桜をこんなにも美しいと、初めて思った。
輝く水面に揺れて映る、スカイブルーと桜色の鮮やかなコントラスト。
美しさに、目が奪われる。
川沿いの道に沿って植えられているこの桜並木を見ながら歩いていると、
いつの間にか歩調がゆっくりになっていた。
隣を歩く彼女が嬉しそうに、やっぱりゆっくり歩いている。
顔が、来て良かったでしょう?と僕に語りかけている。
―行きたい所があるの。
どこかにいこうか、そうメールをしていた時に彼女が言った。
―いいよ、どこ?
―あのね、地元。
―地元?
―だめ?
―いや、別に・・・。
最初、僕はあんまり乗り気じゃなかった。
何しろ遠いし、別に見るところもなさそうだし。
でも結局彼女に押し切られる形で地元に行く羽目になった。
彼女の地元までは電車で結構かかる。
少し交通費が痛かったけれど、でもこの桜並木でその分差し引きは黒字だ。
来て、本当に良かった。
「綺麗な所でしょう?」
「うん。こんな場所地元にはないよ」
「この町の唯一の自慢だもん」
彼女が笑った。桜色が、優しく目に映る。
彼女の地元に来たのは初めてだった。
彼女は僕に春のこの時期だけに見られる桜並木を見せたかったらしい。
僕もこの地元出身だったら彼女に見せてあげたいと思うだろう。
彼女と僕は一年前、大学で出会った。
同じサークルの仲間だったけれど、最初から仲がよかったわけじゃなかった。
でも人間何が起こるかわからないもので、
同じ授業やサークル活動を一緒にしていくうちに今のような関係になっていた。
付き合おう、そう明言したわけではないけれど、
きっと僕たちは付き合っていることになっているのだろう。
それはそれでむしろかまわないし、彼女と一緒にいるのは心地いい。
恋人より、友達。でも恋人。僕たちの関係はそんな妙なものだった。
「覚えてる?私たちが初めて話した時」
「サークルの新歓だっけ?」
「そうそう。ほら、その時地元の話したでしょ?桜並木のことも一緒に」
「ああ、話してた。通学路に綺麗な桜並木だっけ?あ、そうだ確かその後さ、
話すことなくなって二人で黙っちゃって、すっごく気まずかった」
「うん。すごいあせった。どうしようって。
・・・、今考えたらすごい緊張してたんだと思う。今じゃ考えられないけど」
もう一度僕たちは笑った。その声が響いたのか桜が一枚ひらり、と目の前を舞い落ちる。
一年前の僕たちが今の僕たちを見たらなんと言うのだろう?
有り得ない、とか言うのかもしれない。
でも実際、僕は今、会話の中だけだった桜並木を彼女と二人で実際歩いている。
「昼ごはん、どうする?」
桜並木を抜けたあと僕が言った。
桜色の空が、真っ青なスカイブルーに一瞬で切り替わった。
彼女が少し立ち止まる。逆光で彼女の顔がよく見えない。
「・・あのね」
「うん?」
「もう一つ、一緒に行きたいところがあるの」
桜並木を抜け、賑やかな駅前を抜け、僕らはバスに乗った。
表示された行き先は当たり前だけど、どれも知らない。
「どこにいくの?」
バスに乗って席に座った後僕は聞いた。
桜並木よりもっといい所に連れて行ってくれるのかもしれない。そう思いながら。
けれど僕の言葉に彼女の顔が、曇った。きゅっと口を結んでいる。彼女の癖だ。
緊張していたり、嫌な事があるとき、彼女はこういう顔をする。
何回か見たことがある表情だ。でも、僕と一緒のときは初めてする表情だった。
不安が、いきなりゆっくりと胸の中に広がっていく。
どこに連れて行ってくれるんだろう、そんな期待が少しずつ消えていくのが分かった。
桜並木を案内する彼女は本当に嬉しそうで、楽しそうだったのに。
「うん、・・・お墓」
「お墓?・・、どうして、」
「お墓に行くの」
僕は思わず彼女を見た。彼女は顔を伏せた。
短い答え。まるで一切の質問を拒否するかのように、僕の耳に響いた。
―どうしてそんなところに?
