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第5章

 内面を磨いていい女になる早道が、たくさん本を読むことだとは思わないけど――それでも、友彦さんのことを好きになり、彼の知識により近づきたくて、わたしはここ一年というもの、随分たくさんの本を読んできた。

 世界美術大全集にはじまって、世界文学全集、ニーチェやキルケゴールの哲学書や、イエイツ、ポー、ゲーテ、ワーズワース、ボードレールの詩集などなど……友彦さんの家の本棚には一万冊を越えるくらい本がぎっしり詰まっていたので、自分でお金をだす必要もなく、好きな時にいくらでもたくさんの本を読むことができた。

 そして結局のところ、気持ちが友彦さんから理一郎に移ってしまった今では――そうした知識を得たことは彼に出会うための準備だったのではないかとさえ感じてしまう自分がいる。

(やれやれ。わたしも奴のロマンティック病が移ってきたのかもしれないなあ)

 木曜日の朝、重箱におむすびやおかずを詰めこみつつ、わたしはそんなことを考えた。鶏そぼろ入りおむすびに、アスパラのべーコン巻き、チーズ入りミニハンバーグ、タコさんウィンナーに卵焼き……などなど、さらにこの他にサラダと果物を小さなタッパに詰めればすべて完成、と。

 そのあとわたしはお茶を飲みながら、『西洋美術の歴史』という分厚い百科事典のような本をパラパラめくって時間をつぶした。そしてきのう理一郎が言っていたヒエロニムス・ボスの『快楽の園』、『干し草車』、『聖アントニウスの誘惑』……といった絵にふと目がいった時、そろそろバスに乗らなくてはいけない時刻であることに気づいた。

(幻視ねえ)

 それらの絵は、まるでそうとでも説明しなければ到底人間の手に描けるはずのない種類の絵画であるとは感じる。価値のない干し草を奪いあう人間たち、そして地獄へ落ちた人間どもを食らう異形の者ども……絵のスタイルはまるで異なるけれど、確かに理一郎の描く宗教画にも、まったく同じ雰囲気や匂いのようなものをわたしは感じていた。それは宗教画であるにも関わらず――どこか不敬虔で頽廃的なのだ。神の存在を確かに信じてはいるが、絵の中でくらい自分の信仰心を自由に表現してもいいはずだ、というような。

 わたしはキリスト教徒ではないけれど、それでも本による知識はある程度あったので、理一郎が一枚一枚の絵にこめたメッセージ性のようなものは理解できるような気がした。つまり、妖怪の跋扈する地獄というのは本当の地獄という場所に存在する以前に、人間の心の内側にあるということ、幻視というのはすなわち――そのイメージを絵の中に固定化して再現できる能力のことをいうのではないだろうか。


「それは正解とはいえないけれど」と、理一郎は嬉しそうにお弁当へ箸をのばしながら言った。「まあ、理詰めで考えたにしてはそう悪くない答えだとは思う。何よりもユカリがそんなふうに僕と会っていない間も色々考えてくれたことが嬉しいよ」

「べつに、そういうわけじゃないけど」わたしはトマトとツナのサラダを、ごまかすようにもぐもぐ食べた。あらまあなんて美味しいの、というような白々しい顔をしつつ。「確かにあなたには絵の才能があるんだと思うわ。素人の目から見ても、そのことだけははっきりとわかる。で、とても不思議になったのね。生まれた時からそういう環境だったからっていうこともあるんだろうけど――神父になるか絵描きになるかで悩んだりしたことがきっとあるんじゃないかって。その矛盾とか葛藤がああした」と、わたしは壁にかかるダンテの『神曲』をモチーフにしたような、堕天使ルシファーの絵を指差した。「リアルなこの世のものとも思えぬ表現を生みだしたんじゃないかって、そう思ったの」

「なるほどね。それはなかなか鋭い指摘だと思う」

 そのあと暫くの間、彼はひとりがつがつとわたしの作ってきたお弁当を食べまくっていた。見た目は草食動物的な大人しい印象なのに、意外と肉食系というか痩せの大食いというか健啖家というか、とにかく物凄い食欲だった。

「もっとたくさん作ってきたらよかったわね。重箱三段くらい。まさかあなたがこんなに食欲旺盛な人だとは思わなかったから、あんまりたくさん詰めてこなかったの。今度くる時はまた別のメニューを考えてくるわ」

