美幸はそのままレポートを書くと言って隣に座ったが、これ以上彼女に突っ込まれる前に、アルバイトの時間だと言い訳をし、祇園はその場から逃げるように立ち去った。
しかしその祇園の後ろを、きっちり一メートルの距離を空けて早海がついてくるではないか。
五年前の光景が祇園の脳裏に過ぎる。しかしその後ろにいる者が、子供ではなく自分よりも背の高い青年であることが、奇妙にすら感じる。
……お前はストーカーか……!
と祇園は言いたくなるが、自分をストーキングしているのが胡散臭いほど爽やかな青年であり、またわけのわからないことは言うものの、プライベートな空間など、踏み込んで欲しくない領域は相変わらずわきまえているようなので、嫌悪感を抱いているというわけでもない。
「いつまでついてくるわけ……」
背後の早海に向けて、苛々したように祇園は言った。
「折角会えたのに、つれないなあー。まだ何も話せてないじゃないですか」
「話すことなんかないし」
「ありますよ? とりあえず俺のこととか」
そして彼は聞かれもしないのに、自分が工学部のナントカ学科の一年で、高校はどこそこを卒業して……ということを流暢に語り出した。
そのノリはやはり五年前と変わらないが、祇園はふと、その頃とは何か違う、と思った。
その口調は、子供の頃のお喋りな高い声とはまた違っていた。ゆっくりとした落ち着いた喋り方で相手に聞き入らせ、低すぎず、高すぎない声の響きには心地よさすら覚えそうになる。
――何者だ、コイツ……!
昔から妙に人を惹きつける力はあったが、大人になってまた進化したな、と祇園は思わずその天然タラシぶりにそら恐ろしくなる。
また彼女も、自分も少しは女性として成長したと思っているものの、基本的には見かけも中身も何も変わらないというのに、彼の変化は目まぐるしく、それには悔しさすら感じてしまう。
しかし祇園はそこでまた疑問を覚えた。ぴたりと足を止めると、今度はそれを口にする。
「……会って早々、よくそんな風に昔みたいに気軽に話せるね」
五年間の空白が二人の間にはある。しかも祇園は中学卒業と同時に県境の町に引越しをしているため、話をするどころかその姿を見ることも、彼のことを誰かと話題にすることすら一切なかった。
何より、別れ方もあまりいいものではなかった。あの日の事は、祇園にとってもう二度と思い出したくないものであった。
それなのに、まるで昨日まで一緒に居たかのように笑って話す彼が、祇園には不思議に映ったのである。
訝しげに眉を顰め自分を見上げる彼女を、きょとんと見下ろしていた早海であったが、やがて短く笑うと呟いた。
「……祇園さんが、変わってないから、だろーな」
その笑顔は、何故か酷く切なげなもので、祇園の胸まで痛くなり、聞いてはいけないことを聞いたような気になってしまった。一体この五年間に、彼に何があったのか――と祇園が少しばかり心配になるほどに。
しかし彼女はそんな感傷を誤魔化すように、眼を逸らしながら言った。
「か、変わってなくて、悪かったな! だったら、それでいーじゃないか。昔みたいに話せれば、それで。よりを戻すってそういうことじゃないの!?」
ただよく話をしていた先輩と後輩、二人の五年前の関係はただそれだけであった。
祇園のことをからかったのか、昔の「彼女」だとか、よりを戻すとか、どういう意図でこの男が言っているのかまるで彼女には分からないが、そういう悪ふざけも含めて、昔のように話せればそれで済むのではないかと祇園は思っていた。
「うーん、そう言えばそうなんだけど……、もっとこう特別で、既成事実みたいな確かなものが欲しいんですよね」
今の切なげな表情は何処へやら、早海は腕を組み、演技掛かったような困った顔をしてそんなことを言う。
祇園は「カンゼンニ、イミフメイナンデスガ……」と呆気にとられてそれを聞いていた。
……しかし……。
「もしかして……」
早海の言葉からふと思い当たった祇園は口を開いたが、その声に彼女の方を見た早海と眼が合ってしまい、その「仮定」に恥ずかくなった彼女は俯いて黙る。
――中学生の時はただ話をするだけの仲であっても、「特別な関係」と言えた。よく話をする男子とそうでない男子の差は子供には大きい。
しかし、大人になれば恋人でなくても二人きりで出かける時がよくあるようになる。第一、斯波研のメンバーは全員男性であり、光とも弥栄とも祇園はほぼ毎日、下手をすれば女性の友人よりも会話をしている。ということは……彼が求める「特別」だったり「既成事実」とは一体何を指しているのだろうか?
