再びの逃走
それから3週間後――
トウア国立中央総合病院が襲撃された。
トウアに住む一部のシベリカ人の間では、「トウア人に天誅を下した」としてキリルとサラは英雄扱いだった。
特にサラについて「シベリカ人の子どもらを食い物にした憎きトウア人を罰した」という情報が出回っていた。
そして間もなく、英雄キリルとサラを助け出すために、一部シベリカ人による『反トウアチーム』が結成され、二人が入院していたトウア国立中央総合病院を襲ったのだ。
当然、キリルとサラを監視していた治安部隊隊員らが応戦したが、その時はキリルとサラの監視はそれぞれ2名、計4名しかおらず、多勢に無勢だった。キリルとサラは『反トウアチーム』らと一緒に逃げた。
通報を受けて、大勢の治安部隊が非常線を張った。
この時、特命チームも任務に加わり、特戦部隊と共にまず『反トウアチーム』を抑え込んだ。
しかしキリルとサラだけが見つからなかった。彼らはまだ傷は完治していない。遠くに逃げられるはずがない。反トウアチームの連中のほかに、逃走の手助けをした者がいたとしか考えられなかった。
警察捜査隊とパトロール隊も必死で捜査するものの、手掛かりはつかめない。
――そんな治安部隊を尻目に、幌付き軽トラックが走り去る。
そのトラックにはいろいろと荷物が積んであり、検問所のパトロール隊員らは、とりあえずいくつかの荷物を調べたものの、さすがに全てを調べる時間はなく、怪しいところはなさそうだったので、そのまま通してしまっていた。
軽トラックは西地区『シベリカ人街』へ向かった。道路は大渋滞であった。途中、さらに検問があり、治安部隊が一台一台の車を調べていた。が、そこもクリアーできた。調べる車の数があまりに多く、調べるほうもおざなりになっていったのだろう。治安部隊側の人手不足も響いていた。
やがて軽トラックは、西地区『シベリカ人街』にたどりつき、ある町工場の敷地内に停まった。
運転席から出た女は帆の中の荷台へ上がり、荷物を次々に脇にどかす。
「もう大丈夫よ」
積まれていた荷物の中から、サラとキリルが出てきた。
キリルは訝しげにミスズに問うた。
「なぜ、オレたちを助けた? 何をたくらんでいる?」
ミスズはキリルとサラを幌付き小型トラックの荷台に後ろの段ボール箱の中に隠し、荷物と一緒に紛れ込ませ、西地区『シベリカ人街』まで送ったのだ。
病院襲撃計画も予め知っていた。所詮、素人が立てた計画で、内容は杜撰、よって守秘についても杜撰で、ミスズはスパイをやっていた時の伝手でその情報を手に入れていた。
なので個人的にこっそり準備し、キリルとサラの逃走を助けたのだった。
「なぜかしらね。一度はサラを始末しようとさえ思ったのにね。だから私を信用しろとは言わないわ。でも、もう私の任務は終わったし……ただの気まぐれと思って、けっこうよ」
ミスズはそう答えたものの、心の中ではこう思っていた。
――とにかく、私はマスメディアが大っ嫌い。今、マスメディアはシベリカ人を嫌悪し、反シベリカ一色。ほんの数年前までは「貧しいシベリカを助けよう」「シベリカ人や外国人たち弱者にもっと権利を与えよう」「シベリカ人を差別するな。仲良くしよう」などと叫んでいたくせに。本当に臆面もなく、手の平を返す。
今現在のマスコミは、壊滅状態となった共和党の悪口よりも、シベリカ人の暴動について取り上げ、シベリカ人叩きに一生懸命。だから反対に、私はシベリカ人を応援するほうへまわってみたくなった――
「ま、あなたたちが捕まると私も困るのよ。警察に私のことをしゃべられては困るしね」
ミスズは肩をすくめ、キリルを、そしてサラを見やった。サラは相変わらず無表情だ。
――サラが抱えていたものが、なんとなく自分にも通じるところがある。だからちょっと助けてやりたくなったのかもしれない――
サラから視線を外したミスズは、ふと頬をゆるめる。
「じゃあね。もう捕まらないように用心してよね」
ミスズは軽トラックに乗り込み、エンジンをかけた。
キリルは不可解そうな顔をしながらも、ミスズを見送った。サラも走り去るトラックをずっと見つめていた。
それから――
キリルとサラは協力者の伝手を頼り、あるシベリカ人の会社倉庫を借り、当分の間、そこで生活することになった。
西地区の『シベリカ人街』に対する西地区管轄の警察捜査隊は、中央地区ほど厳しくなく、警戒も緩く、これといった監視体制も敷かれていなかった。ここなら当分の間、安心して隠れて暮らせそうだった。
薄暗い倉庫の中で、キリルとサラは体を休めるべく、埃臭いマットの上に寝転がっていた。
そこで、ふとキリルが思い出したようにサラに話しかけた。
「あの……捕まった時のことだけどさ、あの治安部隊の男の質問にけっこう答えていたよな。敵と言っていい相手に、お前があれだけしゃべるの、めずらしいな。なぜだ?」
「……なんとなく、話してみたかった……」
「どうして?」
「あいつ……一番悪いのはシベリカ国だと言った。今までそんなこと考えたこともなかった。でも、妹たちを殺したのはたしかに臓器売買組織で……そんな組織がはびこっているシベリカっていう国に疑問を持った。思えば、トウアにはそんな組織があるっていう話、聞いたことがない……子どもが売られたり、あちこちで誘拐されたりという話も聞かない。誘拐事件は稀にある程度……だから、話してみたくなった」
「……そうか……」
たしかに自分たちの国がどういう国なのか――考えたことはなかった。
「国を変える……」
あの時のセイヤから言われたことがいつまでもキリルの頭にこびりついていた。
自由を与えられ、最初は戸惑っていたが、いつの間にか「自由を手に入れた自分が本当にやりたいこと」を考え始めていた。そして「大切な者」について思った時、ふとサラを見つめてしまった。
――サラがオレにとって大切な者なのか。
――いや、けっこう長く一緒にいたから、単に情が移っただけだ
――でも、それがオレにとって大切な人ということになるのか。
その時、キリル自身がセイヤに言った言葉が思い出された。
『大切な人が死ねば、寂しいとか悲しいとか、そういう気持ちが持てるんだろうな。身の回りに大切な人がいて、そういう感情が持てるヤツらは幸せだよな』
キリルは想像した。もしサラが死んだら、自分は寂しいのか、悲しいのか?