「こんなに美味しいものを食べたのは生まれて初めてだ」冗談でもお世辞でもなく、彼は極めて真面目な顔でそう言った。「ユカリと結婚するような男は、とても幸せだろうね」

 バスで聖アントニウス修道院に到着したのが一時二十分ごろ、そして服を脱ぐでもなくすぐにソファへ横になってモデルをやりはじめたのだけれど――彼はわたしが持ってきた紫色の風呂敷包みが気になって気になって仕方がないというように、そちらへばかり視線をやるのだ。そこでわたしは集中力散漫な画家に注意をし、芸術活動の前に腹ごしらえすることを提案したのだった。

「食べなかったら食べなかったで平気なんだけど」と、彼はわたしが持ってきたお茶をすすりながら、照れたように言い訳をした。「特に絵を描いている間はね、寝食を忘れることが多いから……でもユカリの言うとおり、そういうことも含めて、ジレンマというか葛藤というのは常にある。神父になんてならずに、絵描きになっていつでも自分の好きな時間に創作活動をして、好きなものを好きなだけ食べて、料理のうまい女と結婚して子供を作ったりとかね。もっとも僕は仮に自分が結婚したとしても、子供は欲しくないっていう人間なんだけど……ユカリはどう思う?」

「どう思うって言われてもねえ」わたしは空になった重箱とタッパを風呂敷に包みながら笑った。

「わたし、もし自分がもう一度小学生からやり直せって言われたら、たぶん首吊って死んだほうがましだって答えると思う。べつに、学校時代にいじめにあったとか、嫌な経験しかないとか、そんなわけじゃないのよ。でもね――ようするに今ってそういう時代じゃない。子供が子供らしく自然に生きられないっていうか、わたしが小さかった頃より、もっとそれがずっと悪くなってるでしょ。だからね、やっぱり怖いなとは思うの。自分の子供をきちんと守ってあげられるかどうかって」

「君は、いい人間だな」と、理一郎は顎の下で手を組み合わせながら言った。「僕のはね、もっと利己的な理由なんだ。自分が生まれた時から呪われているように感じるから――その呪いが自分の子供にまで遺伝するんじゃないかって、それが心配なんだ。だからその呪いを跳ね返すことができるくらいの女じゃないと結婚は難しいだろうと思って」

「呪いねえ」わたしはわざと茶化すようにくすくす笑った。でも本当は、彼が何故そんなふうに思うのか、その気持ちはよくわかるような気がしていた。「この間、わたしの背中に痣があるっていう話したの覚えてる?それってね、母親が小さい頃わたしに折檻した傷痕なの。もっともその記憶はわたしにはないんだけど――よく言うでしょう?虐待された経験のある母親は、自分の子供にも同じことをする傾向があるって。それは無意識に刷りこまれたようなものだから、本人がやめたくてもなかなかやめることができない種類のものだって……そういう意味ではね、わたしも怖いのよ。虐待された記憶がないっていうことは、もしかしたらそれだけショックが大きくて、忘れなければ自我を保てなかったっていうことでもあるわけでしょう?わたし、下に妹がひとりいるんだけど、妹のほうははっきり、母親がいつどこで何をしたか、詳しいことまでよく覚えてるの。だからいつも母親に対して、びくびく怯えてたわ……それに誰に対しても態度がどこか卑屈だから、学校でもいじめの標的にされて――十四歳の時に自殺したの。首を吊る前の日も妹は、べつにどこも変わったところはなかった。わたしもね、『なんであんたはいっつもそんなにぐずぐずしてるの!』なんて、ごはんを作りながら怒鳴ってた。それがわたしが、妹の麻亜子とした最後の会話」

 開け放した窓から、ギィーッ、ギィーッとコゲラの鳴く声が聴こえる。その日は、夏のはじまりを予感させる心地好い気温だった。濃い水色の空には真っ白な厚い綿帽子のような雲が浮かび、それは見ようによっては天使がラッパを吹いているような形に見えなくもなかった。

「つまんないわね、こんな話」

 わたしは一瞬、目が潤みそうになって、窓辺までいって目頭をこすった。板張りの床の上に何枚か、デッサンをとった画用紙が落ちていて、月型の痣が左肩の下あたりにあるのがわかる。全員、裸だった。

