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エランシリーズ

恋人

作者:光太朗





 あなたを愛しています
 ずっと、ずっと、あなただけを、愛しています。







 風が走った。
 恋人たちの集う、フルール広場。木々に囲まれたその広場の、中央の時計台の下に、二人はいた。
 若い男女。
 白銀の髪の男性と、赤い髪の美少女。
二人は見つめ合い、ゆっくりとほほえみ合う。
 その光景を前に、カレン=セルウォーエンは、身を隠していたことも忘れ、悲鳴に似た声をあげていた。
 見てしまった。
 こんなものを、見たいのではなかった。
「……どういうつもり、デルフ?」
 口から出た声は、自分の知るどの声よりも低く、震えたものだった。驚いたように振り返るデルフ=シリエンタの、その青い双眸を、カレンは見つめる。
 戸惑わないで、焦ったりしないで──どうか、どうかと、手を握りしめる。
 しかし、期待に反して、デルフの目に浮かんだのは小さな動揺。そして彼は、悲痛な表情で、瞳を逸らす。
 カレンは震えた。なぜ、そんな顔をするの。なぜ、何もいわないの。
 なぜ、いいわけすらも、してくれないの。
「愛していると……あんなにいいあったわ。結婚しようって、いったわ」
 嘘だったの、などと、陳腐な言葉は口にしたくない。そんな言葉で片づけられる気は到底しない。カレンの目に、思い出したように、涙がにじむ。
「そのひとは、だれ? どうして? わたし、待っていたわ。約束の教会で、ずっと……待っていたわ! どうして!」
「ごめん」
 ただ一言、デルフの告げた言葉に、カレンの視界が色を失う。
 目眩がした。
 幸せなときが永遠に続くと、甘い言葉が永遠のものだと、そんなことを思うほどこどもではないけれど、それでも永遠と錯覚させるには充分すぎるほどのときを、二人で過ごした。
 卑怯だ。
 それならば、最初から他人であればよかった。
「……きらいになったと、そういうこと?」
「ごめん」
「────!」
 カレンは、身を翻した。 
 そのまま振り返らず、まっすぐに広場を後にした。
 残された二人のそばを、もう一度、風が吹く。
「……ばかね」
 赤い髪の少女が、デルフを見上げ、無表情で呟いた。

