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冬の金魚

作者: 朝日奈徹

 遊女は、中程度の(おみせ)のものなら、多寡の差こそあれ、お客様から様々ないただきものをいたします。

 そうですねえ。

 夏ならば、金魚が多うございます。

 金魚も高価いものは値千金とうかがいました。

 江戸や京にはそれこそ天井知らずの値のものがあるのでしょうが、こちらでもそれなりに、高価いものはございますとも。

 ですけれど、そういったいただきものは、季節ごとに違うのです。

 ですからね。

 金魚は、夏には嬉しいですけれど、涼しい秋風が吹きはじめるとうとまれます。


 あたしがまだ禿(かむろ)でおりました時分のお話をいたしましょうよ。

 その頃の朋輩が、あの紅葉太夫さん。当時からとても艶麗なひとで、あたしはいつもその影に隠れてしまっていました。だからでしたんでしょう。

 お(あね)えさまは、夏に旦那さまからいただいたとても綺麗な金魚が、秋の頃にはもう邪魔になりなすって、あたしに池にでも流してくるよう、押しつけなさったのです。

 それはね、猫の子を殺すような惨いことではございませんでしょう。

 鯉に呑まれてしまったとしてもそれは生き物のならいでございますし、生き延びるかもしれません。殺すよりは、放生ということなのです。

 ですけど、あたしはこれを池に流すのが忍びなくて、ずっとお部屋で飼っていたのでした。

 朝と夕べに飯粒を少し入れて、時々お水をかえて。

 朋輩の茜さん、ええ、このひとが今の紅葉太夫ですけれども、茜さんはこれをずいぶんと厭がりました。

「まあ、なんでこのひとはこんな辛気くさい事をするんだろう。さっさとお姐えさまの言われたとおりに、流してくれば良いものを」

 ですけれど、犬だって、三日御飯をあげれば居着くと申しますね。あたしはいつしかこの金魚に情が移っていたのでございます。

 どんな金魚でしたか、お話ししましょうね。

 胴は小さなおにぎりのよう。

 目はまろく、黒に金の輪がはまっておりましたねえ。

 鱗は朱いのですけど、陽があたると金色に、どうかすると銀色に見えて、金襴緞子(きんらんどんす)をまとっているようでした。

 ねえ、これだけでも、あたしたちのような遊女には、縁起の良いものではございませんか。

 ひれも尾も、ひらひらと、まるで竜宮の乙姫さまが舞っているかのようで、あたしはしばしば、この金魚にみとれました。

 つらいことがあったときには、日増しにこの金魚に見入るようになりました。

 だからよけいに、茜さんに毒づかれることになったのかもしれませんね。


 冬のある夜のことでした。

 布団の下であたしは声をころして涙にくれていました。

 あたしと茜さんは歳がほとんど同じで、お姐えさまのもとに来たのもほとんど同じ時でした。

 競い合う仲なのですが、何をやらせても茜さんは上手で、華やかで、あたしはどうしたって見劣りしてしまいましてね。

 茜さんはお姐えさまの手引きで、水揚げされることに決まったのでした。

 もちろん、とびきりの旦那がついて、それはもう文句のつけようがない、将来はお職の遊女間違いなしと言われ、名前も紅葉と決まったのです。

 茜さんと我が身を引き比べれば、もう先は真っ暗に思えまして、それで泣いていたのでした。

 鏡をのぞいて、あたしだってと言ってはみても、茜さんと比べると何も取り柄がないように感じられます。

 こんなことでは、良い旦那もつかない。ろくな水揚げもしてもらえないだろう。きっとあたしは格子で終わるのだ。

 つらくて、つらくて、金魚鉢を見ることさえできなかったのでした。

 横たわっていても、胸のあたりが痛いような気がします。

 目を閉じても、眠れるとは思えません。

 けれど、そうしているといつしかうつらうつらとし、微睡んでいるのにつぅっと涙が頬を伝うのです。

 するとねえ、薄闇のなかにぼうっと浮かぶものがあるじゃあないですか。

 いったいあれは何だろう?

