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第六章
愛の拳、恋の蹴り:一
 ストレンジに程近い第十学区の一画を、黒い影が走り抜ける。人目を避け、大きな通りを避け、監視カメラを避け、それはするりとした身のこなしで暗い路地を進んでいる。
 見ればそれは二人組みだった。男が一人の女を背負っている。
「ありがとう、アザオ」
 背負われている女が言った。浅黒い顔は青褪めており、言葉を搾り出す唇も僅かに震えている。
 彼女の名はラタナチャイ・シングレック。学園都市に潜入してスパイ活動を行なっている魔術師である。相当なムエタイの実力と、今日日では珍しいほど精霊に愛される素質を兼ね備えた類稀なる魔術師の彼女だが、今現在の憔悴ぶりを見れば、それも疑わしく思えてしまうだろう。
 それもそのはず、ほんの数分前までラタナは神裂火織という、世界に二十人といない聖人の一人と対峙し、見事打ち倒されてきたばかりなのだ。

「お礼なんていいよ。そんなつもりで助けたんじゃないんだ」
 そんなラタナの苦労をねぎらうように、努めて柔らかい口調で男が答えた。彼女にアザオと呼ばれた男は、本名を字緒廷兼郎あざおていけんろうと言う。無手にて能力者を制圧する技術を開発するプロジェクト『対抗手段カウンターメジャー』の研究協力者である。
 最近出会った二人は、互いにムエタイを教えたり、学園都市について教えたりと、見た目親密な関係を築きつつあった。そんな廷兼郎は、ラタナの窮地に素早く駆けつけ、彼女をその場から救い出したのだ。
 あの聖人の一撃で肋骨を割られたラタナは痛みに堪えながら、振り落とされないようにしっかりと廷兼郎のジャケットを握り締めていた。彼女もまさかあのように絶妙なタイミングで、廷兼郎の助けが入るとは思っていなかった。どうして? と訝しく思うところもあったが、その場では渡りに船と、一も二もなく廷兼郎の手を握り返した。
 そして廷兼郎も何も言わずラタナを背負い、ストレンジの瓦礫に紛れてあの場から迅速に離脱した。
「本当に、礼を言うことじゃないさ」
 廷兼郎の声を聞きながら、ラタナはやはりこの男を引き込んでおいてよかったと回想していた。元より学園都市の人間ではないラタナが効果的に諜報活動を行なうには、内部の協力者が不可欠だった。そこで彼女は笛の音に乗せて魅惑の魔術を振り撒き、のこのこと現れた廷兼郎を魔術的に支配して内部協力者に仕立て上げた。
 ラタナに魅惑され、心酔した廷兼郎は、まるで自分で思い立っているかのように錯覚しながら、ラタナの諜報活動を幇助することになった。まるでデートのように学園都市を廷兼郎が案内したことで、もはや地理的情報は全てラタナもとい彼女の所属している組織に筒抜けである。

 しかしそれも永遠には続かなかった。学園都市の如何なる組織かまではラタナには分からないが、土御門と名乗る魔術師によってラタナは迎撃されてしまった。驚くべきは学園都市という科学の総本山にて同じ魔術師をけしかけられたことだったが、恐らくは自分と同じく学園都市に潜伏しているスパイなのだろうと推測していた。
 科学と魔術は遠いからこそ、互いの動向には酷く敏感である。表向きには冷ややかな態度でも、中では活発に取引や交渉が行なわれているというのは国家間や企業間でもよくある話だ。その組織とラタナの利益とがぶつかり合い、今回のところラタナは排除されてしまった。
 しかし、まだ望みはある。そもそも命を取られていないのだから、まだまだやりようは幾らでもあるのだ。それにラタナから見れば、あの土御門の一派の行動はどうも判然とせず不徹底な感を否めない。何故なら自分の仲間かもしれない廷兼郎を始末せずに、こうして生かしているからだ。そのように爪の甘い連中ならば、出し抜くことも可能だろうと、ラタナは心のうちでほくそ笑んでいた。
 可能性は残されている。それだけでも、ラタナにとっては収穫だった。
「少し、寝る。あとで、起こして」
「わかった。ぐっすり寝てな」
 先の戦闘はいつにも増して過激だった。その中でどれだけのピーに助けられたことか。数えるのも億劫になってしまうほど損耗が激しい。
 今は次に備え、力を蓄えねばならない。
 廷兼郎の背中に顔を埋めて、ラタナの意識はまどろみの中に消えていった。