   *

「それで承諾したのか」
 黒髪、黒服の青年が、静かに立っている。
 声に感情はない。
 しかし、長い付き合いだ。怒りのオーラが、手を伸ばせばつかめそうなところまで、めらめらと立ち上っているのが見える。
 豪華絢爛の一言につきる客間。トイレ、バス、キッチン完備。この部屋だけで十分生活していけそうだ。その客間の中のリビングの、ふかふかソファに寝転がったままの体勢で、少年は困ったように片眉を上げて見せた。春ののどかな陽気の中、気持ちよくまどろんでいたところだったのに。タイミングの悪い相棒だ、などと思いながら。
「やー、まあ、啓ちゃんが怒るだろうなあ、とは思ったけどさ。悠良ちゃんももうこどもじゃないんだし、お付き合いぐらい許してあげたら? あれだよ、口うるさいと、嫌われるよ?」
「本気でいっているのか」
 怒りのオーラを更に増幅させ、青年はソファの目の前に立ち、だらしなく寝転がる相棒を見下ろした。
「いや、冗談だけど」
 少年は身を起こす。どうやら、本気で怒っているようだ。
「あれだけ頼まれちゃ、仕方ないだろ。滞在中の宿も食事も、ぜんぶ面倒見てくれるっていうし。そのおかげで、こんな立派な部屋にいるわけだよ、莉啓クン。感謝したまえー」
「だまれ」
「ハイハイ」
 まっすぐな怒りを軽く受け流し、少年は肩をすくめる。
「ま、そろそろ帰ってくるよ。どーんと待ってれば?」
「……見てくる」
 青年は、怒りをあらわにしたまま、それでも静かな足取りで部屋を出て行った。あーあ、と少年は天井をあおぐ。
 仕事をしているのに、いちいち目くじらをたてられたのでは、やっていられない。
 と、閉められたばかりの扉が、跳ね返るように開いた。
「……見てくるんじゃなかったのかよ」
「待つ」
 ずかずかと入り、憮然としてソファに腰を下ろす。
 干渉しすぎてはいけないとでも、思い直したのだろうか。
 少年は思わず吹き出した。
「啓ちゃんさー、前から思ってたけど、年頃の娘を持つパパみたいだよね。いやぁ、見てて飽きないわ」
「ふざけるな。うるさい。黙っていろ」
「まあパパったら、おこりんぼーね」
「…………」
 青年がゆらりと立ち上がる。すっと目を細め、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
 しまったやりすぎた、殺される、と少年は思った。
 しかし、控えめなノックの音に、一瞬青年の注意が動く。その隙を見逃すわけもなく、少年はそのまま宙を舞い、扉の前にひらりと着地した。
「はいはい、ただいま」
 扉を開けると、赤い髪の美少女と、背の高い青年──デルフ=シリエンタが立っていた。 
「ただいま戻りました、レンさん。それから……初めまして、リケイさんですね?」
 デルフは、礼儀正しく一礼して、部屋のなかの二人を見た。少年、怜のにこやかな笑顔とは対照的に、莉啓という名の青年が鋭い目でこちらを睨みつけている。怜から、あとから合流する相棒がいるからと聞いていたが、なにか気に障ったのだろうか。
 困惑していると、表情に出てしまったのか、怜がぽんと肩に手を乗せた。
「コワイカオのおにーさんでごめんね、啓ちゃんちょっと機嫌悪いみたいで。それで? うまくいったの?」
「はい、たぶん……あ、あの、やはり、ユラさんをこんなことに巻き込んだのが、いけなかったのでしょうか?」
 黒髪の青年の仏頂面は、自分のせいなのではないかと、デルフが顔色を青くする。まさしくそのとおりだったが、莉啓は憮然としたまま「別に」と呟いた。それでも充分、大人げない態度には違いない。
「莉啓は大体いつもこんな顔よね? 誰に対してもにこにこしている莉啓なんて、想像し難いわ」
 冷たい声でさらりといい放ち、デルフの後に隠れる形になっていた美少女が、つかつかと部屋に入る。迷わず上座に腰を下ろし、悠然と足を組んだ。
「喉が渇いたわ」
 一言。その一言に、すぐさま莉啓が対応する。
「すぐに紅茶を用意しよう、悠良」
 その様子を、ぽかんとした顔でデルフが見守る。確かに、悠良以外にやわらかい表情をする莉啓は想像できないなと納得しながら、怜はデルフをソファへと促した。
「ま、座ってよ、デルフさん。首尾も聞きたいし」
「あ、はい……」
 促されるままに、ソファに腰を下ろす。結局全員分の紅茶を用意して、買い出しのついでに手に入れた焼きたてパイも皿に出すと、莉啓もまたソファに落ち着いた。
「……カレン=セルウォーエンという女性と、縁は切れたのですか?」
 相変わらずの仏頂面で、莉啓がいきなり確信を突く台詞を口にする。デルフは、きゅっと身を縮こまらせた。
「いえ……、ぼくと、ユラさんがお付き合いしていると、そう思ってはくれたみたいですが、まだはっきりとは……。本当に、すみません、こんなことにユラさんを巻き込んで」
「いえいえ、うちの悠良ちゃんでお役にたてるなら。ねえ、悠良ちゃん」
 すでに大皿の半分のパイを平らげて、怜が調子の良い返事をする。
「別にあなたが女装してもよかったのよ。充分ごまかせられるわ」
 怜の方を見もせずに、悠良がさらりと返した。相変わらずの冷たさに、ますます怜の食が進む。
「これだけ謝礼をいただいて、立派な部屋まで用意して頂いて、もちろん、何も文句などいうつもりはありませんが……」
 そう前置きしておいて、莉啓はデルフを軽くにらむように見た。
「なぜ、悠良なのです? 他にも、たくさんいるでしょう」
 充分に文句のありそうないい方だ。怜が隣で苦笑している。
 それは、とデルフは弁明を始めた。
「ぼくがいうのも、おかしな話ですが……ぼくは、シリエンタ家の一人息子です。この町ではセルウォーエン家と並ぶ、いわゆる富豪です。そんなぼくが、セルウォーエン家の一人娘との婚約を破棄してまで他の女性とつきあうなどと、芝居とはいえ、この町では大変な事件なのです。そのような役は……大変、失礼ないい方になってしまうかも知れませんが、旅の方でもなければ、とても……」
「行きずりの旅娘じゃなきゃ、ゆくゆく面倒ってことだろ、そりゃあそうだ」
 デルフにしても、怜にしても、あまりに身も蓋もないいい方だ。莉啓の双眸が鋭く細められる。
「不愉快だ」
「莉啓が不愉快かどうかは、どうでもいいのよ。あなたは私の何? 保護者だったかしら?」
 こちらも不愉快さを露わにして、悠良が静かな口調でいい放つ。子ども扱いされているような気にでもなるのだろう。難しい年頃だ。
 緊迫感を帯びる旅人たちにやや尻込みしながら、申し訳ありません、と深く頭を下げ、シリエンタ家の一人息子は早々に席を立った。
「また、家の者に、カレンの様子は探らせます。あきらめてくれるようならそれで良いのですが……場合によっては、またご協力をお願いするかも知れません。どちらにしても、連絡致しますので。──それでは」
 育ちの良い一礼を残し、部屋を後にする。
 残された三人に、なんともいえない沈黙がおちた。
「探らせます、だって。ちょっと冷たいんじゃないの」 
 一応は遠慮していたのだろう、依頼主がいなくなったことで、ソファが転倒しそうなほどだらしなくのけぞり、怜が毒づいた。
 確かに、かつて結婚を誓い合った相手に対して、やや冷淡すぎる感がある。 
「金にものをいわせて、後始末か。気に入らないな。──悠良、嫌ならこんな依頼、受ける必要はない。旅の資金なら、なんとでもなる」
「嫌じゃないわ。仕事だもの」
 不快そのものを全面に押し出した莉啓の言葉に、優雅に髪をかき上げながら、静かな口調で悠良が答えた。
「……『仕事』?」
「そ、お仕事なんだって。啓ちゃんが地道に聞き込みしてる間に、向こうからぽろっとやってきたってわけ」
 莉啓の眉が跳ね上がった。
「貴様! それならそうと最初から……!」
「えー、だって啓ちゃんそれどころじゃなかったじゃーん」
「……!」
 反論できず、身を乗り出したままの体勢で、わなわなと拳を振るわせる。悠良がデートをしている、という紛らわしい状況説明のおかげで、確かにそれどころではなかった。
 しかし、それにしても、誤解を生む発言をわざわざする必要もなかったはずだ──などと思ったものの、それを口に出してしまっては負け惜しみのようになってしまう気がして、莉啓は無理矢理ため息を吐き出した。
「……そういうことなら、仕方ないな」
「では、分担しましょう。また依頼があるかも知れないから、私は引き続き、ここにいないと駄目ね。カレン=セルウォーエンのところにも、どちらか一人。……じゃんけん?」
 透き通る赤い瞳を優雅に細め、悠良が静かに指示を出す。だが最後の提案のあまりの意外性に、二人の従者は目を見開いた。
「じゃんけんっ! なつかしい響きだなそれ。悠良ちゃんの口からじゃんけん……。いいねぇ」
 心底可笑しそうに感想を口にする怜とは対照的に、何やら衝撃を受けたような表情で莉啓が固まっている。じゃんけんなどと、どこで知ったのか。どうせ昔、怜か翠華か……もしかしたら、あの母親に教えられたのだろう。
「よし、じゃんけんしよか、啓ちゃん。負けたらカレン=セルウォーエンとこね」
喜々として怜が右手を振り上げる。
「──っ、…………」
 反対するだけの理由も見つからず、莉啓も渋々片手を上げた。

