ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
第七章
練習:三
 緩やかに進むかと思われた展開が、一気に動いた。
 僅か指先が触れ合う程度に近づいていた間合いを、廷兼郎が詰めたのだ。するりと音も無く、精度の高い『無足』で滑り込むように荒涼の左方へと進みながら、彼の左手を自分のほうへと引き込む。左手首を押し上げられ、肘が上向きになり、荒涼の体も追従して浮き上がる。
 柔術で言うところの横固めへの入りである。
「うおお!?」
 浮き上がった肘に手刀が入る寸前、荒涼は体を右へ捻った。すると必定、取られている左手は引っ張られ、無理な角度になりかけていた肘が伸ばされて正常に戻る。
 こうした咄嗟の判断は、普段より人相手に技を掛け、また掛けられる練習を積まねば出てこない。技の入りから崩し、掛け、そして抜けへと続く一連は混沌として複雑な踊りのようにも見えるが、実のところ単純なルーチンの積み重ねにすぎない。
 実際に自由気ままに行なってもいいのだが、そこに待っているのは関節を極められ、固められると言う不自由な未来だ。本質的に混沌である闘争の只中から、有効性、実行性、機会、速度やリスクなど諸々の条件を当てはめて真に行なうべき動作を取捨選択することとそ、闘争の自由そのものだ。

 そして荒涼の取った行動は、単なる脱出を意味していない。右に体を捻ると言うことは、当たり前のようだが体を多少右前方に出し、右腕もまた前に出すと言うことだ。
 つまり右腕が、敵に近くなる。
 もはや条件反射、昆虫などと同じくらいに一律的反応で、荒涼は右腕を廷兼郎の首へ振るった。首に腕を絡め、チョークスリーパーへと移行するためだ。首を狙う動作を清廉した結果、複雑な判断の短絡として技術を繰り出す。
 腕ひしぎ逆十字固めや三角締めと並んで総合格闘では多用されているチョークスリーパー、あるいはバックチョークは、一度極められれば脱出が困難だ。相手は自分の背面にぴたりと貼り付き、こちらの動きを制限してくる。よほどの力量差、体重差が無ければ、抜け出すことは出来ない。
 だがそれは同時に、まず相手の後方へと回りこむという段階を踏まねばならないことを意味している。無論、そのようなことを易々と受け入れる廷兼郎ではない。荒涼が右に回りこんだのと同じく、廷兼朗も右に回りこんで荒涼の右腕から離れようとする。さらには捉えていた左腕の手首を返し、肘関節を上に向けたまま下から押すようにして固める。
「ぬ!?」
 一瞬、荒涼の動きが止まる。左腕の逆を取った状態では筋肉は引っ張られ、体を捻る動作が行なえない。必定、右腕の前進もそこで止まるはずだった。
 しかし廷兼朗は、後頭部に暖かな感触を憶えた。首が無造作に抱えられている。

