※時にR15レベルの性的な表現や、不倫、家庭不和に関する表現が出てきますので、苦手な方はご注意ください。(シリアスなシーンもありますが、ストーリー自体は明るく進行し、コメディ表現もあります。)
『もしかしたら……かもしれないじゃないか』
たったひとつの言葉が人の心の一番弱い部分に入り込んで、幻を見せる。
「なかったこと」を現実のように見せる。
それは、人をそんな風に惑わせる魔法の言葉。
五年前のあの日、少年を、少女を惑わせた言葉――。
・・・・・・・・・・
某国立大学内の新しい校舎が立ち並ぶ中。築三十年にはなるであろうにいつまで経っても建て直しの計画が無い、貧乏理学部棟のとある研究室にて……。
「だー、もー! お前ら邪魔! 何もしないなら出てけ!!」
肩までの軽くウェーブの掛かった黒髪を二つに分けて束ねている、ロングスカートに白衣姿の女性が、研究室内の青年たちに怒鳴りつける。
「何もしねえならって……そんじゃ今日のテーマは『美味しいコーヒーの淹れ方』ってことで。ゼミ長、コーヒー淹れて」
研究室の中央でだるそうに頬杖をつき、ノートパソコンを触っていた、両耳に五つのピアス、短い赤髪の青年が、小さく人懐っこい眼を彼女に向けて言う。
「誰が淹れるか! 第一、光、今日はホストのバイトとか合コンとか援交とかいいの!?」
手伝わない上に人を顎で使うなら出て行って欲しいと心から思ったその白衣の女が、赤髪の遊び人・光に怒鳴ると、
「そんじゃいいよ。弥栄、淹れてー」
光は祇園の質問を無視して、この狭い上に物が多い研究室では居るだけで場所をとる、身長一八〇センチをゆうに超えた横幅も広い大柄な青年に向けて要求する。
弥栄と呼ばれた青年は、アルバイト先の塾のテスト採点の手を止めるとのっそりと立ち上がり、三人分のコーヒーを淹れ始めた。
「……ゼミ長、ブラックでいい?」
「なんでも、いーよ……」
弥栄にゼミ長と呼ばれたその白衣の女・高野祇園は、マイペースな二人に頭を押さえながらふらふらと隣の実験室へと入っていった。
そしてセットしておいた分析機器の残り時間を確認するのだが――。
「たっだいまー! 愛しき生徒たちよ! お土産だよー!!」
隣の研究室でそれ以上にマイペースな男の声が響いた。
「おけえり教授ー」と言う光の声を聞きながら、いい加減彼らの相手をするのも疲れるので、このまま静かなこちらの部屋に居ようかと思っていた祇園であったが、
「祇園ちゃんー。おやつだよー!」
とその新しく入ってきた中年男があまりにもうるさいので、
「お帰りなさい……斯波教授」
彼女は渋々と狭苦しい研究室に戻るのであった。
今回はインドネシアの山奥に行って来たという、よく日焼けした四十代後半には見えない若々しさを持つ理学部教授・斯波がコーヒーを啜り、土産話の武勇伝を語るのを、何故か沖縄名物のちんすこうをお土産として食べながら、祇園は耳半分に聞いていた。
愛想がいい上に、女を口説くためだの携帯小説のネタにするためだのと言う光と、これでも将来は教師を目指しているという口下手の弥栄は、いつものとおり適当な相槌を打ちながら斯波の与太話を聞いている。
――その間に彼らの関係を説明しよう。
この大学では大体どこの学部でも三年生になると卒業のための所属ゼミを決めるのであるが、この研究室、通称・斯波研では特別に一、ニ年生をゼミ生として迎え入れていた。
しかし斯波研究室におけるその研究内容は、単位にも卒業研究にも関係ない。シーラカンスの飼育方法だの世界七不思議を探るだのという、まるで子供の夏休みの一研究のような、教授である斯波の道楽、いわば趣味の研究に付き合わされるだけのゼミなのであった。
昨年、前ゼミ長に騙されるようにこの研究室に所属してしまった祇園であるが、サークルに入る暇もないほどこの教授に呼び出される羽目となり、彼が飛び回って居ない間も謎の研究の代行をさせられている。