祇園は早海の言葉の意図を想像してみるが、もしかして、の後は恐くて口にすることが出来ない。
――もしかして、まさか、付き合いたいって、ことじゃないだろうな……っ!?
再会したばかりだが、一応顔見知りではあるので不可能なこともないが、わざわざ彼が自分にそんなことを申し入れる理由が分からない。
しかし一度「もしかして」と考えただけで、この相手を意識しそうになる。だからそんなわけないだろう、と祇園は必死にそれ以上考えないようにしていた。
そんな彼女の動揺を知ってか知らずか、早海は「とりあえず、」と携帯電話を取り出す。
「番号とアドレス教えてくださいよ」
にっこりと笑って言われたそれに、
「嫌、だ」
祇園は反射的に言い返した。
「即答ですか」
ちぇっと言いながら早海は携帯電話を閉じる。やはり意味不明な言動をする男から顔を背ける祇園だが、これくらいで尻尾を巻くような可愛げのある男ではない。
「そんじゃ伊藤さんとかに聞くからいーよ」
と早海はあの赤毛の光の名前を挙げるではないか。
「知り合いなの!?」
「んー。ちゃんと話したことはないけど、こちとら生協バイト生ですからね。顔だけは無駄に広くて……あの人も相当有名な人ですよね」
五年前の天使のような可愛らしい微笑みから、爽やか好青年スマイルとなったその笑顔でどこか含みのあることを言ってのける青年。確かに光ならば面白がって教えそうなところはある……と思い祇園はぞっとした。
「お前はストーカーか……」
「かもしれませんね」
どんな嫌味を言っても無駄に終わり、あっさり返されるうえに、挙句の果てにはストーカーだと軽く認められ、祇園は再び怒りが爆発しそうになった。しかし、
「でも、祇園さんがどーしても嫌だって言うんなら、やめます」
「……」
最後には優しい口調と苦笑で返され、返す言葉を失ってしまう。
――空気を読むとかいう問題ではない、と祇園は思った。
掴めないことばかり言う早海であるが、昔から祇園がどんなに口汚い言葉で冷たくあしらっても怒ることなく呑気に笑い、他人の心を傷つけるような言葉は絶対に遣わない。
空気を読むというスキルとは別に、彼はいつもどこか冷静で落ち着いていて、人に対して優しいのだ。
それは五年前から変わっていなかった。寧ろ彼は変わったように見えて、この部分だけは全く変わっていない。だからこんな風に、自分も直ぐに昔のように話せてしまうのだろう――祇園は今、そのことに気がついた。それにはどこか安心させられる思いになった。
だからと言って、どうすればよいのか、彼女には分からないが……。
祇園が困ってしまい眼を泳がせると、幾人もの学生が二人の横を通り過ぎていく中、正門の方向からひとりの男が歩いてきた。
「あ……」
それを見た瞬間、どくんと祇園の胸が高鳴った。身長は早海よりも少し高いだろうか。髪も彼よりは長い。落ち着いた、だけどどこか勝気な、自分よりも大人びた雰囲気を感じさせる男の姿を、祇園は二週間ぶりに見た。
その男は祇園の視線に気がつき、すれ違い様に手を上げた。
「よお。今日はもうお役御免になったか?」
笑ったその顔はやたら子供っぽく見える。彼が祇園を斯波研に引きずり込んだ時も、こんな風に悪戯っぽく笑っていたことを、彼女はいつも思い出す。
「バイトくらいは行かせてもらいますよ……」
祇園はその青年に、ふてくされたようにそう答えた。それはきっと相手には、斯波の相手に疲れているように聞こえるだろうが、内心はそうではない。
相手への知られてはいけない気持ちを隠すように、こういった無愛想な態度になってしまうだけであった。
「お疲れ。あ、明日あたり研究室に顔出すよ。常春堂のシュークリーム用意しとけって、弥栄に伝えといて」
冗談染みた口調で笑ってそう言うと、その男――斯波研、先代ゼミ長の青井はひらひらと手を振りながら理学部の第二棟へと歩いていった。
――はあ、と祇園はため息をつく。毎日会っていた頃はそうでもなかったが、久しぶりに話せるとなると、やたら緊張してしまう。
隣に早海がいたことは、なんとも思われなかっただろうか。美幸みたいに誤解しなかっただろうか。
祇園は心配になるものの、誤解されようがされまいが、この気持ちは届きはしないのであるが……。
そう思い、彼女が今一度ため息をついた時、「ふーん」と早海の小さな呟きが聞こえてきた。祇園はすっかりその存在を忘れていた彼の方を見上げる。