  *

 セルウォーエン家の令嬢は、近頃はほとんど出歩かなくなっていた。毎年、春ともなれば、ショッピングに散歩にと、毎日飽きもせず出歩いていたものだったが、今年は教会に出かける以外はずっと部屋にこもっている。
 腰まで伸びる、まっすぐなブロンド。緑色の瞳。その人形のように整った顔立ちも、輝きを失ってしまっている。朝を迎え、教会に出かけ、祈り、帰宅して、ぼんやりと物思いにふける……まったく代わり映えのしない、まるでプログラムでもされているかのような毎日。
 しかし、彼女のそんな毎日に、変化が訪れた。
「ねえ、食事はまだ?」
 メイドに対してもほとんど口をきかなくなっていたカレンが、部屋の掃除をするメイドに、不意に話しかけた。窓辺にもたれかかった体勢で、顔だけこちらに向けている。メイドは驚きのあまりモップを取り落とし、慌てて主に向き直る。
「お食事、でございますか? いつもどおりだと、あと二時間ほどございますが……早めるように、お願いしましょうか? ──珍しいですね、お嬢様が、お食事のことを気になさるなんて」
 最後のフレーズは、会話を保たせようと、むりやり付け加える。
 カレンは、もう一度窓の外へ視線を戻した。
「だって、食べたことのない料理ばかりが出てくるわ。新しいシェフは、異国の者でしょう。お父様にしては、いいシェフを雇ったものよね。そんなお金、もううちにはないのに。見栄を張って」
 窓ガラスをいじりながら、ぼんやりと言葉を返す。主人の言葉に、メイドは顔を輝かせた。
「でも、それは、それは素敵なことです、お嬢様! 最近、なんだか元気のないご様子でしたが、食の楽しみがあるのでしたら、素敵なことです。やっぱり、人間、衣食住が基本ですものね!」
「楽しみ……そう、そうよね」
 カレンは、ひどくゆっくりとつぶやいた。少しだけうつむいて、それきり、黙ってしまう。
「…………」
 泣いているのだろうか──メイドはすぐに思い当たってしまったので、逡巡したのち、やはり静かに部屋を出て行くことにする。
 安っぽい慰めの言葉を、求めるような主ではない。
「……シリエンタのお坊ちゃんと何があったのかしら。このまま破局かしら。やだな」
 優しい、明るい主は、毎日のように恋人の話をしてくれていたのに、最近ではまったくしなくなってしまった。元気のない原因は、そこ以外にはないだろう。
 深いため息をもらしながら、肩を落として廊下を歩く。すると向こう側から、噂の新人料理人がやってきた。
 料理の腕はいいらしい、見た目も申し分ない。いっそのこと、お嬢様のことを慰めてあげてくれないかしら……そんなことを考えながら、ぼんやりと見つめてしまう。
「……失礼」
 形のいい眉を少し上げるようにして、向こうから声をかけてきた。メイド慌てて首を揺る。
「あ、ご、ごめんなさい、あたしは別に何も……!」
「? 少し、聞きたいことがあるのですが」
「はあ? あ、なんなりと」
 メイドは顔を赤らめる。自分だけ、なんだか舞い上がってしまっているみたいだ。
「こちらの、カレンお嬢様が、最近ふさぎ込んでおいでだと、旦那様から伺いました。食事を、ちゃんととられているようならいいのですが……あなたがいちばん、お詳しいかと思いまして」
 メイドは胸を打たれた。いい人だ。これは、冗談ではなく、慰め役にいいかもしれない。
「リケイさんが来る少し前から、急にお元気がなくなったの。ほとんどお食事も口にされなかったわ。でも、あなたの料理は楽しみみたい。いつも、ちゃんと食べてみえるわよ」
「そうですか」
 ふっと目を細める。思わずメイドの胸が高鳴った。
「異国の、めずらしい料理を、特に楽しみになさっているみたいだから……そうだわ、旦那様にお話しして、あなた自ら料理をお運びしたらどう? きっと、お嬢様、お喜びになるから」
「そうですか。では、そのようにお願いしてみます。──お忙しいところ、引き留めてしまって申し訳ない。どうもありがとう」
 機嫌の良さそうな笑顔で、彼は会釈をすると、そのまま歩き去っていった。
 メイドの胸は、まだ高鳴っている。
「……すてき! お嬢様も、元気になられるといいんだけど」
 とはいえ、当の新人料理人の心境は複雑だ。
 料理をほめられることは純粋に嬉しい。悠良のためにみがいた料理の腕が、よもやこのようなところで役に立とうとは。……しかしやはり、自分に潜入操作は向いていないと痛感する。肩がこってしようがない。
 それでもやれるだけのことはやろうと、莉啓は決意も新たに、とりあえず厨房に向かった。
 結局は、動くしかないのだ。
 得られる結果が、何であるとしても。

