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HOLY 『K』NIGHT
作:est



前編


 一匹の黒猫が、週末の大通りを歩いていた。
 宵闇に溶け込んでいたのなら分からないだろうというほどの漆黒の毛色。後ろに特徴がかった鍵尻尾を水平にしながら、まだ高い日の下を人間にまるで臆することなく威風堂々と大通りを闊歩している。

 不意の音。
 乾いた音は後方から。黒猫は振り返る。
「あ〜っ、おっしいなぁ〜! もう少しで当たったのにさ!」
 彼の五メートルほど後ろで楽しそうにはしゃぐのは子供達だ。彼らの誰もが、その小さなてのひらに小石を握り締めていた。
 それを見て黒猫は小さくため息を吐く。



 ――黒猫は、不吉の象徴である――

 誰が言い出したのかは分からない。いつからそう呼ばれるようになったのかは分からない。
 もしかしたら、闇に溶け込んでしまいそうな姿がそう喚起させたのかも知れない。

 起源はどうあれ、『黒猫は忌み嫌われる存在』というのは定着した常識だった。



 黒猫は走り出す。それを追う子供達。
 次々と飛んでくる小石。時折小枝や缶なども混じっている。
 更に走る距離が伸びるほど、投げ付けられる物の量が増えていく。方向も後ろからだけではなく、左右、時には前からも飛んでくる。

 単純に、黒猫に向かって物を投げる人間の数が増えているのだ。
 子供だけではない。大人も混じっている。
 街の人間全てが、黒猫の敵であった。

 黒猫はそれらを軽快に避けながら通りを疾走していく。
 人間とすれ違う度、悲鳴や、時には怒号や罵声が投げかけられる。
 それでも、黒猫は意に介した様子はない。

 ――孤独には慣れていたから。

 物心ついた時から、黒猫は独りだった。
 親も、兄弟も、友達もいない。

 黒猫はそれを寂しいとは思ったことがなかった。 
 むしろ、孤独であることを望んでいた。
 ずっとそうして生きてきたから。
 別に食べる物には困らないし、寝る場所だってある。

 それに何より、誰かを思いやることが煩わしいから。
 独りで気ままに生き、そして独りで死んでいく。
 そんな生き方に黒猫は何の疑問も抱くことはなかった。





 昼間はあれほど賑わっていた大通りも、日が落ちた今ではすっかり静まり返っていた。
 月と星空の下、黒猫がその身を闇に溶け込ませながら道の真ん中を歩く。
 こうしてゆっくりと大通りを闊歩できることに、黒猫は満足していた。
 だが、その足取りはどこかぎこちない。

 黒猫は、足に傷を負っていた。日中の逃走劇で付けられた物だ。
 先端付近の毛が血で濡れ、時折赤い足跡を道に残している。きっと翌朝、誰かがこれを見つけたら、驚き、怒りを燃やすのだろう。
 そんなことを思いながら、黒猫は傷口をぺろぺろと舐めた。
 


 再び歩き出そうと、前足を出した所で黒猫が立ち止まった。
 誰かの視線を感じたのだ。周りに憎まれているが故に身に付いた察知能力とでも言うのだろうか。
 黒猫が視線を感じた方向へ顔を向ける。

 そこには一人の青年が壁にもたれながら座っていた。
 服装を見るに、決して裕福だとは思えない。
 スケッチブックと筆を手にしているのを見て、黒猫は青年がどういう人間なのかを把握することができた。
「こんばんわ、素敵なおチビさん」
 青年が口を開いた。そのまま、黒猫の元へと近付いてくる。

 不思議なことに、黒猫は逃げようとはしなかった。普段なら、人間が近付いてくれば真っ先に駆け出すのに。
 恐怖のあまり、足が動かなかった訳ではない。
 青年が放つ空気に、黒猫は戸惑っていたのだ。



 黒猫の目の前まで近付くと、青年はその場にしゃがみ込んだ。二人の目線が近くなる。
「僕ら、よく似てるね」
 一体、コイツは何なんだ?
 自分をじっと見つめている黒猫がそう思っていると、青年の顔が険しくなった。黒猫の全身に緊張が走る。
 だがそれは一瞬だけのことで、すぐに青年の表情は変化した。
「……怪我してるじゃないか。大丈夫かい? それにしても、酷いことを……君は何も悪いことをしてないのにね。ただ黒猫なだけだというのに」
 青年はひどく心配そうな声で、傷口に視線を向けた。

