軽さなどなく、ぼそりと言うとその場から走り去っていった。
祇園は呆然とそれを見送るばかりであった。
・・・・・・・・・・
祇園の傍にはこれ以上居たくない、と早海は思った。だが一人になり何かの感情に飲み込まれるのも恐く、そのまま終わりかけていた部活に参加する。いつも以上に明るく笑い、一心不乱に走った。
それでも晩秋の日はすぐに沈み、木枯らしの吹く薄暗い中、皆それぞれに帰宅していく。
それこそ同じ学校には、寂しいからと夜の街に繰り出す荒れた上級生も居たが、彼はまだそこまでには至らなかった。
暗い家に足を向ける。
帰りたくはなかった。だが、「何か」を確かめたかった。
真っ暗な、家。には、誰も居なかった。
今日も、昨日も、一昨日も、明日も、明後日も、一年前も、それより前も――闇が其処にあるだけ。
くらり、と目眩のような絶望に彼は力なく膝をつく。
やばいと思ったが、もう遅い。
子供の頃から押し殺してきた、自分でも気付かなかったひとつの感情が、祇園の言葉をきっかけに、胸にじんわりと哀しいくらいに広がってしまう。
――寂しい、と。
そう今、初めて思った。
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