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第一章
鎧袖一触:四
 第二学区訓練施設の地下、本来は使用されない区画に廷兼郎はいた。
「不機嫌そうね」
「そう、見えますか」
 廷兼朗は会議室のような小さな室内で、網丘楊漣あみおかようれんと向かい合っていた。テーブルの上に置いてあるパソコンの画面をじっと見つめ、椅子に深く腰掛けていた。
「要件は分かったわね」
「ええ、まあ……」
 言いながら、既に目を通した画面をスクロールさせ、一番上に戻すと『輪館薬科研究所の元研究員による学園都市外への逃亡』というメッセージが表示されていた。
「何か言いたいことがあるんでしょう?」
 網丘の言葉には答えず、廷兼郎は眠るように瞑目している。少なからず自分が関わった事件にまつわる以上、平常な心で受け入れるのは難しかった。
 輪館薬科研究所の元研究員が脱出計画を企てている。六十八人と一人の人生を狂わせておきながら、その責任も取ることなく逃げを打つ。あまつさえ、学園都市の貴重な技術を流出させて――
 この事態を知って泰然自若としていられるほど、廷兼郎の頭はおめでたくない。
「作戦決行は今日の午前零時よ。それまで休んでなさい」
「……はい」
 気の無い返事をして、廷兼郎は部屋を出た。
「まったく、素直じゃないんだから」
 網丘はくすりと微笑んで、自作のスポーツドリンクに口をつけた。
「嬉しいのなら、嬉しいと言えばいいのに」



 まだだ。まだ。終わっていない。
 まだ、事件は終わっていなかった。
 『脳髄盗取』事件は、これから終わる。この拳で終わらせる。その機会がまさに到来する。
 その感動を押し隠すことに精一杯だったが、ここへきて抑えきれず、体中の震えとなって現れる。
 『対抗手段カウンターメジャー』計画の一部。対能力者戦闘術の、もう一つの側面。
 単独で無手という状態で、無能力者が能力者を制圧する方法を確立・発展させることとは別に、廷兼郎にはある任務が課せられている。
 極力証拠を残さぬよう、単独で無手という状態で任務を遂行する。
 能力、あるいは武器・兵器の使用が著しく制限された状況下で、任務を遂行する戦闘技術を開発すること。それこそが『対抗手段カウンターメジャー』計画である。

 無力な一般人でも能力者と対当に戦える方法を探すことと、能力も武器も使えない状態での作戦遂行能力を確立すること。その二つを合わせて、『対抗手段カウンターメジャー』計画は完全な姿を現す。
 今回は、研究者たちの逃亡を阻止すると言う任務を遂行するよう、『対抗手段カウンターメジャー』計画の開発協力者である廷兼郎に要請があった。
 このような任務への従事は、廷兼朗が長点上機学園への入学の際してあらかじめ説明されていた。廷兼朗は十二分に納得して、『対抗手段カウンターメジャー』計画への参加を決定した。
 作戦行動の中には殺人行為も含まれているのだが、廷兼朗はそれも容認した。
 廷兼郎が幼少より父から手解きを受けた戦闘術である天羽根流あまばねりゅうは、天羽流あもうりゅう根来忍法ねごろにんぽうを統合し、改変して出来た流派である。
 武術であり忍術である天羽根流の後継者が、人を殺すことを回避してはいけない。武術も忍術もその本質は、他人を殺すための技術である。他を排し自を生かす、生存本能に根ざした目的がある。

 これもまた、武か。いや、これこそが武、なのか。

 それを知るため、廷兼郎は引き受けた。自分の『武』を築き上げるため。より『武』の深遠に辿り着くため。
 瞑想から目を開けると、道場の戸を網丘が叩いた。
「時間よ。準備なさい」
 厳かに頷き、廷兼朗は任務遂行のための準備に向かった。
 用意された黒尽くめの服一式は、夜戦仕様の装備である。着用者の動きを妨げぬよう、防護は最低限に留めてある。そのため銃弾も炎も電気もまるで防げないという、市販の防弾ジャケットを下回る性能を持つ。そもそも『対抗手段カウンターメジャー』計画には、致命的な能力や武器・兵器の行使を真っ向から受け止めるという発想は無いので、装備に防御力など求めない。暗闇に溶け込む視覚効果が得られるならば、夜戦においては十分である。
 最後に顔を隠す布を受け取り、それを括り付けた。
 目鼻立ちは完全に隠されている。廷兼郎の体術で暗闇を味方につければ、まず見分けることは出来ないだろう。
 準備は万端整った。今日こんにちこれにて、『脳髄盗取ブレインスティール』事件は完全に幕を閉じる。
「行って参ります」
「武運を」
 訓練施設の裏口からするりと抜け出した廷兼郎は、学園都市の夜に紛れて姿を消した。