 黒猫は戸惑いっぱなしだった。
 この人間は、何でこんな風に接してくるんだ。
 他の連中みたいに石を投げ付けたり、棒で叩こうとしてこないのか。

 しかも……コイツ、笑ってる。



 黒猫の身体が軽くなった。
 青年が抱き上げたのだ。
「とりあえず僕の家においでよ。その傷の手当てをしなきゃ」
 そのまま抱えられた所で、黒猫の中で『何か』が脈打つ。
 身体が温かいようで……心臓がどこか締め付けられるようで……

 何だよ……何なんだよ……
 やめろ……! やめろよ……!!

 感情が限界点を超えた。
 そしてそれは恐怖へと変わる。

「わっ……どうしたんだい?」
 黒猫が暴れ始めた。
 手足をばたつかせ、所構わず爪で引っ掻いて。
 根付いている何かを掻き消すように、必死に青年の腕の中でもがいた。

 黒猫は青年の指に噛み付いた。青年が小さく声を上げ、腕の束縛が少しだが緩む。その隙に黒猫が青年の腕から飛び降りた。
 地面に着地した際、傷口に痛みが走ったが、それでも構わず黒猫は走り出した。
「あっ、どこに行くんだい!?」



 夜の大通りを、ただひたすら走る。
 前に広がっているのは、まるで孤独という名の逃げ道のようで。
 
 ここまでは追いかけてこないだろう。
 ある程度走った時点で、黒猫は立ち止まった。

 どうせ、さっきの奴も単なる気まぐれで俺に声をかけたんだ。
 他の奴なんか信用できるものか。
 それに、俺は情けなんかかけられたくない。
 そんなの……うざったいだけだ。

「心配したよ、こんな所まで走ってきたんだね」
 後ろから声をかけられ、黒猫の身体が飛び上がる。ついさっきまで聞いていた、聞き覚えのある声。
 恐る恐る振り返れば、そこにはやはり青年が立っていた。
 月をバックに微笑を浮かべるその姿が、黒猫の恐怖を煽る。

 黒猫はまた、走り出した。



 立ち止まっては逃げ、立ち止まっては逃げ。
 そんなことを、黒猫は何回も繰り返した。
 どれだけ逃げても、変わり者の青年は黒猫について来た。 
 どれだけ逃げられても、青年は怒ることも悲しむこともなく、微笑を崩さない。

 何度も逃走を繰り返しているうち、やがて黒猫に体力の限界が訪れる。
 立ち止まると同時に、荒い呼吸を繰り返してその場にへたり込んでしまう。傷口がズキズキと痛む。

「あれだけ走ったら、さすがの君も疲れたんじゃないかい?」
 やはり、変わり者はついてきていた。かけっこに勝った子供のような笑顔を見せながら、青年が言う。
 黒猫とほぼ同じ距離を走ったにも関わらず、青年は息一つ切らせていない。
「ほら、もう諦めて僕の家においでよ。
 大丈夫、誰も君を傷付ける人はいないから」
 黒猫に向かって、青年が両手を差し伸べる。
 だが、黒猫にはそれに応えるだけの体力は残っていなかった。
 もしくは、半ばどうでも良く思っていたのかも知れない。
 黒猫は瞳を閉じかけ、その場に丸まった。



 やわらかくて……あったかい……

 それが、意識を失くす前に感じた、黒猫の最後の感触だった。





 寒さに、黒猫は目を覚ました。
 黒い身体を身震いさせ、床から椅子、椅子からテーブルへと跳躍していく。
 すっかり手馴れた、いつも通りの動き。
 最後に、テーブルから窓際のベッドへと飛び移る。
 そこは外がよく見える、黒猫の特等席。

 雪。
 窓の外では、雪が深々と降っていた。

 黒猫は雪が好きではなかった。
 雪は冷たくて寒いから。
 暖かいはずのゴミの中に埋まっていても、そのまま眠ったまま死んでしまうんじゃないかと思ったほどに。



「雪を見ているのかい?」
 いつの間にか、黒猫の背後に男が立っていた。
 それは紛れもない、黒猫を抱き上げた青年である。今日もスケッチブックと筆を携え、穏やかな微笑を黒猫に送っている。
「こうして君と雪を見るのは、今回で二度目だね」
 ベッドに腰掛けながら、青年も窓の外に目を向けた。

