第8章
「ねえ、一言いってもいい?」
一か月後に絵が完成間近となった時、わたしは水車小屋のアトリエで、とても自分自身がモデルとは思えない裸の女を指差して、そう聞いた。
意見があればどうぞ、というように理一郎は頷いている。
「これ、一体だれ?ラファエル・コランの『花月』みたいな美人じゃない。理一郎、あんた確か言ってなかったっけ?ムンクの『思春期』っていう絵の少女にわたしが似てるとかなんとか……確かにね、あの絵の女の子とはわたし、髪型とか、胸があんまりないとことか、似てるかもしれないわ。でもねえ、いくらなんでも流石にこれはデフォルメしすぎなんじゃないの?」
「そんなことはない」やけに自信たっぷりに、理一郎はそう言い切った。
窓からは茜色の夕陽の光が、その日一日と別れを惜しむように、強く差してきている。そしてサフラン色の空と溶けあったオーロラを思わせるその色彩は、杉の樹や楢の樹を彩って、窓辺の景色を美しい一枚の影絵のように見せていた。ピー、ロロロロ……と鳶の鳴く声が、夕空を飾るように響いてきている。
「第一、なんでそんなふうに怒った口調で言うかな。それとももしかしてユカリは、ロートレックかアンソールの絵の登場人物みたいになりたかったとか?そういう描き方もまあ、できなくはないけど――どっちにしても君が満足するとは思えないな」
出会ってから初めて、お互いの間に剣呑な空気が立ちこめたその八月も末の暑い水曜日――もしかしたらわたしは少し、ナーバスになっていたのかもしれなかった。何故ってわたしはその日、初めて水車小屋で一夜を明かすことになっていたから。喧嘩でもすればそのことを理由に逃げられるかもしれないとの思いが、無意識のうちにも働いてしまったのかもしれない。
「とにかく、ユカリがなんと言おうとも、僕はこの絵の出来映えに満足してる。修道院のほうにも僕の描いた宗教画が何枚か飾ってあるんだけど、その中では聖女チェチリアがこれまで描いた女性の最高傑作だった。でもこの絵のほうが、遥かに素晴らしいよ――何故ってユカリは現実に肉を持って存在していて、今こうして目の前にいるんだから」
(まったく、なに言ってんだかなー、この男は)と思いつつも、惚れた弱味というべきか、わたしは照れたように前髪をかき上げて、小さく溜息を着いた。
理一郎はといえば、自分が描いた絵の女性にうっとりするように、見惚れている。果たして彼が現実に存在しているわたしと、絵の中の彼女とどちらが好きなのか――それは疑問だった。彼は一筆一筆繊細なタッチで、キャンバスそのものを愛おしむように丁寧にその絵を仕上げていっている。わたしは裸のまま再びソファの上に横たわると、彼の目が現実の自分という女に注がれていないことを不満に感じた。何故って――その瞬間、わたしにはわかってしまったからだ。彼はわたしの中にある、<何か特別なもの>を具現化することに成功したので、もはやそれ以外の残りのもの、つまり汚らわしい肉の重みを持つ女などにはまるで興味がないのだ。今日ここへ泊まりにこいと言ったのもおそらくは、それこそ<最後の仕上げ>としてその残りのものを処分するためなのだろう。
(べつにいいわよ、それならそれで)
わたしは自分の怒りに正当性を感じて、キャンバスの向こうの理一郎のことを睨みつけながら考えた。もはや彼はわたしのことなど見てもいない。赤い蝋燭の放つ光の輪の中で、ただせっせと絵筆を動かして、美の女神のために奉仕しているだけだ。まるで、あなたのためなら命を捨てることさえ惜しくない、とでもいうように。
(このガウンも、自分のものだなんて言ってたけど――本当はきっと、そうじゃないんだわ。これまでにも何人か、わたしと同じような犠牲者がいて、最後には今のわたしと似たような気持ちになって、彼と別れることになったんじゃないかしら)
わたしはソファの背もたれにかけておいた薄いクリーム色のガウンを手にすると、それを着るために上体を起こそうとした。理一郎はすでにもう、わたしというモデルの存在を必要としていなかった。それなのにこれ以上、一体なんのために裸でいる必要がある?