 その手に力が込められる前に、廷兼郎は荒涼の左腕を離し、首を屈めながら後ろへと下がった。あと少し欲張っていたら、右腕だけで首を押さえ込まれるところだった。
 荒涼の筋量は、廷兼郎を遥かに上回っている。片腕だけでも十分に首を拘束し、絞め落とすだけの力があるため、この激しい攻防のなか、一手でも読み違えれば廷兼郎は荒涼の膨大な筋肉と真っ向から力勝負をせねばならない状況に陥ってしまう。如何に廷兼郎が武術を嗜んでいようと、物理的限界を云々できるわけがない。超能力者であるならばその辺りのことにある程度無頓着でも済むのだろうが、ただの無能力でしかない廷兼郎は、自分の物理的限界に対して過敏にならざるを得ない。
「おいおい、エグくねえか? 初っ端からよう」
「ファーストコンタクトが大事だって、いつも言ってるじゃないですか」
 軽口の言い合いで仕切りなおし、今度は荒涼から前に出る。これも廷兼郎と同じ、『無足』によるタックルだった。
 G-1トーナメントにて『無足』タックルを体得した荒涼は、さらに廷兼郎から手解きを受け、今では七、八割方の高い確率で『無足』を行なえるようになっていた。しかしそれはまだ、これと決めたタックルぐらいにしか活かせておらず、磐石とは言い難かった。
 『無足』の利点は筋肉による踏ん張りを必要としないことである。自分の体重を自分の筋肉で押し出すのではなく、重力によって倒れる動作に筋肉を追従させるのだ。落下の位置エネルギーを利用する分だけ筋肉に楽をさせていると解釈しても良い。そしてその分だけ、筋肉にさらなるパフォーマンスを期待しても良いだろう。
 僅か体が傾いたかと思われた瞬間、荒涼の体が廷兼郎に向かって突き出された。それはまるで槍。落下エネルギーで浮いた分を全て推進力に変えたように、爆発的な速度で廷兼朗の腰へと接近する。
 ただでさえ筋量の多い荒涼が『無足』を憶えれば、このような仕儀と相成る。単純な速度だけで言えば、明らかに廷兼郎のそれさえ上回っていた。
 しかしこのタックルを、廷兼郎はまるで恐れていない。来ているな、ぐらいの感慨でもって迎え撃とうとしている。
 既に廷兼郎は、荒涼のタックルを見切っていた。これまで練習に付き合ったことにも起因するのだろうが、そもそも荒涼が『無足』をタックルにしか使わない時点で、自ずと技の出所や機は窺い知れてしまう。
 『無足』は筋肉による踏ん張りを行なわない。それは単にエネルギーの節約、有効活用の域に留まらない。筋肉による踏ん張りがないということは、体を動かさないということだ。つまり動きの兆しを少なく出来るため、相手に自分の行動を悟られる危険を減らすことが出来る。

 だが荒涼は、『無足』を決め打ちして使っている。つまり動きの兆しを云々する以前に、気配で行くぞ、行くぞと伝えてしまっているのだ。
 そこまでお膳立てされたなら、廷兼郎としてはセオリー通りにタックルを切り、がぶって上から潰すだけである。そのまま後方に回ってバックチョークに移行しようとするが、荒涼もそれを嫌がって転がり避ける。しかし一度体が接触しているため、そう簡単には逃れられない。横転がりで逃げる荒涼に覆いかぶさり、腹の上に腰を乗せて動きを制限する。
 丁度マウントポジションと呼ばれる状態となる。そこまで至って廷兼郎は、展開の易さに疑問を浮かべた。
 案の定と言うべきか、組み敷かれた荒涼は実に落ち着きを払い、にやにやと笑っている。今この状況が、自分の想定どおりだと言わんばかりだ。 
「お前、マウント苦手だろ」
 指摘されたが、廷兼郎は頷くでもなくただマウントを維持する。しかし仕掛けるには至らなかった。
 天羽根流にも寝た状態での逆捕は存在するが、いわゆるマウントポジションというものは想定していない。そして『対抗手段カウンターメジャー』自体も、マウントポジションからの制圧というのを実は重視していない。