 黒猫は逃げようとしない。
 ただ静かに、じっと窓の外の雪を見つめていた。

「そういえば、そろそろ君にも名前を付けてあげないとね」
 視線を黒猫に戻し、青年が言った。

 名前。
 自分に名前がないことに、黒猫は今気付いた。
 今までは必要がなかったから。

「雪を見ていたら、とてもいい名前が浮かんだんだ」
 そんなことを言いながら、青年は手元のスケッチブックに筆を走らせる。
 書き終えると、そのページを表にして黒猫に見せた。

 『HOLY NIGHT』

 真っ白なページの中央に書かれた筆記体に近い文字が、黒猫の目に入る。
「『黒き幸』ホーリーナイト――どうだい、いい名前だろう? 君のその素敵な黒い身体と、この雪にちなんで付けてみたんだ。それに……今日は聖なる夜だからね」

 黒猫は嬉しそうに、にゃあと一鳴きした。それを聞いて、更に青年から笑顔がこぼれる。
「そうかそうか、そんなに喜んでくれると僕も嬉しいよ。それじゃあホーリーナイト、ご飯にしようか。今日は特別な日だから、ご馳走を用意したんだよ」
 黒猫を抱き上げる青年。
 もう、黒猫が抵抗することはなかった。
 そして、いつの間にか雪のことを好きになっている自分に気付いた。





 青年は絵描きだった。
 彼が主に描くのは、街やその周辺で見た景色を描いた風景画や人物画。それを路上で売って、彼は生活の足しにしていた。

 だが、彼の描いた絵の売れ行きは芳しくなかった。
 それが技術的な問題なのか、もしくは別の要因が問題なのかは分からない。
 ただはっきりしているのは、青年の生活が決して経済的に豊かではなかったということ。



 それでも、青年は今の生活に不満を抱くことは決してなかった。
 幸せだったから。
 あの夜に出会った、大好きな友達がいつも側にいてくれるから。

 そしてそれは、彼の方にも言えることであった。



「聞いてくれよホーリーナイト! 今日は絵が売れたんだよ! しかも2枚も!」
 青年が嬉しいと、彼も嬉しくなって。

「今日は特に冷えるね」
 …………。
「ありがとう、ホーリーナイト。すごく温かいよ」
 青年が温まると、彼も温かくなって。

 彼は完全に、青年に心を開いていた。
 自分に始めてできた友達。
 彼は青年との、温かい日々の暮らしが大好きだった。

 いつまでも、こうやってくっついて甘えていたい。
 いつまでも、ずっと一緒にいたい。

「ほらほら、動いちゃダメだって。あと少しで描き終わるからさ」
 ガタガタ。
「終わったらご飯にするからさ」
 ピタリ。
「そうそう、いい子だね」

 ――それでも、そんな願いは長くは続いてはくれなかった。





 いつもよりも寒い、雪の降る朝だった。
 ベッドの中で、彼は目を覚ます。

 あれ?
 アイツ、いないぞ?

 いつも自分が起きるまで、毛布にくるまりながら温めてくれている友達がいない。
 不思議に思った彼は、ベッドからもぞもぞと這い出る。



 …………!

 床に着地した瞬間、彼の表情が凍り付いた。
 暖炉の前でうつ伏せになって横たわっている、友達の姿。

 違う、眠ってるんじゃない!
 彼にはすぐ分かった。
 すぐさま、火の付いていない暖炉の前へと駆け寄る。そして、青年の顔を覗き込んだ。
「……やあ、おはよう……ホーリーナイト……」
 青年は微かな声に乗せて、いつもの言葉を乾いた唇から紡いだ。



「参ったな……元気だけが、僕の取り柄だったのに」
 ベッドに横たわる、友達の姿。
 日に日に弱っていくその様を前に、彼は何もしてやれなかった。

 彼は自分の無力を呪った。
 大切な友達が苦しんでいるのに、何もしてやれない。
「ははっ……ありがとう」
 こうして、身を寄せてやることしかできない。
 それが何よりも許せなかった。

「ごめんね……ろくに、君の世話もしてあげられなくて」
 そんなことない!
 彼は必死に友達の言葉を否定した。

 この家に来てから今日まで過ごしてきた間、青年は一度たりとも彼に食事を与えない日などなかった。
 嵐の日でも、雪の日でも。
 そして、絵が売れなかったと苦笑していた日でも。