ニ年生の祇園と同学部の弥栄、そして何故か人文学部で同じくニ年生の光が、今年のこの斯波研のメンバーなのであった。
ちなみに五月現在、新入生は居ない……。
ふとこの先を思い、来年になってもまだ呼び出されたらどうしようかと祇園が軽くため息をついた時、
「そーいや駅で青井に会ったけどさー、」
斯波が口にした『その名前』に、彼女は思わずどきりとしてしまった。
「今度飲みに行こうって言ってたぞー」
斯波が三人を見渡して「前ゼミ長」からの伝言を笑って伝えた。
「あいつも要領もいいからなー。もう地元で就職決めたみてえだし」
元斯波研ゼミ長であり、祇園を此処に引き入れた本人、現在四年生の青井広太の地元は県外である。
斯波の話は前に本人から聞かされていたこともあり、予め覚悟はしていたものの、予想以上にがっかりする想いに祇園の心が逸り出す。
――前に会ったのは何週間前だったか……。
祇園が思わずその長身の青年を思い出し、ぼんやりとしてしまうと……、はたと気付けば、男三人が揃ってじいーっと彼女を見ているではないか。
やばい、と祇園は焦った。最近会えなかったからついうっかり顔に出てしまったか――?
彼女がそう思った時、光が口を開いた。
「……あれ? ゼミ長ってさあ、もしかして元ゼミ長のこ――」
「弥栄氏コーヒーお代わり!」
デリカシーのない光の言葉を遮り祇園は慌てて適当な言葉を叫んだ。
彼女に気を遣ったらしい弥栄もコーヒーのお代わりを淹れに行ってくれたが……今この瞬間、三人の心の中にひとつの仮定が浮かんでしまっただろう。
「もしかしたら、祇園は青井のことが……」と。
「もしかしたら」――ただこの一言でそれまで思いもしなかったことを意識するようになってしまう。今までゼロであったことでも、長年そうであったかのような錯覚を起こし、その幻想こそが真実であるかのように惑わされてしまう。
それこそ祇園が最初に、青井には彼女が居るにも関わらず、「もしかしたら自分は」と己の気持ちに気付いてしまったが最後、それに囚われてしまったように――。
言えずの秘めた片想いを知られたかもと慌てる祇園に対し、気を遣ったのか各々何事もなかったかのように分散していく。
しかしこの騒ぎに彼女は気付いていなかった。
自分の運命を変える瞬間が今まさに訪れようとしていることを。
彼らがいつものように騒いでいると研究室のドアが叩かれた。
「どーぞー」
斯波が呑気に声を掛けるとドアが開き、一人の青年が現れた。
「ご注文の品持ってきましたー」
「ありがと。そこに置いといてー」
おそらくまた怪しげな実験器具でも買ったのだろう。
文具用品から食堂までを経営する学生生協のアルバイト生だろうか。爽やかな好青年の声を聞きながら、祇園は少し赤い顔をして弥栄が淹れてくれたコーヒーを啜る。
……すると、ふと視線を感じて祇園はそちらを振り返った。
そのアルバイト生である、短く髪を刈り上げたまだ少し少年らしさを残す青年が、何故かじいっと祇園を見ていた。
意外と整ったその顔の主からの視線に、祇園は「な、なんだ」と少々おののいてしまうが、こちらが引いてしまうくらいの強く真っ直ぐな視線には遠い記憶の中、どこか覚えがあった。
こんな顔だったか?と思うほど目の前の主とは面影が異なっていたが――、遠い昔の記憶の中、ひとりの背の小さな可愛らしい少年をふと思い出す。
五年前の、思い出。
忘れたい思い出と忘れられない想い。
――まさか……!?
祇園が愕然と相手を見返していると、なんだ?と様子のおかしい二人を見守るギャラリーの中、相手の青年が口を開いた。
「祇園、さん……?」
そんな呼び方をするのは、過去にただ一人だけ。
五年前の記憶の鍵はかちりと音を立てて開かれた。
祇園は思わず唇を噛んで呟いた。
「早海……」
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