 春を迎えたとはいえ、吹き抜ける風はまだ冷たさを帯びている。少なくとも、普段の彼女なら、好きこのんで出かけるような季節ではない。薄い茶をベースにしたワンピースの裾を翻し、非難がましい目を怜に向け、しかし相手がにこやかなのを見てとると、悠良はあきらめたように息を吐き出した。
「……どこに行くのよ」
「だから、悠良ちゃんの行きたいところ。情報収集でしょ。たまには仕事しないと」
 長い棒を片手に、怜は悠良のすぐ後ろをついて歩く。悠良が歩調をゆるめようが、早めようが、とにかく同じ間隔を守り、当たり前のようについてくる。
「何をすればいいかわかんない?」
「わかってるわ。落ち着かないだけ」
 それから無言で、歩き続ける。
 町のメインストリート。石畳の両脇に、高級そうな数々の店が並ぶ。個性豊かな看板、道行くのはこぎれいな衣服に身を包んだ紳士、淑女。呼び込みをする声はあまり聞こえない。
 要するに、金を持っていて、なおかつ暇をもてあそぶ人々が集う場なのだろう。
 考えながら歩いていると、突然、後ろから気配が消えた。
 自分にもわかるように、音をたてて歩いていたはずなのに。
「怜?」
 悠良の胸に不安が落ちる。慌てて辺りを見ると、カフェのディスプレイをのぞき込んでいる姿が目に入った。
「……あさましいわ」
「悠良ちゃん、ここ! ここなら入れそう」
 値段の問題だろう。
 確かに、のどは渇いている。手招きする姿に、あきれたように首を左右に振りながら、それでも悠良は怜の要望を聞き入れることにする。
 落ち着いた雰囲気の店内には、木の角テーブルが十分な間隔を保って並んでいた。コーヒーとマフィンを頼み、二人は窓側の席に着く。
「久しぶりだねえ、悠良ちゃんとデート」
 悠良はあからさまに不快そうに目を細めた。
「あなたの頭の中は相変わらず常春ね」
「いいじゃん、得体の知れないおぼっちゃまとデートするぐらいなら、俺としたって。別に、報酬は払わないけど」
「払われても困るわ」
 悠良は苦笑した。デート、ではもちろんないけれど、二人で向かい合ってコーヒーを飲むなどと、いつぶりだろう。
「じゃんけんは、どういう手を使ったの?」
「何の話?」
 怜が唇の端を上げる。問い返してはいるが、肯定の表情だ。やはり何かいかさまを使って勝ったのだろう。
「たまには、いいのかしらね」
 怜は、莉啓のように自分を甘やかせてはくれないが、それが心地良いと思うこともある。
「それにしても、なんなんだろうね」
 マフィンにそのままかぶりつき、少し声のトーンを落として、怜がつぶやいた。
「……何?」
「窓の外、見ちゃだめだよ。気づいてることは知らせない方がいい。偶然の可能性もあったけど、いまここで張ってるってことは、もう確実、だね」
 悠良の身体に静かに緊張が走った。怜は表情一つ変えず、今度はコーヒーカップに手を伸ばす。
「今回のことと関係があるかどうかはわからないけど。……こう見えても、そういうことは啓ちゃんより得意だから、安心して」
「知ってるわ」
 もちろん、安心もしている。
 しかし、理由がわからない。
「とりあえずここから出たらいったん離れよう。悠良ちゃんは、できるだけ人気のない路地に入って」
 悠良は、優雅にコーヒーを飲んだ。
 囮、ということだ。
「いいわ」
 元来、そういうことは嫌いではないのだ。彼女の端正な顔に、滅多に見ることのできない、いたずらっ子のような笑みが浮かんだ。

 カフェを出てすぐ、赤い髪の少女と、長い棒を持った少年が別れたのを見て、男は迷わず少女を追った。
 焦らず、距離を保ちつつ、機会をうかがう。
 やがて、少女が路地へ入った。
 他に人は歩いてない。まだメインストリートからは近いが、チャンスには違いない。
懐から素早くナイフを出し、後ろから少女をとらえる。ナイフを首筋に当て、低い、低い声でいった。
「そのままだ、……悲鳴なんか上げるなよ」
 少女は黙っている。恐ろしくて声も出ないのだろう。
 男はさらに路地を奥へと曲がり、少女を壁に押しつけるようにして、正面からナイフを突きつけた。
 美少女だ。物怖じしていないかのような、鋭い目。
「殺そうってんじゃない。ただ、忠告させてもらう」
 そんなことはわかっている──悠良は、静かに男をにらみつけた。もし殺意があるなら、怜が傍観しているはずもない。
「あんたがシリエンタのお坊といるのを、よく思わないってやつがいるんだ。あの男のことは忘れな」
 悠良は眉を上げる。
「誰の命令?」
 男は笑った。
「見た目どおり、気が強いな。……勘違いするなよ、あんたはイエスというしかないんだ。いうことを聞かせる方法はいくらでもある」
「たとえば?」
 後ろから声がした。
「──っ」
 身を翻すまもなく、両手をひねり上げられる。棒のようなもので腹を突かれ、げえ、と男はうめいた。
「……楽しんでたでしょう。出るタイミング、遅いと思うわ」
 悠良がさらりと救世主を非難した。
「悠良ちゃんも、きゃー、とかいえば助け甲斐があるのにさ。つまんないよ」
 腕を組み、悠良はため息をもらす。いつもながら、この男の危機感のなさは、怒ることすらばからしくさせる。
「……くそっ」
 片手で軽々とひねり上げられた両腕は、どれだけ力を入れようとも、ふりほどけそうにない。この、一見華奢な少年のどこにこんな力があるのかと、男が怜をにらみつける。
「やだね、その目。無駄だよ、逃げようなんて。あ、自害もやめてね……って、しないか。金で雇われてるクチだろ、あんた。それにしても、やり方がなってねえな」
 少し、声質が変わる。この少年に逆らってはいけないと、男の本能が悟った。
「誰に雇われた?」
「…………女だ」
 屈辱で歯をかみしめ、男が答える。怜は手に力を込め、棒の先で男のあごを押し上げた。
「利口になったほうが、得だと思うけど」
「シリエンタの息子の……、オンナだ、できてるらしい。名前は知らねえ。あんたのいったとおり、金で雇われただけだ」
「…………」
 静かに、目で、先を促す。男は舌打ちした。
「夜、教会のウラの酒場で……竜胆の看板がある店で、落ち合うことになってる……」
「オーケー」
 手を離す。ほんの一瞬、男が安堵の表情を浮かべる。しかし次の瞬間には、横からなぎ倒され、数メートル先でバウンドし、そのまま気絶した。
「……容赦ないわね」
「そう? 軽くやったよ」
手を払い、悠良の顔をのぞきこむ。それから頭をぽんぽん、となぜた。
「怖かったろ」
「誰にいっているの。あんな三流、怖いわけがないわ」
「あそ」
 手を引いて、明るいストリートに出る。それから、来た道をさっさと戻り始めた。
「……怜?」
「デルフ=シリエンタのところへ戻ろう。情報収集はもう十分」
 確かに、情報は向こうから転がり込んできた。
 しかし悠良には、どうしても釈然としないものがある。
「カレン=セルウォーエンじゃ、ないと思うわ」
 悠良のまぶたの裏に焼き付いている、衝撃を受けたカレンの顔。とてもではないが、すぐに復讐がどうのと、そんな手段に出るとは思えない。
「じゃ、他の誰かか……面倒だな」
 悠良は考えていた。
 もしかすると、そもそもの原因と深いつながりがあるのではないかと、彼女の勘がそうささやいていた。