 例えその結果、自分の食べる物が極端に減ったとしても。
 毎日欠かさず、青年は黒猫に食事を与えていた。

 ここしばらくの間、青年の描いた絵は一枚も売れることはなかった。
 なけなしの金とはいえ、収入が無くなってしまえばどうすることもできない。
 蓄えなど無いに等しいものだ。
 食べ物を買うこともできないし、暖を取ることもままならない。 
 こうして倒れてしまっても、医者に行くこともできない。
 働き口を見つけるにしても、よそ者の青年を雇ってくれるような場所はこの街には存在しなかったのだ。

 前兆が無かった訳ではない。
 倒れる前から身体は痩せ細り、唇や肌もガサガサに荒れていた。
 それでも、青年は彼の前で苦しそうな素振りを見せることはなかった。そして、笑顔を絶やすことも決してなかった。
 皮肉なことにも、変わることのない青年の温かさのせいで、彼は気付けなかったのだ。

 だが、青年は虚勢を張っていた訳ではない。
 本当に幸せだったのだ。
 


「ねえ……ホーリーナイト……」
 視線の定まらないまま、うわごとのように青年が呟く。
 良かった、まだ生きてる。
 名前を呼ばれ、彼は嬉しそうに擦り寄った。
「君に、一つだけ……頼みたいことがあるんだ…………机の上にある、紙とペン……あと、封筒も持ってきてくれないかな……」
 言う通り、彼は机の上に飛び乗って、紙とペン、そして封筒を口にくわえて青年の前に置いた。
 礼の言葉の代わりに青年は彼の頭を撫で、震える手で紙にペンを走らせ始めた。

 温かいけど……ガサガサしてる。
 撫でられた時、彼はそう感じた。
 もっと早く気付いていれば、店からくすねてでも食べ物を持ってきて渡してやれば、こんなことにはならなかったかも知れないのに……
 いや、でもそんなことをしても、コイツは食べてはくれないだろう。
 でも……

 そんなことを彼が考えていた内に、青年のペンが止まった。
 青年は書き終えた紙を丁寧に折りたたみ、小さな白い封筒に入れ、紐で結わいて封をした。
 完成した一通の手紙を、黒猫の前に置く。
「走って……走って、こいつを……届けて欲しい。……絵描きになるという夢を見て、飛び出した……僕の帰りを待っている……恋人の元に……」



 コイビト。
 いつか、嬉しそうに青年が話してくれた言葉。
 自分と同じくらい、大好きな人のこと。

「僕の故郷は……山を越えた先の村にある…………そこの一番奥の、庭に大きな木がある家に……彼女はいるから……頼まれて、くれるかい……?」
 もう枯れてしまった笑顔を向け、青年は弱々しく言葉を告げた。

 嫌だ! 死んだら嫌だ!
 必死に彼は訴えた。

 それでも、心のどこかにある冷静な部分で彼は理解していた。
 もう、どうしようもないことを。



 彼は鳴いた。

「ありが……とう」
 もう一度、青年の手が彼の頭に添えられる。
 そのまま彼は青年の側に身を委ねた。温もりを確かめるかのように。
 
「今まで君と過ごしてきた時間……僕は……とても幸せだった……本当に……ありがとう…………ホーリーナイト…………僕の、大切な…………親、友……」

 そのまま、青年は動かなくなった。
 穏やかな顔を彼に向けたまま、まるで眠ってしまったかのように。

 同時に、後ろでバサバサという音がした。
 振り向くと、何枚もの紙が床に散乱していた。不安定な体勢に耐えられなくなったのだろうか。

 そこに描かれていたのは、全て黒ずくめの絵。

 窓辺ですました顔をしている黒猫の絵。
 猫じゃらしと戯れている黒猫の絵。
 食事をしている黒猫の絵。
 気付かぬ間に描いたのか、ひなたぼっこをしながら眠っている黒猫の絵。

 彼はベッドに横たわる友達に目をやった。

 ――不吉な黒猫の絵など売れはしないのに。

 ――それでも、アンタは俺だけを描いてくれた。

 ――でも、それ故にアンタは冷たくなってしまった。

 その間はほぼ一瞬だった。
 彼は手紙をくわえ、弾かれたように窓の隙間から飛び出した。



 手紙は、確かに受け取った!













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