彼は青井の消えていった方向を、面白くなさそうな顔で眺めていたが、その不機嫌な視線を彼女の方へと向けた。
「今の人のこと、好きなんだ」
迷いのない断定と真っ直ぐな視線に祇園の胸がどきんと高鳴った。
「もしかして」と前置きすらしない早海の言葉から、穏やかであってもどこか強い信条を内に秘め、己の直感に自信を持つ様子が伝わってきた。そしていつも笑顔だった彼から、笑みが消えていることにもまた驚かされた。
二人の間に突如、緊張の糸が張り詰める。
――何言ってんの。好きだの嫌いだのって、子供じゃあるまいに。
祇園はそう言おうと思ったが、口が動かない。その指摘にただ恥ずかしさが込み上げ、呼吸すら不自然になり、早海の顔を身動きも出来ず凝視していた。
二十歳にもなろうというのに、なんでこんな中学生のような純情な態度になってしまうのかと、情けない気持ちで一杯になっていた。
それこそ青井への片想いのきっかけは、ちょっとした出来事からだった。
憧れの気持ちから始まり、気がつけばあの男の傍に居たいと思うようになっていた。しかし、既に仲のよい恋人の居る相手にそれは叶うことはない。奪い取ってでも、などと望むことはなかった。青井に嫌われたくないから、ただ黙っていようと祇園は思っていた。
それなのにこんな持ってはならない気持ちが、自分が未熟で隠せないばかりに皆に知られていき、祇園は悔しくて恥ずかしくて仕方がない。
「……すみません」
すると急に早海が謝ってきた。その顔は怒ったものから少し切なげなものに変わって、祇園を見ていた。
どうして?と祇園は思うが、それは彼女が泣きそうな顔をしていたからだということに彼女自身は気付いていなかった。だが彼が謝ったということは、それが図星であると祇園が認めていることに気付いたからだろう。そう思った祇園は、それを否定する為、重い口を開く。
「好き、なんかじゃない。青井先輩には、彼女がいるんだから……」
それは、祇園が何度も心の中で唱えてきた言葉だった。
自分でその想いを認めていても、他人がどことなく気付いていても、自分以外には認めてはいけない、と祇園は思っていた。
いくら「もしかしたら」と人に仮定を抱かれても、祇園自身が肯定さえしなければ、真実は誰にも分からない。彼女が他人に対しこの気持ちを認めないのは、巡り巡って青井本人に「もしかしたら」と自分の気持ちに気付かれてしまうことを恐れているからであった。
――避けられたくない、今の距離がいい。だから頼むから、口にしてくれるな。
口で嘘をつくことなど、なんでもない。いっそ嘘通りに、この気持ちが逝けばいいのに――。
そんなことを思いつめて呟いた祇園の言葉に、早海は少し驚いたように眼を見開いた。
横恋慕をしている女に呆れたのだろう、と祇園は思っていたが、意外にも彼はまた元のように笑うと嬉しそうに言った。
「じゃあ何も問題ないわけだ」
――何が!??
張り詰めた空気が消え去ったのはよいが、また意味不明のことを言い出す相手に祇園は愕然としてしまう。
そう言うと、不敵に笑った早海はスニーカーの足を祇園へと一歩踏み出した。よく分からないまま、思わず本能的に祇園は後ずさる。彼がそのまま口を開いて何か言う前に、祇園は慌てて叫んだ。
「ここここれからバイトだから! 家一度帰るから、もうついてくんなよ!? ついてきたら、ストーカーだってケーサツ呼ぶからなーっ!!」
そして彼女はぐるりと背を向けると、早海の顔を見ずに脱兎の如く駆け出した。
走りながら、彼女はぐるぐると頭の中で混乱する思いに翻弄される。
――格好悪い、と大人になりきれない自分を恥じる。自分はあの日と同じ、五年前と変わらず、逃げ続けているままなのだと。
彼女はそんな自分を五年前に置いてきたつもりであった。変わりたいと、思っていた。
それなのに、何故彼は現れたのだろうか。何故祇園に、そんな彼女を思い起こさせ、それを追いかけ、受け入れる「ふり」をしようとするのか。
そんなことをされたら、きっとまた「もしかしたら」と思い、その言葉に惑わされる。あの時無かったことにした筈の、「あの気持ち」を思い出してしまう――。
胸の中で二人の男の存在が入り乱れてしまった祇園は、それを振り払うように家までの二十分の距離を、スカートのまま全速力で走って帰ったのであった。
◇拍手&簡易メッセ◇
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