「襲われた……?」
 話があると呼び出され、客室へと急いだデルフ=シリエンタは、扉を開けると同時に棒を突きつけられた。
「そ。……心当たりがないとかいうなよ、これ以上仕事する気をなくさせんな。悠良ちゃんが危険な目に遭う可能性を告げてなかったのは、明らかにそっちの落ち度だ」
 低い、抑えた声で、怜が告げる。デルフの頬を汗が伝った。両手を挙げた状態で、震えながら言葉を返す。
「す、すみませんでした……、しかし、まさか、こんなことになるとは……」
 顔面は蒼白だ。その様子を見て、怜はゆっくりと、彼を解放した。それから、悠良の隣に腰を下ろす。
「ま、座ってよ。わかってること全部、教えてくれればいいからさ」
 汗をぬぐいながら、一気に冷え切った身体をもう一度震わせ、デルフもまた向かい側に腰を下ろした。その様子を、少し気の毒そうに、悠良が目で追う。
「……もしかして、怒っているの?」
 隣の男に問いかける。まさか、と彼は答えた。俺は啓ちゃんとは違うよ、と、理由なのか何なのかわからない返事。
「……ユラさんを、襲った……」
 つばを飲み込み、デルフが口から声がもれた。思わず声になってしまったという程度の、とても小さなつぶやきだ。
 しかしそのまま、後が続かず、彼は沈痛な面持ちで頭を抱えてしまった。
「いえ、心当たりが、ないわけではないんです……ただ……ただ、少し任せていただけないでしょうか。ユラさんには、護衛をお付けします。危険のないよう、細心の注意を払いますので……」
 まっすぐな目で、二人を見た。そっぽを向くふりをして、ちらりと、怜はデルフの様子をうかがう。心当たりどころか、犯人がわかっている反応だ。個人的には、もちろん好ましい展開ではない。
 しかし、彼女がどうするかはわかっていた。
「……いいわ」
 きっぱりと、威厳のある声で、悠良は承諾の言葉を口にした。
「ただし、護衛は不要よ。あなたは……あなたのしたいようにしてくれればいいわ」
 わざと、感情のこもらないいい方を選ぶ。わかっているからこそ、相手に委ねる。
 デルフはうつむき、爪が食い込むほどに、拳を握りしめた。

  *

「……おいしい」
 カレン=セルウォーエンは、新しいシェフの手によるディナーを口に運び、思わず感嘆の声をもらした。広い部屋の中央に、ぽつんと一つ、大きな食卓。カレン一人のために並べられた料理の数々──少し離れたところでは、清潔な白い衣類に着替えさせられた莉啓が、慇懃に控えている。 
 少し寂しい、と莉啓は思う。両親や、兄弟だっているはずだ。なぜこの広い部屋で、一人で食事させるのだろう。
「リケイ、これは?」
「小龍包でございます」
「……ショーロ……?」
 繰り返そうとするが、どうも発音がわからない。
「初めて食べるわ。おいしい。あなたの故郷には、すてきな食文化があるのね」
そんなことをいわれるとは思っていなかったので、莉啓は少し驚いてから、懐かしそうに目を細める。
「ええ……長い、歴史が、ありましたから」
「……そう」
 カレンはナイフを置き、ぼんやりと、遠くを見るような目をした。
 正面には、向こう側の見えない窓、飾られている、枯れることのないドライフラワー。
「ここの歴史は、もうおしまいね」
 ぽつりと、彼女はいった。莉啓はそっと、その横顔に視線を移す。他に人間はいない。かといって、自分に話しかけているというふうでもない。
「お父様が心配してくださったのね。わたしが塞ぎ込んでいたから、最後に、あなたを雇ってくれた。おかげで……少しでも、楽しいと、感じることができたわ」
 言葉を返していいものかどうか、莉啓はためらう。最後、というのは、どういうことなのか。
「ねえ、せっかくだから、話し相手になって。……そうだわ、食事、まだでしょう? すわって。一緒に食べましょう」
 やっぱりこんなには食べきれないから、と静かに笑って、カレンは莉啓に席を勧める。莉啓は数秒間躊躇したが、席を一つ離した隣に、腰かけた。
「わたし、いくつに見える?」
 唐突に投げかけられた言葉に、莉啓は彼女の方を見ることもできず、一瞬固まる。どう答えるのが正解なのか。だからこれは自分の役回りではなかったんだと激しく後悔しながら、そのまま黙ってしまう。
「やだ、困らないで」
 カレンは笑った。
「二十三歳──もう、いい大人だわ」
 やはり、どういった言葉を返せばいいのか、見当もつかない。莉啓は、ちらりと彼女を見た。こちらを見ていないことに少し安心する。話し相手、といっていたが、実は独り言なのかもしれない。
「失礼ですが……最近、気分が優れないようだと、聞きました。いまも、そのように見えます。何か……」
 あったのかと、結局ストレートな質問になってしまう。そこまでいって黙ってしまい、結果、奇妙な沈黙が落ちた。カレンは思い出したようにサラダに手を伸ばし、フォークでかき混ぜながら、ぽつりとつぶやく。
「捨てられたのよ」
 わざと、被害者になれるいい方を選んだ。
「かけおちしようって、約束したの。セルウォーエンがだめになって、とてもではないけど、当たり前に結婚はできなかったから。──でも、彼は来なかった。きれいな、若い女の子といるのを見たわ……それからわたしは、からっぽよ」
 カレンは無表情で、そこには何の感情もこもっていないかのようだった。
「わたし、もっと大丈夫だと思ってた。こんな気持ちになるなんて、思ってなかった。あの人を失う可能性だって、考えたことがないわけじゃない──でも、わかってなかった」
 彼女の渇いた瞳が、静かに揺れた。
「ねえ、全部嘘だったと思う? そんなはずないの、ないけど答えて。私は、夢を見ていたんだと思う? 夢なんかじゃないわ。でも答えて。否定の言葉をちょうだい。ううん、それじゃ意味がないの。わかってるけど、でも、私は」
「それは……私には、わかりません」
 莉啓は低く、つぶやいた。
 カレンは目を見開き、それからくすりと、自嘲気味な笑みをもらす。
「わたしは、何を期待したのかしら」
 感情に反比例するかのように、静かにフォークを置き、莉啓を見据えた。
「あなたも、正しいことをいうのね」
 哀れむような目。莉啓を、自分を、それともここにはいないデルフをだろうか。
「こんなにあいしているのに」
 彼女の、あらゆる感情を抑えた表情が、かすかにゆがんだ。

