第12章
その後、わたしと零一郎は本当に、結婚することになった。あれから何度かデートを重ねるうちに――綾香ではないけれど、デートして三度目くらいにはこう思った。たぶん、わたしはこの男と結婚すると。
手話の勉強は大変といえば大変だったけど、そうでもないといえばそうでもなかった。何故といえば、うまく説明するのは難しかったけど――ようするに、わたしも零一郎も、精神感応能力のようなものがもともと強い人間同士だったからだ。もちろんこれはお互いに考えていることがなんでもわかるということではなく、その傾向の強い人間同士だったから、彼はわたしの口の動きをすぐにはっきり読めるようになったし、わたしは彼が手を動かす前から何を言いたいのかわかっていることのほうが多かったというわけだ。
とはいえ、自分の夫がどんな人かと誰かに訊ねられたとしたら「さあ、よくわかんないな」とわたしは答えるだろう。何しろ彼は夜、ベッドの前で膝をついて祈ってから妻とコトに及び、そして朝はまたベッドの前で膝をついて祈ってからその日一日をはじめるという、そんな人だったから。そして何故祈るのかと聞くと決まって「呪われているからだ」と答えるのだ。
わたしと零一郎は籍だけ入れて、一緒に斎藤家で暮らすことになったのだけれど、新しく夫婦の寝室となった屋根裏部屋で、初めての夜を過ごそうという時――おもむろに祈りはじめた彼に向かってわたしはこう聞いた。
「理一郎も何度か似たようなことを言ってたけど……あんたたち兄弟がいう呪いって一体なに?理一郎は自分の呪いが子供に遺伝するのが怖いとか言ってたけど、零一郎もそんなふうに思ってるの?」
「さあ」と両方の手の平を上にあげてから、零一郎は手話で言った。「僕には兄さんのような能力はまるでないからね。それでもまあ、兄さんの言いたかったことはわかるような気がするな。兄さんと僕はよく言ったものだよ。僕たちが双子ではなくひとりの人間として生まれていたら、兄さんは心臓が丈夫で、僕も耳がきちんと聞こえていたに違いないってね。僕と兄さんは同じ肉と骨をもった、もともとはひとりの人間なんだよ」
「それ、答えになってないんだけど」
ベッドの中にもぐりこんできた夫は、湯たんぽに冷たい足をのせながら、低い天井に向かって話しかけるように、空中で両手を動かしている。時々、わたしの様子を窺うようにちらと視線を送りながら。
「つまりね、それが僕たち兄弟の呪われた運命のはじまりだったんだ。ひとりの人間として生まれなかったということがね。もちろん、それ以外にもあるけど……僕が祈るのは何も、そうしなければ死んだあとに天国へいけないとか、死んだあと地獄へ落ちるからとか、そんなことのためではないんだ。もうそういう習慣になってしまってるんだね。幼い頃からそうしつけられてきたから。今じゃあというか今でもというか、祈らないと何かよくない悪いことが起きるんじゃないかって、怯えるようにさえなってる。たとえば、朝祈らないで仕事へいって、何かヘマをやらかしたとする。そしたらすぐにこう思うんだ……ああ、朝祈らなかったから神さまが罰を当てたんだ、なんてね」
「じゃあ、理一郎の言ったとおりにわたしと結婚しなかったら呪われるっていうのも、そういうこと?」
わたしはナイトスタンドの明かりの下で、空中に手の言葉を描いた。
「それはね、またちょっと別なんだ」夫は羽毛布団の上に一度両手をぱたりとおくと、少し考えてから、再び薄暗がりの中に言葉を刻んだ。「喫茶店『マナ』のウェイトレスの女の子のこと、覚えてる?」
「覚えてるわよ。ええと……草壁なゆこさんだっけ?」
「うん、そう」と、彼はわたしのほうを振り向いて頷いた。「ユカリとホテルのロビーで偶然会って、『マナ』で話をしたあと――一か月くらいしてからかな。彼女に言われたんだ。「あなたのことが好きです」って」
「それで、どうしたの?」興奮のあまり思わずわたしは、ベッドの上に半分体を起こしかけていた。
「ちゃんと言ったよ。僕はユカリのことが好きなんだって」零一郎はわたしの嫉妬を面白がるみたいに、優しく微笑している。「でも同時にこうも思ったんだ。『ああ、早速誘惑がきたな』って。なゆは可愛いし性格も素直だし、とてもいい子だから男としてちょっと惜しいなと思う気持ちも正直少しだけあった。だけど兄さんの言葉があったから、僕ははっきりユカリのことを選ぶことができたんだ」
「ブスで性格ひねくれ曲がってて、悪うございましたね」
わたしは草壁さんが結婚祝いにくれた、うさぎが二匹結婚式を挙げている手作りの人形のことを思って心中複雑なものを感じた。よりにもよって新婚初夜にこんな気持ちにさせられるだなんて。
「つまり、僕が言いたいのはね、こういうこと」零一郎はわたしの不安気な眼差しに気づくと、わたしの頬を軽く撫でてから言った。「僕がなゆとつきあっていても、おそらくはうまくいかなかっただろう。でも純粋で綺麗な子だから、ちょっと手をだして汚したいなっていう誘惑の気持ちを退けるのはなかなか難しい。大袈裟にいうと、これは旧約聖書の預言者たちの言葉の型みたいなものなんだ。預言者たちは時の王に神の言葉を告げるけど、大抵の場合ほとんどの王は真実の神の言葉を信じず、偶像の神の言うことに聞き従ったり、あるいは王としての自分の考えを神の言葉よりも上のものとして行動した……その結果、国は衰退したり没落したりしたというわけだね。僕があの時なゆのことを受け入れていたら――僕は今こうしてユカリと幸せに寝床をともにするでもなく、かといってなゆともうまくゆかず、迷える羊のように寂しい心の荒野をさまよっていたことだろう」
