EXTRA
ある晴れた夏の日の午後。
少し乾いた風の吹き晒す、東京は調布の古刹・ 深大寺の門前に、二人の学生が立っていた。どこにでもいそうな男女が、二人だ。
無論、ただ立っているだけなら、それはこの深大寺にとってはほんの日常のひとコマに過ぎなかっただろう。しかし、この二人は────。
「何でさ、私がそんな風に言われなきゃいけないの!? 私の役の演じ方、そんなに気に入らないわけ!? 石原くんさ、主役でもないのに態度大きすぎるよ!」
女の子が叩き付けるように叫べば、男の子の方も負けじと反駁する。
「だから、俺は柴崎さんのやり方じゃ演じにくいって言ってるんだよ!もっとはっきり喋れって注文付けてるだけだろ!」
「それが上から目線で嫌なの!私には私の演じ方があるし、監督だって誉めてくれてるじゃない!」 「座って見てるだけの監督に、俺の役の何が分かるんだよ!」
唾を飛ばす言い合いが、こんな感じで既に十分は経過していた。通りすがりの小学生や老人たちが、怒鳴り声が上がるたびに肩を跳ね上げている。
二人は嘆息した。男の子の方が足元を睨みなが ら、苦々しく呟いた。
「……マジさ、どうすんだよ。たかが賞応募用のCM動画撮影くらいでこんなに手間取って、サークルの後輩に示しがつかないよ……」
そんな二人を、十分前からずっと眺めていた人がいた。
それは、すぐ近くの露店に立っていた、五十代の夫婦である。夫婦はこの露店で今日一日ずっと、『蕎麦勾玉』なる焼き菓子を売っていた。日差しのきつさとは裏腹に売上も順調に推移し、残り数も僅かとなって安堵していた矢先、あの二人がやって来たのである。
──「あら、学生カップルかしらね。元気あるわねぇ」
──「ただの痴話喧嘩だろ。放っとけ」
初めのうちこそ、そんな事を暢気に言い合っていた夫婦だったのだが、今はすっかり沈黙して二人の論戦の行く末に耳を傾けていた。
心中はまるで穏やかではなかった。二人の発する刺々しい貶し文句に、逐一ぴくりと身体が反応してしまう。
「公さん、何とかならないかしら」
ついに業を煮やした妻が、公と呼んだ夫を肘で突いた。夫は痛そうな顔をする。
「あの二人、あのままじゃ殴り合いでも始めちゃいそう」
「あんな程度の喧嘩で男は女に手なんか出さねえよ。ヤクザじゃあるまいし」
でも、と妻は俯く。確かに彼女の言う通り、二人の間の空気は時を刻む毎に緊迫感を増している。
「房子は心配症なんだよ」
夫はそう言って宥めた。しかしその目はしっかりと、眼前の二人を捉えて離さなかった。
気になるのは夫だって同じなのだ。
「もう、石原くんの事が分かんないよ」
女の子は両手で顔を覆った。「付き合い始めた最初は、君の演技に惚れた、って言ってたじゃん。あれは嘘だったの?」
「嘘じゃないよ。舞台に立ってた柴崎さんに惚れたから、こうして付き合ってるんじゃないか。やりにくいって感じるようになったのは最近だよ。演技に手、抜いてるだろ」
「私は何も変えてないよ!」
「変わってるから言ってんだろ!」
「変えてない! 私はいつだって、台本を読んで私なりにイメージした『役』になりきろうって努力してる!」
男の子はまだ反論しようとしたが、口を真一文字に閉じてしまった。指の間から漏れる女の子の声が、鼻声に変じたのに気付いたからだった。
「……変わっちゃったのは、石原くんだよ。前はもっと丁寧に、何がいけないのか話してくれた。一緒にどうにかしようって、寄り添ってくれた。でももう、今は……」
女の子は声を震わせる。言い返したいのに、言い返せない。男の子はきつい眼差しで女の子を睨んでいた。喧嘩は明らかに、エスカレートしている。
口から心臓が飛び出してしまいそうな気分を、妻はついに抑えられなくなった。
公さん、と夫に告げる。「あたし、間に入ってくる」
「止めろ、房子」
夫は腕を伸ばし、足を踏み出しかけた妻を引き留めた。
「俺たちが行ったって何にもならねえ。主役はあいつらだ、この場じゃ俺達はただのエキストラなんだよ」
「このまま見てろって言うんですか!?」
夫が無言で頷くと、不貞腐れた妻は椅子に座り込ん だ。酷い無力感に、溜め息が出てきた。
しかし、夫の気持ちに揺らぎはなかった。
(あいつらは、大人だ。耳にしてる範囲でしか事情を知らねえ俺達が介入したって、かえって腹も立つだろうよ)
夫もまた、溜め息を吐き出した。
そして、言った。「蕎麦勾玉、あと二個で完売だ。売ったら今日は帰ろうな」
豊かな水源にその由緒を持つ、深大寺。清流を利用し古くから作られてきた蕎麦は、今やこの地の名物となりつつある。その蕎麦を巧く丸めて勾玉形にしたのが、夫婦の売る蕎麦勾玉だ。