 能力者のマウントを取る。それはつまり、身動きできない状態で能力者に接近することを意味する。ただでさえ危険な能力者を相手に、それは無謀というものだろう。最強のエレクトロマスターである御坂美琴などのように、マウントどころか接近すら控えるべき手合いが殆どだ。勿論、能力によっては有効な場合もある。例えば荒涼のような身体再生者を制圧する場合であれば、むしろ率先すべきだろう。しかし習得の優先度で言えば、やはり低いことに変わりはない。
「バレちゃいましたか。それじゃあ、やれるだけやりましょうか」
 どこか他人事のような風に、廷兼郎の荒涼の左手首を押さえにいった。そのまま左腕全体を包むようにして上半身で覆いかぶさる。そのまま先ほどと同じく肘関節に 腕を差し込んで逆に決めようとする。V1アームロック。かなりポピュラーなサブミッションだ。
 しかしその動きが、目に見えて鈍る。
 V1アームロックへの移行とともに足を引き抜いていた荒涼は、ガードポジションで自由になった両足で廷兼郎の腹を挟み込んでいた。 
 シザーホールド。足の力を使って相手の腹部を挟み込む。相手の体を制御しながら内臓を圧迫し、スタミナを奪う。単体で試合を決めるわけではない地味な技だが、マウント・ガードポジションの攻防では非常に重要な技術である。
 しかしそれが、身体再生能力者として日々筋肉トレーニングを欠かさない荒涼が行えば、話は違ってくる。みし、みしと、まるで丈夫な木材が重量に負け、繊維を徐々に破いていくかのように不安な音が公園に響く。
 肋骨の防御が失せた下腹に、荒涼の膝が食い込んでいる。既に足の太さの半分ほどまで廷兼朗の腰が細ってしまっていた。中の筋肉や内臓が競りあがり、廷兼郎の胸の辺りがいつも以上の膨らんでいる。

 荒涼ほどのフィジカルであれば、ただのシザーホールドでさえ試合を決め得る。腰を挟まれているのでそれ以上体を捻ることが出来ず、体位を移行させられないので逃げることすら叶わない。そしてそのまま内臓を圧迫されて息も出来ず、スタミナは加速度的に奪われる。そうなればもう、筋肉を緊張させて防御することすら危うくなる。
 荒涼に残された仕事は足の緊張を緩めず、廷兼郎の挙動に注意するだけである。もし手を伸ばしてきてもガードポジションなので廷兼郎は大きく伸ばさねばならず、体重が乗せにくい。つまり容易に捕獲することが可能であり、そのまま三角締めに移行しても良い自由を荒涼は持っている。
 そのまま一分ほど経過しても、廷兼郎に動きはなかった。手を出せば取られるであろうことが確実な状態ではあるが、状況を動かさなければならないのは廷兼郎のほうであるのもまた事実だ。何かしなければ負ける以上、例え不利だとわかっていてもそこに飛び込む勇気もときには必要だ。
 そのようなことは既に弁えているはずの廷兼郎だが、ただシザーホールドに耐えているだけで、何をするでもない。

 ――そこでようやく荒涼は、展開の不可解さに思い至る。
 何故耐えられる? もはや膝が深く入り込んで、腹部の内臓は不自然に圧迫されている。胃や肝臓がみしみしと音を立てて、窮屈がって硬直し、横隔膜まで麻痺させているはずなのだ。
 廷兼郎の上半身ばかりに行っていた注意を、ここで腹部に戻す。そして足へさらなる力を込めてみるが、それ以上膝が入り込むことがなかった。
 廷兼郎の腹筋が、荒涼の足に耐えている。単なる力勝負であれば、荒涼の勝利は確実なはずなのに――否、よく見れば、むしろ押し返されている。
「ふううう、ふううう」
 静かに深く、神妙な息遣い。まるで寝息のように微かで落ち着いたそれは、廷兼郎の口から届いている。その一呼吸の度に廷兼郎の腹筋が盛り上がり、荒涼のシザーホールドを跳ね返してくる。
「シッ――」
「くう!」
 足の拘束が緩んだ瞬間を見逃さず、シザーホールドを行なっていた右足を取り、廷兼郎はヒールホールドへ即座に移行する。対応して荒涼もシザーホールドをすっぱり諦め、こちらも廷兼郎の足を取ってアキレス腱固めを行なう。互いの足首が抱えられ、異常な方向へと曲がり、あるいは限界以上に筋を伸ばされて――
「はい、終わりだよ」
 ぽんと、二人の方が叩かれる。時間を計っていた井上が時計をこれ見よがしに示していた。 


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。