よく分からなかった。でも、できれば傍にいてほしい……そう思った時、なぜか感情がコントロールできなくなった。
『せいぜい苦しめ』
またセイヤの言葉が頭をよぎった時、キリルは身を縮め伏せた。
そして――慟哭した。
そんなキリルをサラは黙って見つめていた。ただ、そんなキリルを見ているうちに、感情の蓋が開きそうになり、必死でそれを食い止めた。感情の蓋を閉じたままでいたいなら、キリルから離れればいい――なのに、なぜかキリルから離れたくなかった。
それに結局……またキリルに助けられ、借りを作ってしまった。だからキリルを見捨てることはできない。
――そう、あの時も――
サラの心がざわめく。ずっと昔のことが脳裏に浮かぶ。
当時、シベリカの工作員訓練所でサラは突出して優秀だったがために、ほかの訓練生からいじめられていた。殴られる蹴られるのは当たり前。給食にゴミや唾、ゴキブリを入れられるのもしょっちゅうだった。
でもサラはあまり気にならなかった。殴られ蹴られるのも避けようと思えばできたし、反撃もできたが、あえてしなかった。生きながらに心臓を取り出されることに較べたら些細なことだ。妹を見捨てた罰として、もっといじめてもらってもいいくらいだった。
そんなある日――シャワーを浴びている時、妹の形見となったお守りが消えてしまった。
そのお守り――幼い妹は母親に手伝ってもらいながら袋を作り、中に鮮やかな赤い石を入れて、サラの誕生日にプレゼントしてくれたものだった。石も一生懸命探したらしい。赤い石は太陽に当てると本当にきれいだった。
サラはずっとそのお守りを身に着けていた。何を奪われても頓着しなかったサラにとって、これだけは手放せない『譲れない何か』だった。
消えたお守りをサラは必死で探した。
そんなサラを訓練生らはクスクス哂いながら眺めていた。
「汚かったから、ゴミと一緒に捨てられたんじゃない」と、ある訓練生がからかった。
するとサラはゴミ捨て場に飛んでいき、そこで探し回った。訓練生たちは大笑いだった。
そこへキリルがやってきた。
「お前の探しているのはこれか? あっちの木の枝にぶらさがっていたぞ」
キリルはサラが探していたお守りを手にしていた。
サラはキリルからお守りをひったくるようにして受け取った。ホッとしつつ、お守りを身に着け、顔を上げた時には、もうキリルはそこにいなかった。
お礼を言う前にキリルはどこかに走って行ってしまった……。
それからも……なんとなく、キリルにお礼を言いそびれ、ずっとそのままになっていた。
キリルはすっかり忘れていたようだが、サラにとっては『大きな借り』だった。
けれど今、お守りはサラの手元にない。トウア国立中央病院か、あるいは警察にあるのか……逃げる時はもう、お守りを探している暇などなかった。
でも、なぜか――お守りにこだわっていない――そんな自分にサラは驚いていた。
それにお守りを握りたくても、今のサラにはそんな握力がなかった。リサの銃撃によって、左右の手の自由があまり利かなくなってしまっていた。モノを持つことさえ困難だ。
キリルの慟哭は続いていた。
サラはただキリルを見つめることしかできなかった。キリルに返したつもりの借りが、またできてしまい、どうすれば返すことができるのか考えたが、サラには分からなかった。
そして、本当は天国というものがないのか?――あの男の言った言葉がいつまでも心にこびりついていた。
――死んだら、消滅するだけ――
サラは頭を抱え、身を縮めた。
生まれて初めて、サラは恐怖心というものを抱いた。
妹がいなくなってから、封印してきたサラの感情の扉が今、開こうとしていた。
――お守りに代わる何かを自分は得た――?
『せいぜい苦しめ』
あの男の言葉が聞こえてきた。