 日が暮れる前から見張りを始めて、数時間。暗くなってからも、ずいぶん時間がたった。
 もうすぐ閉店の時間になる。竜胆の看板を見上げながら、怜は店内に足を踏み入れた。
 ランプのほとんど置かれていない、暗く狭い店。客ももう、一人しかいない。カウンターの向こう側では、黒いドレスを着た女が一人、煙草を吹かしている。
「ガキの来るとこじゃないよ」
 怜を一瞥し、かすれた声で女が告げた。端の丸テーブルに座る男は、無関心にグラスを傾けている。どちらも無関係だと、怜は素早く判断した。
「そ。じゃ、問題ないな」
 怜は唇の端を上げ、長い棒を脇に立てかけると、女の目の前に座る。女は方眉を跳ね上げたが、煙草の煙をふっと吐き出し、立ち上がった。
「何にするんだい」
「きついやつ。なんかちょうだい」
「ナマイキなガキだ」
 女は瓶を二つとグラスを一つ取り出すと、それを同時に注ぎ込み、カラカラとかき混ぜる。雑なようで慣れた手つきだ。
 薄いブラウンに染まったグラスを受け取ると、怜は一息に口の中へ注ぎ込んだ。
「……ぶったおれても放っておくよ」
「おかわり」
 女は吹き出した。
「あきれたガキだ!」
 二杯目を受け取り、今度はゆっくりとやりながら、怜は店内に注意を払う。とはいえ、もう今夜は来ないだろうと、彼の経験が告げていた。
 事前に、昼の男と落ち合ったのか。どうにかして、情報を得たのか。それとも、何か他のアクシデントでもあったのか。
「ここ、女の人も来るの」
 グラスを揺らしながら、女に問いかけた。
「マセガキが。ここはそういう店じゃないんだ」
「客のはなし」
「知らないね。客なんていちいち見てないさ」
 ふうん、と鼻を鳴らす。空にしたグラスをよけ、手つきで三杯目を注文する。女は肩をすくめた。
「……金持ち風の女なら来たよ、最近ね。このへんじゃ有名なゴロツキと会ってたね。有名っていっても、三流で有名だ。カモにされてんだなって、それだけは覚えてる。……満足かい」
「特徴は?」
「……ナマイキだね」
「そうかな」
 女は軽く眉を動かして、その特徴を告げた。
「……なるほどね」
 怜は、通常の倍の料金とをカウンターに置いた。すっと立ち上がり、棒をくるりと回すと、何事もなかったように出口へ向かう。
「ごちそーさま」
「またおいで」
 女は座り込むと、再び煙草に火をつけた。

 夜も遅いということもあり、怜は気を利かせて正面から入ることはしなかった。棒を使って高く跳躍し、塀を乗り越える。そのまま木の枝を利用し、開けておいた客間の窓からするりと侵入した。
 油断していたわけではない。
 しかし、まさか包丁が飛んでくるとは思わなかった。
「ええと……?」
 正面には、殺気を隠そうともしない相棒の姿。柔らかい灯りの下で、悠良は「我関せず」と顔に書き、優雅に本などを読んでいる。
「なんで俺殺されそうなの?」
 両手を挙げて質問してみる。答えず、莉啓は二本目の包丁を構えた。
「まさか、悠良ちゃん……」
「嘘はいってないわよ」
 もう片方の手にも包丁を持ち、莉啓は怒りの炎を隠そうともしない。
「……なんていったの」
「怜がついていながら悪漢に襲われた、と。私は囮になったの、と」
 さらりとこちらを見もせずに答える悠良は、無表情に見えるが、おもしろがっているに違いない。
「脚色しろよ!」
「死ね!」
 実に端的に意見を述べ、莉啓はありったけの包丁をすさまじい早さで怜に投げつけた。

「……こっちの成果は、そんなとこ」
 一通り落ち着いて、怜は疲れ切った様子でソファにうつぶせに寝そべり、言葉少なに説明を終えた。
「──そう、ご苦労様」
 何の感情もこもらない声で、悠良が形だけ返事をする。手には本を持ったままだ。屋敷にあったものを借りたらしい。
「莉啓は?」
 顔も上げずに、こちらもやや疲れた様子の莉啓に問う。莉啓は一度深く息をついた。
「動きはないな。デルフ=シリエンタとの接触もない。わかったことは、セルウォーエン家が財政的に非常に厳しい状況であるらしいということぐらいだ」
「そうなの?」
 怜がのそりと顔を持ち上げる。
「らしい。カレン=セルウォーエンが、ここの歴史も終わる、というようなことをいっていた。気になったので探りを入れたんだが……これは、まだ屋敷の内部でも一部の人間しか知らないことのようだ。事業に失敗し、借金を抱えているらしい」
「えー。大変だね、金持ちも」
 ぱたん、と悠良が本を閉じた。少し考えて、首を左右に振る。
「……だから、別れたい? それも、おかしな話だわ」  
「おかしな話だな」
 デルフ=シリエンタは、そんな人間なのだろうか。そもそも、それではつじつまが合わない。
「複雑かあ、実は。簡単に終わると思ってたんだけど」
 怜は身体を起こし、座り直して天井をあおいだ。
 悠良は、しばらく何もない空中を見つめ、何か考えているようだったが、やがて瞳を伏せる。
「……そうじゃないわ」
 二人の従者が、彼女を見つめる。
 悠良は少しだけ、辛そうにいった。
「だぶん、もっと単純なのよ」 



