重く疲弊した体で、廷兼朗は街を走っていた。
気味が悪いほど静まり返った街中だが、所々に銃創などが見られる。恐らくこれを辿れば、あの金髪の大男と、ラタナに会えるだろう。
やがてたどり着いたのは、学区の外れにある大きな公園だった。廷兼朗がときたま練習する場所でもある。地理は完全に把握してあったので、彼はすぐさま捜索を開始した。
「あ、があ、あがあああ!」
遠くから、明らかな悲鳴が聞こえた。よもやここへ来て聞き間違いようがない。ラタナのものである。ラタナの叫びが、公園の中から届いたのだ。
「ラタナ!」
軋む体に鞭打って、廷兼朗は声のしたほうへと一気に走り出した。柵を飛び越え、木を飛び伝い、遊具をすり抜けて――公園の中央にある開けた場所に出る。
何も遮るものがないその情景が、廷兼朗の目に飛び込んできた。知らずのうちに、廷兼朗の瞳孔がぐわりと広がっていた。
暴れるラタナを押さえつける、二人の男。一人はあの金髪野郎。もう一人は新手。ともにラタナの猛攻を受けたのだろう。肘で削ぎ切られたり、蹴りを叩き込まれたと思われる痕が幾つも窺える。
今から思うに、ラタナが金髪の大男に追われた時点で、廷兼朗の心は臨界だったらしい。だから、狂乱するラタナを押さえ込む男達を見たとき、廷兼朗の自制は、ものの見事に弾け飛んだ。
気が抜けきったはずの体に再び、そして不自然に気が湧き上がり、体を満たしてゆく。
対抗手段計画において、見るからに感情を発露させて戦うことは、あまり推奨されていない。あまり、というのは、闘争心を否定していないということであり、そういった感情を持つこと自体を戒めているわけではない。だが、それを明け透けに晒す行為は、戦略上有効とは言い難い。
そのコンセプトに則り、感情を抑制し、気を静め、内に凝らせて丹田に変える習練を積んできた廷兼朗が、その全てを放棄してしまった。
おかしい。こんなのは自分じゃない。幾ら頭に血が上っても、こんな振る舞いはしない。そもそも自分には、頭に血を上らせて怒る余裕などないはずだ。この超能力者が溢れる都市で、いちいち腹を立てていては、無能力《レベル0》の自分は瞬く間に敗北し、木っ端の如く振り払われてしまう。
そんな思想が、ラタナを目の前にして、空しく瓦解する。
(ラタナ、なのか?)
この原因は、ラタナにあるのか。確かにラタナのことが絡むと、廷兼朗の胸は俄かに騒ぎ出し、彼女の近くにいるだけで跳ね回り、ときたま自分の手に追えないときさえあった。
確かにラタナは素敵な女性だ。強く、美しく、逞しい。たまに、というか頻繁に廷兼朗を罵りはするが、それもまた魅力と言えば魅力だ。
廷兼朗は高く靴音を立て、これ見よがしに彼らの注意を引きながら近づいていく。
(そうか、僕は……)
ラタナのことが、好きなのか。だからこんなに、心揺れているのか。
廷兼朗は自らを嘲るが如くに、ふうっと薄く笑った。自分の気持ちを素直に認め、彼は清清しい心地で、その心を否定する。
それはない。確かに自分は男で、ラタナは女だ。それもムエタイの熟練者だ。ほっそりと、さながら刀剣の如く鍛え上げられた肢体。苛烈にして緻密な技巧。何者も恐れぬ闘争心。どれを取っても完璧だ。色々な意味でそそるものがある。しかしそれが、恋心になるはずがない。
何故なら、廷兼朗はもう、兄じゃないから。
男という属性が限りなく希薄な自分が、女性に対して、今更そんな感情を向けることなど有り得ない。
(有り得ない。そうだ。こんなことは有り得ない!)
有り得ないことが、今、廷兼朗の身に起こっている。自分では御しきれないほどの奔流が、自分の中から湧き上がって全てを飲み込もうとしている。敵も、味方も、心も、体も、技も、その流れに巻き込もうとしている。
息が苦しい。まるで溺れてしまいそうなほど、心と体に余裕がない。未だに損耗の抜けない体を、無理やりに動かそうとしているためだ。こんな状態では、技の冴えなど望むべくもないだろう。
何故こんなことをする。何故こんなことになる。悩む心を置き去りにして、体はとっとと臨戦の体勢を整えていく。
心と体が、絶望的なまでに噛み合わない。このまま戦うべきじゃない。こんな無様な姿で、戦いたくない。こんなことをするために、頑張ってきたんじゃない。
これは、対抗手段じゃない! 天羽根流じゃない!
心の制止も空しく、廷兼朗の体は一直線に土御門へと吸い込まれてゆく。
それを受けて土御門がラタナの体から離れるが、既に廷兼朗は彼の左横にぴたりと寄り添っていた。
防御出来ない左腕を無視して、喉への右平拳。左手を目一杯伸ばし、土御門が廷兼朗の右手首を捕獲する。
そうして本当に防御を排してから、左フックで土御門の右目を打つ。あくまでサングラスを割り、破片を目に突き刺すだけなので、軽く、素早く、鞭のように叩く。
土御門の顔が仰け反っている間に、右手を掴んでいる左手に、左フックをかました左手を重ね、完全に固定する。
右腕の捻りを戻し、固定した土御門の手首を逆に決めつつ、半歩踏み込む。そして、極められた手首ごと、右掌を土御門の右胸に突き出した。
打撃した腕を敢えて捕らせ、それをさらにもう一方の手で固定し、逆に極めたまま、もう一度打つ。打撃の衝撃で極めた箇所を折りつつ殴り飛ばす一連の動きは、天羽根流逆捕『砕小手』である。
極めた状態ならば相手の挙動は不安定となり、合気上げと同じような状態を作れる。相手は身構えることも出来ず、無様に突き飛ばされるしかない。
右肺を押し潰さんばかりの衝撃が、土御門を三メートルほど後ろの木に激突させた。いっそ頭を打ってくれれば気絶できたのだろうが、息苦しさでむしろ意識がはっきりする。
神裂が手加減したのか、道を譲ったのかは分からないが、どうあれあの聖人とやり合って、五体満足でいられるような相手なのだ。片腕の利かない状態では、些か不都合というものだ。
極めたまま、無理やり右腕を突き出されたことで、土御門の手首は、その衝撃で見事に外れていた。しかもご丁寧に、肘と肩の筋まで痛めているらしい。
まさに、打撃の速度で関節技を極める、精妙な技術だ。こんなものを能力者との戦いの最中、普遍的に繰り出せるとすれば、単独で無手の無能力者による超能力者の制圧というのも、あながち絵空事ではないのかもしれない。
(……って、何考えてんだ、俺は!)
今はそんな感慨に耽っている場合ではい。自分が倒された以上、次にあの男が狙うのは、上条当麻しかいない。
だめだ。それはだめだ。確かに上条当麻は強い。これまで幾人もの魔術師や能力者を前にして、一歩も退かずに戦ってきた。その力量は土御門も知るところだし、それに助けられたことさえある。
だからこそ、魔術師でも能力者でもない、あの男と戦わせてはいけない。あれと至近距離でやり合うのは、得策ではない。
「カミやん、逃げ――」
かろうじて視力の回復した左目で土御門が見たのは、廷兼朗の背中に押され、鉄柵まで吹っ飛んでゆく上条当麻の姿だった。
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