※不倫など家庭不和を取り扱う表現がある章ですので、予めご了承ください。
決して安くはない一泊の料金が表すように、一人で泊まるには広すぎる部屋は静まりかえっている。その静寂の中、緊張に高鳴る心音が祇園にはやけに大きく感じられた。十分ほどの時間が一時間にも思える。
ふと先程の電話は夢ではないか、とすら思った時、静寂は、破られた。
閉められた襖の向こうのドアを、ノックする音。
この旅館でアルバイトをしている以上、声を出すのが憚られたのか、同時に手元の携帯電話にメールが届き、「彼」が部屋の前に居ることを知らされる。
――来た!
何かが始まる予感がし、祇園の胸が更に波打つ。足をもつれさせながら立ち上がると、慌ててドアを開けた。
「――」
笑顔で其処に立っていたのは、彼女が誰よりも会いたかった男。
祇園は一瞬、中学生の時の小さな彼を思い出そうとしてみたが、大きな手が素早くドアを閉め鍵まで掛けたことに視線が奪われ、残像は消えた。
「すみません、あんまり汗かいてたんで、流すだけしてきました」
それに突っ込む隙を与えず、そう言った早海の黒く短い髪はまだ湿っており、ふわりと石鹸の香りが漂った。祇園が入浴した温泉にあったものと同じものだろう。
「入っていいですか?」の彼の問いに、「ど、どうぞ」と、追い返すこともなく祇園はぎこちない動きで部屋へと戻る。冷房の為完全に四方を締め切った状況は、まるで自宅の部屋に案内したかのような雰囲気である。
入ると同時に部屋の真ん中に敷いてある布団が視界に入りどきりとする祇園だが、一人では広い部屋のこと、早海はそこから少し離れた場所に腰掛けると壁に凭れた。その様子に少しほっとしながら、その横にちょこんと座る。
お茶でも要るかと、また立ち上がろうとする彼女に、「あ、おかまいなく」と笑う早海は、昼間の動揺したような子供っぽい表情や、本性を露にしたよう乱暴な態度は何処へやら、いつもの愛想だけがやたらよい飄々とした姿に戻っていた。
安心したように小さく息をつきながら、祇園はもう一度腰を下ろす。しかしそんな彼女の耳に聴こえてきた言葉は、再び彼女をどぎまぎさせるに十分なものであった。
「でも、本当に来るとは思いませんでしたよ」
早海は両手を頭の後ろに回すとまた苦笑して、ちらりと祇園の方を見た。
「……め、迷惑だった?」
「いや、全然。寧ろすげえ、嬉しい」
彼はそう言うと更に、
「こっちも意地になって連絡しなかったんですけど」
と言いつつ本当に嬉しそうに、眼を細めて笑う。
この臆病で意地っ張りであった祇園がこんな行動をとるとは、いつの間にかそんなに彼が好きだったのかと彼自身に見透かされているように思い、彼女は恥じらって俯いた。
しかし此処まで追いかけて来たのも、彼を二人きりの部屋に招き入れたのも、己の選択したことであるとも彼女は自覚している。だからこそ何も言い返すことが出来ずにいた。
――会いたかったから。
答えはその一言に尽きるのだが。
恥ずかしくてそれが言えない代わりに、祇園は少し不安げに相手を見上げた。二人の眼が合う。
早海はじっと祇園を見ていた。祇園の訴えかけるような視線が珍しいからだろう、言葉にしない想いを探り取ろうとするように。
彼の腕が彼の頭から離れ、胡坐をかいている脚の前に置かれた。重心が前に傾き、祇園の方に顔が近づく。
――伝わってしまっただろうか。
そうあって欲しいような、知られたくないような不思議な感情を抱く祇園は、近づいてきた早海に思わず身体をびくんと震わせる。
彼はそれを見るとまたふっと笑い、その腕を組みながらもう一度壁に凭れ直した。そして、一言。
「なんで、此処まで来たの?」
……また敬語じゃないし、と祇園は心の中で突っ込みつつ再び俯いた。
