一頻り顔を洗い、気を落ち着かせてから、廷兼郎は男性トイレの戸を開けて通路に出た。久方ぶりに妹のことを考えた頭を正常に戻し、これまたいそいそと席に戻ろうとする。
その歩みが、トイレに続く細い通路の中途で止まった。
背を壁に凭れ、一見して道を明け渡しておきながら、その目には、確実に廷兼郎を逃がすまいとした強い光が込められていた。
「洗いざらい、話して。全部聞くから」
何ら前置くこと無く、御坂は言い放った。
腕を軽く組みながら、油断なく廷兼郎を観察している。全部聞くというのは、彼女にとっては惨いであろう話を聞くという覚悟であり、全てを聞くまでは廷兼郎を許すことは無いという心象の表れだろう。
今にも額から青白い紫電を撒き散らさんばかりの雰囲気が、御坂の中には凝っていた。
逃げられないし、逃げるわけにはいかない。同じく覚悟を決めた廷兼郎が、何ら了承を得ることなく、静かに話し始めた。
「まだ僕が、学園都市で暮らすようになって間もない頃です。前任者が他の仕事に着くということで、残り一万通りの戦闘状況のメンテナンスを、僕が担当することになりました」
御坂と同じように、前置きをせず、核心だけをつまみ出していく。
なるべく平坦な語り口になるよう、廷兼郎は努めて感情を押し殺し、機械によるアナウンスのように続ける。
「あれは、嫌な仕事だった。既に負けが決められた彼女たちに、こうやって死になさいと、言っていたのだから」
だがそれも、長くは続かない。やはりまだ、自分の妹のことを考えた動揺が、頭の中に残っていたのかもしれない。
「僕は彼女たちに、『対抗手段』を覚えてもらおうと思いましたが、却下されました。そんなバグは、実験を妨げるだけだと」
あまりに主観的な説明で、御坂も理解しづらいだろうと思いつつも、廷兼郎は止まれなかった。
「僕が直接『対抗手段』を教えたとて、彼女たちのことを、何も救えなかったかもしれない。ただ、自分の身につけた技術を、彼女たちの体を使って『一方通行』に試したかっただけかもしれない」
一度言葉を切って、口に手を当てる、まるで吐き気を堪えるように、ぐっと頬を握り締める。
「でも、そんなことすら、そんな努力すら、僕は彼女たちに施すことが出来なかった。何も救えないし、変えられない。そもそも、何もしていないのだから」
吐き気を押さえた代わりに、握り締めた頬を水が伝う。どうやら今話していることは廷兼郎にとって、嗚咽を漏らすに足りる事柄らしい。
身勝手で、自分よがりで、利己的な独白。それだけに廷兼朗の言葉は、彼にとっての洗いざらいだった。
「ごめんなさい。あなたを差し置いて僕が泣いていては、あべこべだ」
「……もういい」
詳しく言い直そうとした廷兼郎に二の句を告げさせず、御坂がばっさりと断ち切った。
「もういい、とは?」
「もう、救われたわよ」
ああ、と唸り、廷兼郎は思い至った。
「そうですね。『絶対能力進化《レベル6シフト》』は、もう終わっているから」
御坂の妹を実験材料に使っていたおぞましい計画は、既に瓦解している。廷兼郎が救うまでもなく、彼女たちは救われているのだろう。
「そんなことは、どうでもいい」
またも画然とした、御坂の言葉。
「あの子たちのことを思ってくれた。考えてくれた。苦しんでくれた。なら、もういいわよ。あたしが言うんだから、間違いない」
忌憚の無い言い方をすれば、廷兼郎は御坂の正気を疑った。
それは、自身のクローンを与り知らぬままに生み出され、二万人も量産され、その悉くを殺されるという実験に使われ、実際に一万人以上を殺された人間が、その実験に関わっていた人間に掛ける言葉とは思えなかった。
「……全く。御坂さんと言い白井さんと言い、常盤台の仕込みには、本当に感心するなあ」
腕まで伝った涙を払い、袖口で拭う。
強い。ただ一言、漏らした。能力云々ではない。人として、強い。これほど強い人間と戦えた事を、廷兼郎は改めて誇りに思った。
「また、やりたいな。あなたと」
「あんた、まだ懲りてないの?」
「一度で駄目なら、二度三度と、挑まねばならんでしょう」
「一回勝ったくらいじゃ、満足できないのね」
「あれは文字通り、白井さんに勝たせてもらったわけだから、少し違うんです」
肩をすくめて、軽い調子で言う。もうその顔に、さきほどまでの悲痛さは無い。
「といっても、また白井さんがうるさく言ってきそうだから、まだ先のことになるでしょうね」
「あたしは、いつでもいいわよ」
ともすれば逃げ口上のようだった廷兼郎の台詞に、御坂は雄雄しい答えを返す。
如何に女性との交遊が乏しい廷兼郎と言えども、このような答え方をされては、心をときめかせずにはいられなかった。
「白井さんが惚れるわけだ。こりゃあ、堪らんよ」
すいと気軽に、それでいて何気なく、まるで元からそこにあったかのように、廷兼郎は御坂の前に手を伸ばした。
「また、やりましょう」