僕は最後まで言えなかった言葉をもう一度頭で繰り返す。
もちろん、彼女には聞こえない。
バスが揺れる。大通りから小さな道に入った。
外からは、優しい光が窓から降り注いでくる。
僕たちは黙ったままその光を浴びていた。
穏やかな春の日差しが、今の僕にはやけに煩わしく感じた。
今の僕たちには正反対なものだからだろうか。
隣に座る彼女の顔は相変わらず口はきゅっと結ばれたままで、
緩むことはなさそうだった。
実際彼女は何もしゃべらなかった。僕は何もしゃべれなかった。
二人の間に流れる無言をはじめてこんなにも苦痛に感じた。
停留所を告げる車内アナウンスが妙に耳に響いた。
でも僕の頭の中で回る疑問を、遮ってくれない。
彼女は何を考えているんだろう。彼女は何のために僕をそこに連れて行くのだろう。
この一年一緒にいたはずの彼女がまったく知らない人のようにまで思えてしまう。
「昼ごはん、近くにマックがあるからそこで食べよう?」
「ああ、うん」
彼女の言葉が遠くに響く。風邪を引いたときのような、そんな感じ。
僕はどこに行くか尋ねた他何も聞かなかった。
本当は色々聞きたかった。誰のお墓なのか、その人とはどんな関係だったのか。
実際聞けたならその方が何倍も楽だったし、彼女も楽だったのかもしれない。
けれど、バスに揺られている間中その事について僕らの口が開くことはなかった。
停留所を告げるアナウンスが流れる。彼女がボタンを押した。
次の停留所で、僕たちは降りるらしい。
その次に彼女は何を僕に言うのだろう。僕に何を見せるのだろう。
何もかも、見えない。何もかも、分からない。
バスを降りたあと、僕たちは歩いた。
停留所の前の横断歩道を渡れば黄色と赤の看板が見える。
僕たちは黙ったまま横断歩道を渡った。
初めて、僕たちは離れて歩いた。
店内に入ると、席はがらがらに空いていて、レジには待っている客がいなかった。
昼時のマックといえば、混んでいる事が当たり前だ。
一瞬不思議に思ったけれど、壁にかかっているカレンダーが理由を教えてくれた。
今日は平日だ。家族連れはくる訳がないし、制服姿もいない。
―彼女は、何を言うのだろう。
彼女が好きな端っこの席で座りながら僕は何度も同じことをまた繰り返し考えていた。
とても重要なこと、だとは分かる。でもその重要なことは分からない。
何かとても言いにくい事で、言うのを怖がっているようにも見えた。
もしかしたら前の彼氏のお墓なのかもしれない。もしかしたら・・・。
頭で考えても何もできない。
ただ僕に出来る事は、彼女が何かを言い出すのを待つだけだ。
「おまたせ」
彼女がトレーを持って僕の前に座った。いつもの事だ。
けれど緊張しているせいか、初めての事のように思える。
彼女がジュースに手を伸ばした。僕は待った。彼女が何かを言い出すのを。
「あのね、今から三年前のことなの」
言葉を選ぶかのように、言葉を発するのを躊躇うかのように彼女は口を開いた。
「だから、高校二年生の時のことなんだけど、・・・私、親友がいたの。
ううん、親友なんかじゃない。もっともっと仲が良かった子がいたの。
小中高一緒だった。その子、優しくて天使みたいな子だったの。本当にいい子だった」
彼女が言葉を重ねるたび、彼女の視界から僕が消えていくような、そんな気がした。
僕は混乱していた。彼女が何をしたいのかまったく分からない。
それに比べて妙に彼女は冷静だった。彼女はまたジュースに手を伸ばした。
「何ていうのかな、そりゃみんながするような悪い事、一緒にしたよ?
