旨い。旨すぎる。
綿飴のように繊細で滑らかな歯応えと喉越し。舌にいつまでも残るまろやかさと濃厚なコク。どれを取っても、いかなる料理に勝るものがある。
足りない。こんなものでは足りない。一キロ弱の量ではまるで足りない。もっと食べたい。もっともっと食べて、満たさなくてはならない。自分の能力を、自分の頭を、自分の精神を。
人間の脳髄は、かくも美味なるものだ。
第二学区にある訓練施設で、廷兼郎は男と向かい合っていた。屈強な体つきの相手は、ゆさゆさと体を振ってリズムを取り、踏み込む機会を窺っていた。
対する廷兼郎は、肩口から伸ばした左手を緩く開き、右手は臍の前で、掌を下に向けて置いている。
男は鋭いステップから、勢いを殺さずワンツーを放つ。踏み込んだ分伸びてくる拳が、廷兼郎の顔面目掛けて走る。
次の瞬間、男は右腕を伸ばしたまま、がくりと膝を突いて呻き声を上げた。廷兼郎は左ジャブを弾き、右ストレートを左手で受け止めると、そのまま手首を極めていた。
一瞬の攻防に、周りで見ていた学生からは称賛の声が上がる。
「このように、相手の手の甲をこちらに向けた状態で握り、親指で薬指の付け根を押さえます。ここにはツボがあるので相手は力が入らず、逃げることは出来ません」
空いた右手で関節技を極めている左手を細かく指差して説明する。学生たちはその説明を熱心に聞いている。
廷兼郎はこの訓練施設で、戦闘技術の教導を行っていた。彼は高校に特待生として入学し、その入学条件に訓練施設での戦技教導も含まれているため、定期的に訓練施設での実技訓練を警備員や風紀委員に対して行っていた。
廷兼郎は、こうした仕事をこなせば学費は免除、そして生活費と家賃も保証されるとあって、むしろ労働することが楽しいとさえ思えていた。
「それでは二人一組になって、今までの動きを練習してください。仕手は顔ではなく腹を狙ったりと、色々工夫してみてください。受手は無理に綺麗に極めようとしなくて良いですから、初めはゆっくりやってみてください」
先ほどの屈強な男は「お願いします」と挨拶し、今度は廷兼郎から繰り出された右手を掴み、捻り上げてみせた。
「いいですね。藤原さんは体が大きいから、より力で押さえ込むようにしても有効でしょうね」
「プロレスの脇固めみたいに、押さえ込んだほうがいいですか?」
「相手が一人の場合は、それで大丈夫だと思います。ただ、複数居た場合は脇固めをして寝転んでるところを攻撃される可能性があるので、どちらも憶えて、状況によって使い分けることが理想です」
「なるほど。分かりました」
そうしている間に訓練時間が過ぎ、チャイムが鳴り響いた。他の学生たちは既に手を止めていた。
チャイムが鳴り終わる頃には、皆その場に正座して、背筋をぴんと伸ばしていた。
「それでは、今日の訓練を終了します。お互いに、礼!」
「ありがとうございました!」
「自分に、礼!」
「ありがとうございました!」
「神前に、礼!」
「ありがとうございました!」
世界最高の科学技術を誇る学園都市の中であろうと、武道は礼に始まり礼に終わる。廷兼郎は開始と終了の礼を徹底し、それを行えない者には、絶対に自分の技を教えないということを堅く決心していた。
例えそれが観念的に過ぎず、非効率的だと言われても絶対に譲れないと、戦技教導官に就任する際の面接で宣言していた。
そんな廷兼郎の決心は、風紀委員と警備員の前では杞憂に過ぎなかった。彼らは皆、自分から志願して加入しただけあって、やる気とモラルは非常に高い水準にあり、廷兼郎の主張をすんなりと受け入れてくれた。
三つ指を立てた礼を終えると、皆はジャージから着替えるために更衣室へ向かった。
「字緒さん、さよなら」
「はい、さようなら」
「んじゃ廷さん、あばよ」
「はい、さようなら」
「字やん、またね」
「はい、さようなら」
風紀委員の年齢層は小学生から高校生まで存在し、高校一年生の廷兼郎は、年下にも年上にも教官として接しなければならない。
廷兼郎としては、あまり教官面をしたくないので、『教官』や『先生』といった単語で呼ぶのは遠慮してもらっている。そのためか、フレンドリーすぎて教官としての示しがつかない場面が多々あった。
そこが例外的に未成年で訓練施設の戦技教導官になった廷兼郎の、唯一の泣き所だった。
「このままでいいのか。もっとビシッとしたほうがいいのか。示しがつかないって言われても、同年代なんだからしょうがないよ。この際ヒゲでも生やすか!」
「何を一人で喋っていますの」
「そげぶッ!?」
驚いた廷兼朗が振り向くと、そこには制服に着替え終わった白井黒子が立っていた。
「白井さんか。脅かさないでくださいよ」
「空間移動は神出鬼没が身上ですの」
「ここで発揮しなくてもいいでしょうに」
「ところで廷兼さん、この後何かご予定はありますの?」
「この後の予定ですか? トレーニングに当てようかと思ってますけど……」
「つまりは暇ですのね」
「何て身も蓋もない言い方!」
ガーンと衝撃を受けた廷兼郎の肩にぽんと手を当て、白井はにっこり笑った。
「さ、行きますわよ」
「ちょ、ちょっと待って。どこ行くんですか? せめて着が――」
廷兼朗が首に掛けていたタオルが、ふわりと道場の床に落ち、人の姿は掻き消えた。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。