今の視線で分かって欲しいのに、と彼女は早海に対し心憎さを感じながらも、確かに彼に己の想いを告げる為に此処まで来たのであり、今度は自分から言う番だとも思っていた。しかし彼にもまだ、祇園に教えてくれていないことがある。
それはどちらも、二人の最後のパズルのピースにあたるものだ。
どちらが先に必要かは、この絵を描き終えるのに関係ないだろう。確かに彼は一度、祇園に会いたくて大学まで追ってきたという話をしてくれているが、「どうして彼がそうしたかが分からないから」と祇園は自分の想いを告げていない。
しかし祇園とて理由などなく、会いたいから此処に来たのだ。
それだけが互いにとっての真実。それを認めて、勇気を持って口にするだけのことだ。
たかだか恋愛、であったとしても、それでも奪われれば苦しく狂おしくて息が詰まるようなものであり、何よりも大切なものであるのだ。
祇園の顔は疾うに熱く、赤くなっていた。胸の高鳴りは痛いとすら感じるほどに。
それでも、言わねばならないと思った――自分が、もう二度と五年前のようなやるせない想いをしない為に。
変わる、為に。
「は、早海に――あ……、」
彼女は震える声を発しながら、斯波の言葉を思い出す。
「……あ、い……」
『「会いたい」の「あい」は――』
「会いたかった、から……」
それは、原の感情。
五年前からの、少女の切望。
――傍に居たい! もう二度と、離れないで!
遂に想いを告げた祇園は早海の顔など、恥ずかしくてとても見られない。たった一言のこれが、生まれて初めて心から欲した男への「告白」だと思っていたからだ。
「それ、だけ、だよ! わ、悪かったねっ」
もしかしたら、相手に嫌がられるかもしれない、その不安からわざと口汚く言い終えた祇園であったが、早海の顔が更に近づき、どきりとする間もなく細い肩の上にこつんと彼の額が置かれた。
「は……」
「――良かった」
「……」
深い安堵のため息と共に呟かれたのは、おそらく彼の心からの本音であろう。
どうにか会いたいと、途中諦めようとしながらも足掻き、結局五年もの間追い求め続け、手をすり抜けられながらも、それでもその手を伸ばし続けた少年の。
まるで泣いてしまうのではないかと――実際彼は笑っているようであったが――思われたその声に、祇園は思わず「ごめんね」と呟こうとしたが、彼の腕が自分の背中に回り、強く抱き締めてきたので、それに焦ってしまった。
「ま、待って……!」
隣には敷かれた布団。二人きりの部屋。彼を追いかけてきた自分。気持ちの高ぶった彼。
この条件が揃えばどういったことになってしまうか祇園にも想像され、今度こそ最後まで結ばれるとすれば、尚更うやむやにされたくないと、彼女は彼の胸を押した。
「早海こそどうして、『良かった』って思うの……?」
下から覗き込む祇園の真剣な視線に、早海も顔を上げると彼女を見下ろした。
「どうして、『私』なの? どうして、私なんかを、五年もずっと――ううん、五年も経ってたのに、今更……」
「じゃあ祇園さんは、どうして『俺』だったの」
肩を掴んで覗き込む彼の問いに、祇園はやはり眼を泳がせてしまう。
――少女であったあの時、とても寂しかったから。その時に己を受け入れてくれ、誰よりも自分を理解し、必要としてくれるふりをしてくれた、ただ一人の相手だから。
どれだけ邪険にしてもめげずに懐いてきた後輩に、母親が死に父親が忙しく、誰かにストレートに好意を投げ掛けられたことのなかった少女は、彼の優しさに心動かされてしまっていた。
その時の、もしかしたら自分が愛してもらえるかもしれないという幻想と憧憬、救われた悦び。祇園こそそれを五年間、ずっと引き摺っていたのであった。
この気持ちを「恋愛感情」と言ってよいのか、彼とこれからを過ごすことを望む理由には幼稚すぎやしないかと彼女はまた不安になり、言葉を噤む。