でも本当に無邪気で、純粋で一生懸命で、
・・・うん、私が持ってないもの全部持ってた。・・・ずっと一緒だと思ってた」
言葉が途切れた。
彼女がすう、と息を吸った。
まるで長い間水に潜っていたかのような苦しそうな息継ぎの音だった。
「三年前の、春の日だった。すっごい温かくって、穏やかな日だった。
制服を久し振りに着た日だった。・・・何でだろうね、あの日5分だけ寝過ごしたの。
・・たったの5分だった。先に行ってて、そうメール送ったの。
いつもね、一緒に学校に行ってた。家が近くてね、玄関先で待ち合わせ。
十二年間ずーっと一緒に学校いってた。・・・本当にたったの5分遅れただけなのに」
「じゃあ、まさか」
僕の言葉に彼女がうなずく。
僕はようやく、彼女が何を言おうとしているのか分かった。
もういいよ、もう十分だよ。分かったよ。本気でそう言おうと思った。
でも僕は無力だ。実際のこの瞬間に彼女の言葉をとめることさえできない。
彼女が語る言葉の結末はもう分かってる。それがどんなに悲しかったことか。
数秒にも満たない沈黙を飲み込んで僕は、結局彼女の言葉を待った。
「事故が起きたの。・・・あの子は何も悪くなかった。信号は青だったの。
でも車が突っ込んできた。即死だった。・・、痛い思いしなかったって。
そんな事言われても救いになんかならないのにね。・・お葬式は寒い日だった。
雨が降ってて。本当に寒くて、指が凍えて記帳する字が本当に汚かった。
・・・学校でもお別れ会やったの。私は友人代表でお別れの言葉なんか言わされた。
・・・あんなのもう二度とやりたくない」
彼女の顔は無表情だった。事実を、ありのままに語っているのが分かった。
僕の頭にある場面が浮かぶ。制服姿の彼女が、親友に別れの言葉を言っている場面。
それはとても、なんて残酷な場面なんだろう。
言葉などもう届かない相手に伝える空しさ。
彼女はどんな思いでその役を引き受けたのだろう。
「たくさん、たくさん泣いた。・・三ヶ月たってようやく普通の生活に戻れた。
普通って言ってもあの子のこと、例えば玄関先にあの子がいないこととか、
誰も座らない席とか見てももう泣かなくなるまで、三ヶ月かかった。
・・・、でも、もしあの時私が寝坊しなかったらって思わない日は、まだ来ない。
私の一部は、三年前のままなんだと思う」
彼女は言葉を切った。その隙に僕は、何かを言おうと思った。
―事故は仕方なかった、君のせいじゃない。
―君が責任なんて負う必要は少しもないのだよ。
―そう思うより、彼女の分もがんばって生きなきゃ、駄目だよ。
なんて陳腐な言葉たちなのだろう。
なんて意味のない言葉たちなんだろう。
彼女の言葉たちの前で、僕の言葉がいったいなんの役に立つというのだろう。
自分の頭に浮かぶ言葉たちは彼女を救える力など何も持っていない。
彼女の言葉は続いた。
「私思うの。・・私はあの子を死なせた原因の一部だって。
だから私には幸せになる資格なんてないんだ、って。
・・・馬鹿みたいに思うでしょ?
私もそう思う。こんな事考えても、あの子は喜ばないって。
でも、どうしようもない。
過去が私を放してくれない。
もしかしたら自分がしがみついてるだけなのかもしれないけど。
・・・こんな姿、あの子に見せられなくて、
三年経った今でもお墓にどうしてもいけない。
顔向けできない」
彼女は、そう言って俯いた。僕はただ、彼女を見つめていた。
今日何回か目の沈黙がまた流れだす。
けれど、僕は必死だった。何かしなければいけないのは分かっている。
―でも何を?