 収容施設からの脱出は、まず成功と言って良かった。外の組織は、実に巧みに収容施設から元研究員たちを連れ出した。
 学園都市の監視システムの死角を突き、警備員アンチスキルからの追跡を振り切り、彼らは熟練された手際で、確実に学園都市からの脱出を達成しつつあった。
 外の世界よりも、三十年は進んでいる科学を有する学園都市の技術を欲しがっている人物・団体は枚挙に暇が無く、それは薬学分野においても例外ではない。
 輪館薬科研究所の一部の研究員は以前から連絡を取っていた外の組織に、学園都市からの脱走幇助を条件に全面的な技術提供を約束した。

 二つ返事で了承した外の組織は、もっとも警戒の緩む真夜中に収容施設へ潜入し、三人の研究者を連れ出した。彼らは今、学園都市の隔壁周辺の倉庫で、外の仲間による隔壁を越えるための工作準備が整うのを待っていた。
 神経質そうな研究員は、ジェラルミンのケースを抱えながら、しきりに親指の爪を噛み潰していた。
 研究所の患者が脱走し、研究所の不正な薬物開発も露見したことで、彼の研究の場は取り上げられてしまった。あのまま大人しくしていたら良くて執行猶予、悪くて即実刑。どちらにしても前科者として扱われる。学園都市内での再就職は絶望的だ。
 この甚だ不本意な扱いは、自分の頭脳に対する最高の侮辱であると、その研究者は考えていた。能力開発に薬学分野で貢献した彼を、学園都市は一顧だにせず切り捨てた。
 これは由々しき事態である。聡明な研究者は、この浅薄極まる判断を覆す義務がある。そのためには外の組織と協力し、自分への扱いが誤りであったことを学園都市に認めさせなければならない。
「まだか、まだなのか」
「あと二十分ほどだ」
 外の組織から派遣された潜入工作員は落ち着くように研究員を諌めた。警備員の追跡が気になるのは分かるが、ここで騒がれて、万が一所在がバレては元も子もない。

「輪館薬科研究所の、元研究員の方々とお見受けします」
 突然、闇の中に声が木霊した。
「あなた方の行動は外患誘致に抵触し、優れた技術が学園都市外へ漏洩する恐れがあるとして、当方はこれを如何なる手段を用いても阻止いたします。なお阻止行動には、対象の殺害も含まれております」
 全員が辺りを見回すが、積み上げられたコンテナに遮られた漆黒で塗りつぶされているだけで、警告者の姿は確認できない。
「外部協力者も含め、十秒以内に両手を頭の上に置き、うつ伏せになりなさい。以上の行動が確認されない場合、さらなる逃走、あるいは抵抗の恐れ有りと判断し、阻止行動を開始します」
 その言葉を最後に、警告は止んだ。工作員は拳銃を取り出し、周囲の警戒を始めた。長い筒がバレルの先に取り付けられたプラスチックポリマー製のそれは、サプレッサー対応のシグ・ザウアー・プロ現行モデル『SP2022』である。フランス内務省やアメリカ陸軍でも採用されている拳銃である。
 9mmパラベラム弾を使用する場合はオーバーサイズだが、むしろその余裕ある設計が射撃時のコントロール向上に繋がっている。コンシールド性は決して高くないが、射撃精度と動作の信頼性において非常に高い性能を持っている。

 拳銃を持って辺りを伺う工作員に対して、研究員は恐々と強ばる他無かった。
 十秒を超えたにも関わらず、さらなる警告は無い。そのことがさらに焦燥を煽る。
 先ほどまで聞いていたのは、何かの間違いだ。研究員の一人は、そんな気さえしてきた。
 怖がるばかりで何をしようとしない、もやしのように細い項を廷兼郎は鷲掴み、後ろ髪を引く。ただし、頚椎がずれてしまうほどの強さで。