勾玉は恋愛系アイテムとして名高く、味も相俟って飛ぶように売れる。夫婦となって二十年、いつも二人三脚で蕎麦勾玉を売り続けてきた。嬉しそうに手を繋いで帰るカップルの背中を隣り合って眺めるのが、夫婦の幸せでもあった。
振り返って今、目の前の二人は修羅場の真っ只中だ。女の子は泣き出し、男の子は怒りと後悔の狭間ですっかり困惑している。
「石原くん、私達もう、別れようよ……」
「その方がいいかもな。俺ももう、柴崎さんの 事、分かんなくなってきた……」
「石原くん、私の気持ちなんて汲んでくれない。昔見せてくれた優しさは、もう無い」
「柴崎さんこそ、そんなに自分勝手な人だなんて思わなかったよ。がっかりした」
静かな鬩ぎ合いが続く。夫は妻を振り向いた。妻の送ってくる目付きは、あの二人のそれによく似ていた。
夫は目を背ける。売れ残りの蕎麦勾玉が視界に入った時、女の子の声が耳に響いた。
「決めた。別れる。思いやりの出来ない人なんて最低だよ。私は石原くんを認められないし、石原くんも私を認められない。だからもう……別れよう」
その時の自分の思考の流れを、夫はよく覚えていない。
ただ、気付いた時には残り二つの蕎麦勾玉を乱雑に紙に包み、二人の前に立ちはだかっていた。
そして、蕎麦勾玉をぶっきら棒に差し出した。
「余りもんだ、食え」
二人は同時に夫を凝視した。いいから、と夫は重ねる。
「こいつらが捌けねえと帰れねえんだ。金は要らねえから食え」
「で、でも……」
タダは申し訳ないとでも言う気だったのだろう。男の子は視線を下げ、断ろうとする。が、夫の一睨みで動きが止まった。
「聞けば演劇がどうのこうの、お前らは何も分かってねえな。ここにいるのは主役だけじゃねえんだよ」
夫は言を重ねた。「ここを何処だと思ってやがる。縁結びの深沙大王様の御前だぞ。痴話喧嘩やらかして、恥ずかしいとは思わねえのか。 食って落ち着け、話はそれからだ」
もはや二人とも唖然としている。言う事の思い付かなくなった夫は、そこで回れ右をすると大股で露店に戻ったのだった。唖然としているのは、出迎えた妻も同じだが。
二人は受け取った蕎麦勾玉を握ったまま、暫くそこに立ち尽くしていた。やがて、どちらともなくそれを頬張った。美味しい、という微かな声が、露店まで聞こえてきた。
深沙大王は、古くから伝わる神の一人だ。
その昔、この地の若者が有力者の娘に恋をして、二人の関係を快く思わなかった有力者によって孤島に閉じ込められてしまった時、大王が現れて陸地へと若者を運び娘に会わせてくれた──そんな逸話が深大寺には残っている。その二人の産んだ子供がこの寺を建立したのだと伝えられ、だからこそここは縁結びの地なのだ。
「……そう言えばここ、縁結びの神様が祀られてるんだったな。忘れてた」
「初詣、一緒に行ったよね。あーあ……、結婚できますようにって祈っちゃったよ」
「神様へのお願いって、取り消せるかな」
無理そうだよね、と女の子が言い、二人は仲好く項垂れた。その時、女の子の瞳から落ちた一筋の光を、男の子は見過ごさなかったのだろう。
「……あの人の言った通りだ」
男の子は頭を掻いた。「落ち着いて考えたら俺、言い過ぎてたよ。ごめん、柴崎さん」
「えっ……」
「柴崎さんは変わってない。君はいつも君らしく演技してるし、いつも通りに振る舞ってる。いつも必ず自分に都合よく、君に想われてるって無意識に感じてた俺が、傲ってたんだ」
男の子の声から、さっきの勢いはもう失せていた。女の子が言い返すように口を開く。
「わ、私だって……。傲ってたのは私の方かもしれないし」
俺だよ、と男の子が力無く告げる。私だよと女の子が涙を拭う。
そのやり取りが数回続いて、二人はやっと顔を上げた。そして同時に深く、頭を下げた。
「あんた……」
妻は喉を詰まらせていた。感傷的になってんじゃねえ、と夫は素気無く言い放つ。
「宣言通り残りの二個が『売れた』からな。店、畳むぞ」
「ここにいるのは主役だけじゃない。そんな恰好いい決め台詞、プロポーズでも聞いてないわ」
うるせえ、と夫は声を大きくした。妻はクスクス笑いながら、夫の隣に身体を寄せる。
「何だよ、テントが畳めないだろ」
「思いやって下さいな、あたしの今の気持ちもさ」
夫は言葉を返せなかった。それがさっき自分を衝き動かしたのだと、胸の奥では知っていたから。
寄り添う二組のカップルを、傾いた西陽が燦々と照らし出す。
変わらぬ日常のひとコマが、夏の深大寺の門前に、二つ、並んでいた。
本作は短編小説賞「深大寺恋物語」に応募する予定で執筆していましたが、字数制限が守れなかった上に自分の書きたかったものも上手く表現できず、諦めて放置してあった作品でした。
投稿にあたり改稿を行い、ある程度は仕上げられたような気がします。
拙文をお読みくださり、ありがとうございましたm(_ _)m
2015/08/15
蒼旗悠