しかし早海にとっては、先程の「会いたい」と素直に言われただけで十分であったのだろう。彼は彼女の照れた様子に声も出さずに笑うと、祇園の身体を横向きに持ち上げ、胡坐をかいた膝の上にちょこんと座らせた。
「きゃ……」
祇園は驚いた声も出したものの、十日ばかりしか会わなかっただけなのに、ときめくと同時に身を寄せ合うことに安堵してしまう。
まるで人形を抱く男の子といった図で、彼は祇園を軽く抱くとウェーブでふわふわとしている黒髪に顔を寄せ、満足と観念した様子が混ざったような苦笑でぽつりと呟いた。
「なんでこんなに執着してんのかって……、かっこ悪い話だけどなー……」
だから話したくなかった、と彼は頭を掻いた。祇園はすぐ横にある早海の顔を見上げると、彼は珍しく少々渋い顔をしていた。
「しかも、祇園は覚えてねえみたいだし」
祇園が再びの呼び捨てにどきりとしながら、尚も眼を丸くした顔をしていると、早海は今度こそ大きなため息をわざとらしくついた。
そして忘れたくても忘れられなかった、彼にとってある意味トラウマであり何かを大きく変える瞬間であった、この女性に心を揺さぶられた日のことを、ぽつりぽつりと語り始めたのであった。
・・・・・・・・・・
それはある孤独な少年の話であった。
少年の両親は、どうして結婚をしたのか分からないほど不仲であった。少年が物心ついた時から喧嘩どころか、口をきいたところすら見た覚えがなかった。
仕事が遅くいつも家に居ない父親。それが寂しかったと他所に男を作った母親。幼い頃から三人で揃っていたことはない。それでも家に居る時の母親は優しかったような記憶が何処かに残っていた。
保育園に通う頃から母親の姿をほとんど家で見なくなり、少年のことは当時まだ生きていた祖母が面倒を看ていた。
父親は仕事、母親は不倫、自分の面倒を看るのは祖母、という図式が、寂しくはあったが何も分からない少年の頭には、心が押し潰されないよう「これが自分の家庭の当たり前」として、自己保身のために刷り込まれていった。
不倫という言葉は知らなかったが、母親が父親以外の男と会っていることは、近所の噂や祖母の話から聞かされていた。
「その」事実が彼を取り巻く世界の全てであったので、驚くことはないものの、周りの友達は父親と母親と揃って過ごしているようであったので、自分の家が「おかしい」のだということにやがて少年は気が付く。
しかし彼は賢い子供であった。自分の家が変だということは、苛められる可能性があるということにも気付く。
幸い、虐待をされているのではなく、生活環境だけは保護者によって整えられていた彼は、友達を多く作り、笑顔で敵を作らず、喧嘩に負けない身体を作り、誰の問いにもすぐ答えられるよう勉強にも励むことで、周りから苛められることもなく学校では皆に好かれて過ごすことが出来た。
時に酷い事を言う子供もや大人も居たが、友達が庇ってくれるなど、環境にも恵まれた。少年は放課後が近づくと、家に帰ることを内心では嫌がるようになってきた。
彼自身、冷たく暗い雰囲気の誰にも相手にされない家よりも、学校で笑っている方が楽しいと思えた。しかし毎日、夜になれば「現実」に戻らねばならない。
そんなある日、辛うじて一週間に一度は姿を見ていた母親が、全く家に帰ってこなくなる。
父親が珍しく少年に話し掛け、母親はもう帰ってこないと話をした。離婚したのだと幼い彼にも分かった。
彼は妙に納得していた。物心ついた時から彼女のことは諦めていたので、捨てられた、という絶望すら感じなかった。逆に不自然な「家族」であることよりも、寧ろ気を遣うことが必要なくなり安心した。
母は居なくなり、祖母は徐々に年老いて行き、少年はいつか自分は一人で生きていかなければならないだろうと悟り、家事全般をすることを覚えた。
