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第三章
G-1トーナメント準決勝!!! -第二試合《リベンジ》-:四
 巻いたタオルを噛み締める間に赤みが引き、腫れも治まっていく。肉体再生オートリバースを持っていて良かったと実感できる場面だ。
「字緒。あれ、もう一回教えてくれないか?」
「あれ、とは?」
 タオルで荒涼の背中を拭きながら、廷兼郎は首を傾げた。

「確か、居捕いどりって言ったか」
 廷兼郎の手が止まり、慌てた様子で荒涼の前に躍り出る。
「荒涼さん、いきなりでは無理だ。ぶっつけ本番で、しかも井上さんを相手に成功するわけが無い」
 居捕とは、正座した状態で敵を制圧する妙技である。日本は古くから座ること、そして正座の姿勢を儀礼の場での正式な姿勢として取り入れていたため、その状態でも戦闘を行なう必要に迫られた。
 そうして発展したのが居合と、この居捕という技術だろう。居合が静から動への移行に生じる間断を消し去ることを突き詰めた術理ならば、居捕は静を以って動を制することを突き詰めた術理と言える。

 立っている状態よりも行動の自由は奪われるが、それだけに無駄な動きがなく、より間合いをシビアに捉えることが必要となる。
 その技術を、廷兼郎は風紀委員ジャッジメントの前で披露したことがあった。柔の一つの形を、生徒たちに身をもって知ってもらいたかったためだ。
 荒涼はそのときに受けた衝撃を忘れていなかった。
「ぶっつけだろうが何だろうが、もうそれしか策がないんだよ! 俺のレスリングは、あいつには通用しなかった。だから、一か八かに賭けないと駄目なんだ……」
 悲痛なまでに顔を歪ませて、荒涼が言い募る。

 いきなりそんなことを行うなんて、無謀以外の何物でもない。本来なら同じ動作、単純な動作から繰り返して体に覚えさえ、薄皮を張り重ねるが如く丹念に練り上げていくものである。
 しかし今更、廷兼郎はそんなことを荒涼に諭すことはしない。何故ならその認識は、とある一面にしか過ぎないためであり、今しがた荒涼自身が、その常識が覆る瞬間を味わっているからだ。
 天性のひらめき。人より物事の要訣を深く、そして早く捉え、自身の行動に反映させる。言うは安し、行なうは難し。そして直面したときに見せ付けられる圧倒的な差は、そのまま絶望の大きさとなる。

 レスラーの投げを試合中で覚え、返す。ぶっつけ本番で余計な要素が無い分、井上本来の天性を存分に感じさせてくれる。
 残念ながら廷兼郎に、そのような経験は無い。彼は他人に天賦の才を感じても、自分の中にそのようなものがあるとは微塵も夢想していない。
(いるものだな。こういう、天才ってのは)

 廷兼郎は胸に手を当て、そんな自分の心と、落ち着いて向き合う。自分の個人的な、自虐を含む思い込みだけで否定していいほど、荒涼の言葉は軽くない。
(俺が出来ないからって、荒涼さんが出来ない理由にはならない)
 井上は確かに非凡な存在だろう。だが荒涼とて、その才能では決して劣っていない。何故なら彼もこの大会の最中、歩法『無足』を体得してみせた。
 彼なら出来るかもしれない。可能性はある。それを自分の劣等感で払いのけていいわけがない。

 それでも居捕は、薦められる策ではない。あの速度を持つ相手に対して座りながら戦うなど、正気を疑われて当然の行いだ。
 廷兼郎の言いあぐねる様を見かね、荒涼が廷兼郎の頭を抱えて額を突き合わせた。
「グダグダ考えんな。もっと自分に素直になれ。
俺が勝てないまでも、奴に手傷を負わせたら、お前の戦いが有利になるだろ?」

「……荒涼さん」
 こんなことを選手に言わせるセコンドが、果たしてこの世にいるだろうか。
(ずるいな、俺って……)
 その申し入れを断るほど、廷兼郎は強くはないし、自分の良識を振りかざすつもりもない。自分はセコンドだ。選手が戦うのに必要なものを用意するのが仕事だ。思う存分、根限りを振り絞れる状況まで持っていくのが、自分の仕事だ。
「分かりました。腕の一本、お願いします」
 覚悟を決め、廷兼郎は残り少ない時間で居捕に関して伝えられるだけのことを、荒涼に詰め込んだ。

 サイレンのような音が鳴り響く。試合開始直前の合図だ。名残惜しそうに廷兼郎が試合場から降りると、荒涼はおもむろに立ち上がり、開始線へと歩き出す。
「荒涼さん!」
 その大きな背中に、廷兼郎は叫んだ。

「やりましょう、決勝で!」

 その言葉に、荒涼は奮い立たずにはいられなかった。あれだけ情けなく喚いた自分の勝利を信じてくれる、最高の後輩の言葉が、背中を強く押し、進ませてくれる。
「応ッ!」
 脱臼した腕を高く掲げ、上腕を見せ付けるように応える。太くて強い、力の象徴のような二の腕の逞しさが、何よりの返事だった。



 第二ラウンドが始まると同時に、荒涼は開始線の上に正座した。
 プロレスや総合格闘技のルールも取り入れているG―1グランプリは、戦う姿勢に関しての細かな制約は無い。如何なる姿勢であろうと、選手が積極的に攻撃するのなら構わないのだ。 だが、荒涼は全く動かない。当然、主審が勧告する。

 それでいい。ポイントなんて幾らでもくれてやればいい。
 主審だけでなく、観客までもが、荒涼の消極的な戦法にブーイングしていた。
 荒涼の戦い方は、一見してずるい戦法である。競技という限られた空間、限られた時間を逆手に取り、相手の攻めを無理やり引き出す。

 だからといって、必ずしも盤石な戦法であるはずが無い。そもそも先手を相手に明け渡している時点で、相当なリスクを背負っている。
 荒涼を見つめる井上の顔は、苦り切っていた。
 観客のように、消極的な戦法に嫌気が指しているわけではない。その戦法のやりにくさに、嫌気が差しているのだ。 座っている状態は、前面投影面積が立っているときの半分ほどに押さえられている。そして打つべき急所の多くは、井上から見て腰から下にある。

 打ちにくいというよりは、打ち方が存在しない。座っている相手を打突するのは、もはやボクシングではない。例えボクシングの技術が応用出来るとしても。
 ボクサーの井上にとって、非常に戦いにくい姿勢だ。勿論、それを知ったうえでの戦法である。

 序盤と同じような睨み合いが続く。もしかすれば、これまで使っていなかった真空の刃を飛ばしたり、烈風で遠方から斬りつけてくるかもしれない。
(問題は、度胸があるかどうか)
 座り込んでいる相手に近づくことさえせず、遠くから能力を使って倒すことを許せる度胸がなければ、とてもではないが恥ずかしくて行える戦法ではない。

(ボクシングを取るか、能力を取るか)
 ボクシングに自信があるならば、ボクシングで倒したい気持ちがある。能力に自信があるなら、能力だけを使って倒すことに何の抵抗も持たないだろう。
 これまでの戦い方から見て、井上はとことんボクシングにこだわっている。そして荒涼は因縁の相手だ。これまで二度も勝っている彼から逃げるつもりなら、序盤の睨み合いの時点で逃げている。
(来い!)
(来いッ!!)
 二人は心の底から叫んだ。井上の打撃を、心から待ち望んだ。


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