「今度は、あたしの勝ちよ」
二人が笑い、手を握る。紫電も放たず、腕の逆も取らず、互いの手と、その強さを確かめる。
オリャ・ポドリーダを後にした御坂たちは、これから街で遊んでいくと言い出したが、白井はそれを辞して、第二学区の訓練場へ向かう廷兼郎に同行することにした。
「ごちそうさまでした。廷兼さん」
「いいえ。ご満足いただけたのなら、幸いです。でも、皆さんと行かれなくてよかったのですか?」
勿論良くはないだろう。こんなとっぽい男の横などよりも、御坂お姉さまの横を歩くことにこそ、白井は喜びや安息を覚える。
なので白井が廷兼朗の横を歩いているのは、別段に安息を求めてのことではない。
「何故あれほどまでに、お姉さまと戦いたかったのですか?」
それを問い質すべく、白井は廷兼郎に同行した。これを聞き、確かめ、納得しなければ、とてもではないが枕を高くして眠れない。
いつまた何時、この男が御坂に喧嘩を吹っかけるか、そして御坂がそれに乗ってしまうか分かったものではない。今回とて殆ど手遅れというか、がっぷり四つにやり尽くしたところへ白井が漸う止めに入っただけなのだ。
あの先がもう再現されることは無いなどと、一体何処の誰が保障してくれるというのか。
「『対抗手段』の存在意義、そして僕が学園都市に来た理由。取り繕おうと思えば、幾らでも言うことは出来ますねえ」
そう前置きするということは、これから話す内容は、取り繕いのないことなのだろう。
「これは御坂さんにも言いましたが、僕は、能力者を愛しているんです」
「ど、どういう意味ですの?」
思わず身を引く白井に、廷兼郎は柔和に笑いかける。
「言葉どおりに取っていただいて構いません。僕は御坂さんも、荒涼さんも、井上さんも、白井さん、あなたのことも愛しているんです」
言葉どおりの意味なんかじゃない。ただ単に、愛し愛でることを指しているわけがない。
引き気味の白井に向けていた微笑みを翻し、廷兼朗はついと遠くへ目を向けた。
「僕の妹はね、能力者なんです」
「本当ですの?」
それは白井には初耳だった。というよりは恐らく、誰にも話してはいないのだろう。廷兼郎がそうしたことを妄りに吹聴する姿は、白井にとっては想像に難かった。
「はい。本当です。能力者であり、僕を凌ぐ武術家でもある」
「廷兼さん以上の?」
廷兼郎は、その性格や言葉遣いがやけに丁寧なため、ややもすれば自分以外の人間を持ち上げすぎる嫌いがある。
今回もその類か、はたまた身内びいきかと推測し、白井は話し半分に聞いておくことにした。
「あの子は、本当に強い。ちゃんと立ち合ったのは一度だけだったけど、僕はまるで歯が立たなくてね。殺されるかと思いましたよ」
「殺され、かけたのですか?」
白井がそう尋ねると、廷兼郎は一言嬉しそうに、はい、とだけ返事した。
「まあ、ある意味では、もう死んでいるのですが」
白井が首を傾げていると、廷兼郎はそれを察したようで、無理やり話題を変えた。
「そのような背景があるのだろうとは、僕も思っています。全く以って関係がないとは、言い切れませんねえ」
「能力者の妹さんに負けたから、能力者に勝つために『対抗手段』の開発・協力に携わっているのですわね」
白井がそう言うと、廷兼郎は頷くでもなく、がらんと空いた黒目を白井に向けていた。
「再戦を願って、力を蓄える。絵にはなるけど、それだけのために生きていけるほど、人は単純じゃない」
白井に顔が向いているのに、白井は廷兼郎からの視線を感じられなかった。
廷兼郎の目は、何も見ていない。その焦点は白井ではなく、自分に向けられている。
先ほどと言っていることがちぐはぐなのだが、廷兼郎は気にした風も無く続ける。
「僕はただ、生きているだけ。『対抗手段』も、風紀委員も、長点上機も、天羽根流も、全ては僕が人生を謳歌するための、道具に過ぎない」
人生を謳歌するんだと言いながら、廷兼朗の語り口は、ひたすらに平坦で、全くの抑揚を欠いていた。
さりげなくその両手が、手近にあった手摺に乗せられる。
「僕はもう、あの子のためには生きられない。生きたくない。生きていない」
手摺を握った手が、徐々に狭まってゆく。その割りに大して力を込めていないように見えるのは、廷兼郎自身も、力を込めている自覚が無いのだろう。
はっとした廷兼郎が、思わず手摺から手を離すと、そこにはくっきりとした手形が刻まれていた。
「これは、お見苦しいところを」
ばつの悪そうな顔をして鼻を掻く廷兼朗の目が、ようやく白井を捉える。それでもまだ目つきは胡乱なまま、「どうして、戦う、か」などと白井の質問を反芻した。
「まだ、僕には答えられないなあ。改めて問われると、こんなに困るとは思わなかった」
顔を緩ませながら、ほんわかと呟く廷兼朗からは、あの御坂美琴を追い詰めた苛烈さなど見る影も無い。
白井は我知らず、眉を顰めた。