 ──こんなにも、愛している。
 カレン=セルウォーエンは、窓の外を眺めていた。 
 決して、言葉にはできない。言葉にしたとたん、小さなものに変わってしまう気がしてまう。それほどまでに愛している。彼がいない世の中など、どう息をすればいいかもわからない。
「そんなこと」
 カレンは自嘲した。
 そんなことは、ないと、わかっている。
 わかりかけているという事実が、重く胸にうずくまっている。
不意にノックの音が聞こえ、カレンは窓の外に目をやったまま、遠いところで返事をした。
「失礼します」
 莉啓が、トレイを手に立っている。紅茶と菓子のようだ。
 一瞥し、いらない、と短く答えた。
「昨日は、いやな思いをさせて悪かったわ。でも、もう出て行って。あなたといるのは、……気分が悪いから」
「では──」
 莉啓はトレイを壁際の丸テーブルに置き、ついでに花瓶の花を整え、素早く部屋を後にする。
 残された沈黙。
 カレンは、また、終わりのない思考の波を漂い始める。
 愛している。
 ──なんて陳腐な言葉。
 あなたがいないと生きていけない。
 ──なんてくだらない台詞。
「でも」
 それでも彼女にとっては、それがすべてだった。
 彼女はゆらりと立ち上がった。
「行かなきゃ」

 デルフ=シリエンタは、ゆっくりとした歩調で、石畳を歩いていた。時折、気遣うように、隣を歩く悠良に目をやる。悠良は、つんとすまして──むしろ、どこか不機嫌そうに、それでもおとなしく歩いている。
「今度は、どこへ?」
 デルフをちらりと見て、悠良が問う。彼女が声を発したことに安心したのか、少しほっとした様子で、デルフは苦笑いをこぼした。
「本当に、申し訳ありません、こんなことをお願いして。今日は、教会を見て、それから広場を回って……彼女の屋敷の前を、通って帰りましょう。彼女に会えたら、今度は、ちゃんといおうと思います」
 悠良は彼から視線をはずし、そう、とつぶやく。
「くだらないわね」
 そして、容赦ない一言を加えた。
 少しだけ驚いて、デルフが眉を上げる。悠良は歩調を早めた。
「……ユラさん?」
「最初から。──くだらないわ。くだらないお芝居ね」
 ゆっくりと目をまたたいて、それから慌てて追いつく。彼女の隣に並び、待って、と呼び止めた。
 燃えるような赤い髪をなびかせて、彼女は振り返る。
 唇をかむようにしてこちらを見ている姿は、怒っているようにも、泣きそうなようにも見える。
「──ごめんなさい」
 ふっと表情を和らげて、デルフは思わず謝罪の言葉を口にした。
「でも、ぼくには、これしか思いつかない」
「あなた、気づいているでしょう?」 
 悠良はまっすぐにデルフの目を見つめたまま、そう問うた。
 デルフは、しばらくそのまま動きを止めた。彼女の言葉を、繰り返す。その意味を、考える。
 そうして、そうか、と声をもらした。
「だから……悠良さん、だから、あなただったんですね」
「考えたわ。最初のあなたと、カレンさんが、どうしても気になって。でも、考えたって、何もわからないの。だって──」
 射抜くような目で、悠良は彼を見た。
「──それでも、愛しているでしょう?」
 デルフは微笑んだ。
 その表情がすべてを物語っていて、悠良は目をそらす。そして、再び、歩き始める。
 本当に、それでいいのだろうか。
 本当にそれが、いいのだろうか。
「くだらないわ」
 もう一度、そう、繰り返した。

 にぎわいを見せる大通りから、一本裏通りへと入れば、景色は一変する。出歩く人間などほとんどおらず、連なる民家はほぼ例外なく窓が閉められている。この地方の町では、珍しくもない。
 石の敷かれた狭い道は薄暗く、数多くある酒場も営業しているのかどうかわからない。
 長い棒を背負うようにしながら、怜は本日四件目の酒場に足を踏み入れた。
 カララン、と乾いた音が響く。店内に客は五人。
 そのうちの一人を確認し、唇の端を上げると、素早く男の背後に回った。
「こないだはどうも」
 おもしろがるような声でいう。後ろを見ずとも声でわかったのか、男の顔からさっと血の気が引いた。
「お、まえ……」
「舐めたまねしてくれたね。竜胆の看板の店、行ったけど、あんたの雇い主は来なかったよ」
 真後ろで、何でもないことをいうように、そう告げる。男は向きを変えず、両手をゆっくり持ち上げ、抵抗する気がないことを示した。
「知るかよ、本当にそういう話だったんだ……オレは、ちゃんと約束は守ってるぜ」
 声が若干、浮ついている。とんだ小物だ。嘘をついている様子ではない。
「ま、それはいいや。そうじゃなくて、いっこお願いがあるんだよね。──一緒に来てくれる?」
 語尾を上げ、疑問の形にする。
 男はおそるおそる振り返り、怜の笑みを確認すると、せめてもの報復か、むりやり笑って見せた。
「お願いかよ……よくいうぜ」



 教会に、彼女は立っていた。
 なるべく人に見つからないように、影になる場所を選んで、目を閉じて、静かに待っていた。
 毎日、毎日繰り返されている儀式。
 約束をしたから。
 二人だけで生きていこうと。二人であればなんでもできると。
 でも、まだ、彼は来ない。
「失礼」
 気配もなく、隣に、莉啓が現れた。
 ──この男は、誰なのだろう。どうでもいい疑問と、漠然とした不快感。
「……なに?」
 形ばかりに問う。莉啓の深い、漆黒の瞳が、彼女を見つめた。
「なぜ毎日、教会に?」
 彼女の視界がかすかに揺らいだ。
「約束をしているからよ」
「誰と」
「あのひとと」
「わかっているのに?」
 ぐらぐらと、見えているはずのものが、揺らいでいく。しっかり、この地に立っている感触を、かすかに汗ばむ感触を、忘れずにいなければ。
 彼女は焦り始めていた。しかし、その意味はわからない。
 教会の扉が開いた。
 長い棒を持った少年と、見たことのある人相の悪い男。
「あの女だ」
 人相の悪い方が、彼女を指さした。
 カレンにはやはり、何をいわれているのかわからない。