 目を開けようとしても今度は思うように開きません。

 すると、瞼越しに、朱色と金色のぼんやりとした灯りが見えるような気がいたしました。

 どこからともなく、ちんとんしゃん、と音曲も聞こえてくるではありませんか。

 ぼんやりとした灯りはみるみるうちに、あたしの金魚になっていきました。

 金魚は音曲にあわせてひらひらと舞っています。

 それはもう綺麗でした。

 あたしは目を開いているのだか、閉じているのだか、ただうっとりとそれを眺めていました。

 あたしもあんな風に舞えたらいいのに。

 そう思っていますと、夢だったのでしょうねえ。

 いつのまにか、あたしの体がふわりと浮き上がりましてね、金魚と一緒に舞い始めたんですよ。

 あたしの体は勝手に動いておりました。

 それはもう体が軽くて、どんな手振りも簡単にできてしまいました。

 あたしの体を縛っていた見えない縄が、ひとつひとつ、落ちていくように思えましたよ。

 そしてあたしは本当に眠ってしまったのです。


 その翌日のことでした。

 あたしと茜さんは、踊りのお師匠さんのところへ行く稽古日にあたっておりました。

 先に茜さんが呼ばれ、お師匠さんにお稽古をつけてもらいます。

 次に呼ばれるあたしは茜さんとは見劣りがしてしまうのか、お師匠さんにはおこられてばかりで、いつも気が重いのですが、その時は茜さんのことなど何も気にせずに踊ることができました。夜、夢のなかで金魚と舞った時と同じです。

 お師匠さんには何も叱られず、いつもその通りにおやりなさい、と言われたきりでございましたね。

 きっと、あの夢からあたしの運勢は変わったのでしょう。

 夜、お座敷にはお姐えさまのお供で出まして、年頃の茜さんやあたしは、時に声をかけられてお酌をしたり踊りを見せたりするのです。

 こうして良い旦那をつかまえなくてはいけません。

 その夜は、お姐えさまのお声がかりで、あたしが先に踊りを披露することになりました。

 まだ旦那の決まっていないあたしを押し立ててくれたのです。

 この時は、お師匠さんのところで踊った時より、もっと体が軽々として感じられ、あたしはなんの不安もなく、一差し舞い終えてしまいました。

 すると、どうしたことでしょう、お姐えさまは満足そうに頷きましたし、そのお席にいらした方々はやんやの喝采で、あたしはびっくりしてしまいました。

 あたしにも旦那がついたのは、この数日のちの事でした。

 踊りを気に入って下さった方が旦那になって下さいましたが、江戸店(えどだな)もある、立派な商家の旦那さまでした。

 すでに跡継ぎと、その下と、息子さんがふたりもおありでしてねえ。

 あたしは、お内儀さんの悋気に苦しめられることもなく、この旦那さまに水揚げしてもらいまして、その後もずっと、お世話していただいているんですよ。

 あたしの踊りは大変な評判を呼びました。

 竜宮の踊りだなどとは、いったいどなたがおっしゃいましたのやら。

 金魚の夢のことは、誰にもお話した事はありませんでしたのに、ほんとうに不思議なことです。

 ええ。踊りの評判が続いたおかげか、錦太夫と名乗りを許されたのは、あたしの方が茜さん改め、紅葉さんより先でございましたよ。


 金魚は一度、鉢を大きなものに替えましてね。

 今も手元におりますよ。

 大層大きくなってしまいまして、今では舞うように泳いだりはいたしませんし、やはりあれも夢だったのでしょう。

 だからこそ金魚が音曲にあわせて舞ったのでしょう。

 でもねえ。

 今のあたしがあるのは、どう考えてもこの金魚のおかげだと思えてならないのです。

 ですから、大切に、大切にしているのでございますよ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読ませて頂きました。 素敵なお話しですね。 金魚の起こした奇跡なのか? いえいえ、金魚がきっかけとなって、自身が覚醒したのでしょうね。 人生のチャンスはどこに転がっているか分かりませんね…
[良い点] 雅な太夫の廓言葉の語り口。 きらびやかな金魚、当時の遊郭の生活がありありと浮かんでくる描写、フワフワと夢の中にいるようなお話でとても素晴らしいと思いました。 [一言] 遊郭の話だ、と思って…
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