納得いかない。そんな中途半端な覚悟で、御坂に喧嘩を売ったのか。その程度の倫理で、彼は無能力者でありながら能力者に挑んでいるのか。
「そんなことで、そんな曖昧なことで、あなたは命を擲つのですか? 死んでも構わないのですか?」
まるで糾弾するような勢いで、白井は言い募る。その迫力に、思わず廷兼朗は鼻白んだ。
「すみません。上手く言葉に出来なくて……」
他に何か言い様は無かろうかと、廷兼朗はうんうん唸りながら考え込んでいた。
ようやく口にした言葉も、甚だ自信なさげな調子だった。
「私はこうだから戦うんだと、きちんと言葉に出来ないなあ。言葉に出来ないから、体でそれを表したくて、戦うのかなあ」
答えになってないなあと、廷兼郎は申し訳無さそうに付け足した。
「何だか、本末転倒ですわね」
「そうですねえ……」
しみじみと漏らす廷兼朗を見ている間に、白井の苛立ちは治まってしまった。
高校一年生にしては世間の、特に学園都市のことには子供のように疎かったと思えば、若者らしい情熱と激情を剥き出しにしてぶつけてくる。かと思えば、諦観に囚われたかのように老成した態度を見せることもある。
目の前にいるのに、まるで捉えどころが無くて、正対していると思えば、するりと脇から通り抜けてゆく。
この男を把握することは、自分の問いに廷兼朗が答えるのと同じくらい、難しいことなのかもしれない。
「すみません。何の答えにもなっていなくて」
「いいえ、こちらこそ。体を資本とする人に、言葉を求めることが、あまり良いことではないのかもしれませんね」
「そんなあ。まるで僕が、脳みそ筋肉みたいじゃないですかあ」
「むしろ廷兼さんは、筋肉が脳みたいなものじゃありませんの?」
「それはまた、難しい例えですねえ」
気の抜けるような笑いを返して、廷兼郎は訓練場の中へと入っていった。その姿を見送る白井は、複雑な心境だった。
廷兼郎が、またも御坂を襲わないとも限らない。白井は言葉だけでも、もう金輪際そんなことは致しませんという誓約が欲しかった。
だが、そんなものを望んだところで、手に入れたところで、幾らの価値も無い。廷兼郎の曖昧さは、そんな縛りなどものともしないだろう。
所詮、言葉になんか出来ない。
またその時が来れば、自分が東奔西走すればいい。そしてあの男の顔を、また蹴り付けてやればいい。贅沢を言えば、より早い段階で。
そしてまたご飯を奢らせて、小言という小言を当り散らしてやればいい。これでもかと詰って、すっきりとすればいい。
流れのままに、身を任せればいい。それであの無能力者が死んだとて、それは彼の本望ということだろう。
それもまた、流れの一つと、割り切ってしまえばいい。
(割り切れるのでしょうか、私は……)
そればかりは、その時にならなければ分からない。そしてそんな決断など、もう来ては欲しくないと、白井はまたも切に願うことにした。
寮に戻った廷兼郎は、電気も着けぬまま押入れに向かい、布団を敷いて横になった。
G―1トーナメントから間を置かず、レベル5『超電磁砲』との戦闘。心も体も休まらず、それでいて退屈しない、最高の期間だった。
その上今日は奢りなどという慣れないことをしたせいで、とくに気持ちが疲れてしまった。
「何故戦う、かあ」
分からないんじゃない。言葉で表したくないのだ。言葉にして、文字にして、形を与えてしまった瞬間、自分が思っているものとは全くの別物になってしまいそうで、それが許せないから、口から出てきてくれないのだ。
戦うことは戦うことでしか表せないし、戦う理由は戦いの中にしかない。
否、そうではない。もっと単純なことなのだ。
戦っているから、戦っているのだ。
白井に言われたとおり、本末転倒だ。まるで意味が無い。
「やっぱり、答えられないなあ」
それを答えるには、まだ自分は幼すぎて、弱すぎて、未熟すぎる。
糜爛な思考が蕩け始め、体が深く沈んでゆく。眠ろうと考える頭まで、ふわりと霞んで消えていく。
(戦う。何故、どうして、戦う……)
水母のように漂う頭のなかで、そんな言葉共がぐるぐると旋回し、ころころと転がっている。
そのままずるずると、どこかへ引き込まれていくような気がした。布団を突き抜け、寮の床を透し、何かの奥の、そのまた奥へと誘われていく。
それが自分の頭の中なのだと気付いた頃、廷兼郎の思考は泥のように沈みきっていた。
第四章終了です。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
次章から字緒廷兼朗の過去編を投稿します。原作との関係が希薄なお話になりますが、その代わり、『二人の舞月の住む世界』の主人公、舞月外樹さんに登場していただくことになっています。
お楽しみいただければ、幸いです。
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