無意識のうちに僕の頭はリピート再生をはじめていた。
桜並木を歩く彼女の嬉しそうな顔。お墓に行こう、そう言った時の彼女の声。表情。
バスに揺られている彼女の横顔。きゅっと結ばれていた口。
そして、そもそもどうして僕を地元に誘ったのか。
どうしてあの桜並木を僕に見せたのか。
今日の彼女を一つ一つ頭の中でつなげていく。
僕は、やっと気がついた。
―彼女はただ僕に一緒に来てほしかったんだ。
止まってしまった時間を、再び取り戻す場所に。
誰かと一緒に、でも誰でもいい誰かじゃなくて。彼女は僕を選んでくれたんだ。
陳腐な言葉しか浮かばない僕に、救える力などない僕に。
僕は決めた。
僕は何もしなくていい。
僕はただ、その背中を押してやればいいだけだ。
そして過去を思い出に変えるその瞬間に一緒にいてあげればいいだけだ。
救う、なんて僕がすることじゃない。
それこそ彼女が自分自身にしてあげなきゃいけない事なんだ。
「・・・行こう」
「え?」
彼女が顔をあげた。僕はもう一度言った。
「行こう、一緒に」
「あの子」が眠っている場所は静かな、そして穏やかな場所だった。
全てを包み込むような、そんな感じがした。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。・・三年ぶり、かな」
静かさが溶け合う。
石畳の道を歩くとすぐに本堂が見えた。がっしりとした、でも威圧感は感じられない。
宗派とか何もわからないけれど、ここはいい場所だということはよく分かる。
彼女が足を止めた。
脇にそれる道が、続いていた。
「ここから、お墓に入るの。・・入るのは初めてだけどね」
彼女が歩き出した。
いくつもの石の山を見ながら彼女は導かれるように歩いている。
お墓参りの人と何人かすれ違った。みんな穏やかな顔をしていた。
彼女もいつかあんな風にここにまた来られるのだろうか。
「あった」
彼女がつぶやいた。
奥のほうに、それはあった。小さなお墓だった。
「あの子」と彼女の三年越しの再会の瞬間が近づく。
ゆっくりと、確実に僕たちはそこに歩み寄っていく。
彼女の姿が制服姿に変わる。過去が動き出すのが僕にも分かった。
「ごめんね、お待たせ」
無機質な石の前で彼女は言った。
違う。彼女は今、三年前のあの日にいる。
ここは朝いつものように待ち合わせた玄関先なんだ。
「ごめんね、ごめんね・・・寝坊しちゃったの。待たせてごめんね」
あの子は今、きっと彼女の前に立っている。見えないけれど、分かる。
―いいよ、それより早く学校に行こう?
笑って、そう言ってる。
これから、二人で一緒にあの綺麗な桜並木を歩いて学校に行くんだ。
決して気休めなんかじゃない。彼女にもちゃんと届いてる。
彼女が流している涙は、過去を悔やむ涙じゃなくて、親友に再会した喜びの涙だ。
もらい泣きをし始めた僕は思わず空を見上げた。涙がそれでも目から溢れた。
―ねぇ、
僕は目の前にいる「あの子」に話し掛けた。
―彼女は、頑張ったよ。もう、十分だよね。
震える彼女の背中を見ながら祈るような気持ちで僕は語りかけた。
それに答えるように風が優しく通り抜ける。
見えなくても今の僕にはそれで十分だった。
―ありがとう。
僕は空から彼女に眼を向けた。彼女の姿が制服から、元に戻っていく。
―時間が、動き出したんだ。
三年越しに、彼女はあの子と桜並木を通って学校に行った。二人で、一緒に。
彼女の中から三年分苦しんだすべてが、一つ一つ消えていく。
三年たった今、過去が思い出に変わり始めていく。
もうそれは、彼女を苦しめるものじゃない。
思い出は振り返ったとき、笑顔になれるように、力づけてくれるように、
人を助けるために存在するのだから。
彼女は今までずっとそのための長い長いリハビリをしていたんだ。
過去を思い出に変えるためのリハビリを。
僕は今、自信を持って言える。
たとえ何年かかったとしても、
許されないことなんて、何もない。
思い出にできない過去なんて、ひとつもないんだ、と。
三年前の春が、今この瞬間とすべて溶け合っていく。
彼女が涙をぬぐった。ありがとう、そう呟いて。
あと少ししたら、きっと彼女は振り向くだろう。
そしたら、彼女を思いっきり抱きしめてあげよう。
でもその前にとりあえず僕は、袖で涙を拭くことにした。
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