 覚えているのだ。
 鮮明に、頭の中によみがえる。
 胸を焦がす衝動。隣にいるだけで、空も、木々も、髪を撫でる風も、すべてが自分を祝福しているように感じた。
 これ以上近づくことはできないのに、それ以上になることを望んだ。
 欲しいものは、もう手に入っていたのに、足りなかった。
 ──ただ一度、彼は、正しいことをいった。
 それからのことは、思い出せないでいる。 
「私は捨てられたのね」
 カレンはつぶやいた。
 からっぽになってしまった。悲しみとか、怒りとか、そんな簡単なものではない。怒りや悲しみは動いている人間の感情だ。この心は、動くことすらやめてしまった。
 隣にたたずんでいた莉啓も、どこかへ姿を消した。長い棒を持った少年も、人相の悪い男も、教会から出て行った。
 いつもどおり、ひとりぼっちの教会。
 きっとこのまま時を過ごしても、彼は来ない。
 やっと、そのことに気づき始めたとき、教会の扉を開けて、赤い髪の美少女と──彼が、現れた。
 何て皮肉だろう。理性が自分を押さえつけている。それでも、心が勝手に期待する。
「カレン……」
 デルフ=シリエンタは、カレン=セルウォーエンの目の前まで来て、ほんの少し彼女の目を見ると、すぐに視線を落とした。
「ごめん。ぼくは、君とは一緒にいられない」
 彼女の心が、少しだけ揺らめいた。
「……そう」
 一言、返す。
 デルフは、長い沈黙の後、彼女の瞳を、もう一度見つめた。
「君を好きだったのは本当だ。でもいまはもう、君を好きとは、思えない」
「…………」
 カレンはくるりときびすを返し、赤い髪の女の横をすり抜けて、教会を後にした。
 音もなく、扉が閉まる。
「なに、それ」
 悠良の、静かな憤りを込めた声に、デルフは自分が涙を流していることに気づいた。
 彼はゆっくりと扉に向き直り、静かな、静かな声で告げた。
「──『あなたを、愛しています』」
 それは、誓いの言葉。背後で木製のクロスが、見守っている。
「ずっと、あなただけを、愛しています」
 彼の手足が薄れた。
すべてが終わり、役目を果たした肉体が、色彩を失っていく。
 心だけは守ろうとするかのように、彼は胸を強くつかんだ。
「そうやって、いえば良かったんだわ」
 感情を取り除いた声で、悠良がいい放つ。
 デルフは、柔らかく、ふわりと微笑んだ。
「でも、この方法しか、思いつかなかったんだ」
 愛しているから。
 自分の死が、彼女の咎になることだけは、どうしても、許せなかった。
「ぼくに捨てられたと、恨みだけが残ればいい。これで彼女は……思い出さない」
 とっくに朽ちたはずの肉体は、最後にかすかなぬくもりを残し、小さな光を灯して、消えた。
 彼はわかっていたはずだ。
 わかっていて、どうしてもやらなくてはならなかったのだ。
 悠良は、教会を飛び出した。

 カレン=セルウォーエンは、教会を出て少しのところで、座り込んでいた。
 膝を抱え、両腕に顔を埋めて、周りをひとがすぎていくこともかまわず、しゃくりあげて泣いていた。
 悠良は、その腕をつかんだ。むりやり立ち上がらせ、その頬を思い切り叩いた。
「自分がかわいそうだと思っているの?」
 低く、そう言葉を投げつける。カレンは目をまたたかせ、それでも涙が止まらずに、首を懸命に左右に振る。
「あなたが、病んで、何をしようと、勝手だわ。でも、……そうやって泣くのは、許せない」
 最愛の男を手に入れたいあまり、殺してしまったという事実を、自分の中に確かに存在する狂気を、思い出せとはいわない。それは、デルフ=シリエンタの意志に反することだ。
 それでも──
「私は、あなたを、許せない」
 悠良はくちびるをかみ締めた。
 そうしてそのまま、その場を後にした。
 残されたカレンは、ただ立ちつくす。
「だって……」
 彼女は両手で、頭をまるごと抱え込むようにして、自分をかばった。
「彼は、やっぱりかけおちなんかできないって、それでは私が幸せになれないからって、そういったのよ……」
 それはたぶん、正しかったのだ。
 しかし彼女にとっては、それは恐怖だった。
 一緒にいられないということだ。
 これ以上近くにはなれないということだ。
「どうして……」
 冷静に自分を振り返ることなど、できるはずもなかった。
 彼は自分を捨てた。
 おそらくこの町を出て行くのだろう。
 さっきの少女と幸せになるのだろう。
 自分は捨てられた。
 彼のことは忘れて生きていくしかない。
 あんなひどい男のことは、忘れるしかない。
 ──自己暗示のようにいい聞かせた。
 それが彼の望みであると、心のどこかで、理解していた。

 春の風が、彼女の髪をなぜる。
 風はだんだん、やわらかく、あたたかくなっていく。
 否応なく、ときは過ぎていく。






 死した魂を導くということは、決して救いではなく、決して幸せをもたらすものではい。
 残された者には、死神と、罵られることもある。
 それでもときが経てば、傷を塞ぎ、忘れ、生きていくのだろう。ときに思い出しても、鮮明さは、あのはっきりとした色彩は失われ、ただ小さな針となって、胸の奥深くを浅く刺すだけ──生きているというのは、そういうことだ。
 だとしたら、彼のやったことは、何だったのだろう。
「くだらないわ」
 天女はぽつりとつぶやいた。
 すぐ後ろに、いつの間にか二人の従者がついてきていることには気づいていたが、気づかないふりをした。
読んでいただき、ありがとうございました。
心から、感謝いたします。

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