 夢も見ぬよな熟睡が、顔に浴びせられた冷や水で遮断された。
「起きろ、ラタナ。ほら、起きろ」
 そして容赦ない平手打ちが、ラタナの意識を無理やりに覚醒させる。いきなりの衝撃にろくな反応も返せないまま、ラタナはぼうっと目の前の人物を見上げている。
「……アザオ」
「おはよう。寝顔も可愛いねえ」
 いやらしいまでに口の端を吊り上げ、廷兼郎はラタナの見下ろしていた。
 鑑みれば、ラタナは椅子に縛り付けられていた。いつの間にこのようなことになっているのか、ラタナにはとんと覚えが無かった。廷兼郎の背中で寝ていて、次に目が覚めてみれば椅子に縛り付けられ、水を浴びせられて平手で打たれた。
 激しい状況の推移に、寝覚めのラタナはまるで追いつけなかった。
「君の始末は土御門さんたちに任せるつもりだったが、少し事情が変わってね」
 未だ夢見心地のラタナに気を使うことなく、廷兼郎は言葉を羅列する。

「君に騙されていたとはいえ、学園都市の不利益になるスパイ行為を幇助してしまったから、その疑いを晴らさなきゃいけないんだ」
 分かった? と言って覗き込んでくる廷兼郎の顔には、やはりいやらしい喜色が浮かんでいた。
「タイ人には難しい話だったかな?」
「難しいわね。日本人は回りくどくていけない」
「いや全く、国民性丸出しで申し訳ない。それじゃあ、簡単な話をしようか」
 そう言って廷兼郎は、胸元から小振りのナイフを取り出した。その刃の煌きをラタナの顔に当てて、にんまりと微笑む。
「戦って死ぬのと、戦わないで死ぬの、どっちがいい?」
 先に宣言したとおり、起き抜けの人間にも分かりやすい話だった。その率直さは状況を理解するには不十分だったが、決断するには十分な強さを持っていた。

「それは、戦士ナックモエにする質問じゃない」
 聞くなり、廷兼郎の持つナイフが翻る。それはラタナの体をなぞるようにして振るわれた。
 張り詰めた縄が断ち切れ、途端、ラタナを椅子に縛り付けるものが何も無くなった。
「立ちなよ。座ってちゃ、ムエィタイは出来ないんだろ」
 わざわざ『ムエタイ』の部分を本来の発音で言う。その語尾の上げ具合から、その発言が廷兼郎からラタナへの意趣返しであることが窺える。
「もう始めるの? ここだと、少し手狭だわ」
 ラタナの言うとおり、そこは単なる一室だった。やり合うのに場所は選ばずとも、手狭なのは否めない。

 移動しないならそれで良し。既に体の緊張は高まっている。いつ何時仕掛けられようとも応えられるし、いつ何時でも仕掛けられる。
 単にこれは、廷兼郎を試す言動に他ならない。
 魅惑を掛けたはずの相手が、何故このような仕儀に打って出たのか。それを確かめる材料が、今は一つでも多く欲しい。
「じゃあ、移動しようか」
 そう口にしたときには、既に廷兼郎は部屋の戸を開け放っていた。
(こいつ……)
 今度は、ラタナが試されている。ここで仕掛けてくるか、あえて乗ってくるか。
「ええ、行きましょうか」
 あえて仕掛けに乗り、ラタナは部屋を出る廷兼郎の後ろに従った。


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