「そういえば今日、ヌードになるっていう約束してたんだっけ。この前の絵はどうなったの?もう完成した?」

「とりあえず、一応はね」

 理一郎は深緑色の緞子のようなカーテンのかかった奥のほう、画材や自分の作品をしまってある棚のひとつから、長方形のキャンバスを持ってきた。そしてそれをイーゼルの上にのせると、白い布をとる。

「なんだか別人だわねえ」わたしは自分の絵を見て、甘い溜息を着くようにほれぼれとした。「理一郎って、もしかして視力が0.01切ってるんじゃない?どう見てもこの女の人、わたしとは別人にしか見えないんだけど」

「僕の視力は両目とも1.5だよ」どこか不服そうに理一郎は言った。「あとユカリの言ってた背中の痣だけどね、どうしてもうまくイメージできなかった。だからヌードになれとは言わないけど、背中の、この痣のあるところだけでいい。そこさえ見せてもらえれば、この絵は完成すると思う」

 そんなのはお安い御用というように、わたしはブラウスのボタンを三つ外すと、遠山の金さんのように左肩だけはだけさせた。ブラジャーをしてこなかったのは正解だったと思った。

 彼は十五分程度で絵を完成させると、ソファに後ろ向きになって座っているわたしのところまでやってきて、指でわたしの赤い痣をなぞった。ちょうど、三日月の形に。

「これ、火傷?何をどうしたらこんなふうに痕が残るのか、ちょっと謎だな」

「さあね」と、わたしはブラウスに左手をとおしながら言った。「焼きゴテを押したとか、流石にそんなことはないと思うけど……自分の背中なんか誰も、よほど意識しないかぎり鏡できちんと見たりしないでしょう?だから気にしたことはほとんどないの。友達と温泉にいった時なんかに言われて、ああそうだっけって思いだすくらい」

「ふうむ」

 彼は顎に手をやって暫くの間考えこむと、深緑色の分厚いカーテンの向こう側へいき、パイル地のガウンのようなものを一枚持ってきた。

「それ、着て。べつに裸にならなくていいから」


 暖炉のある隣の部屋で着替えると、わたしはその白いガウン一枚だけを着て、彼の言うとおり、木製の椅子に後ろ向きになって座った。赤い三日月型の痣だけ見えるように、左肩をはだけさせて。

 その、わたしが今年になって初めてあじさいの青い花が咲いているのをアパートの近くで見かけた午後、時間の流れるのはとても早かった。何故って――わたしにしてみれば、考えることがあまりにもたくさんあったから。

 うまく説明できないというより、これはほとんど女としての直感だった。このガウンを着たことのある女はわたしが初めてだというわけでは決してなく――おそらく、他にも何人かいるはずだった。でも「この詐欺野郎!」と言ってインチキ神父のことを罵ることもできなかったし、少なくとも彼が表面的にはどうであれ、本質的な意味合いにおいて嘘をついていないということだけはわかるのだ。だからたぶん、わたしと最初に会った瞬間に「人間じゃない」と感じたという話も本当なのだろう。でもその前に何人か<普通の人間の女>をモデルにして、絵を描いた経験はあるはずだと思った。

「なんだか、心ここにあらずという感じだったね」

 夕方までかかってある程度完成した絵は、とても平凡な出来映えだった。なんだか、作者にいくら技量があっても、モデルがぼんやりしていると、絵にも魂がこもらないといったような。

「それってわたしの責任?それともわたしが理一郎に抱かれたいと思って色目でも使ってれば、あんたはいい絵を描けるってこと?」

「否定はしないけどね」と、彼は意味ありげに微笑した。「逆に僕は、ユカリのそういうところが好きだ。それに、今日は僕のほうでもコンディションが悪かった。久しぶりにあんなに美味しいものをたくさん食べたから、腹のほうがくちくなってね、注意力が散漫だったと思う。いいものを描くには、適度なハングリー精神が必要なのかもしれないな。もしかしたら」

 そんなもんかしらね、と思ってわたしは軽く肩を竦めた。そしてすぐに手早く着替えをすませ、ソファの背もたれのところにガウンをかけた。一体このガウンにこれまで何人の女が袖を通したのか――問いただしてみたくもあったけど、彼が正直に本当のことを言うとも思えないと感じてやめた。




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