「んー……なんかよくわかんないけど、ようするに理一郎の言った言葉は絶対当たるっていうことなのね?」
「そういうこと」彼は再び手を休ませるように、掛け布団の上へぱたりと両方とも置いた。そして人が話す時に呼吸を整えるのと同じく、少し間を置いてから言葉を紡いだ。「こういう言葉の灯台が人生にあるのとないのとでは大違いだと思う。でもね――常に神の言葉が第一で、自分の好きなように、したいようにできないというのは、人間にしてみれば一種の呪いのようなものなんだ。おそらく兄さんはそのことで、相当悩んだと思う。兄さん自身も自分のそれを<魂の懊悩>と呼んでいたけどね」
「魂の懊悩?」
わたしは部屋の隅にあるイーゼルにかかった、理一郎畢生の作を眺めた。それは彼が亡くなる間際に完成させた絵で、裸の女が斜め後ろにある鏡を振り返って自分の月型をした赤い痣を見ようとしているというものだった。
鏡に映る女の表情はぼやけていてはっきりとはわからない。絵の中に登場するのは、際どいポーズで体をひねっている女と女を映す鏡、それと花瓶に活けられた真っ白なジューンリリィと鮮やかなオレンジ色のタイガーリリィ、大きなサンスベリアの鉢植えにピンク色の花が咲いたサボテン、一匹の猫……灰色の室内には一箇所だけ窓があり、そこからは空と海の境が見えた。
それは確かにわたしだった。極度に美化されているわけでもなく、胸の大きさも体の線も肌のくすんだような色も何もかも、すべてが現実のわたしという存在を表していた。わたしはこの絵を見た時、すぐにひとつの物語を読み解いた――女はコンプレックスに悩んで体をひねって鏡を見ており、鏡に映る赤い三日月の痣はその象徴なのだ。茎の交差した白い花と赤に近いオレンジ色のユリは純潔と貞潔を表し、窓辺に眠る猫は男にはわからない女という生き物の魔性的な部分を表現している。大きなサンスベリアの鉢はわたしがどっしりとしたしっかり者であるのと同時に、すくすく伸びた葉は理一郎がわたしのことを「いい人間だ」と感じた真っすぐな伸びやかさのようなものを表現しているのではないだろうか。ピンク色の花が咲いたサボテンはわたしのアイロニカルな性格とユーモアセンスを表していて――窓の外、海と空の境目からは風が吹いているように感じられる。もちろん風は目に見えないものだけれど、全体的な構図として、その方角から間もなく何かがやってきそうな予感を、この灰色の部屋は見る者に感じさせるのだ。
(そして)とわたしは思う。(そしてわたしはやがて訪れるであろう人間の男のひとり(理一郎)に白い百合の花を、もうひとりの男(零一郎)にはオレンジ色の鬼百合を渡すだろう)
わたしは理一郎のアトリエで零一郎に抱かれて以来、そのあと肉体的な交渉を一度も彼とは持たなかった。べつにわたしが結婚するまでそれを拒んだというわけではなく――お互い、暗黙の了解のうちに婚前交渉を自然と避けることになったのだ。だからつきあっている半年の間にしたのは、数回のキスだけだった。
新婚初夜のその夜、零一郎はキスをしはじめる前に「僕のことを兄さんだと思っていい」と言った。そう――わたしは彼からプロポーズされた時、「もしかしたら自分は理一郎の代わりとして零一郎のことが好きなのかもしれない」と正直に言ったのだ。「それでもいいの?」と。そうしたら彼は「なんだそんなことか」というように肩を竦めて「僕と兄さんは同じ魂と肉を持ったもともとはひとりの人間だから、結局は同じことだ」と答えたのだった。
最初、わたしにとって理一郎と零一郎のふたりは、まったくべつの異なる人間であるように思えていた。ふたりとも、性格に似通ったところはたくさんあるけれど、お互いが持つ個性や存在感の放つ光のようなものに、決定的な違いがあった。わたしにとって理一郎は孤高の人であるように感じられたのに対して、零一郎はすぐに誰とでも仲良くしたがる傾向が強く、実際のところ本当に、彼は手話の通じない健聴者が相手でも不思議と心を通いあわせるのがうまかった。その他寂しがり屋で甘えたがりなところも、理一郎とはあまり似ていないように感じたし、一番似ているところといえば、本質的な事柄――ようするに魂のこと――について語る時、わたしにはよく理解できないことをえんえんと語るということだったかもしれない。
でも零一郎が自分と理一郎のことを「同じ骨からの骨、肉からの肉」と表現したように、確かに彼に抱かれていると、わたしはいつも理一郎にそれをされていると感じた。どうしてなのかはよくわからない。いくら現実的な肉体を持つ自分の夫のことに精神や意識といったものを集中させようとしても、理一郎の存在が絶対的な権威をもってわたしにそれを許さないのだった。
このことはもちろん何も、わたしが零一郎のことを理一郎のかわりに愛しているということを単純に意味しはしない。わたしはふたりのうち、どちらのことも愛していた。でもふたりの人間を同じくらいの強さで同時に愛しているというより、それはひとりの人間をたとえようもなく愛しているという感覚に近かった。そして零一郎が絶頂に達する時にいつも上げる、獣のような叫び声――その哀切な叫び声の中にわたしはいつも、理一郎の魂にもっとも近い何ものかを感じるのだった。