 枯れ枝を折ったときの、乾いた音響が開戦の合図だった。
「ひ、ひあああ!!」
 狼狽する研究員に対して、工作員は速やかに迎撃動作を取る。拳銃を即座に構え、敵に向けて発砲する。
 先ほど殺した研究員の体を盾に、廷兼郎は突進した。一瞬、工作員たちは動揺し、発砲に間断が生まれる。
 研究員の体を放り投げ、近くの工作員にぶつける。律儀に研究員を抱えた工作員の両手が塞がっている。耳ががら空きだ。
 中指を立てた両手を工作員の耳に勢いよく差し込む。二本の中指が根元まで吸い込まれ、工作員は気絶した。
 すぐ後ろにいた工作員が、廷兼郎の肩を掴んで銃身を突きつけてきた。掴む猶予を撃つ動作に変えていれば、勝機があったかもしれないものを。

 憐憫を込めた瞳のまま、廷兼郎は右足の向きを変えるだけで相手の懐に入り込み、右肩を押し付けた。
 中国拳法、八極拳が套路の一つである鉄山靠てっさんこうに似た動作だった。
 廷兼郎が地面を踏み割る音が響くと、工作員は優に五メートルは吹き飛び、背中をコンテナに叩きつけて停止した。肩による打撃を食らった胸部が、不自然に凹んでいた。彼は胸に手を当てたまま、涎を垂らして地面に突っ伏した。
 三人目の工作員は銃を構えたまま、あろうことか仲間がすっ飛んでいく様を阿呆のように眺めてしまった。廷兼郎は度し難い隙を晒した彼の足に、躊躇無く下段回し蹴りを敢行した。
 右脛すねが左の膝関節の外側を直撃し、工作員は痛みのあまり声も上げずに崩れ落ちる。
 廷兼朗が打撃した場所は『足陽関あしようかん』と呼ばれるツボで、筋肉の境目であるために防御が薄く、的確に打撃すれば骨と神経へ効率的に衝撃を伝えることが可能となる。

 彼我の身長差は消えた。さすれば急所は目の前。
 返す刀の左膝で、しゃがもうとしている工作員の体が仰け反るほどに突き上げた。
 噴水のように口中から血を吹き上げ、工作員は仰向けに倒れこむ。モロに衝撃を受けた下顎は、真ん中から二つにばっくりと、骨ごと断ち割れている。
 今更痛みがこみ上げてきても、声を上げられるような口ではなかった。
 ここまでが、最初の研究員の絶命からきっかり十秒の出来事だった。

 この惨状をどう受け取ったのか、残り二人の研究員は虎に魅入られた鹿のように突っ立っていた。
「わ、分かった。投降する……」
 そのうち研究員の一人が、今更になって手を頭の後ろに当ててうつ伏せになった。
「これでいいんだろう。た、頼む、殺さないでくれ!」
 廷兼郎は言い募る彼に歩み寄り、手が置いてある後頭部へ速やかに下段の踵蹴りを見舞った。堅く尖った踵が正確に湾曲頸部の一番低まっている部位を蹴打し、研究員の頭が脚気検査の要領で跳ね上がった。
「あ、が……」
 痛みに耐えかねて声を上げるが、頸部と共に咽喉も踏み潰されたため、明瞭な発音は望むべくも無かった。
 阻止行動開始後の降伏は、廷兼郎にとって全く意味を持たない。
 既に勧告は行っている。そして十秒の猶予も与えている。それでも降伏しなかった時点で抵抗の意思は確認済みである。阻止行動の遂行は覆らない。
 対象を殆ど制圧し終え、最後の研究員を探すと、彼は降伏した一人を殺害している間に、倉庫の奥へと逃げていた。
「く、来るな、来るなッ!」
 口角泡を吹いて逃げる彼の尻を、廷兼郎は追いつき様、強烈に蹴り上げた。運動不足の研究員の体が、ゆるやかな放物線を描いて、コンテナの上に乗っかった。股間から夥しい血を漏らして、彼は痙攣を繰り返した。
 尻と睾丸の丁度真ん中、足の付け根には『会隠あいいん』と呼ばれる急所がある。これは両足に広がる動脈の分岐点であり、先ほどの廷兼郎のように正確な位置へ衝撃を与えれば、コンテナの上に寝転がる研究員のように、失血性ショック死を被ることになる。
 研究員三名の殺害、および外部工作員の無力化に成功。対象人物の逃走を阻止。然るに技術流出の危険性は皆無。これにて作戦目標の達成を確認。
「任務終了。これより帰還します」
 それだけ連絡し、廷兼郎は夜の倉庫街を後にした。


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