生活費だけは父親が祖母に与えていたので、年を取った彼女に代わって彼はそれをやりくりしていた。それは彼にとって自分の糧の全てであり、自分で食事を用意せねば自分の命は守れないという本能が働き、子供らしい玩具などに消費したり不良行動に走るということは、一切なかったのである。
そして小学校高学年に上がる頃、祖母は病気で亡くなった。末期癌であったという。
最後まで少年の面倒を看ようと、苦しさを我慢していたらしい。今まで優しく育ててくれた彼女には、彼は心から感謝した。
父親と二人きりになった家は、益々冷たく感じられる。綺麗好きな父親は、ハウスクリーニングは定期的に発注しているようで広い家はいつも美しかったが、人の生きている気配は常に感じられなかった。
がらんどうの暗い家に、最後は帰らなくてはならないという、底の見えない孤独と恐怖。
少年はそれに耐えられず、家に帰るのが嫌だとテントや飯盒を上手に溜めた貯金で買い揃え、よく遊んでいる広い公園で野営などする始末であった。
外で虫の声の中、星でも眺めているほうが余程心が慰められた。毎日ではなかったといえ、今思えばよく警察の世話にもならず、暴漢に襲われたりしなかったものだと、後に彼も思い返すのだが。
中学校に入学し、少年の身体は少し大きくなった。しかし成長が人より遅いのか、成長期を迎える少年達の中、声変わりもせず相変わらず可愛らしい容姿のままであった。それでも父親の身長は高かったので、そのうちもっと大きくなるだろうと彼は信じていたのだが。
だが成長が遅れていたことは、運が良かったかもしれない。中学生になれば、荒れる少年も出てくる。彼もまた身体の変化の中で、何か言い知れない憤りや衝動のようなものも感じることもあった。
しかし人に不要とされたくない、という切実な願いがあるからか、彼がそういったものに身を任せることはしないでいた。
――そんな彼がまもなく出会ったのが、無表情なひとつ年上の少女である。
見目の可愛い女の子と付き合いたい、などそういった色気のあることをまだ考えない幼い彼は、図書委員長として真面目に委員会の仕事をし、後輩である自分や皆の面倒を裏表なく看ている彼女に、直ぐに好感を持った。
もしかしたら、彼の家で欠乏していた「母性」を彼女に求めたのかもしれない。冗談のようにわざと怒らせることを言ってみたり、素直に好意を示して照れさせてみたり、と気を引く為に常に彼女に話し掛けていた。
話せば話すほど、人と少し違う彼女の反応を可愛らしく思い、楽しみにするようになった。
それだけでなく、何処か彼女は自分の心の奥底の暗いものを察知してくれているような、そんな瞳で時折自分を見るような気がしていたのであった。
二人きりの――と言っても彼がペアになるよう仕組んだ図書当番の時に、偶然彼女が小学校高学年の時に母親を亡くしたという話になった。
「おそろいですね」
少年――早海は、嬉しそうに笑った。何処か遠くを見るような眼で。
ああ、なるほどな、と彼は納得する。だから自分は彼女に惹かれ、彼女は自分のことを他の人よりも分かってくれるのだろう、と。
その同属意識が彼に益々、彼女を愛しく、そして手に入れたいと思わせた。
――もしかしたら、この優しくお人よしな子ならば自分のことを見放したりせずに、最後まで大切にしてくれるのではないかと。
少年はいつしかその少女に対し、淡い期待を抱くようになっていた。
そのほんのりと温かな気持ちが、現在の憎悪にも似た執着に変わったのは、少女と出会ってから半年ほど経った晩秋の、ある何気ない彼女との会話がきっかけだった。
◇拍手&簡易メッセ◇
個人サイト>碧落の砂時計TOP
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