そうわたしが悲しく思った時、深緑色のカーテンの奥のほうで、ガタリと何か物音がした。続く人の揺らめくような気配――間違いなくそこに誰かがいると、わたしはそう直感した。
「……理一郎。もしかして、わたしたちの他に誰か、ここにいるの?」
わたしはキャンバスの向こうの彼に向かってではなく、深緑色のカーテンと、その隙間にある深い闇に向かってそう訊いた。
「ここには、君と僕以外<誰もいない>」と、理一郎は即答した。でも何かが変だった。あれは決してネズミや風の音というわけではなかった。明らかにわたしが体をソファの上に起こしたから――それで驚いてよろめいたといったような、そんな気配だった。
「こんなこと、聞きたくないけど」わたしは勇気を振り絞るように、声を大きくして言った。ガウンで裸の体を隠しながら、その手が震えるのを感じる。「まさか、わたしがいつもここにいる間、誰か他にいたなんてこと、ないわよね?」
「そんなことはないよ」
それは奇妙に抑揚を欠いた声だった。彼のほうを振り返っても、その顔の表情はキャンバスに隠れていて見えない。どういうつもりなのだろうとわたしは思った。まさか、彼が今日ここへこいと言ったのは……。
テーブルの上の赤い蝋燭が、ジジ、と微かに音を立てたような気がした。そしてわたしがそのどこか神聖さをたたえた光の輪に、一瞬の間捉えられそうになっていた時――緞子のような厚いカーテンが開いて、闇の中から背の高い男が現われた。
「……理一郎っ!」
わたしは驚いて叫んだ。それは確かに理一郎本人だった。でも彼は、今キャンバスの前にもいるのだ。その証拠に、わたしの叫び声を合図とするように、理一郎は椅子から立ち上がった。同じ顔がふたつ――わたしは混乱して、ふたりの人間のことを交互に見やった。そして突然闇の中から現れたようなもうひとりの理一郎は、わたしのその混乱を利用するようにソファの上へ重くのしかかってくると、わたしの足を容赦なく開いて乱暴に犯したのだった。
そのあとのことでわたしが覚えているのは、僧服姿の理一郎が悪魔のような微笑みを浮かべて、わたしが犯されるのを見ていたことと、おそろしく力の強い男が自分のことを征服したという、そのふたつのことだけだった。それと、印象に残っていることがもうひとつ……その男の鼠色のシャツには強い煙草の匂いが染みついていたということだけだった。
当然ながら、理一郎は煙草を吸わない――いや、もしかしたら隠れて吸っていたという可能性もなくはないけれど、少なくともわたしは彼が煙草を吸っているところを見たことはない。
ということはやはり、彼は別人だったのだろうか?
そんなふうに思い至ったのは、帰りのバスの中でのことで、わたしは処女を喪ったその翌朝、誰もいない水車小屋でひとり目覚めたあと、なんともいえない恐怖のあまり、すぐに走ってそこをでたのだ。ポプラ並木の下、茶色い道を走っている途中で、修道院から荘厳な鐘の音が鳴り響いてきたのを覚えている。でもわたしは振り返らずに、息が切れるまで走り続け、始発のバスに乗りこんだのだった。
不思議と、こんなのってあんまりだとか、そんな気持ちはわいてこなかった。ゆうべ乱暴に犯された、血の滲むような痛みのことを思っても、涙もでない。
ただわたしは夏が終わるのと同時に、自分の初めての恋が無惨に散ってしまったのを悲しく思ったという、それだけだった。
(やっぱりあれは、理一郎とは別人だったのよね?)
続く虚しい秋と冬という季節の間、わたしはあの夜、自分の身に起こったことを反芻しては、そう自問自答し続けた。
肩幅の広さや腕力の強さだけを考えてみても、あれが理一郎と同一人物だとは、わたしにはとても思えなかった。そう考えると、物理的には――あの男は理一郎の双子の兄か弟、あるいはとてもよく似た兄弟ということになる。でも魂の直感とも呼ぶべき何かが、わたしのそんな理性的な論理にいつもひびを入れるのだ。何故って――絵を描く理一郎は精神の化身そのものといった感じだったけれど、対して、もうひとりの彼は、まるで肉体の化身とでも呼ぶべき存在で――その違いについて考えはじめるとわたしはいつも、頭の底が闇色をした液状の、混沌の沼と化していくのを感じた。
そして思う。論理的整合性なんて、なんの意味も持たないと。今目の前にあるのはただ、渇ききったような現実感だけだ。心臓を絞って一滴の血もでなくなったあとのような、虚しい感覚……でも次期にこの感覚にも慣れるだろう、わたしはそう思った。自分は強い人間だから、このくらいのことは耐えられる、そう過信した。まさか自分が失恋したくらいで――処女を喪ったくらいで自殺未遂をはかるだなんて、思ってもみなかったのだ。